第10話 夕焼け色の瞳
文字数 4,713文字
美星通り商店街の南。レトロな街並みが残るエリアに、こじんまりとした喫茶店がある。
名は〈ビアンカッタ〉。純喫茶然とした佇まいで、数名の常連客が朝夕に店主と語らうような憩いの場だ。
そんな店から年端も行かない少年が出てきたのを見かけたら、通行人は意外な目を向けるかもしれない。
「カフェオレ、美味しかったな!」
宙良は、ふふんと胸を張って言った。
未佳と宙良が訪れると、店主である伯父は快く迎えてくれた。しかし、お昼ご飯の前だろうと気を遣った彼は、頑としてプリンは提供してくれなかった。
代わりに出してくれたのがカフェオレだった。ほろ苦さが隅に残った優しい甘さで、もともとコーヒーが美味しい印象でやって来た未佳は満足していた。
一方、宙良は、そもそもカフェオレを飲んだことがなかった。いつも炭酸ジュースを飲んでいる少年は、最初は地味な見た目に不満そうだったが、飲んでみたら甘くて美味しい、しかもコーヒーを美味しく飲むことができてなんとなく大人になった気分なのか、総合的に気に入ったらしい。
後から出てきた未佳を振り返り、弟は得意げに言う。
「コーヒーを飲んだオレ、大人じゃん! ミルクを混ぜて飲むとか天才! 賢伯父さんが作るもの、全部うまいのかも!」
「そうかも。今度、プリンも食べてみたいな」
「プリンも超うまいよ!」
「私はコーヒーゼリーが気になるな」
伯父の店を褒めながら、二人は自然と帰路に着く。
未佳がスマートフォンを出して時間を見ると、十二時半を過ぎていた。
事前に母に、伯父の喫茶店に顔を出すことはメッセージで伝えておいたが、少し長居しすぎたかもしれない。お昼ご飯はうどんだと聞いていたし、早く帰らないと伸び切った麺を食べることになりそうだ。
マップアプリで地図を確認して、右手前の道を指差した。
「こっちに行ったら、駅の近くに出られそう」
「あ、そっちは人が多くて通りづらいから、隣の道がいいよ! 猫が集まる屋敷があるんだ」
「そう?」
宙良が周辺の事情に詳しいのは、伯父の店に遊びに行くことが多いからだろう。とはいえ、中には人気が少なくて物騒な道もあるだろうし、歩く通りには気をつけてほしいところだ。
弟に案内された道に入ると、真昼なのに穏やかな静けさに満ちていて、ちょっとした散歩にちょうどよさそうだった。
「猫屋敷は、あの角を曲がったとこだよ! あ……犬だ!」
宙良が指差した曲がり角に、犬の散歩をしているお婆さんが差し掛かるところだった。
動物が好きな弟の目が輝く。犬に触りたいんだろう。ちゃんと飼い主のお婆さんに挨拶をするように言わないと。
未佳は携帯電話をしまって、宙良に声を掛けようとした。
「こんにちは」
ふと、風が流れるように後ろから声がした。
肩越しに後ろを振り向くと、まばらな通りを背に、人が立っていた。
すらりとした背格好の成人男性だった。白いシャツは青空と相まって晴れやかで、首の後ろで結われた黒髪は風にそよぎ、尻尾のように揺れていた。
佇まいは風のようなのに、色白の綺麗な顔に浮かぶ笑みは空虚だった。爽やかで、でも何処か危うさもある謎めいた雰囲気は、多くの女性を魅了するだろう。
信じられないほど真っ赤な瞳に見据えられると、蛇に睨まれたように体が硬直した。
世界の終わりに見る夕焼けのような、不気味で、切ないほど美しい色。なんとなく、吸血鬼を連想した。
そうして黙りこくっている間に、急に宙良が遠ざかるのを感じて、未佳はばっと振り返った。
「えっ……宙良?」
男性から目線が外れる。
弟を追って歩き出そうとしたら、体がつんのめった。振り向くと、男性が手首を掴んでいた。
「待って。君に用がある」
「え、えっと……」
未佳が困って宙良の方を見ると、呼びかけられた弟はこちらを向いていた。
宙良は、姉と見知らぬ男性を見て——不思議そうに首を傾げ、前に向き直った。
「……!? 宙良!?」
今度こそ宙良は振り向きもせず、お婆さんと犬に駆け寄った。
気付いていないのは、彼だけじゃなかった。お婆さんも、正面で何か揉めているのは見えているはずがないのに、こちらを見向きもしない。
やがて、二人と一匹は和やかに話しながら曲がり角の先に消えた。
寒気が背中を這った。
(これって……)
「境界者 と会話していると不認知に巻き込まれるが、直接触れても同じ。君は今、誰からも忘れられている」
後ろから、男性の声が淡々と響いた。
やはりこの現象は、涼也と一緒にいる時に起きるもの。
家族にすら目の前で見えないものとされるのは、怖くて悲しかった。
「………………」
未佳は大きく深呼吸してから、手を掴んでいる男性を振り向いた。
彼は最初と変わらず、笑みを浮かべたまま立っていた。少女が落ち着くのを待っていたようだった。
「……貴方は? 用ってなんですか?」
ようやく冷静さを取り戻した未佳が問うと、彼はやっと手を離した。
「君を害するつもりはない」
