38)占星術探偵「鰻重という贅沢な食べ物」
文字数 31,210文字
38ー1)
私の秘書であり、今はインタビュアーを熱心に務めている佐々木は昼食を買いに行ってくれている。
近所のコンビニかスーパーマーケットだとしたら、15分もすれば帰ってくるだろう。その間にも私は自作の読み返し作業を始める。
いや、彼女の仕事振りは早い。何事においても迅速を極めている。常人が15分を要するのであれば、それを10分で成し遂げてしまう人物である。
既にかなりの空腹だから、早く帰ってくるのは嬉しいし、そんな彼女の有能振りを愛してやまないのだけど、下手をすれば猶予の時間はその10分しかないということもありえる。
まあ、さっさと食事を終えて、インタビューの続きをやりましょうと彼女が私を急き立ててくることはないだろうけど。
それなりに長い付き合いだから、この辺の機微は了解し合っているはずだ。
私が昼休みが欲しいといった意味は、ただの昼食のための休みではなくて、二時間は別の仕事をするから独りにしてくれという意味だということを。
とはいえ、佐々木は異常にこの仕事に前向きである。熱心というよりも純粋に楽しんでいる気配なのである。私の仕事時間を平然と壊しにかかってくる可能性もあるだろう。
彼女が意外な程にこの仕事に熱心なのも理解出来る気がする。私の秘書にしておくのは勿体ないほどの才覚の持ち主なのだ。
混沌を処理して、順序立てて整理していく力は極めて高いようだ。曖昧な指示を受けても、その指示の本質だけを汲み取る能力にも長けている。枝葉に気を取られず、まっすぐに目的だけを追求してくる。
そのような人物なのだから、遣り甲斐のある仕事を欲していたに違いない。この職場にいる限り、その才を最大限に振るうことは出来ない。彼女は自分を持て余していたわけだ。
そんな中、突然降って湧いたこのチャンスに、彼女は自分を試す舞台がやってきたとばかりに喜び勇んでいる。
いや、これほどに有能な人材であるのなら、さっさと転職でも何でもすればいいのに。そもそも、作家の秘書なんて仕事を選ぶべきではなかったのだ。
まあ、彼女には致命的な欠点というか、非社会的なところがある。
彼女にはどうやら、ハングリーさや野心のようなものが欠片もない様子。全てを犠牲にして、仕事に打ち込もうなんて価値観で生きていないのである。
仕事以上に何か重要なものを持っているようで、それを大切にしている。その「仕事以上に何か重要なもの」の正体は定かではないが。
というわけで、今のこの職で満足していた様子ではある。私は彼女から不満を聞いたり、苛立った態度を示されたことはない。この退屈な生活に安寧を感じているようにしか見えない。
しかしこれをターニングポイントに彼女はキャリアを追求することの楽しさに目覚めて、私を捨ててビジネスの世界などに飛び立っていくかもしれないが。
この刺激的な仕事がこれまで眠っていた彼女の何かを呼び覚ましてしまうのだ。
そんなことになったら嫌だなあ。私はかなり取り乱すことになるだろう。
とはいえ、彼女だってそれで幸福を手にするわけでもないだろうが。きっと本質的には内向的な性格のはずだから、競争の連続に耐えられはしない。その決断をすぐ後悔することになるだろう。
佐々木は絶対に私の秘書という身分を捨てるべきではない。
なんてことを言い切ることは出来ないから、私は新しい仕事に燃えている彼女を窺うように見るしかない。
やはり、彼女の人生のことを第一に思いやるのならば、そのチャレンジの背中を押してやるしかないのだろう。
おっと、一言もまだそのような相談を受けたわけではないのだけど。そのような気配だって見えたわけではない。そんな心配をするのはかなりの勇み足である。
それよりも私は作家なのだから自分の作品を書こう。今からやるべき仕事は自作の読み返しである。
38―2)
物語を作るというのは、少しずつ可能性を排していって、一本の線にまとめていく作業である。
その他の様々なアイデアを切り捨て、たった一つに絞り込んでいく。終点は一点だ。逆三角形の底の、どこまでも鋭く尖った鋭角。
様々に解釈の別れる開かれたエンディングだとしても、終わりは一つの点だと思う。占星術探偵シリーズの第一作目もその終点の一点にへと近づいているようだ。
手に取ることの出来る書物ではなくて電子書籍で読み返しているから、残りページがどれくらいなのかパラパラと捲って確かめたり出来ないが、しかしこの作品を書いたのは私自身なのだから、そろそろ終わりが近いのは感覚的にわかっている。
そもそも起きてすぐ、この作業に勤しむつもりだったのである。他に何の予定もなかったので、今日一日費やして一気に最後まで読み終えるつもりであった。
そしてこの作品を読み終えて、次の新作に取り掛かろうなんてことすら希望していた。
新作のアイデアの種のようなものを見つけつつあるのだ。本当を言うと、もう一刻も早くそれと本気で向き合いところであって。
何ならば、その作業が軌道に乗り始めた気配が見えれば、読み返し作業なんて中止してもいいくらいなのである。
もう、ここまで十分の分量を読んできたと思う。これ以上新しい登場人物は出て来ない。既に登場している登場人物に新たな情報が付加されることもないはずだ。
あとは物語のまとめの作業が残されているだけではないだろうか。この第一部だけの登場人物たちが、自分たちの物語を自分たちでケリをつけるだけ。
つまり、シリーズの外に出ていくような情報などは書かれていたりしないはずだ。
占星術探偵シリーズ第四作目を書こうと志している私にとって必要なのは、この作品のレギュラー登場人物たちの情報である。
彼らが過去において、どのような行動をして、どのような発言をして、主人公の飴野と関わったのか。それをおさらいするために読み返していると言えるのだ。
失踪者若菜の行方や正体だって、ある意味どうでもいいと極論出来る。その謎が明かされるシーンまでまだ辿り着いていないが、別にそんなもの読み返す必要はない。
だってそれはこの作品だけで完結して、次のシリーズには持ち越されることのない情報だからだ。
自分の作品の出来栄えを検討したいわけでもない。ここまで遅々として読んできた「占星術探偵対アルファ教団」だけど、ここでその作業を終わりにしてもいい。何も律義に最後まで読み通さなければいけないことはないわけだ。
私はそんなことを思いながら数ページ先を斜め読みしてみる。ああ、しかしまだこれから、柘植という登場人物がそれなりに重要な役割を担い、動き回ることになるのであった。
柘植、つまり木皿儀と同じ探偵事務所に所属していて、飴野に奇妙な成り行きで雇われもして、今はアルファ教団に潜入調査もしている。
疲れた雰囲気の中年の男性だ。探偵として全く有能ではなくて、仕事熱心さも皆無。覇気もない。潜入調査をしていると言ったが、それも言葉の綾で、ただ単にあの教団の会員となって、セミナーの教えを実習させられているだけ。
しかしそんな柘植は、第二部以降でも脇役として登場する。
岩神美々、山吹美香、優森千咲、ジャーナリスト海棠などと同じように、飴野の前に頻繁に顔を出す立派なレギュラー登場人物なのである。
柘植が活発に動き回るのだから、それを無視するわけにはいかないだろう。もう少しというか、もうここまで来たのだからやはり最後まで、読み通し作業を貫徹することにしよう。
とはいえ、これからの柘植の行動だってこの作品の物語を解決するため、伏線を回収したり、放置していた謎にケリをつけたりするためがメインであって。つまり、「物語の駒」として、その役割りを担うだけである。
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もっと極端に断言するならば、こういうことも言える。謎やその解決が、そもそも占星術探偵シリーズで描きたかった最も重要なことではなかったと。
一般的なミステリーにおいて最も重要視されるものが謎とその解決パートであるわけであるが、そんなものはどうでもいい。
では何が重要なのかというと、登場人物たちの日常、そのやり取り。それらこそがこのシリーズの本旨であると思う。
だったらそもそも端からミステリーの体裁を借りる必要などないではないか。なぜわざわざそのジャンルに乗り込んできたのか?
そんなものを描きたいのであれば、ただ人間ドラマを描けば良かったではないか。
それこそ文学の正当ジャンルでもある。何も躊躇せず、人と人とのぶつかりや繋がりを描写することの出来る分野。
その通りなのであるが、しかし私の描きたいシーンのためには、登場人物たちの生活する世界に、何らかの謎が存在する必要性があったのだと思う。
その謎があってこそ、登場人物たちの普通の日常や日々のやり取りに価値を帯びる。
いや、価値というのは正確ではないかもしれないが。端的にそれはエンターテイメント性と言い換えることが出来る程度のものかもしれないが。
一般的なミステリー作品ならば、探偵たちは謎解きに忙しくて、作家の筆は物語の筋を描写するだけで精一杯で、登場人物たちの日々のやり取りや関係性はその目的の前に埋もれてしまう。
その行間に隠れてしまうもの。それらをいくらか意識的に掴み出して、謎や解決と同等の価値を持って描いていくこと。占星術探偵シリーズはこのような作品を目指しているといったところ。
謎とその解決パートなんてどうでもいいと、例のごとく軽い気持ちで断定してしまったが、それも少しも正確な物言いではない。
ミステリーにおける謎、それは太陽のように世界の中心にあり、かなりの存在感でもって登場人物たちに様々な影響を与えている。その強烈な光があってこそ、探偵や探偵事務所での日常が輝くというもので。
いや、太陽という比喩はそれほどわかりやすくないかもしれない。それについて説明するためには、鰻重という食べ物の特異性が打ってつけな気がする。
私はそれが特別に好物というわけではないのだけど、鰻重ののタレが染みたご飯は美味しいと思うわけである。
鰻は苦手なのだ。骨が多く、その皮も食べたいと思えない。しかし鰻重のタレと、それが染みたご飯は好きだ。好物の一種にしてもいい。
だったら鰻は抜いて、そのタレとご飯だけで味わえばいいのではないかと思ったりするわけである。鰻は高価な食材でもある。タレとご飯だけでいいのなら、随分と経済的だから。
しかし鰻がなければ、そのタレとご飯も味気なく感じて、鰻重のときのような美味しさを決して感じない。タレとご飯だけが美味しいように思えて、その実、鰻も重要だという事実。
占星術探偵シリーズにおけるミステリーパ―トも、それと同じではないか。つまり鰻重の鰻がミステリーパートであり謎であり、タレが沁み込んだご飯が日常のパートであり、登場人物たちの遣り取りであり。
それらは決して分離され得ないのだ。その二つが混ざり合っているからこそ、鰻重は特別な料理なのである。
いや、鰻重なんて高級料理まで持ち出して、自分だけが特別なミステリーを書いているような素振りをしてしまったが、実はそれは一般的な推理小説全てに通じる真理だということもわかっている。
結局のところ、読者はホームズとワトソンの遣り取りに最大の興味を抱き、フィリップ・マーロウと依頼人の女性との恋愛関係など楽しんでいる。
謎とその解決パートより重視されているのは、登場人物たちの魅力であるはずなのだ。だからこそ、こうやってキャラクター名が独り歩きして、歴史に残っている。
そして当然、歴史に残るほどに探偵たちが輝くのも、まずは魅力的な謎があって、それを解こうとする推理小説としての基本の筋がしかと存在しているからであり。
というわけであるのだから、何も私は特別なミステリーを書こうとしているわけでもない。ただ先例に倣っているだけ。
何か特別な意識があるようでありながら、普通の推理小説を書いているという結果に落ち着くわけである。つまり、全てのミステリー作品は鰻重だということだ。
扉がノックされて、サンドイッチと共に佐々木が部屋に入ってきた。
私は彼女に丁寧にお礼を言う。驚いたことに彼女は買ってきたサンドイッチをお皿に載せてくれている。
コンビニのビニール袋に入った商品を、ホイッと手渡されるだけかと思ったのに。ひと手間を掛けられた「昼食」を、彼女から頂戴したような気分だ。まあ、鰻のことを考えていたから、それとは少しギャップがあったのだけど。
「インタビューの続きはいつくらいから始められそうですか?」
「ちょっとの間、仕事もしたいからね。でも、三十分後くらいには再開出来そうかな」
二時間くらいは平然と待たされるつもりであったのに、その昼食を見て私は呆気なく心が揺さぶられる。
「わかりました。では、三十分後に伺います」
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短い時間しかないが、読み返し作業に集中しよう。電車に乗っている間の十分くらいでも、その作業が捗ることもある。小説家というのは、五分でも十分でもそれに化すことが出来る者。
数分しかない時間で決定的な一行を書いて、執筆作業が劇的に進捗することだって十分にあり得ることなのだ。その数分が積み重なって、長編は出来上がるのである。私はサンドイッチを口にしながら、自分の作品の中深くに入り込む努力をする。
この作品もクライマックスは近づいている。シリーズ第一作目「占星術探偵対アルファ教団」にとって、最も重要なシーンを迎えようとしている。
さっきはミステリーとしての出来栄えなどどうでもいいと放言したのだけど、それは当然、一方においては真実ではなくて、私のいつもの極端な物言いに過ぎず、ただ単に言い過ぎただけであって、その出来栄えだってかなり重要であるのは当然のことであり。
今まさに、ミステリー小説として扱った場合、この作品の最も重要なシーンに差し掛かろうとしているようだ。
このシーンはかねてより、その出来栄えが気になっていた箇所である。いったい私はそれを描くことに成功したのだろうかという反省がずっとあり、あれで本当に良かったのかという後悔も大きかった。
いわば、ここは物語における曲がり角なのである。少しばかりの飛躍がある箇所。これまで走ってきたレーンから、パッと隣に飛び移るイメージ。
私の作品には「物語における曲がり角」や「飛躍がある箇所」などは少ない。出来るだけそのようなシーンを避けてしまう傾向があるから、余計にその出来栄えに自信を持てないのかもしれない。
さて、具体的なシーンがこれ。若菜真大は小島獅子央なのではないかと、探偵飴野が思い至るまでの流れ。その説得力の如何が私の不安なのである。
飴野はそのような推理を、いや、それは推理なんて上等なものではなくて愚かなる邪推で、実際のところ陰謀論のようなレベルのこじつけで終わるのだけど、一時期、というよりもこの作品のクライマックスにかけてまでの間、その考えに夢中になるわけである。
それが誤解だとわかったときに、全ての真相も同時に発覚して、この小説もエンディングを迎える。
なぜ探偵飴野はこのような愚かな勘違いをしてしまったのか、そこに必然性やリアリティを出せることが出来るようにと、作者である私は様々な努力をしてみた。
若菜という人物をどこまでも果てしなく小島獅子央に近似させるわけだ。
それによって飴野のその誤解を読者にも共有させる。それに成功すれば、この作品の物語面での成功は保証されよう。
しかしそれが上手くいったかどうか定かではない。それどころか、あれで充分だったのかという後悔に近い感情があったりする。
というのも一つ断念してしまったアイデアがあった。何ならばこれこそが最もその誤解を上手く醸成させていけそうなアイデアだったかもしれないのに、私はそれを書きかけたのだけど、結局捨ててしまった。
若菜はその彼の残した本棚から察するに、かなりの読書家である。その本棚に並んでいる中から、何冊かの本をわざわざ紹介するシーンなども書いたりした。
「文学とアナルオーガズム」という書物を、書き得そうな読書体験をしていたという描写。
あの作品で扱われている文学者の本が何冊も並んでいた、三島由紀夫にバタイユに稲垣足穂に。
しかしその程度の描写だけでは物足りなかったのではないだろうか。
もっと若菜のその側面にスポットライトを当てて、強調させるべきであったと思うのである。きっとそれは容易く若菜と小島を近似させる方法だったはずで。
「ああ、若菜君ね、知ってるよ、同じゼミだったんだ、一緒にお酒を飲んだことだってあるよ」
例えば若菜氏の過去を知る人物を登場させて、あることを証言させるのである。
「確かに必死になって何か書いていたみたいだね。違うよ、卒論ではなくて別の書き物だった。小説家でも目指しているのかなって思ったりもしたけど、さあ、わからない」
その証言を聞いて飴野は興奮するだろう。若菜がこのとき書いていたものこそ、「文学とアナルオーガズム」の草稿だったに違いないと。
若菜=小島の決定的な証拠を得たぞ、その確信を得て、飴野はまっしぐらに走り出す。
38―5)
学生時代の若菜真大は一種の文学青年で、熱心に何かを書いていたようだという情報。そういうものを差し挟んだりすれば、若菜真大=小島獅子央という説に、更に説得力を持たせることが出来たかもしれない。
しかし書かなかったのである。それを採用しなかった。つまり、若菜は読書家ではあったようだが、何かを書いていたという過去はなかったということだ。
なぜこのような効果的なアイデアを不採用にしたのかというと、それは物語上の都合というより、作家自身の都合、何ならば自意識の問題であると言えるかもしれない。
それはある種の防衛本能であろうか。作者の分身だとか、ナルシズムの投影だと受け取られることを回避したかったという意味において。
失踪者、若菜真大という登場人物は、作者の何かを投影した存在、分身の一種なのではないか。そのような解釈をされたくない。それを絶対に避けたいという意識が働いたということである。
実は私自身が読者や観客であるとき、そのような勘繰りをする側である。作家性の高い映画監督が、その作品に映画監督を登場させたならば、これは監督の分身かと思い込む。監督志望の若者が登場しても同じ。
他人の小説を読んでいるときだってそうだ。小説を書いている作中人物が出てきたらならば、それは作者の分身であろう、そうに決まっていると勘繰ってしまう。
しかし別にそれは私だけ特別に患っているものではない。数多くの読者がそう感じるはずだ。
このような誤解を生んでしまうかもしれないから、その情報を付け加えることを断念した。
どうしてかと答えるまでもない。そのような誤解を一切されたくないから。
そのような臆病な意識のせいで、自分の作品を万全に出来なかったとすれば大変に嘆かわしいことである。
とにかく作品のためだけに行動すべきであるのに、必要以上に誤解されることを恐れてしまったと言えるかもしれない。
その一方、これで良かったのではないだろうかという考えだってあって、後悔だけではないことも確か。その決断こそが、作品にとっては良きことだったという可能性である。
作品の中に作者のエゴを投影された人物が出てくるのは問題のないことであろう。主人公が作者の分身であるようであるから、これを読みたいという読者の欲望だってある。
それであるからこそリアリティ―が生じたりもする。それが作家の狙いであるのならば、何も気にすることではない。
しかし小説に出てくる作家志望という人物、それだけで作者に近似してしまって、その属性に何も重要な意味などないのに、勝手に意味ありげな何かを帯びてしまう、それがが不満なのである。
これこそ、「似てしまうこと」によって生じてしまう誤解だ。つまり作中の探偵飴野の誤解と同じ。
若菜は何かを書いていたようだ。小島と似ている。それが探偵飴野の誤解であった。何かを書いている人物、それは小説の作者と似ている。だから若菜は作者自身の何かが投影されているのではないか。それが読者の誤解となってしまう。
そういうことを避けるために、自分の作品には出来るだけ作家も作家志望も登場させないようにしよう。とにかくそのような決断をした。
