29)ロキの世界「シャーロック・ホームズ型の探偵とフィリップ・マーロウ型の探偵」

文字数 19,814文字

29ー1)

 占星術探偵シリーズはその作品ごとに一つの惑星や星座にスポットを当てるようにしたつもりである。
 探偵飴野とマーガレットとの間でちょうど冥王星の話題が出たりしたが、シリーズ一作目「占星術探偵対アルファ教団」ではそれが「冥王星」ということになるだろうか。
 この惑星は、「変容」、「破壊と再生」などを象徴する惑星らしい。そこから波及して、「無限」とか「死」、「死後の世界」、「オカルト」なども象徴する。
 失踪者の若菜氏の出生時のホロスコープとトランジットのチャートを重ねてみると、ある時期、冥王星がとても目立った動きを見せていることに気づいた。
 占星術探偵飴野はそれを見て、若菜氏はその時期、自己啓発セミナーのようなものと関係を持ったのではないかと推測する。
 冥王星が持つ「破壊と再生」、「変容」など、まさに自己啓発的ではないか。
 とはいえ、冥王星が象徴するものとはどのようなものか、占いは曖昧だから様々に解釈出来たりする。飴野は何も確信に至っていない。彼は今、全てを疑うタームにいるのだ。

 そんなことはいいとして、ところで冥王星。
 この惑星は占星術的に扱いにくい惑星に違いない。この話題は作品とはそこまで関係のしない、占星術的についての雑学のようなものなのだけど、なかなかに占星術的に興味深い話題であるから少し言及したいことがある。
 2006年、冥王星は惑星ではないと決議された。そのサイズ、軌道の不安定さを理由として、惑星の定義から外されたのである。
 それを決めたのは当然のこと占星術師たちではない。彼らよりも真っ当で由緒正しき者たち、表の世界にいる科学者だ。つまり天文学者。彼らによってその断は下された。
 これまで冥王星は主要な惑星の一つとして、占星術の中で大々的に取り扱われていたわけであるから、占星術師たちは大変に困ったに違いないと思う。「降格した惑星」というのは占星術の歴史上、初めてのはず。
 とはいえ、それに対して占星術がどのような反応を示したのかよく知らない。きっと、占星術師たちそれぞれで違っていて、何か一致した公式の見解などは存在しないに違いない。
 科学の世界は科学、占いの世界は占いだとばかりに、これまで通り主要な惑星として重視する占星術師がいたり、あるいは惑星から降格したので、ホロスコープから除外するという占星術師もいたりするのだろうか。
 いったい何が正解なのか。私も占星術を取り扱う一介の占星術愛好家として、この冥王星降格事件について何らかの回答を示すべきだろう。というわけで、それが以下の意見。

 冥王星が惑星であった時期は1930年から2006年までということになる。たった76年である。
 例えばこの時期だけ、占星術的に特別な時代だったという解釈出来るのではないか。つまり、この時期に生まれた者たちは惑星を余計に一つ多く持つ世代。
 もちろん逆も成り立つのだけど。2006年以降に生まれた人間は冥王星を持たない特別な者たちだと。
 いや、実は彼らのほうが多数派だ。冥王星の発見以前に生まれた者たちだって、その惑星を持たないわけである。
 占星術にそのような事例は数多い。天王星や海王星だって占星術の歴史の初めから存在していたわけではない。その二つの惑星も途中から登場した。
 天王星は1781年。海王星は1846年。土星よりも遠い場所に位置する惑星は科学の発達、望遠鏡の進歩によって発見されるのが普通である。だから天王星や海王星を持たない世代も大勢いるわけだ。
 とはいえ、重要なのはそちらではない。惑星という扱いを受けていたのに、突如、その地位から降格させられたということのほうである。
 おそらく冥王星だけが降格という憂き目に見舞われた天体。その事実を重要視したい。



29―2)

 2006年に冥王星は惑星というポジションから陥落した。それは占星術的にも無視出来ない出来事だとすると、それによって世界全体がちょっとした変貌を遂げたという説を唱えることも可能なのではないか。
 何せ一つの惑星がその威力を失ったのだ。少なくともムードくらいは変わった。いや、その程度ではない、何ならば一つの観念とか価値感が消えたという説だ。
 無限、死、死後の世界、オカルト、破壊と再生、一般的に冥王星の象意とされるものに、このようなものが挙げられるのだけど、ならばそれらの価値観に関連する事象において、何らかの変貌が起きたというのが一般解釈となろう。
 果たして変化は起きたのだろうか? これについて何か気の利いたことを思いつくことは出来ない。
 しかし冥王星の象意の中に「反抗」もあるようだ。それに飛びついたら、ちょっと興味深い説を唱えることが出来る。

 冥王星が惑星であった時期、1930年から2006年までは存在していて、それ以降、きれいさっぱりと消え去ったとは到底言い切れないが、弱まったように思えるものとして「反抗」というのはどうだろうかという説である。
 それは占いの知識が生半可にあり、その一方でビートルズの評伝か、ロック年代記を書こうなどと志している私ならではというか、むしろ自分が興味を持っている二つを安易に結び付けたがゆえの思い付きに過ぎないとも言えるが、しかしちょうどその時期、ロックミュージックがその力を喪失した時期とも重なることは事実。

 ある時期までの世界に、「反抗」は氾濫していたと思う。ロックが反体制の音楽だということは言うまでもない。文学で言えばビートニク運動など。それから学園紛争。全共闘世代の反抗。68年革命。
 しかしそれらに共感する姿勢すら、この世界から消え去ったのが昨今の事情。それが最もわかりやすく現れているのが音楽シーンである。
 ロックというジャンルが消え、ポップミュージックだけになったのが今の現状。それは冥王星が力を失ったことが原因なのではないか、そんなことを言ってみたいのである。