「………………」
彼は終始、実に綺麗に笑っている。口角の角度、高さなどが計算尽くされたような笑みだ。まるで、ロボットが人間を安心させるために模倣しているようでもあった。
「僕は暁斗 。眠り花 の君と話したかった」
「……ドローズ?」
聞き慣れない言葉を問い返したが、男性——暁斗は答えなかった。
敵意も好意も感じない透明な瞳が、じっとこちらを見据えている。
「今朝から、君に接触しようとしていた。でも、傍にはずっと涼也がいたから」
「……涼也とは、会いたくないんですか?」
「僕は、この街にいるはずがない者だからだ」
他の境界者 に姿を見られるのは、何か都合が悪いようだ。彼といい涼也といい、彼らは総じて丁寧に説明をする気がない。
「君は、涼也と同じ学校?」
「はい」
「境界者 が見えるようになったのは、いつ頃?」
「ここ最近……一週間くらいです」
「面識がある人は?」
「涼也と、叶ちゃん……ですけど……」
一方的な質問攻めに答えながら、未佳の胸には不安が広がっていた。
境界者 のコミュニケーション能力が低いのは、涼也と叶を見て察してはいたが、あんまりだ。これじゃキャッチボールを楽しむ会話ではなく、警察の取り調べだ。
(話したかったって言ってたけど……)
まるで、こちらの言葉を封じているようだ。
そのまま続きそうな調査に、未佳は慌てて声を差し込んだ。
「か、叶ちゃんはご存知ですか?」
「……知っている」
笑みは崩さないままだったが、暁斗は意表を突かれたのか、少しだけ沈黙があった。
こちらが話しかければ、ちゃんと応答がある。そんな当たり前のことが確認できて、ホッとしてから言葉を続けた。
「叶ちゃん、使命だからって、普段から街を見回っているそうです。休んでないんじゃないかって、心配してるんですけど」
「それは、叶が『見える』からそう思うだけだ」
「……それは、そうかもしれませんけど……」
「人間の認知は、相対的なものだ。見えるから覚えている。見えなくなれば次第に忘れてしまう」
謎掛けみたいな言葉を重ね、暁斗は告げた。
「境界者 は、遠くない未来に滅びる」
——息が止まった。
彼は、まるで明日の天気でも話すように言って、言葉を失った少女に構わず続ける。
滔々と紡がれるそれは、呪詛のようでもあった。
「境界者 は、数十年で誰もいなくなる。君たちの知らないところで、消滅する。いなくなれば、君も忘れる。誰の心にも残らない」
「………………」
「滅びゆく者たちに、もはや使命も、存在することにも意味はない。ただの透明人間だ。いずれ忘れるものに、君はわざわざ気を揉んでいる。それなら、見えなくていい存在だっただろう」
「……見えなくていい存在、は酷いんじゃないですか」
思わず反論できたのは、「二人」を思い出したからだ。
境界者 がどんな歴史を持ち、どんな境遇にいるかは、未佳にはまだ分からない。
けれど、「見えなくていい存在」なんて言われたら、返す言葉は決まっている。
だって、いつか忘れても、たとえ人の目に映らなくても、
「涼也も叶ちゃんも……暁斗さんも。今は、私の目の前に立ってるじゃないですか」
私は境界者 に出会えて嬉しいのに、彼らが自身を蔑むのは悲しい。
願わくば、もっといろんな人に彼らを知ってほしい。見えなくていいはずがない。
未佳の真っ直ぐな眼差しを受け止める赤の瞳は、見開かれていた。これまで上辺だけの表情だったのに、なんとなく、本当に驚いているように見えた。
しばらくして、暁斗は呟いた。
「……なら、僕に協力してほしい」
「協力?」
「人間たちに、境界者 が見えるように」
未佳は、今度こそ言葉を失った。
心を——淡い願いを、読まれたような気分だった。
「涼也や、叶ちゃんが……皆の輪に入れるってこと?」
——もし、そんな未来があるなら。
愛美と紗利奈に、涼也も『ハルカナタ』が好きなんだよって言いたい。人見知りしない二人は、目を輝かせて話を聞いてくるだろう。きっと涼也も巻き込まれて、皆でカラオケに行くことになる。涼也は興味なさそうだから、後ろでぼーっとしてそうだ。
それから、いつも真面目に使命をこなしている叶と〈ビアンカッタ〉でゆっくりお茶したい。気が利く伯父は、いつも肩に力が入っている彼女にぴったりな一杯を出してくれるだろう。プリンを食べながら、他愛ないおしゃべりをしたい。
それに、三人で公園に行ったら、ボールを取ってもらった少年も、きっと次は涼也に声をかけてくれる。
それは、なんて色鮮やかな世界だろう。
けれど——
(涼也たちが見える、ということは……)
未佳の脳裏に過ぎったのは、体を締めつけた恐怖だ。
空を覆う大きな影。見たこともない怪物に追いかけられ、捕まり、空高く連れて行かれたあの日。
境界者 を認知できる者は、魂 にも認知される。
——もし、あの時。大蛇が学校に現れた時。
学校の皆にも、あの怪物が見えていたら、どうなっていた?