長々と退屈な説明をしてきたが、そもそも余計な言い訳だったような気がする。小説というものは、かなり自由度が高くて、何でも書ける万能なメディアだと思うのだけど、そんな小説でも難しいこと、それが言い訳ではないだろうか。
自らの作品に対する言い訳だ。やり直しとか、それとは別のバージョンを並行的に書き記すことは決して出来ない。
注とか後書きで書き足すことが出来るが、それは作品の外にあるもの。やはり、物語を作るというのは、少しずつ可能性を排していって、一本の線にまとめていく作業。
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飴野は海棠との電話を切った。というわけで、ようやく私は本格的に読み返し作業に入った。
前回の続きだ。小島獅子央の正体は何者なのか、そのことについて延々と話し合ったジャーナリスト海堂との電話会議を終え、飴野は疲れ切っていた。
彼はテーブルに伏して、ウトウトと眠りに落ちるのである。そして夢を見る。そのようなシーンからこの章は始まる。
それは夢というより飴野のモヤモヤした意識が生み出した何かで、彼は若菜、つまり小島という人物がどのような人間なのか掴むため、その人物との対話を頭の中でシミュレーションして、その対話が夢という形で表現されたというのに近いのだけど。
だから夢というには明晰過ぎて、そこに意味不明な「モノ」が転がり込んでくるということはない。
到底、夢とは呼べないものであることは重々承知しているが、小説によくある技法だろう。
物語の流れの中にはどうやって組み込めないシーンを夢ということにして、その展開の中に挿入するのである。
陳腐でご都合主義極まりない手法だということは認識しているのだけど、それは効果的で、わかりやすい説明として機能することは確かで、絶対に使うべきではないなどと堅苦しいことを考えていない。
しかしこの手法が陳腐であることは充分にわきまえていなくてはいけない。決して多用することはないようにしよう。
飴野は自分の事務所に帰ってきた。事務所は三階にある。夢の中であってもその設定は忠実に踏襲されているようである。
鍵をジャラジャラと鳴らしながら、飴野は階段を上がっていく。
コンクリート製の頑丈な階段は、彼の足音を無駄に響かせはしない。夜は静かな状態を維持している。二階の部屋を使用している誰かが踊り場に自転車を放置している。捨てられたものなのか、一時的にそこに安置されているだけなのか、古いビール瓶の箱が積まれている。
何せ夢の中だから飴野は地に足が着かず、頭はボヤボヤしている状態ではある。とはいえ、小さな鍵穴にスムーズに鍵を挿入して、速やかに部屋の中に入る。
その異変にはすぐに気づいた。
大きな部屋ではない。閉めていたはずの窓は開け放たれていて、風が部屋の中に吹き込んでいた。それは明らかな異常事態。
運河に面した建物の三階の窓である。部屋の奥にベランダがあり、その窓が開いた状態になっていて、レースのカーテンが風を受けて大きく膨らんでいた。
この場面をドラマティックにするために、近畿地方に台風が近づいているという設定にした。
季節はちょうど秋、台風が到来する時期だ。何も矛盾はしないだろう。というわけでこの風は普通の風ではない。嵐だ。
このようなアイデアを思いついたら、以前書いた箇所に戻って、会話の中や描写の中に台風到来の話題を差し込んでいかなければいけない。その必要が生じてしまう。面倒である。億劫だ。しかしこれは夢なのだから、唐突に台風が出現したからと言って、別に不都合なことでもない。
ところで夢の手法にも二通りの種類があるに違いない。これは夢の中の出来事だと何となく認識している夢と、認識していない夢。
後者は目覚めたとき、「ああ、夢だったのか」と安堵したり、落胆したりするだろう。もしくはその中間の曖昧なゾーンを含めたら三通りということになるだろうか。
飴野のこの夢は後者だ。このときの彼は夢の中にいる認識などない。
38―7)
というわけで、この風は台風の風だ。台風の風が彼の部屋を蹂躙していた。
飴野はこの風に、山の匂いか草の匂いを強烈に感じる。生駒山の匂いなのか、和歌山の山か、それとも北の箕面の山、ただ単に近くの公園の草木の匂い、はたまた近所の植木鉢の匂いか知らないが、この風は土と草の気配を強烈な威力で巻き上げ、大阪日本橋の彼の事務所まで運んで来ている。
それが目に入ってチクチクするし、喉にも引っ掛かってくる。彼は何度咳払いをするが違和感が消えない。
そんなことより、部屋の中で吹き荒れる風の中に何者かが居た。その何者かは飴野のデスクに座っている。
飴野は別に驚きはしない。それが夢だからだろうか。
いや、そもそも普段から彼の部屋に勝手に入る人物が数人いる。彼の探偵助手のようなポジションの千咲とか、彼女の祖父であるこのビルの管理人であるとか、山吹だって勝手に入り込んでくるような人物。
とはいえ、その何者かが誰なのか確かめるため、飴野はすぐに部屋の明かりをつけようとする。
「飴野さん、お願いだから電気をつけないで欲しい」
まるで聞きなれない声がした。さすがに慌てふためくべき局面であるが、見知らぬ侵入者の声を聴いても、それほど驚いたりしない。それもこれも夢だから。
飴野は素直に手を止める。
「だってこの仮面姿は酷く滑稽でしてね、蛍光灯の明かりの下では見れたものではないんですよ。窓から入って来る月明りとか街のネオンの明かりだけで、うっすらとこの姿は視認出来るはずですよね」
確かに蛍光灯をつけていなくても、何らかの電化製品のデジタル液晶の放つ光とか、外から差し込んでくる明かりで、椅子に座っている男の姿が徐々に浮かび上がってきた。
その申告通り、その人物は仮面を被っていた。どのような仮面か。それは江戸川乱歩の本の表紙で描かれたことがあるような仮面だ。
別に実際の作品名が念頭にあるわけではないのだけど。いはゆる「乱歩的」という意味で何となく使ってしまった言葉。
ヴェネツィアの祭りの仮面という喩えのほうが具体だろうか。いずれにしろ西洋風の仮面。しかし乱歩的仮面には、日本風の般若のお面や能面だって、その範囲に入ってくるはず。そちら側は横溝正史だということにはならない。
まあ、結局のところどんなでもいいわけである。具体的な仮面を脳裏に描けているかと言われたら、そうではない。所詮は夢だから、どんな仮面でもいい。
しかし、いくら夢の中だとはいえ、この占星術探偵という作品は仮面を被っている登場人物が出てくるような物語ではなかったのに、そのような人物が出てきた。
それは前時代的、怪奇猟奇趣味的。いささか唐突な展開ではないだろうか。
「飴野さんですね、帰りを待っていました」
聞こえてくるのは男性の声だった。飴野が掴んだのはその情報だけだ。老いているのか、若い声なのかわからない。
飴野は返事をしないで、身体を投げ込むようにしてソファに座り込む。
めまいが酷いのである。天井が回っていて、地面が揺れて、まともに立っていられない。それは唐突に彼の身体に起こった現象。
「あなたにちょっとした講義をするために、この部屋に入らせて頂いたんです。勝手に人の部屋に侵入する者の動機として、それは極めて弱いとは思うのだけど」
仮面の男は笑うのである。
「講義のために侵入なんて。自分でもこの言葉の説得力の無さに嫌になってきますよ。しかも滑稽な仮面まで被って。どう見ても講義をする人間の姿ではない。しかし嘘じゃない。本当です、講義をしたい。そういうわけなので最後まで黙って聞いて頂きましょう。あなたに危害を加えるつもりないから」
飴野もそのようなことを恐れていない。ただ茫然とした表情で仮面の男を見つめ返すだけだ。
「講義というのはアルファ教団の教義についてです。出来ることなら、あなたをこの世界に引き込みたいと思いましてね」
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実際のところ、それはろくなものではないが、しかし危険で反道徳的であるがゆえに、大変な刺激や官能性を持つ事象。
占星術探偵シリーズでは、そのようなものが扱われていると言えるだろう。第一部ではそれがアナルオーガズムで、第二部では愛国感情による陶酔。
登場人物たちはそのようなろくでもないものに嵌ってしまい、人生を誤るわけである。
というわけなので、作者は決して肯定的に扱っているわけではないのだけど。結局のところ、作者はそれの価値を作中で否定するのだから。
しかしそれは恋愛というこの世の至上のイベントの代替物として提出されている気配はあり、であるのだから作者自身がそれに幾ばくかの価値を感じているのではないかという誤解を持たれそうである。
決してそういうわけではないということは明確にしておきたい。
しかしだ。しかしである。だからといって全力で否定するわけでもないことも事実で、何と言っても、「危険で反道徳的であるがゆえに、大変な刺激や官能性を持つ事象」という判断には、ポジティブなニュアンスもかなり含まれているのである。
最終的には全力で否定はするのだけど、その危険で反道徳的なそれに飲み込まれそうなくらいに近づいてみたいという欲望は認めたりもするわけだ。
「こうやってあなたの部屋に堂々と乗り込んだのだけど、さて、いったい何から語るべきかと迷っていて」
仮面の男は言う。僕自身は講義なんてもの不慣れなので。
「結論から始めると、それは宇宙です、我々には宇宙的なものが必要なんです」
「この地上で生活しながら、宇宙的なものと接続するということ。いや、それは殊更難しいことではない。その手段は様々あるでしょう。例えばきれいな海に潜ったり、スカイダイビングをしたり、ドラッグをキメながらダンスミュージックで踊ったり、誰かを殺したり、山で熊を撃ったり、パチンコで勝ったり、競馬で勝ったり、何ならば素晴らしい映画を観たり、恋をしたりしただけでも日常から脱して、生きていることの意味とか価値にじかに触れた気になったり出来る。それは別に難しいことではありません。誰もがそれなしでは生きられないのだから、皆、知らず知らずのうち、死に物狂いでその宇宙的なるものとの接点を探しているんです。それに失敗し続けている人が、心を病んで、脱落していく。普通の人たちは意外なほどに、どうにか成功しているのです」
「さて、オーガズムです。オーガズムを感じること、それも宇宙との接続出来る行為であることは言うまでもありません。だけど他とは一味違う、それと同時に、別の意味や効能も持っている。つまり、その行為には『枠を取り払う』という力もあって」
この講義、ここまで理解してもらっているのだろうか? いや、飴野さん、あなたは既に私の本に目を通しているようだから、そのような心配はいらないだろう。
「感動、感興といってもそれは人ぞれぞれで、そもそも、何の訓練もしていない人とか、平凡な人生しか送っていない人には、感動や感興を受け取る力にも限界があります。どれだけ美しいものを見ても、どんなに素晴らしい快感を得ても、凡庸な人たちの心や脳は全てを受け止めることは出来ない。せっかく貴重な体験を経験しているのに、それではもったいない。取りこぼしているものが多過ぎるということです」
「多くの人間が、きれいな海に潜ったり、スカイダイビングをしたり、ドラッグをキメながらダンスミュージックで踊ったりしても、日常の中のちょっとした憂さ晴らし程度にしかならないわけです」
「いや、それでも十分に人生の糧にはなるだろうけど、明日からの労働に耐え得るだけのエネルギーを与えてくれるだろうけど。でもその程度です。それでは勿体無い、いまだ目覚めぬ人たちは数多い。何と多くの人間が本来の能力を引き出すことが出来いままに年老い、死んでいってしまうことでしょうか」
「どうすればもっと感じたり、もっと興奮したり出来るのか。オーガズム体験をすれば、それが可能になる。それが我々の教義の第一段階というところでしょうか」
「その受容の限界を取り払う力を持っているのがオーガズム体験なのです。オーガズム体験を繰り返しているうちに、普段は見過ごしている海の青や、空の美しさ、音楽の奇跡は、これまでとその表情をまるで変えるでしょう。オーガズムに目覚めた人間は違う。感じる力が段違いなんです」
「つまり、そうです、あれってわけだよ」
仮面の男は肝心の言葉を口にしない。
「それは人工的に、訓練次第で得られるのオーガズムだというわけです。だってそれは全ての男の身体の奥深くにあるのですから。誰だって会得することは出来る。それとつながる通路はある。穴は最初から開いているんです」
「しかし多くの男性たちの奥深くのそれは眠ったままです。開発されてはいない」
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「三島由紀夫が稲垣足穂を評して、こんなことを言っていました、『あの人は男の秘密を知っているたった一人の作家だ』と。稲垣足穂なんて小説家を知る人はもう少ないでしょうけど。彼の代表作にそのままズバリ、『A感覚とⅤ感覚』という作品があって。何年頃に書いてたっけ、その中に『前立腺マッサージ器』についての言及がある。それを挿入したときの冷たい感覚とか」
「その三島の発言がされたときの対談相手は澁澤龍彦でした。男の秘密とは何なのか、澁澤は知っていたのだろうか。三島の言葉に相槌を打ちながらも、きっと何のことか本当の意味では理解していなかったかもしれません」
「それはともかく、私にとって重要な作家は三島ですよ。彼は『仮面の告白』で、少年の頃、夏の浜辺で自慰するシーンがあって、その快感を豪奢に描いている。でもそれは射精で果てるまでの描写のようでしかなく」
「きっと、三島はアナルオーガズムの体験だって、どこかの作品で書いているはずなんです。『憂国』の切腹シーンがそうだったり、『奔馬』の切腹シーンがそうかもしれない。でももっと若い頃、すなわちそれを初めて体験した直後、何らかの作品で書いているに違いありません。それを発見することが出来れば、また発表したいと思うのですが」
「『太陽と鉄』は評論のスタイルで、そのオーガズムについて執拗に書いています。何ら疑いなく、三島由紀夫はアナルオーガズムを体験せし男だということが、これを読めばわかる」
「太陽とは肛門です、それは三島独自のメタファーではなくて、フロイトが無意識の領域から掘り起こしたメタファーなわけですから、疑う余地のないものです。バタイユがそれを明確にして、それを三島が受け継ぎ」
「そして鉄は男根でしょう。肛門と男根、同性との性交について書かれたのが『太陽と鉄』で、そこで詳述されているのがアナルオーガズムの体験だというのが、私の書いた『文学とアナルオーガズム』の本旨でした」
「一般的射精のカタルシスというのは、一回きりのピークを記す放物線の形です。イントロがあって、サビで盛り上がって、終わりを迎えるポップソングのようなものでしょう。あるいは、一つの事件を解決して、その苦難を乗りこえたそのときの達成感をカタルシスとする物語のようなもの」
「一方、アナルオーガズムはピークなどなく、高止まりしたままそれが延々と続くスタイルです。頂上はない、達成はない、しかしずっと高いラインを維持して継続していく。プラトーです」
「稲垣足穂という作家は、アナルオーガズムに『つばさ』を感じるというようなことを書いているのだけど。つまり、飛翔する感覚です。そして三島の『太陽の鉄』のエピローグは、彼が自衛隊の戦闘機の後部座席に乗ったときの描写で終わっている。三島は強烈な重力に耐えながら、青空を飛翔するんです」
「あのオーガズムには飛翔をする感覚と大いなる関連があります。この世界で書かれた飛翔についての詩、物語、その描写など全て、アナルオーガズムのメタファーと言えるでしょう。男は快感の力によって、空を飛ぶ気分を味わうことが出来るんです」
「飴野さん、あなたも空を飛びたいとは思いませんか?」
仮面の男性は言った。
「悪くないね」か「勘弁してくれよ」か、飴野がどちらの回答を選んだのかわからない。その問いが発せられた瞬間に、彼は目覚めた。
38―10)
それは夢なのだから、目覚めた途端にとてつもない勢いで忘却が始まってしまうはずで、飴野はその遣り取りをまるで覚えていなくても不思議ではない。
覚えていたとしても論理的に再構成された形で、そこには様々な理性の補正が働いてしまっているだろう。そもそも夢として描写されたさっきのシーンが、再構成された結果なのだろうが。
まあ、どっちにしても飴野はさっきの夢の内容を反芻したりしない。あのシーンは流れ去っていく。登場人物はそれについて言及したりしないというわけだ。
夢のそのシーンは、小島獅子央の考えやアルファ教団の教義について、より踏み込んで詳しく解説するため。
もしくはこの物語における小島の存在の重要度を上げるため、必要だったと言えるだろう。それを目指して、作者が夢という形で強引にインサートした場面。
探偵飴野に新たな気づきを与えるとか、次のステップに踏み出すためではない。しかしその夢は今朝の飴野の気分には影響を与えていただろう。
例えばこの事件は解決間際だという感触。その夢のせいで飴野は妙な高揚感の中にいたのだ。何せ探し続けている謎の男と会って、面と向かって話をしたという夢なのである。それが現実でも実現しそうな予感。自分の推理を信じて、このまま突き進んでいけばいいのだという啓示。
というわけで、飴野は目を醒ました。
起床した登場人物は、出来るだけすぐ次の行動に映らなければいけない。いつまでもベッドの中にいさせるわけにはいかない。このシーンの場合、彼はデスクに突っ伏して寝落ちしていたから、ベッドにはいないのだけど。
起きたのだから、即座に行動へ。そのときの方法は二つあるだろうか。自ら進んで行動するか、誰かによって促される形で動き出すか。
誰かに何かを促されて動き出すというほうが、行動に必然性というか自然な感じが付与させられる気がする。
例えば何者かから電話がかかって来て、それに応じて動き出すとか、誰かが部屋をノックして、それに応じて動き出すとか、交わしていた約束を思い出して、それで動き出すとかでもいい。
とはいえ、外部から急き立てられて行動するばかりだと、その登場人物はどことなく受け身だという印象を与えてしまって、主人公としての魅力を欠くことになるかもしれない。いはゆる、「巻き込まれ型」という印象。
彼は探偵だ。自分の意思で動き出すべきである。もちろん依頼を受けた捜査をただ進めているだけだから、そもそものスタートが受容的なのだけど。
つまり、私は何が言いたいのかというと、作者にとっては登場人物が誰かの意思によって動き出すことも、その人物意思で自ら動くことも等価であるということである。
どちらでもいいのである。とにかく動き出してくれさえすれば。
ここまでは誰かの意思でばかり動いてきた気がするので、このシーンは飴野の意思で動き始めようなどと、そのようなバランス感覚の末に判断されたりするということ。
というわけで、この日の飴野は何かに促されたから起きるわけでなく、自らの意思で動き出す。
朝食を摂り、シャワーを浴びて、温かいお湯が流れる中、これから自分が為すべき行動について想いを巡らせ、その結果、次の行動をチョイスする。
失踪した若菜はアルファ教団の理論的指導者である小島獅子央、その人の正体だったとする。
だとすれば、どこにいるのか確定することは難しいとしても、どの辺りに潜んでいるのかはそのポイントは絞れてくるだろう。
事件解決までの道筋は見え始めたのではないか。
つまり、誰に会い、その相手に向かってどのような言葉を投げ掛ければ、失踪者若菜は帰ってくるのか、それが判明し始めた。
あとはもう、それを行動に起こすだけ。
いや、まだだ。何かがまだ、不十分なのだ。
どこか何かがしっくりと来ていない気がする。矛盾。
星空と地上との間で齟齬を来たしているのである。
占星術探偵の飴野は二つの現実を生きている。地上のほうはすっきりと鮮明になりつつあるのだけど、星空が何やら「非」を唱えてくる気配。
星のことを考え始めて、飴野はシャワーの中で途端に気分が塞ぎ始めた。心が重たくなり出している。さっきまでは目の前がクリアーだったのに。本当に捜査は順調なのか?