 冥王星と似ている象意を持つ惑星に火星がある。火星は戦いの惑星である。
 しかし火星の戦いは、相手を殲滅せんとすると戦いである。戦争であり暴動。殺し。武器。炎。反抗とは違う。似ているようで大きく違う。
 火星は主要な惑星だ。水星や金星と共に未来永劫あり続けるだろう。だから戦争も暴力的な組織も、この世界から未来永劫なくなりはしない。
 一方の冥王星、その象意である「反抗」は、「戦い」の気配をまとってはいるが、しかし火星的な戦いとは違う。例えば戦うとしても、相手を殲滅したりしない戦い。
 冥王星の戦いは戦いのための戦い、意思表示としての戦いなのだ。つまり、反抗。殲滅や殺戮が目的の戦いでは決してないということ。

 それは冥王星が反抗していた対象が、決して殺すわけにはいかない相手だからに違いない。
 冥王星が反抗していた対象、それは国でも政府でもない。何ならば古い価値観とか資本主義とか軍国主義の名残りとか、漠然としているものですらないだろう。
 そのようなものが相手ならば、躊躇なく殲滅すればいいはずだ。しかしその冥王星はそれを望んでいない。
 冥王星が反抗していたのは何か? 例えば「親」だったというのはどうだろうか。
 象徴的に殺すべきであったとしても、実際に殺すわけには、絶対に、いかない相手。
 その仮説は占星術が旧来から唱えていた冥王星のイメージにも近づいていくと思う。占星術の教科書に書かれていること、冥王星は「腐敗した父」という象意も示す。

 実際、学生運動はただ反抗ごっこをしていただけで、何の果実も生み出さず、特段の変革をもたらすことなく、挫折して終わった、などという意見もあるらしい。
 あのとき、いきり立っていた学生たちは挫折のあと、呆気なく社会の成員になり、社会の歯車として働き始める。その姿は無様だと批判にさらされ、冷笑に見舞われるわけであるが。
 しかし冥王星の存在していた世界においては、そのような「反抗」そのものにも十分な意味や意義があったに違いない。たとえ何の成果も変革も得ることの出来なかった行動であったとしても。
 今、それに意味や意義を見い出すことが出来なくなったのは、時代が変わったからである。あの時代だけの価値感や雰囲気が存在していたのだ。堂々とそうやって回答すべきであろう。
 一方、占星術師だってそれに回答するのである。しかし彼らはこう答える。冥王星が消えたから、だと。
 冥王星が力を弱めたから、かつて人類が共有していた一つの観念、つまり「反抗」も存在感を失くしたのだという説。

 冥王星なき世界では反抗が消えて、怒りや苛立ちはもう容易に昇華され難くなったに違いない。その結果、鬱病だ。その厄介な病気が世界を覆い始めた。
 昇華されることのなくなった怒りや苛立ちという感情は、自身を苛む鬱病へ変わったというわけだ。
 冥王星がなくなった今、地球から最も遠いところに位置する惑星は海王星である。
 ドロップアウトした人たちは今、冥王星ではなく海王星的なもののお世話となっている。つまり、煙草やケンカ、暴走行為に代わって薬だ。
 不良は消えてメンヘラが現れたというわけである。



29ー3)

 ロックの話題が出たから、せっかくだから20世紀の主役だった、あのロックバンドに言及したい。つまり、ビートルズであるが。
 ビートルズに「cry baby cry」という曲がある。ホワイトアルバムという二枚組アルバムの二枚目のB面の最後から二番目か三番目の、どちらかと言えば地味な部類の曲なのだけど、そこにロックにとっての反抗とは何だったのか、見事に歌い切ったと思われる一節がある。
 「赤子よ、泣きわめけ、母親にため息をつかせてやるのだ、彼女は分別があるからわかってくれるさ」というサビのフレーズ。
 騒いで迷惑を掛けろ、それでも相手はその職分ゆえ、君の気持ちを理解してくれるだろう、とでも解釈出来るだろうか。反抗する側のその反抗対象への甘え振りを揶揄した歌詞と言えると思う。
 ジョン・レノンはその内部に居ながら、ロックの一つの側面を冷静に見極めていたわけだ。ロックの反抗なんてその程度のものであったというアイロニーだ。
 もう今の時代においては、ポーズだけの反抗は相手にされない。ロックの一つの側面は通用しなくなった。
 それもこれも冥王星が消えたからだ。その惑星が降格して、人々の価値観が激変したから。
 私は占星術探偵シリーズの作者としてそんな仮説を唱えてみたいのだけど、冥王星=反抗という話題はもうこれくらいにして。

 いや、もう少し冥王星の話題は続いてしまう。ホラーというジャンルも冥王星的象意に満ちていると言える。
 何せ冥王星が象徴するのは何度か繰り返しているように無限、死、死後の世界、オカルトなのである。まさにホラーそのものではないか。
 だとすれば、そのジャンルもまた2006年を境に変化を余儀なくされたと言えるが、果たしてどうだろうか。
 しかしそれに何か決定的な変貌が起きた気配はない。例えばもう世間がそのようなジャンルに興味を失くしたなんてことはないようだ。
 ということはホラーは冥王星的ではないということか。それとも知らない間に、実は大きな変質が起きていたりするのだろうか。
 やはり、ホラーも冥王星的ではなくなり、海王星的なものに成り果てているとか? 