恐怖の声が響き渡り、混乱の坩堝と化して——
知り合いも他人も分け隔てなく、大蛇に捕らわれ、振り回され——
それらを討伐する二人を見て、人々は何を思うのか。
(……どうなっちゃうんだろう)
想像するのが怖くなって、考えることをやめた。
もし、本当にそんな可能性があるとしても、それは本人たちが選ぶことだと思った。
だから、未佳は顔を上げた。
「……暁斗さんは、認知されたいんですか?」
少しだけ、夕日色の瞳が揺れた気がした。
「……どうでもいい。それは、『おまけ』だ」
「おまけ……? 何の?」
「君には関係ない」
「そ、そうかもしれませんけど……見えるようになる方法は、見つかってるんですか? 一応、皆にも聞いてからの方が」
「君の意見は聞いていない」
切り落とすような物言いに、胸がぞっと冷え込んだ。
うっすら感じていた、些細で致命的な違和感が爆発する。
暁斗は、本当の意味で未佳と会話するつもりがなかった。
最初から彼は、何らかの目的で未佳に近付いたのだ。
「貴方は、何が目的……」
思わず身を引きながら暁斗を見たら、赤い瞳と目が合って——
気が付いたら、未佳の体は、石のように動けなくなっていた。
「………………」
動かないのは、体だけじゃなかった。
さっきまであった恐怖も、逃げ出そうとした思考も、すべてが時が止まったように硬直していた。
瞳は景色を映し出すだけのガラス玉と化し、手足は動かし方が思い出せない。
何かを感じとることも、判断することもできない。
視界の真ん中で輝く夕焼け色の双眸だけが、少女の世界だった。
「君にはついて来てもらう」
もはや何も理解できない少女に、暁斗の手が伸びた。
名は〈ビアンカッタ〉。純喫茶然とした佇まいで、数名の常連客が朝夕に店主と語らうような憩いの場だ。
そんな店から年端も行かない少年が出てきたのを見かけたら、通行人は意外な目を向けるかもしれない。
「カフェオレ、美味しかったな!」
宙良は、ふふんと胸を張って言った。
未佳と宙良が訪れると、店主である伯父は快く迎えてくれた。しかし、お昼ご飯の前だろうと気を遣った彼は、頑としてプリンは提供してくれなかった。
代わりに出してくれたのがカフェオレだった。ほろ苦さが隅に残った優しい甘さで、もともとコーヒーが美味しい印象でやって来た未佳は満足していた。
一方、宙良は、そもそもカフェオレを飲んだことがなかった。いつも炭酸ジュースを飲んでいる少年は、最初は地味な見た目に不満そうだったが、飲んでみたら甘くて美味しい、しかもコーヒーを美味しく飲むことができてなんとなく大人になった気分なのか、総合的に気に入ったらしい。
後から出てきた未佳を振り返り、弟は得意げに言う。
「コーヒーを飲んだオレ、大人じゃん! ミルクを混ぜて飲むとか天才! 賢伯父さんが作るもの、全部うまいのかも!」
「そうかも。今度、プリンも食べてみたいな」
「プリンも超うまいよ!」
「私はコーヒーゼリーが気になるな」
伯父の店を褒めながら、二人は自然と帰路に着く。
未佳がスマートフォンを出して時間を見ると、十二時半を過ぎていた。
事前に母に、伯父の喫茶店に顔を出すことはメッセージで伝えておいたが、少し長居しすぎたかもしれない。お昼ご飯はうどんだと聞いていたし、早く帰らないと伸び切った麺を食べることになりそうだ。
マップアプリで地図を確認して、右手前の道を指差した。
「こっちに行ったら、駅の近くに出られそう」
「あ、そっちは人が多くて通りづらいから、隣の道がいいよ! 猫が集まる屋敷があるんだ」
「そう?」
宙良が周辺の事情に詳しいのは、伯父の店に遊びに行くことが多いからだろう。とはいえ、中には人気が少なくて物騒な道もあるだろうし、歩く通りには気をつけてほしいところだ。