「冥王星だ、冥王星が矛盾を生んでいる」
シャワーの中で飴野は独りでつぶやく。この点を解決しなければ、若菜と小島獅子央が同一人物だという説は成り立たない、という程ではないのだけど、少なくとも占星術の診断結果と現実との間に調和が成り立たない、と彼は考える。
占星術探偵として不都合であるどころか、それは致命傷だ。そこの矛盾を解決しておかなければいけない。
そのようなときに会うべき人物は一人しかないない。星について語り合える飴野のただ一人の相談相手。
38―11)
星のことで相談出来る相手といえばマーガレット・ミーシャである。彼女をおいて他にいない。
彼女は夜型の人間で、まだこの時間は眠っていたようで、飴野が連絡したコールの音で起こしてしまったようだった。
この時間に私が起きているとでも思ったの、随分と無神経な人ね、あなたは。
見損なったわ、と彼女は飴野を詰ってくる。
しまった、申し訳ない。時計を見て、彼も気づく。飴野も彼なりにこの事件の捜査にのめり込んでいて、配慮を欠いていたようだ。
「もう店のほうに向かって歩いているのだけど?」
「誰もいないわ。そこは無人よ、まだ難波の街自体が目覚めていないのよ、あなた、ちょっとどうかしているんじゃないの?」
「今の僕は、時間の感覚を全くもって、喪失していたみたいだね」
飴野の事務所から、彼女の店のある千日前までは徒歩で数分である。確かに千日前の通りは静かである。というよりも、人通りは多いのだけど、歩いている人たちが夜の人々ではない。
「まだまだ出勤する時間ではないのよ、何ならまだ起きる時間でもないわ。あと二時間は眠れたのに。もちろん、この電話を切ったあと、また眠りに戻るつもりだけど」
「相談したいことがあってね」
「それほど緊急を要すること?」
「さあね、別に、さほど。しかしどことなく心がすっきりしない問題を抱えていて、今日の捜査を本格的に始める前に解決したかったんだけど」
「無理のようね」
「それにしても、あと二時間も眠るだって? 一日も半分終わるね」
飴野という探偵も朝八時に目覚めて、仕事を始める人物ではない。普段、彼の事務所が開くのは午後以降。今だって、連絡をするのに非常識的過ぎる時間ではない。マーガレットの昼夜逆転の生活は酷いものだ。
「店に出勤するのは更にその数時間後よ。それじゃ、また眠るから電話を切るわね」
「ちょっと待ってくれ、マーガレット、君はどこに住んでいたっけ?」
彼女が住んでいるのは西宮市だ。千日前の喧騒から離れた静かな住宅街に独りで住んでいる。毎日、そこまでタクシーで通っているのである。
「何よ、西宮まで来る気なの?」
「そのつもりだ」
「迷惑だわ」
「そうだとしても」
「本気? まあ、それでも二時間後ね。部屋には上げないわ。そうね、駅前のファミレスかどこかで」
「ああ、それで充分だ、有り難いね」
難波から西宮までは一時間もかからないが、移動時間だけでそれなりの時間は潰せる。二時間などあっという間だろう。
飴野はそのまま駅に向う。大阪難波駅まで行き、そこから御堂筋線で梅田。そして阪急電車で西宮へ。
マーガレットに指定されたファミレスは駅から少し遠かったがすぐに見つかり、その約束の四十五分前に到着した。
飴野はコーヒーを注文する。彼女が到着するまでの時間、順調に進みかけていたこの捜査のどこに今、自分は不安を感じているのか、頭の中でしっかりとまとめておくことにする。
その不安をスマートに言語化して、説明出来るようにしておかなければ、マーガレットに馬鹿にされてしまうだろう。
そのとき、よく見知った顔の人物が入店したことに飴野はすぐに気づいた。マーガレットの到着を今か今かと待ち侘びていたので、その郊外の大きなファミレスの扉が開く度、彼はそちらに意識を奪われていた。
入ってきたのはマーガレットではない。しかしよく知っている人物。そのとき飴野が感じた違和感というか驚きはとても大きくて、飲みかけのコーヒーを吹き出す勢いだった。
空いている席はどこかと、その人物が店内を見渡す表情は妙に澄まし顔で、何だか飴野を小馬鹿にしているようにすら見える。
この人物がここにいるのは決して偶然ではない。いったいどういうことだ?
「ヤッホー、飴野さん」とその人物は近づいて来る。
山吹美香である。
「いったいどういうつもりなんだ?」
「全然気づかなかったんですか?」
驚いている飴野に向かって、彼女は言い放ってくる。
「ずっと尾行していたんですけど」
「どこから?」
いや、聞くまでもない。
「飴野さんの事務所からです」
山吹は飴野の向かいの席に座ってくる。そこに座るのは当然だ、という態度で。
山吹は小柄で痩せているほうだが、ドシリと座り込んだとき、その肉体は妙な重量感を示してくる。
「私、すぐに尾行に気づかれて、飴野さんに撒かれちゃうとばっかり思っていたんです。だからその前にさっさと声を掛けるべきかなって。それか見失った曲がり角の向こうかで、ガッと腕を掴まれて、『どういう悪戯だ!』って叱られるかもってドキドキしてました。でも、何とここまで尾行成功。本当に気づかなかったんですか?」
嘘ですよね、探偵ですよね、大丈夫ですか? 尾行するのは得意でも、自分がされるなんて想定してないんですか? まあ、意外とそんなものかもしれませんね。
「何の用だよ」
「私を蚊帳の外に追い出さないで下さい。ここまで散々協力してきたじゃないですか。昨日の電話の話しの続きです、あれはどうなったんですか? 私は仕事を辞めたんですよ! いくらでも、この捜査に協力出来ます」
38―12)
飴野の事務所を訪ねたら、ちょうど彼がそのビルから出てくるところに出くわし、山吹は思わず物陰に隠れてやり過ごし、声を掛けようと思いながらも躊躇して、わずかの逡巡のあと、そこから尾行を開始したらしい。それが彼女の説明である。
山吹という素人に尾行されていたのに、まるでそれに気づかなった自分の不明を飴野は恥じる。背後に怪しい気配も感じなかった。いくら考えごとに夢中でも、あまりにも隙だらけだ。
確かに人通りはそれなりに多く、人込みに紛れるのは容易である。それでいながらターゲットを見失ってしまうほど、人で溢れているというほどでもない。
飴野は特にイレギュラーの動きをせずに、ただただ駅から駅へと移動したとも言えて、尾行のターゲットとして簡単な部類だったかもしれない。
その一方、もしかしたら彼女は尾行の天才なのではないかなどとも思ってみたりもする。だとすればこの探偵事務所でスカウトすべき人材だ。彼女は必死でリクルート活動してきているのだから、この際、思い切って雇うのも手だろうか。
いや、あるいは意外と人は尾行されていることに気づいたりすることは出来ないもので、それに天才も何もない。そもそも、とても容易な行為。
あるいはである。飴野と山吹は特別な運命で結ばれていたりするのか。
つまり、山吹に対して何も脅威に感じない。ストレスを感じない。それが高じて、体臭も気配も感じない。
彼女は彼にとって完全に空気のような存在で、まるで自分の分身のようであって、二人は究極の運命でつながっているから、むしろ逆にその存在を認識し難いとか?
だったら二人で暮らしても、お互いに苦に感じることもないだろう。占星術師である飴野は運命論者なので、このような考えも心を過ぎるが、それよりもやはり自分への落胆が勝る。僕は探偵失格ではないだろうか?
「飴野探偵、誰かと待ち合わせですか?」
飴野の落胆など取るに足らないことだとばかりに、山吹美香は呑気に尋ねてくる。
「自信を失ってきたよ。探偵の分際で、周りへの顧慮をまるで払えていない。迂闊で、注意力がなくて」
「そういうこともありますよ。私はクリームソーダを注文します。ヘイ、ウエイトレス! ってわざわざ呼ばなくてもいいんですよね? このタッチパネル一つでオーケーな形式なんですね」
確かにこのファミレスは注文されたものを運んで来てくれるのもロボットである。パンダを模した形のそのロボットは車輪で移動していて、妙なモーダー音を発しながらも、甲斐甲斐しい態度で店内をしきりに移動している。
「私、今、無職じゃないですか。行くところがないからファミレスで時間を潰してばかりいるんですけど。この前、ロボットを相手に凄い激高している人がいて、びっくりしたんですよね。神聖なる食事をロボットが運ぶなんて何事だ! って」
「いったい何の話だよ?」
山吹が提出してくる話題の変転振りについていけない。
「レストランでロボットが食事を運んでくるのが気に入らない人がいたんです。ロボットは可愛過ぎて最高なのに。え? もしかして飴野さんもロボットけしからん派なんですか? 随分と険しい表情ですね」
「ロボットはあり派だよ。というかロボットのことはどうでもいい。君がここにいることに異議あり派だよ。さっさと帰ってくれないか。待ち合わせの相手が来るから」
「ああ、やっぱりそうなんですね、仕事相手ですよね? 私は関係者です、何でもお手伝いします。その人は向かいの席に座るだろうから、私は隣にいきますね」
え? それとも女ですか? 女と会うんですか。こんな昼間から? あっ、人妻との逢瀬ですか? そんなことやっている場合なんですか? 大事な事件の捜査中なのに。だから簡単に尾行されるんですよ。
38―13)
ようやく目的の相手であるマーガレットが到着してくれた。しかし待ち合わせの約束時間を三十分も遅れての到着である。
その間、山吹は一人で好きなことを話しまくっていた。水族館か動物園か、どちらが魅力的なコンテンツか。
「今、無職で暇だから、水族館とか動物園にもよく行くんです。私が思うところ、どちらも残酷な施設なのですが、どちらかといえば、やっぱり水族館にいる魚たちのほうが残酷な扱いを受けているのではないでしょうか? 動物園の檻よりも、水族館の水槽のほうが狭くて、ストレスの多い環境な気がします。動物園の動物たちは案外、あの中でも楽しくやっているように見えるんですけど、魚たちは普段はあの広い海を泳いでいるわけで。どう思いますか?」
邪魔で仕方がない。鬱陶しさが半端ないのである。先程、彼女とは特別な相性で結ばれているから、その存在を認識し難くて、つまり、飴野にとって山吹は空気のように無味無臭な透明な生き物であるから、素人である彼女に尾行を許してしまったのではないかなどという仮説を彼は打ち立てかけたが、そんなことはとんでもない迷妄であったようである。
山吹は空気などではない。毒ガスだ。あるいは一酸化炭素。
マーガレットが到着する前に追い返そうと思ったのだけど、飴野はそれに失敗してしまった。
最悪なことにマーガレットと山吹を邂逅させてしまった。彼女はやはり山吹の存在に不快感を示してくる。
「あんた、なぜ女を連れているわけ?」と山吹を顎で指す。「私の知らない子よね?」
その声も居丈高な態度も、彼のよく知っているマーガレットに間違いない。しかしバーにいるときと姿格好がまるで違う。キャップを被り、サングラスをかけて、ノーメイクなのであろう、いつもは優美な女性的な口元が、どこか男性的である。
「やあ、マーガレット、来てくれてありがとう。いや、実はこの事件の重要な参考人で、急遽来てもらったんだけど、邪魔だったら帰そう」
飴野は屈するようにして嘘をつく。確かに山吹は佐倉の親友で、若菜氏のことも知っている。この捜査の参考人であることは事実だ。
しかし重要だなどと飴野自身はまるで思っていない。そもそも彼の意思で呼んだわけではない。山吹の存在を正当化するための仕方のない嘘だ。
「初めまして、山吹といいます」
飴野はどんな相手と待ち合わせしているのか、山吹に何も説明しなかった。説明しておくべきだったのかもしれないと、彼女の態度を見て思った。物怖じしない山吹が、マーガレットを見て怯えている様子なのである。
いや、これは怯えているというのではないのかもしれない。敵いそうにない相手を目の前にしている、そんな表情。
山吹は普段、「無邪気で天真爛漫な少女」のような女性像を飴野の前で装っているわけであるが、マーガレットにはそのようなのが通用しない、山吹はそう感じているようだ。
「マーガレットさん、何を注文なさいますか?」
山吹は彼女のオーラに恐れおののきながらも、自分からコミュニケーションを試みようとする。
「自分で注文するわよ、ここは私の行きつけのファミレスなのよ」
「そうおっしゃらずに。マーガレットさん、この前、ロボットを相手に凄い激高している人がいて、びっくりしたんですよね。神聖なる食事をロボットが運ぶなんて何事だ! って」
山吹はマーガレットのオーラに苦手意識を感じているようであるが、それに負けて溜まるかとばかり、自分から話題を振っていく女である。
「あっ、そう。私もそんな光景に立ち会ったことがあるわ」
「へえ、同じような体験をしているんですね」
「それどころか、その激高している人は他の客たちに同意を求めてきたのよ、『皆さん、このままでいいのですか? ロボットたちをのさぼらせておいて! 暴走する資本主義の餌食になりますよ。冷酷な効率主義が、ここまで侵入してきたということです。我々は一斉に立ち上がる必要がある!』って」
「私よりも面白いシーンに遭遇しているじゃないですか!」
「誰も賛同する人なんていなかったわ」
「マーガレットさんはロボットが嫌いなタイプに見えたんですが、そうじゃなかったんですね」
38―14)
マーガレットと山吹の間で会話が成立しているようである。何ならお互いの意見に賛意を示し合い、意気投合しているようにさえ見える。
それなのに二人の間に温かな感情が流れているようには見えない。飴野はそのような判断を下している。
山吹がマーガレットに怯え、気後れを感じる一方で、マーガレットのほうも山吹に人間的魅力を感じたりしている気配が見えないのだ。
マーガレットは山吹に対して、「可愛いけど、美しくないわね」か、「個性的だけど、頭は良くないわね」か、そのような構文において否定的評価を下している様子。
飴野は二人を横目に見ながら、そのように判断をしている。
しかしそんなことは探偵飴野にとってどうでもいいことである。それに、まだまだ二人の相性の悪さを即断するのは早計かもしれない。二人は出会ったばかりだ。何かのきっかけで距離は縮まる可能性がある。
それよりも若菜失踪事件のことで是非とも相談したいことがあって、西宮までやって来た。さっさとその話題に入らなければ。
ちなみに作者から付け加えるならば、山吹とマーガレットが仲良くなることはない。二人はこのシリーズのレギュラー登場人物で、この先も何度か相まみえることになるが、その距離が近づくことはなく、平行線がまっすぐ伸びるだけだ。
というより山吹美香は、飴野の周囲にいる誰からも微妙に距離を置かれる女だ。それが彼女の個性である。
「何となく嫌われる」という特性の持ち主。特に同性から、軽んじられる女性。その代わり、主人公の飴野との会話は弾むから、作者には愛用されるのだけど。
「実は若菜氏の正体をようやく掴んだと思ったのだけど」
まだ、山吹とマーガレットは空疎な相槌を打ちながら、空々しい会話を続けている。きっと二人とも、この遣り取りから解放されたいはずだ。飴野がそれを叶えてやる。
「だけど今日になって、ちょっとした矛盾に気づいてしまったんだ。星と大地の間で矛盾を起こしている」
「この子はその事件の参考人?」
「はい、私、佐倉の親友です。というか、幼馴染みです、ずっと仲良くしてきました。早くあの子の笑顔を取り戻したくて、飴野探偵に協力しているんです」
「佐倉って女性とあなたが親友だなんて。何だか意外ね」
「佐倉のこと知ってるんですか?」
「いいえ、その人のホロスコープを彼に見せてもらっただけよ。だけどそれを見たら、実際に会う以上の情報量を得るのが占星術師でね」
「ふーん」という返事の山吹である。彼女は占星術探偵飴野に懐いているのに、占星術には興味がない。それどころか、このようなものに対してドライなのである。
山吹はリアリストであるはずがなく、かなりロマンチストで浮世離れした性格だ。常識外れなところもある。人生に冒険を必要としているタイプである。
それなのに、その欲望を満たしてくれそうな占星術には一切の興味がなく、むしろ素っ気ない。
それもこのシリーズの脇役の中で、彼女だけの個性だと言えるだろう。
助手の千咲は占星術探偵の弟子だ。占星術を学んでいる。岩神美々などは占星術に心酔している。マーガレットは占星術師の先輩である。
飴野の周囲の人物のほとんどがそれに対して高い親和性を示す中、山吹だけは違う。
とはいえ、脇役たちの中で山吹だけが風変りな存在だというような紹介の仕方をしているが、実際のところはそんなことはなく、他の視点から見れば別の登場人物たちだって何かにおいては大きく異なっていたり、突出しているところがあるだろう。山吹美香だけを特別視するのも、また検討外れである。
「実は僕は彼女を占星術で見つけたんだ」
飴野は山吹を指し示しながら、いくらか誇らしげな態度でマーガレットに言った。
「佐倉さんの小中高の同級生ほぼ全員のホロスコープを作成して、その中から佐倉の親友らしき人物を探し出した。無数の星空の中から、山吹を引き当てたんだ」
「何ですって、なかなか愉快なことをしたのね」
マーガレットは素直に関心を示してくれる。
「数百人のホロスコープからそれを判断出来たなんて、占星術師としてかなりの腕前よ。その大胆さを最大限に褒めてあげるわ」
飴野がマーガレットのことを深く慕い、尊敬しているのはこういうところである。飴野は遥かに格下の占星術師であるが、飴野の実力を認めて、しかもしばしばそれを言葉にしてくれる。
「あなたは驚くべきことをやったわ。とはいえね、実際のところ、佐倉さんという女性には複数の友人がいたに違いない。あなたにだって友人はたくさんいるでしょ? ただ単にあなたはその中の一人を掴まえただけじゃないの? それでも凄いことだけど」
「そうかもしれない。佐倉さんの親友という定義が、山吹美香に対してどこまで相応しいのかは疑わしいよ。しかし彼女はこの事件の発端に関係している人物でもあった。佐倉さんは婚約者の浮気を疑ったとき、探偵に尾行させようとけしかけたのが山吹だったらしい」
「そうです、私が発案しました。今となれば、余計なことをしたのかもしれません・・・」
「そういう意味において、この事件のキーパーソンを見事に見つけることに成功した。その尾行から、失踪事件は始まったからね」
「どういうことよ? 本人は自分の恋人の素行調査なんて気が向かなかったのに、この子が探偵を雇えってけしかけた?」
「まあ、そういうことだ」