 まあ、そもそもの前提として、惑星の振る舞いが我々の人生や感性に何か影響を及ぼすわけはないのだけど。
 それらは占星術ワールドの中のお話しに過ぎず、冥王星が降格しようがどうなろうが何の影響もないというのが、その疑問の答えということになる。
 しかしそんなことを言えば元も子もなくなり、先程のロックと抵抗を冥王星で繋げた論理も全て消えてしまう。
 いや、それでも何の問題もない。私は別に困ることもないし、虚しさを感じたりすることだって一切ない。
 冥王星も海王星も我々の人生とは何の関係ない。改めてそう言いたいくらいである。
 むしろ、ロックについて語るときに、そこに占星術などを絡めたことに何か恥ずかしさや、後悔の意識すら感じたりもする。
 しかも更にあの大切なビートルズまで持ち出してしまったりもした。よくもわからない学生運動なんてことも話題にしてしまった。全てが自己嫌悪の材料である。
 占星術にはそういう危険がある。ひとたび、それを持ち出してしまうと気が大きくなってしまうというか、飛躍とか暴論に甘くなるというか。
 それと親しむのは小説の中だけにするべきだ。占星術とじかに触れるべきではない。そのときは絶対に登場人物を介する必要がある。
 つまり、奇矯で突飛な意見は小説内の登場人物に言わせるというわけである。逆に言えば、それが小説を書くということの効用でもあるだろうか。
 小説の中で好きなだけ危険な思想や陰謀論の類などと親めばいい。だって小説の中でならば、それに対する反論や違和感だって同時に語ることも出来るし。



29―4)

 さて、自作の読み返し作業を一休みして、私はキーボードの上で手を彷徨わせながら、何となく冥王星などについて考えていたわけであるが、更に私の思考の対象はそこから飛んでホラーという小説のジャンルに移っていく。
 梨阿という弟子が誕生して、彼女がホラー小説などを書きたいと言い出した。それがきっかけで私もそのジャンルに妙に感心を寄せるようになった。何ならば、私もそれを書いてみようかと頭の中を整理してみた。
 いくつかホラー小説として通用しそうなアイデアが机の引き出しのどこかに眠っているはずだったのだ。
 これは良い機会だとばかり、私はけっこう本気でそのジャンルと向き合おうとしてみたのである。

 しかしその作業は呆気なく挫折したと言えそうである。取り立てて素晴らしいアイデアなんて、私のノートのどこにも書き記されていなかった様子。
 それは確かに、全くないわけではない。ミステリーとホラーは近接していて、「占星術探偵」シリーズを書く途上、ホラーというジャンルでも通用するかもしれないアイデアをいくつか思いついた記憶があって。
 なくはなかったのだけど、つまり驚嘆すべきアイデアなどなかったということである。少なくとも弟子の梨阿を感動させることが出来そうな、即座に作品として結晶しそうなアイデアは。
 もし私がホラー小説を書くとしても、けっこう時間が掛かりそうである。それならば、これまで通りミステリーを描いているほうがいい。

 その代わり、ホラーというジャンルはどのようなものなのか考えたりしている。自分流のホラー小説が書けない代わり、弟子の梨阿に何か講釈でも垂れようとばかりに。
 ホラーというジャンル。端的にそれは、読者に恐怖を抱かせることを目的とする小説だろう。
 こんなことは当たり前過ぎるくらい当たり前のことであるが、考えるというのは当たり前のことを言葉にする作業のことだと思うので、私は淡々とそれを続ける。
 ホラー小説は読者に恐怖を抱かせるのが目的で、その手段として、しばしば超自然的なものが登場してくる。
 超自然的なもの、つまり亡霊、幽霊、悪霊、怨霊。その文字を書いているだけで背筋が寒くなってしまいそうなのであるが更に続けると、死んでしまったのに動き回る死者とか、恨みを抱いたまま死んだので、死んでも呪い続けてくる死者とか、自分の死を自覚出来ていないので出没する死者とか、あるいは妖怪。化け物。モンスター。人類の壊滅を企む宇宙人。

 しかしこれら超自然的なものが登場してくるだけで、それらの作品をホラーというジャンルにカテゴライズしてしまうのは間違いではないかと思う。
 確かに現実にそれらの者たちが存在して、我々に脅威を与えるような行動に出てこようものならば、そんなこと言うまでもなく恐くて仕方ないわけであるが、しかしそれは現実の人生で起きた場合のこと。
 小説というフィクションの世界において、超自然的なものが存在しているだけでは、恐怖の対象になったりはしないだろう。
 当初、我々を怖がらせた宇宙からの侵略者たちは、やがて登場人物一覧に組み込まれて処理されてしまう。すると、ホラーは消える。
 亡霊だってそうなのだ。その出現が当たり前になれば、自然現象と変わらないものになる。そもそも小説に出てくる妖怪やモンスターはしばしば擬人化されているものだ。対話可能な彼らにどんな恐怖を抱けるというのか。
 超自然的なモノが出てくるだけではホラー足り得ない。そのような作品はファンタジー小説とかオカルト小説と定義して、ホラー小説と厳然と区別するべきだ。



29―5)

 ホラーとは何なのか、その話題を続ける。その近接にサスペンスというジャンルもある。読者の恐怖を刺激することを目的とする。ホラーと極めて近いジャンル。
 しかしサスペンスとはシチュエーションのことではないだろうか。その状況を脱することが出来れば、恐怖そのものは消え去っていく。
 例えば高い場所に宙吊りにされたり、チェインソーを持った殺人鬼に追いかけ回されたり。
 その状況を前に読者はハラハラドキドキするが、それは一時的な恐怖であり、主人公たちの努力や意志によって解決が可能である。
 むしろ鮮やかな解決が望まれるジャンルなのである。その解決に読者はカタルシスを感じる。それを含んだ上で、サスペンスは成り立っている。

 一方、ホラーはしばしば解決が不可能であり、その恐怖は一時的な状況ではなくて、死ぬまで永遠と続く呪いで、一度、そのホラー的事象に遭遇してしまうと、これまでの常識とか世界観とかは全て覆されたり、粉々になったり。
 そんなふうにホラーというジャンルを定義することが出来るのではないか。つまり、ホラーというのは読者の人生観そのものを変えてしまうようなジャンル。