そのエピソードを聞いて、この子がますます嫌いになったわと口に出しては言わないが、マーガレットの表情にはそのような想いが過ぎる。
38―15)
「佐倉さんに親友がいたように、つまり、その親友というのが彼女のことだけど」と飴野は隣にいる山吹のことを指す。
会話の主役が自分から飴野に移動したことを理解している山吹は、今は食べることに夢中である。ミートスパゲティを注文していた彼女は、口の周りをトマトソースで派手に汚しながら貪欲にそれに食らいついていた。
「佐倉さんと同じように、若菜氏にもキーパーソンとなる友人がいたようだ。ホロスコープからそれを読み取ろうと思えば出来る、ほら、これが若菜氏の親友を示す惑星だと言えると思うのだけど」
「さあ、どうかしらね」
「実際に、彼は頻繁に会っていた同性の友人がいたらしい。なあ、そうだろ? 確かちょっと年上で、別に職場の仲間とかではなくて」と飴野は山吹に同意を求める。
「そうです、佐倉がそんなことを言ってました。佐倉も会ったことはないようで、どのような人なのかまるでわからないって」
彼女は美味しそうな表情でパスタを食べているのだけど、マーガッレトとの対峙にぐったりと疲れ果てたようでもあって、実際はかなりのカラ元気を発揮していて、その表情を浮かべているのかもしれない。どことなくいつもの山吹の感じが消えつつあった。
「若菜氏が秘めていた、誰もその正体を知らない親友、それはまさに12ハウス的な存在だ。先ず僕はその人物を見つけようと思った。その友人を特定することが出来れば一気に捜査は進展するはずだから。しかし佐倉さんのときのように、学友のホロスコープを集めるようなことはしていない。そもそもかなりの年上で、クラスメートとか学校の先輩なんかではない。そんなやり方では見つかる相手ではない」
「そうね。12ハウスは隠された秘密の部屋。そこに友人を象意する惑星があるのなら見つけ出すのは至難の業ね」
「そう、ホロスコープからその人物が見つけ出せるなんて到底思ってなかったのだけど。しかし僕は探偵でもあるからね。街を歩いて、色々と人と会う」
「私にとってあなたは占星術師というより探偵よ。探偵だから、あなたに興味を持ったんだから」
飴野が占星術師でしかなかったら、マーガレットという格上の存在とこんなふうに対等に話し合えるわけがない。
「その前にマーガレット、君に言っておかなければいけないことがある、僕は若菜氏は小島獅子央と同一人物ではないかという説を立てたのだけど」
「誰よ、それ? ししお? ユニークな名前ね」
「アルファ教団の理論的指導者、小島獅子央だよ、いつか君にもその男性が書いた本を紹介したことがあるはずだけど」
「ああ、思い出したわ、文学と何とかオーガズムって本だっけ?」
「そう、それ、その作者だよ。小島は全てが謎で、何一つ正体が掴めていない」
「その小島さんが若菜氏の友人って?」
「違う、若菜氏と小島獅子央は同一人物ではないのかっていうのが僕の推理さ。つまり小島獅子央というのが若菜氏のペンネームだった」
「え? けっこう大胆な推理を思いついたのね」
「はい、私も驚きですね」
山吹も口を挟んでくる。
「仮説だよ、まだそうだと断定しているわけではない」
「何よ、弱気ね。その大胆な推理に探偵生命を賭けなさいよ」
「まだ、ちょっとした思い付きに過ぎないのさ。いくつかの矛盾を孕んだ仮説って程度。そのことで君に相談したくて、ここまで来たんだから」
「ああ、そうだったわね」
38―16)
「小島獅子央という人間の全てが謎だと言ったけど、実は一つだけ確定していることがある。酒林と小島は知り合いだということだ。酒林についても説明が必要だろうか。彼がアルファ教団のトップ、総帥というポジションで」
「何となく知ってるわ」
「その二人は仕事仲間、何ならば友人同士といってもいい関係のようだ。それは確定していている事実で」
飴野はスマホを取り出して、アルファ教団のホームページを提示する。
「ほら、ここに書かれている通り、アルファ教団の歴史は二人の出会いから始まる」
マーガレットはサングラスを少しだけずらして、スマホの画面を見る振りだけはしてくれる。
「酒林は表に立ち、顔を出して活動しているけれど、小島はそうではなくて。まるでその逆、それどころかその存在の有無すら疑われている。もしかしたら小島獅子央というのは酒林のペンネームではないかって噂もあって」
「ふーん。じゃあ、このホームページの文章だって嘘かもしれないってことじゃないの。この二人の出会いも架空の出来事で」
「いや、小島獅子央という人物は必ずどこかにいるはずなんだ。酒林の一人二役ではない。そんなことをするメリットは酒林にはないはずで」
「そうかしら」
「小島獅子央は存在している。それは『文学とアナルオーガズム』という書物が存在している限り、そう言い切れる厳然とした事実だと思う。あの本を書くことが出来た男だよ、アルファ教団の聖典だ。あの本があるから、教団は特別な求心力を示すことが出来ている。特別な人間だ。でも本名じゃない、確かに誰かのペンネームに違いない。若菜氏のペンネームじゃないのかな」
「なるほど、話しが読めてきたわ。あなたは酒林という男と、失踪者若菜氏のホロスコープを重ねてみたんでしょ?」
「そう、本来ならこの二人はほとんど無関係だよ。つながりはとても弱い。酒林はアルファ教団のトップ。若菜氏は酒林の運営するそのセミナーの会員でしかない。数千人か数万人の中の一人。その他大勢さ。これだけの人数がいれば、酒林は会員と直接会うことはほとんどないはずだし」
「でも二人の相性に特別な何かがあったわけね」
「そう、若菜氏と酒林の関係は、まるで酒林と小島獅子央のような相性だって言いたくなるような特別な何か。二人が力を合わせれば、新しい組織を立ち上げることが出来て、世間に大きなインパクトを与えることが出来そうな絆」
「ちょっと短絡的ね」
飴野の言葉を遮るようにマーガレットは声を上げる。
「二人の間に強烈な仕事運が形成されていたわけね? でもこれくらいの偶然はこの世に有り触れているものでしょ? 占星術で相性を占うことほど難しいことはない、不確定要素で満ち満ちているのに。あなたはホロスコープだけで佐倉さんの友人を見つけ出すことが出来て、それに成功して、自分の能力を過信し出しているんじゃないの?」
いえ、それはあなたの能力への過信というより、占星術に対する過信ね。
「もちろん、星はあくまで参考程度だよ。若菜氏と小島獅子央が同一人物だという推理は、占星術師としてではなくて、探偵として僕が提出したものだ。星はそれを補強する説を提供するくらいの位置づけで」
「そうだといいけど。私はあなたよりも熟達した占星術師だけど、それはあくまで昔のこと。今はもうその業界から足を洗った。もう元占い師に過ぎない。一度はそれを捨てた人間よ。どうして捨てたかって、占星術の見せる幻の恐ろしさにほとほと嫌気がさしたからよ」
「よく知っている、だから僕は君を相談相手として信頼しているんだ」
「あなたの謙虚さは認めるわ」
「どっちにしろ、これはいずれ答えが出る問題だよ。その説が正しければ若菜氏を探し出せるはずだから」
38―17)
「若菜氏の正体は小島獅子央だった。僕は本気でその推理を信じているのだけど、でも実はホロスコープ上では矛盾も生じている。そもそも、その矛盾について相談するためにここまで来たんだ」
「まだ本題に入ってなかったの?」
マーガレットは言う。飴野はああ、そうだ、と返す。今ようやく本題に到着だ。
「今から三年くらい前、若菜氏のホロスコープ上で、冥王星が彼の太陽に大きな働きかけをしたと解釈した。その冥王星に影響を受けて、彼は自己変革を試みたって」
「自己変革は冥王星の象意ね」
「そう、この失踪事件の遠因を、その冥王星に限定した。それが上手くいって、アルファ教団という自己啓発セミナーを探し出すことが出来たと思う。三年前、若菜氏はその冥王星の影響を受けて、アルファ教団の会員になることを決意した、僕はホロスコープをそのように読んで、その判断の上で捜査をして、それが功を奏した」
「でも、若菜氏は一会員などではないという真相に辿り着いたんでしょ? それどころか、この教団の理論的指導者だったという推理」
「そう、若菜氏が小島獅子央ならば、彼は別に冥王星の圧力を感じて自己変革なんて試みてはいなかったということになる。だって、彼は自己啓発セミナーの会員でも何でもなかったのだから。若菜氏が小島獅子央ならば、彼はその前からその教団を関わっていたことになって」
「そもそも大きな勘違いをしでかしていたのに、アルファ教団との関係を探し出せたことになったわけね」
「そういうことになる」
「つまり、あなたは既に占星術の幻の上で踊っていた」
「しかし結果的にはアルファ教団を探し出せたんだ。どっちにしろ若菜氏がその教団と関係を持っていることは事実だ。ただの一会員なのか、それとも実はその組織の理論的指導者だったのか、その違いだけで」
「それはとてつもなく大きな違いじゃない」
「まあね、だから困っている。若菜氏がただの一会員に過ぎないのなら、最初の冥王星の解釈が的中していた。一方、彼がその他大勢の会員なんかではなくて、アルファ教団を生み出した特別な人間だったならば、最初に出したホロスコープの解釈は大外れだったことになる。しかしその冥王星は彼の人生に重要な働きかけをしているはずだから、それをまた違うふうに解釈しなければいけない」
「その矛盾を上手く調停しろと、私に私に求めているわけね」
「そういうことかもしれない」
「さあ、どうしようもないんじゃない、矛盾は矛盾よ、あなたはどこかで間違っているってこと。まあ、私は占いを捨てた人間だからね、その立場から言わせてもらうと」
「冗談だろ?」
「本当よ、実際に占い師を辞めたんだから、それは公然の事実じゃない? それはまあ、私には占いの知識くらいしか誇れるものがないから、あなたの相談にはいつでも乗るけど」
マーガレットはひねくれたことを言っている。それが本音なのか、その場の気分から発せられたセリフなのか、作者も知らない。いずれにしろ、彼女がこのような性格であったのはずっと変わらないことであるが。
占いなんか捨てたわ、と言いながら、飴野が持ち掛ける占い談義には応じる。彼女の経営しているバーでも、客の悩み相談には応じる。そのとき占星術を披露だってする。
とはいえ、彼女が熱心にその研究をしなくなったことは事実だろう。占星術研究の最前線から降りたことは事実だ。
占星術に対して、絶望に似た虚しさを感じたから、彼女はそれを捨てたのである。しかし未だその魔法の力に対して未練を引き摺っていることも事実である。マーガレットと占星術との関係はアンビバレントに満ちている。
「だから、そんな私が出来るアドバイスがあるとするなら、こうね。占星術を信じて最初の説を取るか、それとも探偵としての論理的推測を取るか。そのどちらかよ」
「何だか僕の肩書を否定されているようだ」
飴野が密かに名乗っている占星術探偵という肩書きを。
「あなたは二択を迫られているのよ。別の解釈に逃げるのは絶対にいけない」
「想定外の回答だね。つまり、若菜氏は小島獅子央だと思うのなら、もういっそ占星術のほうを捨ててしまえと?」
「そう。現実に寄せて、その冥王星を別のふうに解釈していくのは違うと思うのよ」
「残念だけど、もう既にその禁を犯している。占星術で導き出した推理と、探偵として導き出した推理、そのどちらにも矛盾を来たさない第三の推理。それを聞いてもらいたかったのだけどね」
「そうでしょうね。まあ、聞くけど。あなたは未熟な占星術師であり、そして未熟な探偵だから」
38―18)
「若菜氏が小島獅子央だったならば、彼は失踪を決意する以前から、あることで悩んでいたはずだ。彼はずっと二択に迫られていたわけだよ。つまり、佐倉さんとの結婚生活を取るか、それとも文筆家としての栄光を取るか。文筆家としての栄光とは、アルファ教団の聖典、『文学とアナルオーガズム』を書いたのは俺だという告白を、世間に向かって試みようという誘惑」
「それが栄光なの?」
「当初は違ったと思う。小島獅子央にとって『文学とアナルオーガズム』という書物は、若書きの、修作とまでは言わないまでも、若い時期に何となく書けた本でしかなくて、いずれそれを超える作品を書き上げて、それで華々しく世に出るつもりだったに違いなくて。でもそれは叶わず、書ける作品は全て『文学とアナルオーガズム』の続編か亜流だけだった。あるとき、彼は断念した。『もう、いいや、この作品の功績だけで』って。でもそれで充分じゃないか、いったいあの本はどれだけの影響力を持ったことか」
「あなたらしくないわ。自分に都合の良い設定を勝手に拵えているようにしか思えないのだけど。だって小島獅子央が若菜さんだったならば、まだまだ若い男性なんじゃないの? 三十代かそれくらいでしょ?」
「そうだよ、でも彼は諦めた。何か事情があったんじゃないかな。その栄光を一刻も早く得たくなった事情。もちろん、直接的な理由は佐倉さんとの諍いだ。佐倉さんは若菜氏のことをアルファ教団の会員だと勘違いして、それに怒った。その原因を作ったのはこの山吹美香という女なのだけど」
「え? 何か言いました?」と山吹は顔を上げる。もう二人の会話に興味を失くして、どこか別の場所に、彼女の意識は飛んでいたよう。しかしこれをきっかけに戻ってきてしまうのだけど。
「浮気を疑っていた佐倉さんは、山吹にけしかけられて探偵を雇うことにした。その探偵があの木皿儀だ。彼は若菜氏がアルファ教団に通っているという報告を上げた。佐倉さんはその報告に落胆して、怒りに捉われ、二人は諍いを始めた。その結果、若菜氏は彼女の許から去った。居場所を失い、仕事だって辞めて、彼は追い込まれるようにして、小島獅子央であることを告白せざるを得なったとも言えるのだけど、しかし依然より、その誘惑に駆られていたと思う」
「その根拠は?」
「さあね」
「駄目じゃない、まだまだ生煮えの推理ね」
「例えば若菜さんには、こんな選択肢もあったんだ。『俺はアルファ教団の会員ではなくて、俺の生み出した思想をあの教団に貸しただけ』。その事実を佐倉さんにだけ打ち明けるという選択肢。それを聞いて彼女の怒りが宥められるのかどうかわからないのだけど、いや、彼女は今、必死に彼を探しているのだから、時間さえ置けば二人は元の鞘に収まることが出来た」
「そうかもね」
「しかし若菜氏はそうではなくて、その事実を世間に公表することにした。以前から、彼は迷っていたに違いない。ずっと逡巡していたんだ。この諍いをきっかけに、ついに決断した。もう、小島獅子央として生きよう、そういう決断。それがこの失踪の真相。いや、実際にはまだ告白にまで至っていないのだけど」
「あなたの推理が正しければ、いずれそれをすると?」
「そう、その日は近い、はずだ。佐倉さんの結婚生活よりも、文筆家としての栄光を取ることにした。世間から一目置かれたいという願望。会員たちから尊敬を得たいという欲望」
「私、思い当たる節があります!」
山吹が声を上げるのである。なぜ彼女がここに居たのか、それには理由があった。何も勝手にキャラクターが動いたのではない。作者の意図の下、彼女はこの場面での発言を請われていたからである。
「若菜さんのお母さんが倒れたらしいんです。病気です、詳しいことはわかりませんけど」
「亡くなる前に、親に自慢したかったと?」
「はい、そんな感じかなあって」
「孫の顔よりも、その名声が親孝行になるのかしら?」
「お孫さんなら、けっこういるはずです、若菜さんには兄弟がいるから。でも、変な本ですけど、作家として有名になったよという報告はそうそう起こることではないじゃないですか」
「それかもしれない」
「え? それかしら」
「それですよ、きっと」
「そう解釈すると、占星術との矛盾も解消される。三年前の冥王星からの自己変革の圧力はこれだったという解釈」
「本気で言ってるの、あなた?」
「飴野探偵、完璧にこの事件を解決なされたじゃないですか!」
私の秘書であり、今はインタビュアーを熱心に務めている佐々木は昼食を買いに行ってくれている。
近所のコンビニかスーパーマーケットだとしたら、15分もすれば帰ってくるだろう。その間にも私は自作の読み返し作業を始める。
いや、彼女の仕事振りは早い。何事においても迅速を極めている。常人が15分を要するのであれば、それを10分で成し遂げてしまう人物である。
既にかなりの空腹だから、早く帰ってくるのは嬉しいし、そんな彼女の有能振りを愛してやまないのだけど、下手をすれば猶予の時間はその10分しかないということもありえる。
まあ、さっさと食事を終えて、インタビューの続きをやりましょうと彼女が私を急き立ててくることはないだろうけど。
それなりに長い付き合いだから、この辺の機微は了解し合っているはずだ。
私が昼休みが欲しいといった意味は、ただの昼食のための休みではなくて、二時間は別の仕事をするから独りにしてくれという意味だということを。
とはいえ、佐々木は異常にこの仕事に前向きである。熱心というよりも純粋に楽しんでいる気配なのである。私の仕事時間を平然と壊しにかかってくる可能性もあるだろう。
彼女が意外な程にこの仕事に熱心なのも理解出来る気がする。私の秘書にしておくのは勿体ないほどの才覚の持ち主なのだ。
混沌を処理して、順序立てて整理していく力は極めて高いようだ。曖昧な指示を受けても、その指示の本質だけを汲み取る能力にも長けている。枝葉に気を取られず、まっすぐに目的だけを追求してくる。
そのような人物なのだから、遣り甲斐のある仕事を欲していたに違いない。この職場にいる限り、その才を最大限に振るうことは出来ない。彼女は自分を持て余していたわけだ。
そんな中、突然降って湧いたこのチャンスに、彼女は自分を試す舞台がやってきたとばかりに喜び勇んでいる。
いや、これほどに有能な人材であるのなら、さっさと転職でも何でもすればいいのに。そもそも、作家の秘書なんて仕事を選ぶべきではなかったのだ。
まあ、彼女には致命的な欠点というか、非社会的なところがある。
彼女にはどうやら、ハングリーさや野心のようなものが欠片もない様子。全てを犠牲にして、仕事に打ち込もうなんて価値観で生きていないのである。
仕事以上に何か重要なものを持っているようで、それを大切にしている。その「仕事以上に何か重要なもの」の正体は定かではないが。
というわけで、今のこの職で満足していた様子ではある。私は彼女から不満を聞いたり、苛立った態度を示されたことはない。この退屈な生活に安寧を感じているようにしか見えない。
しかしこれをターニングポイントに彼女はキャリアを追求することの楽しさに目覚めて、私を捨ててビジネスの世界などに飛び立っていくかもしれないが。
この刺激的な仕事がこれまで眠っていた彼女の何かを呼び覚ましてしまうのだ。
そんなことになったら嫌だなあ。私はかなり取り乱すことになるだろう。
とはいえ、彼女だってそれで幸福を手にするわけでもないだろうが。きっと本質的には内向的な性格のはずだから、競争の連続に耐えられはしない。その決断をすぐ後悔することになるだろう。
佐々木は絶対に私の秘書という身分を捨てるべきではない。
なんてことを言い切ることは出来ないから、私は新しい仕事に燃えている彼女を窺うように見るしかない。
やはり、彼女の人生のことを第一に思いやるのならば、そのチャレンジの背中を押してやるしかないのだろう。
おっと、一言もまだそのような相談を受けたわけではないのだけど。そのような気配だって見えたわけではない。そんな心配をするのはかなりの勇み足である。
それよりも私は作家なのだから自分の作品を書こう。今からやるべき仕事は自作の読み返しである。
38―2)
物語を作るというのは、少しずつ可能性を排していって、一本の線にまとめていく作業である。
その他の様々なアイデアを切り捨て、たった一つに絞り込んでいく。終点は一点だ。逆三角形の底の、どこまでも鋭く尖った鋭角。
様々に解釈の別れる開かれたエンディングだとしても、終わりは一つの点だと思う。占星術探偵シリーズの第一作目もその終点の一点にへと近づいているようだ。
手に取ることの出来る書物ではなくて電子書籍で読み返しているから、残りページがどれくらいなのかパラパラと捲って確かめたり出来ないが、しかしこの作品を書いたのは私自身なのだから、そろそろ終わりが近いのは感覚的にわかっている。
そもそも起きてすぐ、この作業に勤しむつもりだったのである。他に何の予定もなかったので、今日一日費やして一気に最後まで読み終えるつもりであった。
そしてこの作品を読み終えて、次の新作に取り掛かろうなんてことすら希望していた。
新作のアイデアの種のようなものを見つけつつあるのだ。本当を言うと、もう一刻も早くそれと本気で向き合いところであって。
何ならば、その作業が軌道に乗り始めた気配が見えれば、読み返し作業なんて中止してもいいくらいなのである。
もう、ここまで十分の分量を読んできたと思う。これ以上新しい登場人物は出て来ない。既に登場している登場人物に新たな情報が付加されることもないはずだ。
あとは物語のまとめの作業が残されているだけではないだろうか。この第一部だけの登場人物たちが、自分たちの物語を自分たちでケリをつけるだけ。
つまり、シリーズの外に出ていくような情報などは書かれていたりしないはずだ。
占星術探偵シリーズ第四作目を書こうと志している私にとって必要なのは、この作品のレギュラー登場人物たちの情報である。
彼らが過去において、どのような行動をして、どのような発言をして、主人公の飴野と関わったのか。それをおさらいするために読み返していると言えるのだ。
失踪者若菜の行方や正体だって、ある意味どうでもいいと極論出来る。その謎が明かされるシーンまでまだ辿り着いていないが、別にそんなもの読み返す必要はない。
だってそれはこの作品だけで完結して、次のシリーズには持ち越されることのない情報だからだ。
自分の作品の出来栄えを検討したいわけでもない。ここまで遅々として読んできた「占星術探偵対アルファ教団」だけど、ここでその作業を終わりにしてもいい。何も律義に最後まで読み通さなければいけないことはないわけだ。
私はそんなことを思いながら数ページ先を斜め読みしてみる。ああ、しかしまだこれから、柘植という登場人物がそれなりに重要な役割を担い、動き回ることになるのであった。
柘植、つまり木皿儀と同じ探偵事務所に所属していて、飴野に奇妙な成り行きで雇われもして、今はアルファ教団に潜入調査もしている。
疲れた雰囲気の中年の男性だ。探偵として全く有能ではなくて、仕事熱心さも皆無。覇気もない。潜入調査をしていると言ったが、それも言葉の綾で、ただ単にあの教団の会員となって、セミナーの教えを実習させられているだけ。
しかしそんな柘植は、第二部以降でも脇役として登場する。
岩神美々、山吹美香、優森千咲、ジャーナリスト海棠などと同じように、飴野の前に頻繁に顔を出す立派なレギュラー登場人物なのである。
柘植が活発に動き回るのだから、それを無視するわけにはいかないだろう。もう少しというか、もうここまで来たのだからやはり最後まで、読み通し作業を貫徹することにしよう。
とはいえ、これからの柘植の行動だってこの作品の物語を解決するため、伏線を回収したり、放置していた謎にケリをつけたりするためがメインであって。つまり、「物語の駒」として、その役割りを担うだけである。
38―3)
もっと極端に断言するならば、こういうことも言える。謎やその解決が、そもそも占星術探偵シリーズで描きたかった最も重要なことではなかったと。
一般的なミステリーにおいて最も重要視されるものが謎とその解決パートであるわけであるが、そんなものはどうでもいい。
では何が重要なのかというと、登場人物たちの日常、そのやり取り。それらこそがこのシリーズの本旨であると思う。
だったらそもそも端からミステリーの体裁を借りる必要などないではないか。なぜわざわざそのジャンルに乗り込んできたのか?
そんなものを描きたいのであれば、ただ人間ドラマを描けば良かったではないか。
それこそ文学の正当ジャンルでもある。何も躊躇せず、人と人とのぶつかりや繋がりを描写することの出来る分野。
その通りなのであるが、しかし私の描きたいシーンのためには、登場人物たちの生活する世界に、何らかの謎が存在する必要性があったのだと思う。
その謎があってこそ、登場人物たちの普通の日常や日々のやり取りに価値を帯びる。
いや、価値というのは正確ではないかもしれないが。端的にそれはエンターテイメント性と言い換えることが出来る程度のものかもしれないが。
一般的なミステリー作品ならば、探偵たちは謎解きに忙しくて、作家の筆は物語の筋を描写するだけで精一杯で、登場人物たちの日々のやり取りや関係性はその目的の前に埋もれてしまう。
その行間に隠れてしまうもの。それらをいくらか意識的に掴み出して、謎や解決と同等の価値を持って描いていくこと。占星術探偵シリーズはこのような作品を目指しているといったところ。
謎とその解決パートなんてどうでもいいと、例のごとく軽い気持ちで断定してしまったが、それも少しも正確な物言いではない。
ミステリーにおける謎、それは太陽のように世界の中心にあり、かなりの存在感でもって登場人物たちに様々な影響を与えている。その強烈な光があってこそ、探偵や探偵事務所での日常が輝くというもので。
いや、太陽という比喩はそれほどわかりやすくないかもしれない。それについて説明するためには、鰻重という食べ物の特異性が打ってつけな気がする。
私はそれが特別に好物というわけではないのだけど、鰻重ののタレが染みたご飯は美味しいと思うわけである。
鰻は苦手なのだ。骨が多く、その皮も食べたいと思えない。しかし鰻重のタレと、それが染みたご飯は好きだ。好物の一種にしてもいい。
だったら鰻は抜いて、そのタレとご飯だけで味わえばいいのではないかと思ったりするわけである。鰻は高価な食材でもある。タレとご飯だけでいいのなら、随分と経済的だから。
しかし鰻がなければ、そのタレとご飯も味気なく感じて、鰻重のときのような美味しさを決して感じない。タレとご飯だけが美味しいように思えて、その実、鰻も重要だという事実。
占星術探偵シリーズにおけるミステリーパ―トも、それと同じではないか。つまり鰻重の鰻がミステリーパートであり謎であり、タレが沁み込んだご飯が日常のパートであり、登場人物たちの遣り取りであり。
それらは決して分離され得ないのだ。その二つが混ざり合っているからこそ、鰻重は特別な料理なのである。
いや、鰻重なんて高級料理まで持ち出して、自分だけが特別なミステリーを書いているような素振りをしてしまったが、実はそれは一般的な推理小説全てに通じる真理だということもわかっている。
結局のところ、読者はホームズとワトソンの遣り取りに最大の興味を抱き、フィリップ・マーロウと依頼人の女性との恋愛関係など楽しんでいる。
謎とその解決パートより重視されているのは、登場人物たちの魅力であるはずなのだ。だからこそ、こうやってキャラクター名が独り歩きして、歴史に残っている。
そして当然、歴史に残るほどに探偵たちが輝くのも、まずは魅力的な謎があって、それを解こうとする推理小説としての基本の筋がしかと存在しているからであり。
というわけであるのだから、何も私は特別なミステリーを書こうとしているわけでもない。ただ先例に倣っているだけ。
何か特別な意識があるようでありながら、普通の推理小説を書いているという結果に落ち着くわけである。つまり、全てのミステリー作品は鰻重だということだ。
扉がノックされて、サンドイッチと共に佐々木が部屋に入ってきた。
私は彼女に丁寧にお礼を言う。驚いたことに彼女は買ってきたサンドイッチをお皿に載せてくれている。
コンビニのビニール袋に入った商品を、ホイッと手渡されるだけかと思ったのに。ひと手間を掛けられた「昼食」を、彼女から頂戴したような気分だ。まあ、鰻のことを考えていたから、それとは少しギャップがあったのだけど。
「インタビューの続きはいつくらいから始められそうですか?」
「ちょっとの間、仕事もしたいからね。でも、三十分後くらいには再開出来そうかな」
二時間くらいは平然と待たされるつもりであったのに、その昼食を見て私は呆気なく心が揺さぶられる。
「わかりました。では、三十分後に伺います」
38―4)
短い時間しかないが、読み返し作業に集中しよう。電車に乗っている間の十分くらいでも、その作業が捗ることもある。小説家というのは、五分でも十分でもそれに化すことが出来る者。
数分しかない時間で決定的な一行を書いて、執筆作業が劇的に進捗することだって十分にあり得ることなのだ。その数分が積み重なって、長編は出来上がるのである。私はサンドイッチを口にしながら、自分の作品の中深くに入り込む努力をする。
この作品もクライマックスは近づいている。シリーズ第一作目「占星術探偵対アルファ教団」にとって、最も重要なシーンを迎えようとしている。
さっきはミステリーとしての出来栄えなどどうでもいいと放言したのだけど、それは当然、一方においては真実ではなくて、私のいつもの極端な物言いに過ぎず、ただ単に言い過ぎただけであって、その出来栄えだってかなり重要であるのは当然のことであり。
今まさに、ミステリー小説として扱った場合、この作品の最も重要なシーンに差し掛かろうとしているようだ。
このシーンはかねてより、その出来栄えが気になっていた箇所である。いったい私はそれを描くことに成功したのだろうかという反省がずっとあり、あれで本当に良かったのかという後悔も大きかった。
いわば、ここは物語における曲がり角なのである。少しばかりの飛躍がある箇所。これまで走ってきたレーンから、パッと隣に飛び移るイメージ。
私の作品には「物語における曲がり角」や「飛躍がある箇所」などは少ない。出来るだけそのようなシーンを避けてしまう傾向があるから、余計にその出来栄えに自信を持てないのかもしれない。
さて、具体的なシーンがこれ。若菜真大は小島獅子央なのではないかと、探偵飴野が思い至るまでの流れ。その説得力の如何が私の不安なのである。
飴野はそのような推理を、いや、それは推理なんて上等なものではなくて愚かなる邪推で、実際のところ陰謀論のようなレベルのこじつけで終わるのだけど、一時期、というよりもこの作品のクライマックスにかけてまでの間、その考えに夢中になるわけである。
それが誤解だとわかったときに、全ての真相も同時に発覚して、この小説もエンディングを迎える。
なぜ探偵飴野はこのような愚かな勘違いをしてしまったのか、そこに必然性やリアリティを出せることが出来るようにと、作者である私は様々な努力をしてみた。
若菜という人物をどこまでも果てしなく小島獅子央に近似させるわけだ。
それによって飴野のその誤解を読者にも共有させる。それに成功すれば、この作品の物語面での成功は保証されよう。
しかしそれが上手くいったかどうか定かではない。それどころか、あれで充分だったのかという後悔に近い感情があったりする。
というのも一つ断念してしまったアイデアがあった。何ならばこれこそが最もその誤解を上手く醸成させていけそうなアイデアだったかもしれないのに、私はそれを書きかけたのだけど、結局捨ててしまった。
若菜はその彼の残した本棚から察するに、かなりの読書家である。その本棚に並んでいる中から、何冊かの本をわざわざ紹介するシーンなども書いたりした。
「文学とアナルオーガズム」という書物を、書き得そうな読書体験をしていたという描写。
あの作品で扱われている文学者の本が何冊も並んでいた、三島由紀夫にバタイユに稲垣足穂に。
しかしその程度の描写だけでは物足りなかったのではないだろうか。
もっと若菜のその側面にスポットライトを当てて、強調させるべきであったと思うのである。きっとそれは容易く若菜と小島を近似させる方法だったはずで。
「ああ、若菜君ね、知ってるよ、同じゼミだったんだ、一緒にお酒を飲んだことだってあるよ」
例えば若菜氏の過去を知る人物を登場させて、あることを証言させるのである。
「確かに必死になって何か書いていたみたいだね。違うよ、卒論ではなくて別の書き物だった。小説家でも目指しているのかなって思ったりもしたけど、さあ、わからない」
その証言を聞いて飴野は興奮するだろう。若菜がこのとき書いていたものこそ、「文学とアナルオーガズム」の草稿だったに違いないと。
若菜=小島の決定的な証拠を得たぞ、その確信を得て、飴野はまっしぐらに走り出す。
38―5)
学生時代の若菜真大は一種の文学青年で、熱心に何かを書いていたようだという情報。そういうものを差し挟んだりすれば、若菜真大=小島獅子央という説に、更に説得力を持たせることが出来たかもしれない。
しかし書かなかったのである。それを採用しなかった。つまり、若菜は読書家ではあったようだが、何かを書いていたという過去はなかったということだ。
なぜこのような効果的なアイデアを不採用にしたのかというと、それは物語上の都合というより、作家自身の都合、何ならば自意識の問題であると言えるかもしれない。
それはある種の防衛本能であろうか。作者の分身だとか、ナルシズムの投影だと受け取られることを回避したかったという意味において。
失踪者、若菜真大という登場人物は、作者の何かを投影した存在、分身の一種なのではないか。そのような解釈をされたくない。それを絶対に避けたいという意識が働いたということである。
実は私自身が読者や観客であるとき、そのような勘繰りをする側である。作家性の高い映画監督が、その作品に映画監督を登場させたならば、これは監督の分身かと思い込む。監督志望の若者が登場しても同じ。
他人の小説を読んでいるときだってそうだ。小説を書いている作中人物が出てきたらならば、それは作者の分身であろう、そうに決まっていると勘繰ってしまう。
しかし別にそれは私だけ特別に患っているものではない。数多くの読者がそう感じるはずだ。
このような誤解を生んでしまうかもしれないから、その情報を付け加えることを断念した。
どうしてかと答えるまでもない。そのような誤解を一切されたくないから。
そのような臆病な意識のせいで、自分の作品を万全に出来なかったとすれば大変に嘆かわしいことである。
とにかく作品のためだけに行動すべきであるのに、必要以上に誤解されることを恐れてしまったと言えるかもしれない。
その一方、これで良かったのではないだろうかという考えだってあって、後悔だけではないことも確か。その決断こそが、作品にとっては良きことだったという可能性である。
作品の中に作者のエゴを投影された人物が出てくるのは問題のないことであろう。主人公が作者の分身であるようであるから、これを読みたいという読者の欲望だってある。
それであるからこそリアリティ―が生じたりもする。それが作家の狙いであるのならば、何も気にすることではない。
しかし小説に出てくる作家志望という人物、それだけで作者に近似してしまって、その属性に何も重要な意味などないのに、勝手に意味ありげな何かを帯びてしまう、それがが不満なのである。
これこそ、「似てしまうこと」によって生じてしまう誤解だ。つまり作中の探偵飴野の誤解と同じ。
若菜は何かを書いていたようだ。小島と似ている。それが探偵飴野の誤解であった。何かを書いている人物、それは小説の作者と似ている。だから若菜は作者自身の何かが投影されているのではないか。それが読者の誤解となってしまう。
そういうことを避けるために、自分の作品には出来るだけ作家も作家志望も登場させないようにしよう。とにかくそのような決断をした。
長々と退屈な説明をしてきたが、そもそも余計な言い訳だったような気がする。小説というものは、かなり自由度が高くて、何でも書ける万能なメディアだと思うのだけど、そんな小説でも難しいこと、それが言い訳ではないだろうか。
自らの作品に対する言い訳だ。やり直しとか、それとは別のバージョンを並行的に書き記すことは決して出来ない。
注とか後書きで書き足すことが出来るが、それは作品の外にあるもの。やはり、物語を作るというのは、少しずつ可能性を排していって、一本の線にまとめていく作業。
38―6)
飴野は海棠との電話を切った。というわけで、ようやく私は本格的に読み返し作業に入った。
前回の続きだ。小島獅子央の正体は何者なのか、そのことについて延々と話し合ったジャーナリスト海堂との電話会議を終え、飴野は疲れ切っていた。
彼はテーブルに伏して、ウトウトと眠りに落ちるのである。そして夢を見る。そのようなシーンからこの章は始まる。
それは夢というより飴野のモヤモヤした意識が生み出した何かで、彼は若菜、つまり小島という人物がどのような人間なのか掴むため、その人物との対話を頭の中でシミュレーションして、その対話が夢という形で表現されたというのに近いのだけど。
だから夢というには明晰過ぎて、そこに意味不明な「モノ」が転がり込んでくるということはない。