 そのようなことを考えていたら、私の執筆意欲は恐るべき勢いで縮小していったわけである。自分の実力では手に余るジャンルと化してしまった気がしたのだ。
 私が戯れるのはミステリーとかハードボイルドだけにしておこう。今更、この恐るべきジャンルに手を出したりするのは間違いだ。
 それでも私がもしホラー小説を書くのならば、超自然的なものとは距離を測って、その気配だけを上手く利用して、つまり、超自然的なものを自明とする世界ではなくて、それがあるとも無いとも、どちらとも断定出来ない状態が延々と続く小説世界。
 心霊的現象、そんなものはないとも断言出来ない。日常の奥に、何か超自然的なものの存在が見え隠れしている気配もする。しかし絶対的にそれがあるとも言えない。
 というわけで私が書きたいホラー小説は、必然的に病んだ精神とか、心の病理とかに接近することになってしまうだろう。
 それがまた私を怖気つけているのである。狂気に近づくことが恐くて仕方ないのだ。
 自分自身がそれに取り込まれてしまうかもしれないという恐怖。常識とか世界観が覆されるどころか、健全な精神すら粉々にされそうで。

 いや、だからといってミステリーやその他のジャンルが健全なものだというわけでもないのだけど。
 何を書くにしてもそれが心の安寧をもたらすことがある一方、心を蝕む可能性だってあるだろう。
 別にジャンルなんて関係ない。ホラーを危険視するのは滑稽なことに違いない。むしろ、書きたいのに書けないことこそ、精神にとって最も危険な状況。書けるのならば、どんなものでも書いてしまえばいい。
 ホラーについて想いを馳せていたら、なぜかいつもの結論に帰着してしまった。とにかく書け! それこそ一刻も早く私がなさなければいけないこと。
 書いていさえすれば、健全かどうかはともかくとして、いつも通りの精神状態は維持出来る。
 書けないことこそが、精神にとって最も恐ろしいこと、それを前にすればホラーというジャンルの恐怖すら霞む。

 さて、ところで我が弟子、梨阿の安否が不明だった。ホラー作家になりたいという願望を口にしていた梨阿こそが、この私にホラーというジャンルの存在を強く印象づけた人物であるのに。
 彼女がいたからこそ、私はホラーというジャンルについて考えたりしたわけであるが、その梨阿からの連絡がここ数日、パタッと途切れたのである。
 放課後に私の事務所に立ち寄って来ることがなくなっただけでなく、ここ数日はSNSからも気配が消えた。
 何か彼女に嫌われるような失言なり行動をしでかしたのかと我が身を振り返りもしたが、心当たりがないと言えばなく、あるのかもしれないと思えば幾つか数えることが出来て、つまり何もわからないということである。
 確かに梨阿はもう、小説なんて書きたくないという言葉を口にしていた記憶はある。執筆に対する情熱自体を失ってしまったという可能性は強い。
 私たちの師弟関係の破綻は、確かにほのめかされていた。それでもSNSが何ら更新されなくなったのは異様なことだ。
 梨阿が立ち去ったのだとしたら、イズンをはじめ、私の許から立て続けに女性たちが消えたことになり、それは心寂しい事態で、きっと次は佐々木が消えて、大野さんが消えるに違いない。そんな不安すら過ぎる。
 それもこれも私が書けないせいだと思ったりもするが、しかしそれは検討外れで、書けようが書けまいがそんなものは関係なく、ただ単に人々が去っていくのは私の人間的魅力の不足によるだろう。
 書き始めることが出来れば人生の全ての諸問題が解決するというのがとんでもない誤解。



29―6)

 しかしその深夜、梨阿からメールが来たのだった。
 丁度折良く彼女の様子を心配し始めたタイミングではない。気に掛り出したのはもっと前からだから、彼女の連絡は遅過ぎだと言えるのだけど、とにかく届いたこのメールを前にして私は胸を撫で下ろす。
 彼女から来たそのメールには、わざわざタイトルがついてあった。何と、「『死』について」だ。
 彼女が安否不明であったことにそれなりに気を掛けていた私であったが、その意味ありげなタイトルに鼻白み、溜め息をつき、今夜は読まずに無視してやろうかと迷ったりする。
 しかし時計は四時前、まだ眠る時間には早くて、きっと彼女も私が起きていることを見越した上でこのメールを送信してきたに違いなく、寝たふりや気づかなかったふりは不誠実であることは明らかであった。とはいえ、素直に読む気にもなれない。

 こんなことを正直に告白するのはどうかと思うのだけど、この数日の梨阿の音信不通の状態に、私は何か策略めいたものを感じてもいたのだ。
 彼女が長く沈黙していたのは、実は嫉妬をしていて、不機嫌になっていて、私に対して大いなる不満を抱いているからではないか。
 もっと具体的に言うとイズンの存在である。私がその女性に夢中になって、いや、そのような事実はないのだけど、梨阿がそう勘違いをしているということであるが、彼女はそれに苛立っていたという推測。
 何を自惚れているのだ嘲笑われるかもしれないので、そんなことを本気で考えていたわけでもないことを急いで付け加えておこう。
 可能性の一つとして考慮していただけ。それが小説を生業にする者とか、物語を愛好する者の悪癖であるのだから、軽蔑しないでもらいたい。
 彼女には交際相手がいて、私の知らない生活があり、そこで何かトラブルがあって、しょげ込んでいたりとか、そのようなことも考えていたのである。
 もちろん病気説なども頭を過ぎった。本当に小説を書く気がなくなったのかもしれない。様々な可能性を考えたうちの一つである。
 しかしこのようなメールが深夜に来て、嫉妬説に強い信憑性を感じたくもなったのだけど。

 「死」だって? 何とも意味ありげなタイトルではないか。
 もし「死にたい」なんてタイトルのメールが来たのならば、私は憤っても問題ないのかもしれない。
 何ならば読まずに放っておくことだって許される。すぐさま反応しろと言わんばかりの圧力漲るタイトル。誰もそんなメールに慌てて反応したくないだろう。
 実際は、「死について」なのだ。これはもしかしたら「死」というタイトルの小説の草稿で、実はこの間、彼女は一心不乱に作品を書いていたのかもしれないではないか。弟子が書いてきたのならば、それを読むのは師の義務。
 いや、しかし小説の草稿ならば、尚更すぐに目を通す必要はないだろう。
 私たちはどんな締め切りにも追われていない。梨阿は私の感想を待ち侘びているに違いないが、生徒のそのような要望に迅速に応えるのが別に教師の役割りではないだろう。しばらく放置しておいても問題ない。