到底、夢とは呼べないものであることは重々承知しているが、小説によくある技法だろう。
物語の流れの中にはどうやって組み込めないシーンを夢ということにして、その展開の中に挿入するのである。
陳腐でご都合主義極まりない手法だということは認識しているのだけど、それは効果的で、わかりやすい説明として機能することは確かで、絶対に使うべきではないなどと堅苦しいことを考えていない。
しかしこの手法が陳腐であることは充分にわきまえていなくてはいけない。決して多用することはないようにしよう。
飴野は自分の事務所に帰ってきた。事務所は三階にある。夢の中であってもその設定は忠実に踏襲されているようである。
鍵をジャラジャラと鳴らしながら、飴野は階段を上がっていく。
コンクリート製の頑丈な階段は、彼の足音を無駄に響かせはしない。夜は静かな状態を維持している。二階の部屋を使用している誰かが踊り場に自転車を放置している。捨てられたものなのか、一時的にそこに安置されているだけなのか、古いビール瓶の箱が積まれている。
何せ夢の中だから飴野は地に足が着かず、頭はボヤボヤしている状態ではある。とはいえ、小さな鍵穴にスムーズに鍵を挿入して、速やかに部屋の中に入る。
その異変にはすぐに気づいた。
大きな部屋ではない。閉めていたはずの窓は開け放たれていて、風が部屋の中に吹き込んでいた。それは明らかな異常事態。
運河に面した建物の三階の窓である。部屋の奥にベランダがあり、その窓が開いた状態になっていて、レースのカーテンが風を受けて大きく膨らんでいた。
この場面をドラマティックにするために、近畿地方に台風が近づいているという設定にした。
季節はちょうど秋、台風が到来する時期だ。何も矛盾はしないだろう。というわけでこの風は普通の風ではない。嵐だ。
このようなアイデアを思いついたら、以前書いた箇所に戻って、会話の中や描写の中に台風到来の話題を差し込んでいかなければいけない。その必要が生じてしまう。面倒である。億劫だ。しかしこれは夢なのだから、唐突に台風が出現したからと言って、別に不都合なことでもない。
ところで夢の手法にも二通りの種類があるに違いない。これは夢の中の出来事だと何となく認識している夢と、認識していない夢。
後者は目覚めたとき、「ああ、夢だったのか」と安堵したり、落胆したりするだろう。もしくはその中間の曖昧なゾーンを含めたら三通りということになるだろうか。
飴野のこの夢は後者だ。このときの彼は夢の中にいる認識などない。
38―7)
というわけで、この風は台風の風だ。台風の風が彼の部屋を蹂躙していた。
飴野はこの風に、山の匂いか草の匂いを強烈に感じる。生駒山の匂いなのか、和歌山の山か、それとも北の箕面の山、ただ単に近くの公園の草木の匂い、はたまた近所の植木鉢の匂いか知らないが、この風は土と草の気配を強烈な威力で巻き上げ、大阪日本橋の彼の事務所まで運んで来ている。
それが目に入ってチクチクするし、喉にも引っ掛かってくる。彼は何度咳払いをするが違和感が消えない。
そんなことより、部屋の中で吹き荒れる風の中に何者かが居た。その何者かは飴野のデスクに座っている。
飴野は別に驚きはしない。それが夢だからだろうか。
いや、そもそも普段から彼の部屋に勝手に入る人物が数人いる。彼の探偵助手のようなポジションの千咲とか、彼女の祖父であるこのビルの管理人であるとか、山吹だって勝手に入り込んでくるような人物。
とはいえ、その何者かが誰なのか確かめるため、飴野はすぐに部屋の明かりをつけようとする。
「飴野さん、お願いだから電気をつけないで欲しい」
まるで聞きなれない声がした。さすがに慌てふためくべき局面であるが、見知らぬ侵入者の声を聴いても、それほど驚いたりしない。それもこれも夢だから。
飴野は素直に手を止める。
「だってこの仮面姿は酷く滑稽でしてね、蛍光灯の明かりの下では見れたものではないんですよ。窓から入って来る月明りとか街のネオンの明かりだけで、うっすらとこの姿は視認出来るはずですよね」
確かに蛍光灯をつけていなくても、何らかの電化製品のデジタル液晶の放つ光とか、外から差し込んでくる明かりで、椅子に座っている男の姿が徐々に浮かび上がってきた。
その申告通り、その人物は仮面を被っていた。どのような仮面か。それは江戸川乱歩の本の表紙で描かれたことがあるような仮面だ。
別に実際の作品名が念頭にあるわけではないのだけど。いはゆる「乱歩的」という意味で何となく使ってしまった言葉。
ヴェネツィアの祭りの仮面という喩えのほうが具体だろうか。いずれにしろ西洋風の仮面。しかし乱歩的仮面には、日本風の般若のお面や能面だって、その範囲に入ってくるはず。そちら側は横溝正史だということにはならない。
まあ、結局のところどんなでもいいわけである。具体的な仮面を脳裏に描けているかと言われたら、そうではない。所詮は夢だから、どんな仮面でもいい。
しかし、いくら夢の中だとはいえ、この占星術探偵という作品は仮面を被っている登場人物が出てくるような物語ではなかったのに、そのような人物が出てきた。
それは前時代的、怪奇猟奇趣味的。いささか唐突な展開ではないだろうか。
「飴野さんですね、帰りを待っていました」
聞こえてくるのは男性の声だった。飴野が掴んだのはその情報だけだ。老いているのか、若い声なのかわからない。
飴野は返事をしないで、身体を投げ込むようにしてソファに座り込む。
めまいが酷いのである。天井が回っていて、地面が揺れて、まともに立っていられない。それは唐突に彼の身体に起こった現象。
「あなたにちょっとした講義をするために、この部屋に入らせて頂いたんです。勝手に人の部屋に侵入する者の動機として、それは極めて弱いとは思うのだけど」
仮面の男は笑うのである。
「講義のために侵入なんて。自分でもこの言葉の説得力の無さに嫌になってきますよ。しかも滑稽な仮面まで被って。どう見ても講義をする人間の姿ではない。しかし嘘じゃない。本当です、講義をしたい。そういうわけなので最後まで黙って聞いて頂きましょう。あなたに危害を加えるつもりないから」
飴野もそのようなことを恐れていない。ただ茫然とした表情で仮面の男を見つめ返すだけだ。
「講義というのはアルファ教団の教義についてです。出来ることなら、あなたをこの世界に引き込みたいと思いましてね」
38―8)
実際のところ、それはろくなものではないが、しかし危険で反道徳的であるがゆえに、大変な刺激や官能性を持つ事象。
占星術探偵シリーズでは、そのようなものが扱われていると言えるだろう。第一部ではそれがアナルオーガズムで、第二部では愛国感情による陶酔。
登場人物たちはそのようなろくでもないものに嵌ってしまい、人生を誤るわけである。
というわけなので、作者は決して肯定的に扱っているわけではないのだけど。結局のところ、作者はそれの価値を作中で否定するのだから。
しかしそれは恋愛というこの世の至上のイベントの代替物として提出されている気配はあり、であるのだから作者自身がそれに幾ばくかの価値を感じているのではないかという誤解を持たれそうである。
決してそういうわけではないということは明確にしておきたい。
しかしだ。しかしである。だからといって全力で否定するわけでもないことも事実で、何と言っても、「危険で反道徳的であるがゆえに、大変な刺激や官能性を持つ事象」という判断には、ポジティブなニュアンスもかなり含まれているのである。
最終的には全力で否定はするのだけど、その危険で反道徳的なそれに飲み込まれそうなくらいに近づいてみたいという欲望は認めたりもするわけだ。
「こうやってあなたの部屋に堂々と乗り込んだのだけど、さて、いったい何から語るべきかと迷っていて」
仮面の男は言う。僕自身は講義なんてもの不慣れなので。
「結論から始めると、それは宇宙です、我々には宇宙的なものが必要なんです」
「この地上で生活しながら、宇宙的なものと接続するということ。いや、それは殊更難しいことではない。その手段は様々あるでしょう。例えばきれいな海に潜ったり、スカイダイビングをしたり、ドラッグをキメながらダンスミュージックで踊ったり、誰かを殺したり、山で熊を撃ったり、パチンコで勝ったり、競馬で勝ったり、何ならば素晴らしい映画を観たり、恋をしたりしただけでも日常から脱して、生きていることの意味とか価値にじかに触れた気になったり出来る。それは別に難しいことではありません。誰もがそれなしでは生きられないのだから、皆、知らず知らずのうち、死に物狂いでその宇宙的なるものとの接点を探しているんです。それに失敗し続けている人が、心を病んで、脱落していく。普通の人たちは意外なほどに、どうにか成功しているのです」
「さて、オーガズムです。オーガズムを感じること、それも宇宙との接続出来る行為であることは言うまでもありません。だけど他とは一味違う、それと同時に、別の意味や効能も持っている。つまり、その行為には『枠を取り払う』という力もあって」
この講義、ここまで理解してもらっているのだろうか? いや、飴野さん、あなたは既に私の本に目を通しているようだから、そのような心配はいらないだろう。
「感動、感興といってもそれは人ぞれぞれで、そもそも、何の訓練もしていない人とか、平凡な人生しか送っていない人には、感動や感興を受け取る力にも限界があります。どれだけ美しいものを見ても、どんなに素晴らしい快感を得ても、凡庸な人たちの心や脳は全てを受け止めることは出来ない。せっかく貴重な体験を経験しているのに、それではもったいない。取りこぼしているものが多過ぎるということです」
「多くの人間が、きれいな海に潜ったり、スカイダイビングをしたり、ドラッグをキメながらダンスミュージックで踊ったりしても、日常の中のちょっとした憂さ晴らし程度にしかならないわけです」
「いや、それでも十分に人生の糧にはなるだろうけど、明日からの労働に耐え得るだけのエネルギーを与えてくれるだろうけど。でもその程度です。それでは勿体無い、いまだ目覚めぬ人たちは数多い。何と多くの人間が本来の能力を引き出すことが出来いままに年老い、死んでいってしまうことでしょうか」
「どうすればもっと感じたり、もっと興奮したり出来るのか。オーガズム体験をすれば、それが可能になる。それが我々の教義の第一段階というところでしょうか」
「その受容の限界を取り払う力を持っているのがオーガズム体験なのです。オーガズム体験を繰り返しているうちに、普段は見過ごしている海の青や、空の美しさ、音楽の奇跡は、これまでとその表情をまるで変えるでしょう。オーガズムに目覚めた人間は違う。感じる力が段違いなんです」
「つまり、そうです、あれってわけだよ」
仮面の男は肝心の言葉を口にしない。
「それは人工的に、訓練次第で得られるのオーガズムだというわけです。だってそれは全ての男の身体の奥深くにあるのですから。誰だって会得することは出来る。それとつながる通路はある。穴は最初から開いているんです」
「しかし多くの男性たちの奥深くのそれは眠ったままです。開発されてはいない」
38―9)
「三島由紀夫が稲垣足穂を評して、こんなことを言っていました、『あの人は男の秘密を知っているたった一人の作家だ』と。稲垣足穂なんて小説家を知る人はもう少ないでしょうけど。彼の代表作にそのままズバリ、『A感覚とⅤ感覚』という作品があって。何年頃に書いてたっけ、その中に『前立腺マッサージ器』についての言及がある。それを挿入したときの冷たい感覚とか」
「その三島の発言がされたときの対談相手は澁澤龍彦でした。男の秘密とは何なのか、澁澤は知っていたのだろうか。三島の言葉に相槌を打ちながらも、きっと何のことか本当の意味では理解していなかったかもしれません」
「それはともかく、私にとって重要な作家は三島ですよ。彼は『仮面の告白』で、少年の頃、夏の浜辺で自慰するシーンがあって、その快感を豪奢に描いている。でもそれは射精で果てるまでの描写のようでしかなく」
「きっと、三島はアナルオーガズムの体験だって、どこかの作品で書いているはずなんです。『憂国』の切腹シーンがそうだったり、『奔馬』の切腹シーンがそうかもしれない。でももっと若い頃、すなわちそれを初めて体験した直後、何らかの作品で書いているに違いありません。それを発見することが出来れば、また発表したいと思うのですが」
「『太陽と鉄』は評論のスタイルで、そのオーガズムについて執拗に書いています。何ら疑いなく、三島由紀夫はアナルオーガズムを体験せし男だということが、これを読めばわかる」
「太陽とは肛門です、それは三島独自のメタファーではなくて、フロイトが無意識の領域から掘り起こしたメタファーなわけですから、疑う余地のないものです。バタイユがそれを明確にして、それを三島が受け継ぎ」
「そして鉄は男根でしょう。肛門と男根、同性との性交について書かれたのが『太陽と鉄』で、そこで詳述されているのがアナルオーガズムの体験だというのが、私の書いた『文学とアナルオーガズム』の本旨でした」
「一般的射精のカタルシスというのは、一回きりのピークを記す放物線の形です。イントロがあって、サビで盛り上がって、終わりを迎えるポップソングのようなものでしょう。あるいは、一つの事件を解決して、その苦難を乗りこえたそのときの達成感をカタルシスとする物語のようなもの」
「一方、アナルオーガズムはピークなどなく、高止まりしたままそれが延々と続くスタイルです。頂上はない、達成はない、しかしずっと高いラインを維持して継続していく。プラトーです」
「稲垣足穂という作家は、アナルオーガズムに『つばさ』を感じるというようなことを書いているのだけど。つまり、飛翔する感覚です。そして三島の『太陽の鉄』のエピローグは、彼が自衛隊の戦闘機の後部座席に乗ったときの描写で終わっている。三島は強烈な重力に耐えながら、青空を飛翔するんです」
「あのオーガズムには飛翔をする感覚と大いなる関連があります。この世界で書かれた飛翔についての詩、物語、その描写など全て、アナルオーガズムのメタファーと言えるでしょう。男は快感の力によって、空を飛ぶ気分を味わうことが出来るんです」
「飴野さん、あなたも空を飛びたいとは思いませんか?」
仮面の男性は言った。
「悪くないね」か「勘弁してくれよ」か、飴野がどちらの回答を選んだのかわからない。その問いが発せられた瞬間に、彼は目覚めた。
38―10)
それは夢なのだから、目覚めた途端にとてつもない勢いで忘却が始まってしまうはずで、飴野はその遣り取りをまるで覚えていなくても不思議ではない。
覚えていたとしても論理的に再構成された形で、そこには様々な理性の補正が働いてしまっているだろう。そもそも夢として描写されたさっきのシーンが、再構成された結果なのだろうが。
まあ、どっちにしても飴野はさっきの夢の内容を反芻したりしない。あのシーンは流れ去っていく。登場人物はそれについて言及したりしないというわけだ。
夢のそのシーンは、小島獅子央の考えやアルファ教団の教義について、より踏み込んで詳しく解説するため。
もしくはこの物語における小島の存在の重要度を上げるため、必要だったと言えるだろう。それを目指して、作者が夢という形で強引にインサートした場面。
探偵飴野に新たな気づきを与えるとか、次のステップに踏み出すためではない。しかしその夢は今朝の飴野の気分には影響を与えていただろう。
例えばこの事件は解決間際だという感触。その夢のせいで飴野は妙な高揚感の中にいたのだ。何せ探し続けている謎の男と会って、面と向かって話をしたという夢なのである。それが現実でも実現しそうな予感。自分の推理を信じて、このまま突き進んでいけばいいのだという啓示。
というわけで、飴野は目を醒ました。
起床した登場人物は、出来るだけすぐ次の行動に映らなければいけない。いつまでもベッドの中にいさせるわけにはいかない。このシーンの場合、彼はデスクに突っ伏して寝落ちしていたから、ベッドにはいないのだけど。
起きたのだから、即座に行動へ。そのときの方法は二つあるだろうか。自ら進んで行動するか、誰かによって促される形で動き出すか。
誰かに何かを促されて動き出すというほうが、行動に必然性というか自然な感じが付与させられる気がする。
例えば何者かから電話がかかって来て、それに応じて動き出すとか、誰かが部屋をノックして、それに応じて動き出すとか、交わしていた約束を思い出して、それで動き出すとかでもいい。
とはいえ、外部から急き立てられて行動するばかりだと、その登場人物はどことなく受け身だという印象を与えてしまって、主人公としての魅力を欠くことになるかもしれない。いはゆる、「巻き込まれ型」という印象。
彼は探偵だ。自分の意思で動き出すべきである。もちろん依頼を受けた捜査をただ進めているだけだから、そもそものスタートが受容的なのだけど。
つまり、私は何が言いたいのかというと、作者にとっては登場人物が誰かの意思によって動き出すことも、その人物意思で自ら動くことも等価であるということである。
どちらでもいいのである。とにかく動き出してくれさえすれば。
ここまでは誰かの意思でばかり動いてきた気がするので、このシーンは飴野の意思で動き始めようなどと、そのようなバランス感覚の末に判断されたりするということ。
というわけで、この日の飴野は何かに促されたから起きるわけでなく、自らの意思で動き出す。
朝食を摂り、シャワーを浴びて、温かいお湯が流れる中、これから自分が為すべき行動について想いを巡らせ、その結果、次の行動をチョイスする。
失踪した若菜はアルファ教団の理論的指導者である小島獅子央、その人の正体だったとする。
だとすれば、どこにいるのか確定することは難しいとしても、どの辺りに潜んでいるのかはそのポイントは絞れてくるだろう。
事件解決までの道筋は見え始めたのではないか。
つまり、誰に会い、その相手に向かってどのような言葉を投げ掛ければ、失踪者若菜は帰ってくるのか、それが判明し始めた。
あとはもう、それを行動に起こすだけ。
いや、まだだ。何かがまだ、不十分なのだ。
どこか何かがしっくりと来ていない気がする。矛盾。
星空と地上との間で齟齬を来たしているのである。
占星術探偵の飴野は二つの現実を生きている。地上のほうはすっきりと鮮明になりつつあるのだけど、星空が何やら「非」を唱えてくる気配。
星のことを考え始めて、飴野はシャワーの中で途端に気分が塞ぎ始めた。心が重たくなり出している。さっきまでは目の前がクリアーだったのに。本当に捜査は順調なのか?