 というわけで、すぐに読むべきか、明日に回すべきか私はしばし逡巡したわけである。
 まあ、しかし結局それを開いたわけであるが。何か少しでも気に掛かることはさっさと迅速に解決して、意識の外に追いやりたい性格なのだ。
 私はメールを開ける。ここ最近、タチの悪い悪霊たちに祟られていて、それが理由で会えなかったという詫びから始まっていた。
 タチの悪い悪霊だって? 当然、そのフレーズに引っ掛かるが、先に進む。
 今さっきも、梨阿はとんでもない悪夢を見た、らしい。

 「自分の家で迷子になって、何度も同じところをグルグルと回って。全身汗がダラダラで。私は多分夢の中で何か探していたと思う。本当に焦りまくってて」

 そして扉が現れた、らしい。

 「自分の家の中にあるはずのない扉が。もちろん夢の中の私はそれを開けたわけ。その扉の向こうに誰かいた。でも誰かわからなくて」

 何度も続けて同じような悪夢を見たという。だから今でも夢の中にいるのか、目覚めた世界にいるのかわからない。
 そのメールを送っている私は目覚めているのか、夢の中にいるのか、それを受け取ったロキ先生は夢の中の先生なのか、起きている世界の先生なのか・・・。

 梨阿からのメールの内容は、私の想像の範囲外であった。まさか悪霊とか悪夢に悩んでいたとは。
 そうは言っても、内容自体は驚くようなものでもないが。霊感少女を自認している彼女らしい内容だ。
 驚くことがあるとすれば、やはりそのタイトルのつけ方だろうか。だってこの内容ならば、「夢」とか「悪夢」についてというタイトルのほうが相応しいはずである。あるいは「扉」だ。
 それなのに「死」である。別に直接、死を予感させるような内容ではない。彼女はこのタイトルに何を込めたというのか。
 いや、実際のところ死の気配がないわけではない。あらゆる恐怖の源には死があるのは当然だ。そして彼女が何かに追い掛けられているとすれば、それはきっと死に追いかけられているはずで。



29―7)

 もちろん、私は梨阿に連絡を入れた。こんなメールを読んですら、返事を返すかどうかで悩むほど冷たい人間でもない。
 彼女から即座に返事が来た。恐い夢を見たことは確かである。しかしその夢を正確に思い出すことは出来なくて、メールに書いた内容は適当な作り事も混じっていて、それを全て真に受けるな。

——そんなことより、やっぱりこんな時間でも起きてるんだね。

 梨阿は電子メールではなくて、メッセージアプリに切り替え、そう語りかけてきた。

——ある意味、半分寝ていたことは事実だけどね。夜中零時を回った時点で、ありとあらゆる外部からの情報をシャットアウトするのが自分の中のルールなのさ。

 私はそう返事を返す。

——仕事の連絡とかも? 

——むしろ仕事面で、だよ。別に緊急を要する仕事なんてないし。それどころか友人からのコンタクトだって無視する。深夜、この自分しか世界に存在していないっていう時間を送りたいんだ。この時間に本を読んだり映画を観たりするから。

——私はそれを邪魔したってことね。

——その通りだけど、まあ、いいよ。度々、何者かに邪魔されるから。完全に静かな独りだけの夜なんてそうは実現しない。

 子供は自分の時間なんて重視しない。いつだって独りになるのが怖い、それが子供というものだと思う。怖い夢を見たときは親のベッドにもぐりこんだり、一緒に寝てくれとせがむのだ。
 一方、思春期の青年というものは、一人きりの時間を何より重視する生き物ではないだろうか。一人の時間で、自分の将来に悩んだり、異性のことを想ったり。
 そしてそこから脱皮して、その自分だけの時間の中に、再び家族や仕事を受け入れられるようになることが、ある種、大人になるということであると思ったりするのである。
 つまり、自分一人の時間を断念して、誰かのため、社会のために譲り渡すのだ。

 梨阿は私のその考えにピンとこないのか、芳しい返事を送ってこない。悪夢を怖がる自分を子供扱いされたと思ったのかもしれない。
 しかしその事実に不服そうでありながら、まだ眠れそうにないからもう少し相手をしてくれと書いて送ってくる。
 眠れそうにないから相手してくれだって? 
 それはこれまでの彼女が発することのないようなフレーズだった。彼女はこれまで私に対して甘えてきたり頼ってきたりすることはなかった。それなのに私のほうにもたれかかってきた。

——まだ眠る時間ではないでしょ? 何か面白いことを話してよ? 

 梨阿がそんなことを書き送ってくる。
 彼女にも言った通り、その深夜の静かな時間、一人で本を読んでいたのである。梨阿の相手をするということは、その読書を中断するということだ。
 本なんて四六時中読んでいるではないかと思われるかもしれないけれど、日中に読む本と深夜に読む本を選り分けている。
 日中は資料とか情報を読む込むための読書。深夜はもっと私的な読書だ。だから深夜の読書はより趣味性が高く、掛け替えのない時間なのであるが。
 とはいえ、たかが読書であることも事実だ。梨阿が頼ってきているのに、その手を振り切る根拠としては少し弱い。

——わかった、ちょっとくらいなら相手をするけど。面白い話しをしろなんて、それは要求のハードルが高過ぎはしないか? 

——そう? 

——君が聞きたいことに答えるよ、何か話題を提供してくれ。

——私のほうは面白いことが一切浮かばない気分で。心が重くて、頭もボーッとしていて。何でもいいよ、適当な世間話しで。

 適当な世間話しなど、私が最も不得意な分野である。いや、それは得意にしている人など少ないのではないだろうか。
 これから先、小説を書き進める心積もりはあるのか、彼女に聞いておくべきことかもしれない。彼女に書く気があるからこそ、師匠と弟子という関係が成り立つのである。その気がなければ私たちの関係は無でしかない。
 しかしそれを尋ねるのも、何か気が進まなかった。

——何がいいだろうか? 

——何でもいいよ。

 さっきまで読んでいた本は、古本屋で見つけた「チャンドラー読本」というムック本と呼べばいいのか、雑誌と呼べばいいのかわからないが、そんな小冊子。私は名残り惜し気にその本の表紙を眺めていたのだけど、ふと思いついた話題がある。
 大きく分けて探偵小説には二種類あるというという話し。つまり、シャーロック・ホームズ型とフィリップ・マーロウ型である。
 果たして梨阿のような一般人というか、さしてミステリーに興味もない人物はそのようなことを把握しているのだろうか。そんな疑問をふと感じたことがあった。
 そのような本当にどうでもいいことについて話して、彼女の眠りが来るのを待つことにしよう。



29―8)

——シャーロック・ホームズ型は推理する探偵で、一方のフィリップ・マーロウは行動する探偵という分け方が出来るだろうか。あえて言語化すると、何か違和感を覚えるけどね。もちろん、ホームズだって行動するし、マーロウだって推理するからね。しかし読み比べてみたら、作品の質の違いは明らかだ。

 私はこの話題で別に梨阿を楽しませる気なんてない。彼女だってそんなものを期待していてはいないはずだ。
 それを期待をしているのであれば、彼女はとんでもない勘違いをしていると言えて、私は梨阿に呆れるだけ。
 彼女は眠れないらしい。夜が怖いらしい。夜明けまでどうやって過ごせばいいのかわからないらしい。
 私の任務はその時間を適当な言葉で埋めることだけで、彼女を楽しませることではない。
 まあ、彼女がこの会話に興味を抱いてくれるのであればそれはそれで嬉しいことではあるけど。
というわけで、二種類の探偵についての解説だ。

——ホームズ型とマーロウ型の違い。まずわかりやすいところから言うと、その作品にトリックがあるかどうかが違う。前者にはトリックがあって、後者にはない。

 いや、そんなふうに言い切ることは出来ないのだろうけれど、単純化させるため、とりあえずそういうことにする。

——シャーロックホームズの小説はいくつか読んだと思う。面白かったかどうかは微妙だけど、読んだことは確か。ドラマでも観たし。でもフィリップ何とかは読んでない。読んでないどころか全然知らない。

——僕の作品がそっちのタイプなんだ。占星術探偵シリーズはフィリップ・マーロウ型、そのカテゴリーに入る。マーロウはハードボイルド系ミステリーに登場する代表的な探偵だ。

——ふーん。

——ホームズの作品に出てくる犯人たちはトリックを弄して、アリバイを作ったり、自分以外の誰かに上手く罪を擦りつけて、司法の目を逃れようとする。容疑者は複数現れて、真犯人はその中にはいるけれど、警察は別の人間に目星をつけている。犯人に上手く騙されているわけだ。しかしそのトリックを探偵だけが見破り、真犯人を挙げることに成功する。

——私のイメージするミステリー作品はそんな感じ。

——誰もが騙されている中、物語が始まったその最初の時点で、探偵だけは全てを見破っている。そのタイプの探偵はしばしば天才で変わり者、行動は奇矯で、周りとは違う動きをする。だいたいのところそんなキャラクターだ。変わり者だけど全知全能。その探偵に解決出来ない事件はない。

——どの探偵も天才的なの? 

——だいたいのところ、そうさ。一方、マーロウ型の探偵は凡人だ。というかリアリティのある人物。マーロウ型に出てくる犯人たちは意図的にトリックを弄したりしない。いや、トリックがないわけでもないだろうけど、トリックがメインのパズルのようなミステリーではない。事件は起きる。殺人事件よりも失踪が多いだろうか。そこには何もないから探偵は事件現場から出て、外に向かって行動せざる得ない。スタート地点には推理するだけの材料は不足している。

——探偵飴野林太郎もそうだと? 

 梨阿は私の小説の主人公の名前を挙げてくれる。それは有り難いような、どこか気恥ずかしいようなこと。あるいは一種のお世辞のようなものかもしれない。

——うん、彼は天才でもなければ、極端な変わり者でもないだろ? ひたすら街を歩いて、多くの人に会って協力を仰ぎ、その謎に肉薄しようとする。

——でも彼には占星術があるじゃない? 

——しかしそれが原因で間違って、迷って、行き詰って、逸脱して、時間を無駄にして、何とか事件を解決するにしても、その捜査に華麗さは一切ない。

 トリックを外から眺め、ときには真上から見下ろしている、それがホームズ型の探偵。神のように超越的なポジションにいる。
 一方、マーロウ型は謎の内部に入り込んで、探偵自身もそれに翻弄されて、心や肉体に傷やダメージを負ったりする。

——ふーん。

——ホームズは頭脳が売りで、マーロウは行動力、もしくはタフさが特徴だろうか。肉体的にも精神的にもタフ。それによって事件を解決する。それともう一つ、わかりやすい違いがある。小説ならではの違いが。

 さあ、ここで問題だ。梨阿、君にわかるだろうか。君も一応、小説を書こうと志しているのなら、これくらいわかって当然だ。
 なんて、相手の能力を試すようなクイズを出すタイプではない。彼女はそういうものを極端に毛嫌いそうでもある。
 私は即座に答えも同時に差し出す。



29―9)

——この二つの作品の違い、探偵小説の主人公である探偵自身が語り手か、それとも他に語り手がいるかどうか、その違いさ。ホームズは主人公だけど語り手ではない。その役目はワトソンっていう、これまた有名な登場人物がいて彼が務めている。

——ワトソン、知ってる。

——ホームズ作品はワトソンの視点を通して物語が語られる。その決まり事が破られることは絶対にない。ワトソンが見た物事、ワトソンが考えたことしか描かれない。読者はホームズの心の裡、内面には入り込めない、いや、そんなものはそもそも存在しないのかもしれないけど。