「冥王星だ、冥王星が矛盾を生んでいる」
シャワーの中で飴野は独りでつぶやく。この点を解決しなければ、若菜と小島獅子央が同一人物だという説は成り立たない、という程ではないのだけど、少なくとも占星術の診断結果と現実との間に調和が成り立たない、と彼は考える。
占星術探偵として不都合であるどころか、それは致命傷だ。そこの矛盾を解決しておかなければいけない。
そのようなときに会うべき人物は一人しかないない。星について語り合える飴野のただ一人の相談相手。
38―11)
星のことで相談出来る相手といえばマーガレット・ミーシャである。彼女をおいて他にいない。
彼女は夜型の人間で、まだこの時間は眠っていたようで、飴野が連絡したコールの音で起こしてしまったようだった。
この時間に私が起きているとでも思ったの、随分と無神経な人ね、あなたは。
見損なったわ、と彼女は飴野を詰ってくる。
しまった、申し訳ない。時計を見て、彼も気づく。飴野も彼なりにこの事件の捜査にのめり込んでいて、配慮を欠いていたようだ。
「もう店のほうに向かって歩いているのだけど?」
「誰もいないわ。そこは無人よ、まだ難波の街自体が目覚めていないのよ、あなた、ちょっとどうかしているんじゃないの?」
「今の僕は、時間の感覚を全くもって、喪失していたみたいだね」
飴野の事務所から、彼女の店のある千日前までは徒歩で数分である。確かに千日前の通りは静かである。というよりも、人通りは多いのだけど、歩いている人たちが夜の人々ではない。
「まだまだ出勤する時間ではないのよ、何ならまだ起きる時間でもないわ。あと二時間は眠れたのに。もちろん、この電話を切ったあと、また眠りに戻るつもりだけど」
「相談したいことがあってね」
「それほど緊急を要すること?」
「さあね、別に、さほど。しかしどことなく心がすっきりしない問題を抱えていて、今日の捜査を本格的に始める前に解決したかったんだけど」
「無理のようね」
「それにしても、あと二時間も眠るだって? 一日も半分終わるね」
飴野という探偵も朝八時に目覚めて、仕事を始める人物ではない。普段、彼の事務所が開くのは午後以降。今だって、連絡をするのに非常識的過ぎる時間ではない。マーガレットの昼夜逆転の生活は酷いものだ。
「店に出勤するのは更にその数時間後よ。それじゃ、また眠るから電話を切るわね」
「ちょっと待ってくれ、マーガレット、君はどこに住んでいたっけ?」
彼女が住んでいるのは西宮市だ。千日前の喧騒から離れた静かな住宅街に独りで住んでいる。毎日、そこまでタクシーで通っているのである。
「何よ、西宮まで来る気なの?」
「そのつもりだ」
「迷惑だわ」
「そうだとしても」
「本気? まあ、それでも二時間後ね。部屋には上げないわ。そうね、駅前のファミレスかどこかで」
「ああ、それで充分だ、有り難いね」
難波から西宮までは一時間もかからないが、移動時間だけでそれなりの時間は潰せる。二時間などあっという間だろう。
飴野はそのまま駅に向う。大阪難波駅まで行き、そこから御堂筋線で梅田。そして阪急電車で西宮へ。
マーガレットに指定されたファミレスは駅から少し遠かったがすぐに見つかり、その約束の四十五分前に到着した。
飴野はコーヒーを注文する。彼女が到着するまでの時間、順調に進みかけていたこの捜査のどこに今、自分は不安を感じているのか、頭の中でしっかりとまとめておくことにする。
その不安をスマートに言語化して、説明出来るようにしておかなければ、マーガレットに馬鹿にされてしまうだろう。
そのとき、よく見知った顔の人物が入店したことに飴野はすぐに気づいた。マーガレットの到着を今か今かと待ち侘びていたので、その郊外の大きなファミレスの扉が開く度、彼はそちらに意識を奪われていた。
入ってきたのはマーガレットではない。しかしよく知っている人物。そのとき飴野が感じた違和感というか驚きはとても大きくて、飲みかけのコーヒーを吹き出す勢いだった。
空いている席はどこかと、その人物が店内を見渡す表情は妙に澄まし顔で、何だか飴野を小馬鹿にしているようにすら見える。
この人物がここにいるのは決して偶然ではない。いったいどういうことだ?
「ヤッホー、飴野さん」とその人物は近づいて来る。
山吹美香である。
「いったいどういうつもりなんだ?」
「全然気づかなかったんですか?」
驚いている飴野に向かって、彼女は言い放ってくる。
「ずっと尾行していたんですけど」
「どこから?」
いや、聞くまでもない。
「飴野さんの事務所からです」
山吹は飴野の向かいの席に座ってくる。そこに座るのは当然だ、という態度で。
山吹は小柄で痩せているほうだが、ドシリと座り込んだとき、その肉体は妙な重量感を示してくる。
「私、すぐに尾行に気づかれて、飴野さんに撒かれちゃうとばっかり思っていたんです。だからその前にさっさと声を掛けるべきかなって。それか見失った曲がり角の向こうかで、ガッと腕を掴まれて、『どういう悪戯だ!』って叱られるかもってドキドキしてました。でも、何とここまで尾行成功。本当に気づかなかったんですか?」
嘘ですよね、探偵ですよね、大丈夫ですか? 尾行するのは得意でも、自分がされるなんて想定してないんですか? まあ、意外とそんなものかもしれませんね。
「何の用だよ」
「私を蚊帳の外に追い出さないで下さい。ここまで散々協力してきたじゃないですか。昨日の電話の話しの続きです、あれはどうなったんですか? 私は仕事を辞めたんですよ! いくらでも、この捜査に協力出来ます」
38―12)
飴野の事務所を訪ねたら、ちょうど彼がそのビルから出てくるところに出くわし、山吹は思わず物陰に隠れてやり過ごし、声を掛けようと思いながらも躊躇して、わずかの逡巡のあと、そこから尾行を開始したらしい。それが彼女の説明である。
山吹という素人に尾行されていたのに、まるでそれに気づかなった自分の不明を飴野は恥じる。背後に怪しい気配も感じなかった。いくら考えごとに夢中でも、あまりにも隙だらけだ。
確かに人通りはそれなりに多く、人込みに紛れるのは容易である。それでいながらターゲットを見失ってしまうほど、人で溢れているというほどでもない。
飴野は特にイレギュラーの動きをせずに、ただただ駅から駅へと移動したとも言えて、尾行のターゲットとして簡単な部類だったかもしれない。
その一方、もしかしたら彼女は尾行の天才なのではないかなどとも思ってみたりもする。だとすればこの探偵事務所でスカウトすべき人材だ。彼女は必死でリクルート活動してきているのだから、この際、思い切って雇うのも手だろうか。
いや、あるいは意外と人は尾行されていることに気づいたりすることは出来ないもので、それに天才も何もない。そもそも、とても容易な行為。
あるいはである。飴野と山吹は特別な運命で結ばれていたりするのか。
つまり、山吹に対して何も脅威に感じない。ストレスを感じない。それが高じて、体臭も気配も感じない。
彼女は彼にとって完全に空気のような存在で、まるで自分の分身のようであって、二人は究極の運命でつながっているから、むしろ逆にその存在を認識し難いとか?
だったら二人で暮らしても、お互いに苦に感じることもないだろう。占星術師である飴野は運命論者なので、このような考えも心を過ぎるが、それよりもやはり自分への落胆が勝る。僕は探偵失格ではないだろうか?
「飴野探偵、誰かと待ち合わせですか?」
飴野の落胆など取るに足らないことだとばかりに、山吹美香は呑気に尋ねてくる。
「自信を失ってきたよ。探偵の分際で、周りへの顧慮をまるで払えていない。迂闊で、注意力がなくて」
「そういうこともありますよ。私はクリームソーダを注文します。ヘイ、ウエイトレス! ってわざわざ呼ばなくてもいいんですよね? このタッチパネル一つでオーケーな形式なんですね」
確かにこのファミレスは注文されたものを運んで来てくれるのもロボットである。パンダを模した形のそのロボットは車輪で移動していて、妙なモーダー音を発しながらも、甲斐甲斐しい態度で店内をしきりに移動している。
「私、今、無職じゃないですか。行くところがないからファミレスで時間を潰してばかりいるんですけど。この前、ロボットを相手に凄い激高している人がいて、びっくりしたんですよね。神聖なる食事をロボットが運ぶなんて何事だ! って」
「いったい何の話だよ?」
山吹が提出してくる話題の変転振りについていけない。
「レストランでロボットが食事を運んでくるのが気に入らない人がいたんです。ロボットは可愛過ぎて最高なのに。え? もしかして飴野さんもロボットけしからん派なんですか? 随分と険しい表情ですね」
「ロボットはあり派だよ。というかロボットのことはどうでもいい。君がここにいることに異議あり派だよ。さっさと帰ってくれないか。待ち合わせの相手が来るから」
「ああ、やっぱりそうなんですね、仕事相手ですよね? 私は関係者です、何でもお手伝いします。その人は向かいの席に座るだろうから、私は隣にいきますね」
え? それとも女ですか? 女と会うんですか。こんな昼間から? あっ、人妻との逢瀬ですか? そんなことやっている場合なんですか? 大事な事件の捜査中なのに。だから簡単に尾行されるんですよ。
38―13)
ようやく目的の相手であるマーガレットが到着してくれた。しかし待ち合わせの約束時間を三十分も遅れての到着である。
その間、山吹は一人で好きなことを話しまくっていた。水族館か動物園か、どちらが魅力的なコンテンツか。
「今、無職で暇だから、水族館とか動物園にもよく行くんです。私が思うところ、どちらも残酷な施設なのですが、どちらかといえば、やっぱり水族館にいる魚たちのほうが残酷な扱いを受けているのではないでしょうか? 動物園の檻よりも、水族館の水槽のほうが狭くて、ストレスの多い環境な気がします。動物園の動物たちは案外、あの中でも楽しくやっているように見えるんですけど、魚たちは普段はあの広い海を泳いでいるわけで。どう思いますか?」
邪魔で仕方がない。鬱陶しさが半端ないのである。先程、彼女とは特別な相性で結ばれているから、その存在を認識し難くて、つまり、飴野にとって山吹は空気のように無味無臭な透明な生き物であるから、素人である彼女に尾行を許してしまったのではないかなどという仮説を彼は打ち立てかけたが、そんなことはとんでもない迷妄であったようである。
山吹は空気などではない。毒ガスだ。あるいは一酸化炭素。
マーガレットが到着する前に追い返そうと思ったのだけど、飴野はそれに失敗してしまった。
最悪なことにマーガレットと山吹を邂逅させてしまった。彼女はやはり山吹の存在に不快感を示してくる。
「あんた、なぜ女を連れているわけ?」と山吹を顎で指す。「私の知らない子よね?」
その声も居丈高な態度も、彼のよく知っているマーガレットに間違いない。しかしバーにいるときと姿格好がまるで違う。キャップを被り、サングラスをかけて、ノーメイクなのであろう、いつもは優美な女性的な口元が、どこか男性的である。
「やあ、マーガレット、来てくれてありがとう。いや、実はこの事件の重要な参考人で、急遽来てもらったんだけど、邪魔だったら帰そう」
飴野は屈するようにして嘘をつく。確かに山吹は佐倉の親友で、若菜氏のことも知っている。この捜査の参考人であることは事実だ。
しかし重要だなどと飴野自身はまるで思っていない。そもそも彼の意思で呼んだわけではない。山吹の存在を正当化するための仕方のない嘘だ。
「初めまして、山吹といいます」
飴野はどんな相手と待ち合わせしているのか、山吹に何も説明しなかった。説明しておくべきだったのかもしれないと、彼女の態度を見て思った。物怖じしない山吹が、マーガレットを見て怯えている様子なのである。
いや、これは怯えているというのではないのかもしれない。敵いそうにない相手を目の前にしている、そんな表情。
山吹は普段、「無邪気で天真爛漫な少女」のような女性像を飴野の前で装っているわけであるが、マーガレットにはそのようなのが通用しない、山吹はそう感じているようだ。
「マーガレットさん、何を注文なさいますか?」
山吹は彼女のオーラに恐れおののきながらも、自分からコミュニケーションを試みようとする。
「自分で注文するわよ、ここは私の行きつけのファミレスなのよ」
「そうおっしゃらずに。マーガレットさん、この前、ロボットを相手に凄い激高している人がいて、びっくりしたんですよね。神聖なる食事をロボットが運ぶなんて何事だ! って」
山吹はマーガレットのオーラに苦手意識を感じているようであるが、それに負けて溜まるかとばかり、自分から話題を振っていく女である。
「あっ、そう。私もそんな光景に立ち会ったことがあるわ」
「へえ、同じような体験をしているんですね」
「それどころか、その激高している人は他の客たちに同意を求めてきたのよ、『皆さん、このままでいいのですか? ロボットたちをのさぼらせておいて! 暴走する資本主義の餌食になりますよ。冷酷な効率主義が、ここまで侵入してきたということです。我々は一斉に立ち上がる必要がある!』って」
「私よりも面白いシーンに遭遇しているじゃないですか!」
「誰も賛同する人なんていなかったわ」
「マーガレットさんはロボットが嫌いなタイプに見えたんですが、そうじゃなかったんですね」
38―14)
マーガレットと山吹の間で会話が成立しているようである。何ならお互いの意見に賛意を示し合い、意気投合しているようにさえ見える。
それなのに二人の間に温かな感情が流れているようには見えない。飴野はそのような判断を下している。
山吹がマーガレットに怯え、気後れを感じる一方で、マーガレットのほうも山吹に人間的魅力を感じたりしている気配が見えないのだ。
マーガレットは山吹に対して、「可愛いけど、美しくないわね」か、「個性的だけど、頭は良くないわね」か、そのような構文において否定的評価を下している様子。
飴野は二人を横目に見ながら、そのように判断をしている。
しかしそんなことは探偵飴野にとってどうでもいいことである。それに、まだまだ二人の相性の悪さを即断するのは早計かもしれない。二人は出会ったばかりだ。何かのきっかけで距離は縮まる可能性がある。
それよりも若菜失踪事件のことで是非とも相談したいことがあって、西宮までやって来た。さっさとその話題に入らなければ。
ちなみに作者から付け加えるならば、山吹とマーガレットが仲良くなることはない。二人はこのシリーズのレギュラー登場人物で、この先も何度か相まみえることになるが、その距離が近づくことはなく、平行線がまっすぐ伸びるだけだ。
というより山吹美香は、飴野の周囲にいる誰からも微妙に距離を置かれる女だ。それが彼女の個性である。
「何となく嫌われる」という特性の持ち主。特に同性から、軽んじられる女性。その代わり、主人公の飴野との会話は弾むから、作者には愛用されるのだけど。
「実は若菜氏の正体をようやく掴んだと思ったのだけど」
まだ、山吹とマーガレットは空疎な相槌を打ちながら、空々しい会話を続けている。きっと二人とも、この遣り取りから解放されたいはずだ。飴野がそれを叶えてやる。
「だけど今日になって、ちょっとした矛盾に気づいてしまったんだ。星と大地の間で矛盾を起こしている」
「この子はその事件の参考人?」
「はい、私、佐倉の親友です。というか、幼馴染みです、ずっと仲良くしてきました。早くあの子の笑顔を取り戻したくて、飴野探偵に協力しているんです」
「佐倉って女性とあなたが親友だなんて。何だか意外ね」
「佐倉のこと知ってるんですか?」
「いいえ、その人のホロスコープを彼に見せてもらっただけよ。だけどそれを見たら、実際に会う以上の情報量を得るのが占星術師でね」
「ふーん」という返事の山吹である。彼女は占星術探偵飴野に懐いているのに、占星術には興味がない。それどころか、このようなものに対してドライなのである。
山吹はリアリストであるはずがなく、かなりロマンチストで浮世離れした性格だ。常識外れなところもある。人生に冒険を必要としているタイプである。
それなのに、その欲望を満たしてくれそうな占星術には一切の興味がなく、むしろ素っ気ない。
それもこのシリーズの脇役の中で、彼女だけの個性だと言えるだろう。
助手の千咲は占星術探偵の弟子だ。占星術を学んでいる。岩神美々などは占星術に心酔している。マーガレットは占星術師の先輩である。
飴野の周囲の人物のほとんどがそれに対して高い親和性を示す中、山吹だけは違う。
とはいえ、脇役たちの中で山吹だけが風変りな存在だというような紹介の仕方をしているが、実際のところはそんなことはなく、他の視点から見れば別の登場人物たちだって何かにおいては大きく異なっていたり、突出しているところがあるだろう。山吹美香だけを特別視するのも、また検討外れである。
「実は僕は彼女を占星術で見つけたんだ」
飴野は山吹を指し示しながら、いくらか誇らしげな態度でマーガレットに言った。
「佐倉さんの小中高の同級生ほぼ全員のホロスコープを作成して、その中から佐倉の親友らしき人物を探し出した。無数の星空の中から、山吹を引き当てたんだ」
「何ですって、なかなか愉快なことをしたのね」
マーガレットは素直に関心を示してくれる。
「数百人のホロスコープからそれを判断出来たなんて、占星術師としてかなりの腕前よ。その大胆さを最大限に褒めてあげるわ」