 ホームズはある意味、人間ではないのだろう。近代的な作品のキャラクターではないという意味において。

——小説において、そういう決まり事はけっこう重要で。視点を定めることによって、何が描けて何が描けないのか、作者自らが自分に対して強制的にルールを課すことで、逆に描きやすくなると言える。無限の自由が良い具合に制限されるからね。作品はキリっと締まるものだ。

 小説とは何かと偉そうに講釈を垂れている自分自身に、私は居心地の悪さのようなものを感じる。
 しかもそれは常識的な知識である。梨阿のような未成年が相手でしか感心させられないレベルの。まるで独自の切り口もない講義だ。
 しかし当たり前のことを考え直す作業において、ふと、何か新しいことに気づく場合もあるようだ。
 実際、今まさにそれが起きた。ホームズとは神話で描かれるような神だったわけか。私はそんなことに気づかされた。
 そしてワトソンは近代小説以降のリアリティのある登場人物で、異なる位相の存在が一つの作品に上手く同居していることが、あの作品の発明だったのかなど。

——一方、マーロウにはワトソンのような相棒はいない。つまり天才を引き立てる凡人役が存在しない。彼自身がそちら側の人物なんだ。そして物語は彼自身の視点で描かれている。彼は読者と同様に何も知らない。大いなる謎の前で悩み、迷いながら、徐々に真相に近づいていく。

——その人はワトソン役とホームズ役を一人で勤め上げているってこと? 

——それはどうだろうか、マーロウはその二人のどちらにも似てない。新しい第三の何かだろう。

 私自身の作品の話しをすれば、占星術探偵シリーズは完全に後者、つまりマーロウ型であることは先程も言及した。
 探偵は天才的な推理能力を有してはいないし、犯人たちは複雑怪奇なトリックを弄したりしない。そこにミステリーがあるのは、探偵が部外者で、何も知らないからだ。
 そもそもにおいて、真相なんてものは入り組んでいて複雑なものだと思う。複雑がゆえに、そこに謎のようなものが立ち上がってしまうだけ。何者かが、というかミステリーだからこの場合、犯人がであるが、意図して複雑にしているわけではない。
 とはいえ、占星術探偵にホームズ的な要素があることも事実だろう。
 特別な能力、占星術というガジェットが、きっとそれだ。飴野自身はホームズのような超越的なものを志向しているに違いない。それを使って、優位な立場に立ち、あらゆるものから先んじようとしている。本当は彼も天才探偵を気取りたいのだ。
 そうでありながらも、飴野はそれを果たすことが出来ていない。やはり、彼はホームズ型とマーロウ型の混合とは言えないはずで、カテゴリーにおいては絶対的に後者。マーロウ型なのである。私はそのつもりでしか書いていない。

——ホームズが誕生したのは1887年らしい。マーロウは1939年。つまり、ホームズは19世紀的な探偵で、マーロウは20世紀的な探偵って言えるのではないだろうか。

 この話題の最後に私はそんなことを付け加える。

——じゃあ、21世紀的な探偵は? 

——何だって? 

——19世紀タイプ、20世紀タイプの探偵小説があるわけでしょ? じゃあ、21世紀タイプの探偵小説はどんなの? 

——さあね、そんなことがわかっていれば自分で書いているだろう。そして21世紀的探偵とは何か、君に向かって偉そうに講義しているよ。

——飴野探偵は20世紀的ってこと? 

——そうなんだろうね、結局のところは。

——21世紀になって、もうけっこう経ってるけど、21世紀の探偵はどのような姿をしているのかまだ判明していないわけ? 

——多分ね。僕の知らないところで、それは既に描かれているのかもしれないけど。そうだとしても、まだ世間には流通していないだろう。



29―10)
 
 私たちは「探偵小説」と呼んでいるが、探偵が登場することがそのジャンルを規定しているわけではない。
 警察だろうが、無職だろうが、学生だろうが、主婦であろうが、その登場人物が探偵のように推理して行動するのであれば、それは探偵小説だ。
 いや、何か常用漢字の問題で探偵という言葉は使えなくなり、戦後、探偵小説という名称は消えたようだ。その結果、推理小説やミステリーに、そのジャンル名を変えたらしい。
 それはただの名称変更ではなくて、ジャンルの本質自体の変更も免れることが出来なかったに違いない。
 名称が変更された結果、そのジャンルにおいて、探偵という職業の者が活躍することはめっきり減った。

 そもそも現在の我々の日常生活で、探偵たちが活躍している様子を目撃する機会なんてないと思う。
 確かに探偵はスパイと同様、この世界の裏側にいるのだから、極力目立つ事を控えているのかもしれないが、しかし当然、そんなことが理由ではなくて。
 探偵を職業としている人たちはたくさんいる。しかし現実の彼らは事件解決や社会の謎に立ち向かっているわけではなくて、精々のところ彼らが浮気調査やら身辺調査くらい。
 きっと、難事件を解決するのは警察の力で、社会の謎に立ち向かうのはジャーナリストで。
 しかしそれはおそらく19世紀でもそうであったはずだ。いつの時代でも探偵なんて、小説やフィクションの中でだけで活躍する架空の職業のようなもの。
 いや、それは職業ではなく称号のようなものなのかもしれない。
 21世紀の世の中に探偵は活躍していないが、それは別に21世紀的な探偵小説が存在しないことの根拠にはならないということだ。
 それだから、ホームズ型でもマーロウ型でもない、21世紀的な新しい探偵小説が書かれる可能性は、この先にだってあるということ。

——なあ、梨阿、まだ21世紀は始まったばかりだ。ホームズが誕生したのは1887年。その前身と言えるポーの作品だって1841年らしい。マーロウが1939年、その前身かもしれないダシールハメットの作品も1920年代だ。

 私はパソコンで検索して、正確な情報を提供する。一応、探偵小説的な作品を書いている作家であるが、今に至るまでこのようなことを考えてこなかったので、この検索結果に新鮮な驚きを感じる。

——まあ、もしくは探偵小説なんてジャンルはもう成熟し尽くして、その先に何の可能性もないかもしれないけれど。

——え? 21世紀的な新しい探偵小説を書くぞっていう野心なんて、先生にはないってこと? 

——残念ながら、そんなものはないね。

——とか言いながら、本当は自分の作品こそが21世紀の最先端って思っているんでしょ? 

——思ってない。だいたい最先端とやらを意識して、「占星術探偵シリーズ」を書いてはいない。そもそも21世紀的な探偵小説などというフレーズ自体、今、君とのやりとりで得た収穫さ。これまで一切、そのようなことを考えたことがないよ。

——そうなんだ、意外な感じがする。

——それはまあ、何か新しいものを目指してはいる。漠然とながらそういう意識はある。それは当たり前だけど、ジャンル自体を更新しようなんて野心は大き過ぎて手に余るね。

 その作品が本当に新しいものかどうかは、ずっと後になってから見い出されるものに違いない。リアルタイムではそんなことがわかったりしないはずだ。
 更に付け加えると、探偵像だけを刷新させても充分ではない。スタイルの問題、小説の語り口にも何か新しさが必須である。
 ホームズ型にはホームズ型の語り口があり、マーロウ型にもそれがあった。21世紀型の探偵にだってそれが必要なはずだ。私がそれを思いついていないのは明らか。

——自分に書けるものを淡々と書いていくしか方法はない。新しいものを書くぞという意気込みは、売れるものを書くという意気込みに似て、けっこう俗っぽい感情だと思う。その意識に囚われると、自分のペースを崩しもする。

——ふーん。



29―11)

 誰かが私たちのこのやりとりに立ち会っていたとしたら、その第三者もそろそろ飽きる頃合いではないだろうか。
 いや、そんな物好きな第三者がいたとしたら、そもそも最初から私たちのやりとりに面白さなど見い出してはいないのかもしれないが。そこに面白さがあったとすれば、その話題の内容ではなくて、私たちのぎこちないコミュニケーション振りだけで。

——寝る。

 梨阿は唐突に書き送ってくる。

——眠気がやってきた。その眠気に取り込まれそう。勘でわかるの、これはけっこう深いところからやってきた眠気だって。これから寝たら朝に起きれそうにないから、明日は学校を休むことにする。

——おやすみ。

 ようやく解放されたようである。私はホッとため息を漏らしもするが、途端に一人きりにされたような気にもなって、寂しさも感じなくはない。グッと掴まれていた腕を呆気なく離されたような感触だ。

——また悪夢を見たら、連絡するけど。

——僕もこれから眠るから、そのときは友達に頼ってくれ。僕の当番の時間は深夜から朝方だ。

——良かった、普通のサイクルで生活してない友人がいて。

 その言葉を最後に、梨阿の気配は私のパソコン上から消え去った。
 私も眠る時間だ。私は普段から眠たくなったら眠るとか、起きたくなったら起きるなんて、そのときのフィーリングに応じて生活などしていない。
 いつだって決まったスケジュールに従って、寝たり起きたりしている。いつもと同じ眠る時間が来たら眠る、それだけ。ちょうど今、その時間が来た。
 まず、パソコンのシャットダウンを命じる。眠る前、パソコンをシャットダウンさせるかスリープに留めるか、次の日の予定次第で決めることにしているが常に迷ってしまう。
 結局のところ、どちらでもいいという結論。しかし今日は、彼女とのコンタクトを断ち切るように電源を落とす。
 スマホだって機内モードにしてあるから、部屋の扉をノックしない限り、誰も私を煩わせるすことは出来ないだろう。これで誰にも邪魔されることなく、自分だけの時間を送ることが出来る。この場合、眠りの時間でしかないが。

 しかし当然のこと、目が冴えてしまっていて眠りは簡単にやって来そうになかった。脳はまだまだ梨阿宛ての言葉を探して激しく回転している。
 今、明け方の5時前だ。普段の5時とはまるで雰囲気が違う。むしろこれからいくらでも原稿が書けそうな感じのする5時の空気感だった。
 彼女とのやりとりがウォーミングアップになって、私は「書くモード」になってしまっている。
 とはいえ、書く気なんてない。
 自分の作品を読み返して、次の作品の構想を練るつもりだってない。寝る、それだけ。
 私はどんなことがあろうとスケジュール通りに生活したい。それこそが執筆を継続させる方法のはずであり。

 今は眠れそうにないのだけど、そうであってもいずれ速やかに眠りに入ることが出来る確信が私にはあった。
 もはや私の人生において、眠りと格闘する時期はとうに過ぎた。不眠は青年期に一時だけ患った症状に過ぎない。もうそれは、少し手を伸ばせば手繰り寄せられるものとなった。
 強力な睡眠薬を手に入られらたからではない。目を瞑って、あるイメージを頭の中で思い描いていると、いつの間にか眠れるようになったのである。
 そのイメージ、なぜだかわからないが、馬に乗って駆けているイメージ。
 全力で馬を走らせる。いはゆる駆け足だ。その風の中で前傾姿勢になって、油断をすると馬から放り投げ出されるんばかりに鞭を叩いて。
 蹄が大地を蹴るリズミカルな音が私を癒すのではないだろう。むしろ眼が冴えてしまいそうな激しい疾走感が、私の興奮を逆に沈めていく作用があるに違いない。
 砂浜を駆け、山道を駆け、草原を駆け、人混みの歩道を駆け、何ならば星空をも駆けて、やがて眠りに落ちていく。
 きっと誰もが、「自分を眠りに導くイメージ」なるものを持っているに違いないなんてことを思う。
 人によっては野球をしているイメージであるとか、ある楽器を弾いているイメージとか、料理をしているときのイメージとか。
 眠りに導くのはアルファー波だったろうか、だとすればそれを脳内に溢れさせることの出来るイメージ。
 十代や二十代のうちには見つけられないかもしれない、しかしある程度、年齢を重ねれば誰だって見い出せることが出来るもの。
 もしかしたら、それはある種、作家の特性なのかもしれないなんてことも思う。いつだって頭の中のイメージと戯れている仕事。いや、そんなこともないだろう。


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