飴野がマーガレットのことを深く慕い、尊敬しているのはこういうところである。飴野は遥かに格下の占星術師であるが、飴野の実力を認めて、しかもしばしばそれを言葉にしてくれる。
「あなたは驚くべきことをやったわ。とはいえね、実際のところ、佐倉さんという女性には複数の友人がいたに違いない。あなたにだって友人はたくさんいるでしょ? ただ単にあなたはその中の一人を掴まえただけじゃないの? それでも凄いことだけど」
「そうかもしれない。佐倉さんの親友という定義が、山吹美香に対してどこまで相応しいのかは疑わしいよ。しかし彼女はこの事件の発端に関係している人物でもあった。佐倉さんは婚約者の浮気を疑ったとき、探偵に尾行させようとけしかけたのが山吹だったらしい」
「そうです、私が発案しました。今となれば、余計なことをしたのかもしれません・・・」
「そういう意味において、この事件のキーパーソンを見事に見つけることに成功した。その尾行から、失踪事件は始まったからね」
「どういうことよ? 本人は自分の恋人の素行調査なんて気が向かなかったのに、この子が探偵を雇えってけしかけた?」
「まあ、そういうことだ」
そのエピソードを聞いて、この子がますます嫌いになったわと口に出しては言わないが、マーガレットの表情にはそのような想いが過ぎる。
38―15)
「佐倉さんに親友がいたように、つまり、その親友というのが彼女のことだけど」と飴野は隣にいる山吹のことを指す。
会話の主役が自分から飴野に移動したことを理解している山吹は、今は食べることに夢中である。ミートスパゲティを注文していた彼女は、口の周りをトマトソースで派手に汚しながら貪欲にそれに食らいついていた。
「佐倉さんと同じように、若菜氏にもキーパーソンとなる友人がいたようだ。ホロスコープからそれを読み取ろうと思えば出来る、ほら、これが若菜氏の親友を示す惑星だと言えると思うのだけど」
「さあ、どうかしらね」
「実際に、彼は頻繁に会っていた同性の友人がいたらしい。なあ、そうだろ? 確かちょっと年上で、別に職場の仲間とかではなくて」と飴野は山吹に同意を求める。
「そうです、佐倉がそんなことを言ってました。佐倉も会ったことはないようで、どのような人なのかまるでわからないって」
彼女は美味しそうな表情でパスタを食べているのだけど、マーガッレトとの対峙にぐったりと疲れ果てたようでもあって、実際はかなりのカラ元気を発揮していて、その表情を浮かべているのかもしれない。どことなくいつもの山吹の感じが消えつつあった。
「若菜氏が秘めていた、誰もその正体を知らない親友、それはまさに12ハウス的な存在だ。先ず僕はその人物を見つけようと思った。その友人を特定することが出来れば一気に捜査は進展するはずだから。しかし佐倉さんのときのように、学友のホロスコープを集めるようなことはしていない。そもそもかなりの年上で、クラスメートとか学校の先輩なんかではない。そんなやり方では見つかる相手ではない」
「そうね。12ハウスは隠された秘密の部屋。そこに友人を象意する惑星があるのなら見つけ出すのは至難の業ね」
「そう、ホロスコープからその人物が見つけ出せるなんて到底思ってなかったのだけど。しかし僕は探偵でもあるからね。街を歩いて、色々と人と会う」
「私にとってあなたは占星術師というより探偵よ。探偵だから、あなたに興味を持ったんだから」
飴野が占星術師でしかなかったら、マーガレットという格上の存在とこんなふうに対等に話し合えるわけがない。
「その前にマーガレット、君に言っておかなければいけないことがある、僕は若菜氏は小島獅子央と同一人物ではないかという説を立てたのだけど」
「誰よ、それ? ししお? ユニークな名前ね」
「アルファ教団の理論的指導者、小島獅子央だよ、いつか君にもその男性が書いた本を紹介したことがあるはずだけど」
「ああ、思い出したわ、文学と何とかオーガズムって本だっけ?」
「そう、それ、その作者だよ。小島は全てが謎で、何一つ正体が掴めていない」
「その小島さんが若菜氏の友人って?」
「違う、若菜氏と小島獅子央は同一人物ではないのかっていうのが僕の推理さ。つまり小島獅子央というのが若菜氏のペンネームだった」
「え? けっこう大胆な推理を思いついたのね」
「はい、私も驚きですね」
山吹も口を挟んでくる。
「仮説だよ、まだそうだと断定しているわけではない」
「何よ、弱気ね。その大胆な推理に探偵生命を賭けなさいよ」
「まだ、ちょっとした思い付きに過ぎないのさ。いくつかの矛盾を孕んだ仮説って程度。そのことで君に相談したくて、ここまで来たんだから」
「ああ、そうだったわね」
38―16)
「小島獅子央という人間の全てが謎だと言ったけど、実は一つだけ確定していることがある。酒林と小島は知り合いだということだ。酒林についても説明が必要だろうか。彼がアルファ教団のトップ、総帥というポジションで」
「何となく知ってるわ」
「その二人は仕事仲間、何ならば友人同士といってもいい関係のようだ。それは確定していている事実で」
飴野はスマホを取り出して、アルファ教団のホームページを提示する。
「ほら、ここに書かれている通り、アルファ教団の歴史は二人の出会いから始まる」
マーガレットはサングラスを少しだけずらして、スマホの画面を見る振りだけはしてくれる。
「酒林は表に立ち、顔を出して活動しているけれど、小島はそうではなくて。まるでその逆、それどころかその存在の有無すら疑われている。もしかしたら小島獅子央というのは酒林のペンネームではないかって噂もあって」
「ふーん。じゃあ、このホームページの文章だって嘘かもしれないってことじゃないの。この二人の出会いも架空の出来事で」
「いや、小島獅子央という人物は必ずどこかにいるはずなんだ。酒林の一人二役ではない。そんなことをするメリットは酒林にはないはずで」
「そうかしら」
「小島獅子央は存在している。それは『文学とアナルオーガズム』という書物が存在している限り、そう言い切れる厳然とした事実だと思う。あの本を書くことが出来た男だよ、アルファ教団の聖典だ。あの本があるから、教団は特別な求心力を示すことが出来ている。特別な人間だ。でも本名じゃない、確かに誰かのペンネームに違いない。若菜氏のペンネームじゃないのかな」
「なるほど、話しが読めてきたわ。あなたは酒林という男と、失踪者若菜氏のホロスコープを重ねてみたんでしょ?」
「そう、本来ならこの二人はほとんど無関係だよ。つながりはとても弱い。酒林はアルファ教団のトップ。若菜氏は酒林の運営するそのセミナーの会員でしかない。数千人か数万人の中の一人。その他大勢さ。これだけの人数がいれば、酒林は会員と直接会うことはほとんどないはずだし」
「でも二人の相性に特別な何かがあったわけね」
「そう、若菜氏と酒林の関係は、まるで酒林と小島獅子央のような相性だって言いたくなるような特別な何か。二人が力を合わせれば、新しい組織を立ち上げることが出来て、世間に大きなインパクトを与えることが出来そうな絆」
「ちょっと短絡的ね」
飴野の言葉を遮るようにマーガレットは声を上げる。
「二人の間に強烈な仕事運が形成されていたわけね? でもこれくらいの偶然はこの世に有り触れているものでしょ? 占星術で相性を占うことほど難しいことはない、不確定要素で満ち満ちているのに。あなたはホロスコープだけで佐倉さんの友人を見つけ出すことが出来て、それに成功して、自分の能力を過信し出しているんじゃないの?」
いえ、それはあなたの能力への過信というより、占星術に対する過信ね。
「もちろん、星はあくまで参考程度だよ。若菜氏と小島獅子央が同一人物だという推理は、占星術師としてではなくて、探偵として僕が提出したものだ。星はそれを補強する説を提供するくらいの位置づけで」
「そうだといいけど。私はあなたよりも熟達した占星術師だけど、それはあくまで昔のこと。今はもうその業界から足を洗った。もう元占い師に過ぎない。一度はそれを捨てた人間よ。どうして捨てたかって、占星術の見せる幻の恐ろしさにほとほと嫌気がさしたからよ」
「よく知っている、だから僕は君を相談相手として信頼しているんだ」
「あなたの謙虚さは認めるわ」
「どっちにしろ、これはいずれ答えが出る問題だよ。その説が正しければ若菜氏を探し出せるはずだから」
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「若菜氏の正体は小島獅子央だった。僕は本気でその推理を信じているのだけど、でも実はホロスコープ上では矛盾も生じている。そもそも、その矛盾について相談するためにここまで来たんだ」
「まだ本題に入ってなかったの?」
マーガレットは言う。飴野はああ、そうだ、と返す。今ようやく本題に到着だ。
「今から三年くらい前、若菜氏のホロスコープ上で、冥王星が彼の太陽に大きな働きかけをしたと解釈した。その冥王星に影響を受けて、彼は自己変革を試みたって」
「自己変革は冥王星の象意ね」
「そう、この失踪事件の遠因を、その冥王星に限定した。それが上手くいって、アルファ教団という自己啓発セミナーを探し出すことが出来たと思う。三年前、若菜氏はその冥王星の影響を受けて、アルファ教団の会員になることを決意した、僕はホロスコープをそのように読んで、その判断の上で捜査をして、それが功を奏した」
「でも、若菜氏は一会員などではないという真相に辿り着いたんでしょ? それどころか、この教団の理論的指導者だったという推理」
「そう、若菜氏が小島獅子央ならば、彼は別に冥王星の圧力を感じて自己変革なんて試みてはいなかったということになる。だって、彼は自己啓発セミナーの会員でも何でもなかったのだから。若菜氏が小島獅子央ならば、彼はその前からその教団を関わっていたことになって」
「そもそも大きな勘違いをしでかしていたのに、アルファ教団との関係を探し出せたことになったわけね」
「そういうことになる」
「つまり、あなたは既に占星術の幻の上で踊っていた」
「しかし結果的にはアルファ教団を探し出せたんだ。どっちにしろ若菜氏がその教団と関係を持っていることは事実だ。ただの一会員なのか、それとも実はその組織の理論的指導者だったのか、その違いだけで」
「それはとてつもなく大きな違いじゃない」
「まあね、だから困っている。若菜氏がただの一会員に過ぎないのなら、最初の冥王星の解釈が的中していた。一方、彼がその他大勢の会員なんかではなくて、アルファ教団を生み出した特別な人間だったならば、最初に出したホロスコープの解釈は大外れだったことになる。しかしその冥王星は彼の人生に重要な働きかけをしているはずだから、それをまた違うふうに解釈しなければいけない」
「その矛盾を上手く調停しろと、私に私に求めているわけね」
「そういうことかもしれない」
「さあ、どうしようもないんじゃない、矛盾は矛盾よ、あなたはどこかで間違っているってこと。まあ、私は占いを捨てた人間だからね、その立場から言わせてもらうと」
「冗談だろ?」
「本当よ、実際に占い師を辞めたんだから、それは公然の事実じゃない? それはまあ、私には占いの知識くらいしか誇れるものがないから、あなたの相談にはいつでも乗るけど」
マーガレットはひねくれたことを言っている。それが本音なのか、その場の気分から発せられたセリフなのか、作者も知らない。いずれにしろ、彼女がこのような性格であったのはずっと変わらないことであるが。
占いなんか捨てたわ、と言いながら、飴野が持ち掛ける占い談義には応じる。彼女の経営しているバーでも、客の悩み相談には応じる。そのとき占星術を披露だってする。
とはいえ、彼女が熱心にその研究をしなくなったことは事実だろう。占星術研究の最前線から降りたことは事実だ。
占星術に対して、絶望に似た虚しさを感じたから、彼女はそれを捨てたのである。しかし未だその魔法の力に対して未練を引き摺っていることも事実である。マーガレットと占星術との関係はアンビバレントに満ちている。
「だから、そんな私が出来るアドバイスがあるとするなら、こうね。占星術を信じて最初の説を取るか、それとも探偵としての論理的推測を取るか。そのどちらかよ」
「何だか僕の肩書を否定されているようだ」
飴野が密かに名乗っている占星術探偵という肩書きを。
「あなたは二択を迫られているのよ。別の解釈に逃げるのは絶対にいけない」
「想定外の回答だね。つまり、若菜氏は小島獅子央だと思うのなら、もういっそ占星術のほうを捨ててしまえと?」
「そう。現実に寄せて、その冥王星を別のふうに解釈していくのは違うと思うのよ」
「残念だけど、もう既にその禁を犯している。占星術で導き出した推理と、探偵として導き出した推理、そのどちらにも矛盾を来たさない第三の推理。それを聞いてもらいたかったのだけどね」
「そうでしょうね。まあ、聞くけど。あなたは未熟な占星術師であり、そして未熟な探偵だから」
38―18)
「若菜氏が小島獅子央だったならば、彼は失踪を決意する以前から、あることで悩んでいたはずだ。彼はずっと二択に迫られていたわけだよ。つまり、佐倉さんとの結婚生活を取るか、それとも文筆家としての栄光を取るか。文筆家としての栄光とは、アルファ教団の聖典、『文学とアナルオーガズム』を書いたのは俺だという告白を、世間に向かって試みようという誘惑」
「それが栄光なの?」
「当初は違ったと思う。小島獅子央にとって『文学とアナルオーガズム』という書物は、若書きの、修作とまでは言わないまでも、若い時期に何となく書けた本でしかなくて、いずれそれを超える作品を書き上げて、それで華々しく世に出るつもりだったに違いなくて。でもそれは叶わず、書ける作品は全て『文学とアナルオーガズム』の続編か亜流だけだった。あるとき、彼は断念した。『もう、いいや、この作品の功績だけで』って。でもそれで充分じゃないか、いったいあの本はどれだけの影響力を持ったことか」
「あなたらしくないわ。自分に都合の良い設定を勝手に拵えているようにしか思えないのだけど。だって小島獅子央が若菜さんだったならば、まだまだ若い男性なんじゃないの? 三十代かそれくらいでしょ?」
「そうだよ、でも彼は諦めた。何か事情があったんじゃないかな。その栄光を一刻も早く得たくなった事情。もちろん、直接的な理由は佐倉さんとの諍いだ。佐倉さんは若菜氏のことをアルファ教団の会員だと勘違いして、それに怒った。その原因を作ったのはこの山吹美香という女なのだけど」
「え? 何か言いました?」と山吹は顔を上げる。もう二人の会話に興味を失くして、どこか別の場所に、彼女の意識は飛んでいたよう。しかしこれをきっかけに戻ってきてしまうのだけど。
「浮気を疑っていた佐倉さんは、山吹にけしかけられて探偵を雇うことにした。その探偵があの木皿儀だ。彼は若菜氏がアルファ教団に通っているという報告を上げた。佐倉さんはその報告に落胆して、怒りに捉われ、二人は諍いを始めた。その結果、若菜氏は彼女の許から去った。居場所を失い、仕事だって辞めて、彼は追い込まれるようにして、小島獅子央であることを告白せざるを得なったとも言えるのだけど、しかし依然より、その誘惑に駆られていたと思う」
「その根拠は?」
「さあね」
「駄目じゃない、まだまだ生煮えの推理ね」
「例えば若菜さんには、こんな選択肢もあったんだ。『俺はアルファ教団の会員ではなくて、俺の生み出した思想をあの教団に貸しただけ』。その事実を佐倉さんにだけ打ち明けるという選択肢。それを聞いて彼女の怒りが宥められるのかどうかわからないのだけど、いや、彼女は今、必死に彼を探しているのだから、時間さえ置けば二人は元の鞘に収まることが出来た」
「そうかもね」
「しかし若菜氏はそうではなくて、その事実を世間に公表することにした。以前から、彼は迷っていたに違いない。ずっと逡巡していたんだ。この諍いをきっかけに、ついに決断した。もう、小島獅子央として生きよう、そういう決断。それがこの失踪の真相。いや、実際にはまだ告白にまで至っていないのだけど」
「あなたの推理が正しければ、いずれそれをすると?」
「そう、その日は近い、はずだ。佐倉さんの結婚生活よりも、文筆家としての栄光を取ることにした。世間から一目置かれたいという願望。会員たちから尊敬を得たいという欲望」
「私、思い当たる節があります!」
山吹が声を上げるのである。なぜ彼女がここに居たのか、それには理由があった。何も勝手にキャラクターが動いたのではない。作者の意図の下、彼女はこの場面での発言を請われていたからである。
「若菜さんのお母さんが倒れたらしいんです。病気です、詳しいことはわかりませんけど」
「亡くなる前に、親に自慢したかったと?」
「はい、そんな感じかなあって」
「孫の顔よりも、その名声が親孝行になるのかしら?」
「お孫さんなら、けっこういるはずです、若菜さんには兄弟がいるから。でも、変な本ですけど、作家として有名になったよという報告はそうそう起こることではないじゃないですか」
「それかもしれない」
「え? それかしら」
「それですよ、きっと」
「そう解釈すると、占星術との矛盾も解消される。三年前の冥王星からの自己変革の圧力はこれだったという解釈」
「本気で言ってるの、あなた?」
「飴野探偵、完璧にこの事件を解決なされたじゃないですか!」