弟に案内された道に入ると、真昼なのに穏やかな静けさに満ちていて、ちょっとした散歩にちょうどよさそうだった。
「猫屋敷は、あの角を曲がったとこだよ! あ……犬だ!」
宙良が指差した曲がり角に、犬の散歩をしているお婆さんが差し掛かるところだった。
動物が好きな弟の目が輝く。犬に触りたいんだろう。ちゃんと飼い主のお婆さんに挨拶をするように言わないと。
未佳は携帯電話をしまって、宙良に声を掛けようとした。
「こんにちは」
ふと、風が流れるように後ろから声がした。
肩越しに後ろを振り向くと、まばらな通りを背に、人が立っていた。
すらりとした背格好の成人男性だった。白いシャツは青空と相まって晴れやかで、首の後ろで結われた黒髪は風にそよぎ、尻尾のように揺れていた。
佇まいは風のようなのに、色白の綺麗な顔に浮かぶ笑みは空虚だった。爽やかで、でも何処か危うさもある謎めいた雰囲気は、多くの女性を魅了するだろう。
信じられないほど真っ赤な瞳に見据えられると、蛇に睨まれたように体が硬直した。
世界の終わりに見る夕焼けのような、不気味で、切ないほど美しい色。なんとなく、吸血鬼を連想した。
そうして黙りこくっている間に、急に宙良が遠ざかるのを感じて、未佳はばっと振り返った。
「えっ……宙良?」
男性から目線が外れる。
弟を追って歩き出そうとしたら、体がつんのめった。振り向くと、男性が手首を掴んでいた。
「待って。君に用がある」
「え、えっと……」
未佳が困って宙良の方を見ると、呼びかけられた弟はこちらを向いていた。
宙良は、姉と見知らぬ男性を見て——不思議そうに首を傾げ、前に向き直った。
「……!? 宙良!?」
今度こそ宙良は振り向きもせず、お婆さんと犬に駆け寄った。
気付いていないのは、彼だけじゃなかった。お婆さんも、正面で何か揉めているのは見えているはずがないのに、こちらを見向きもしない。
やがて、二人と一匹は和やかに話しながら曲がり角の先に消えた。
寒気が背中を這った。
(これって……)
「
後ろから、男性の声が淡々と響いた。
やはりこの現象は、涼也と一緒にいる時に起きるもの。
家族にすら目の前で見えないものとされるのは、怖くて悲しかった。
「………………」
未佳は大きく深呼吸してから、手を掴んでいる男性を振り向いた。
彼は最初と変わらず、笑みを浮かべたまま立っていた。少女が落ち着くのを待っていたようだった。
「……貴方は? 用ってなんですか?」
ようやく冷静さを取り戻した未佳が問うと、彼はやっと手を離した。
「君を害するつもりはない」
「………………」
彼は終始、実に綺麗に笑っている。口角の角度、高さなどが計算尽くされたような笑みだ。まるで、ロボットが人間を安心させるために模倣しているようでもあった。
「僕は
「……ドローズ?」
聞き慣れない言葉を問い返したが、男性——暁斗は答えなかった。
敵意も好意も感じない透明な瞳が、じっとこちらを見据えている。
「今朝から、君に接触しようとしていた。でも、傍にはずっと涼也がいたから」
「……涼也とは、会いたくないんですか?」
「僕は、この街にいるはずがない者だからだ」
他の
「君は、涼也と同じ学校?」
「はい」
「
「ここ最近……一週間くらいです」
「面識がある人は?」
「涼也と、叶ちゃん……ですけど……」
一方的な質問攻めに答えながら、未佳の胸には不安が広がっていた。
(話したかったって言ってたけど……)
まるで、こちらの言葉を封じているようだ。
そのまま続きそうな調査に、未佳は慌てて声を差し込んだ。
「か、叶ちゃんはご存知ですか?」
「……知っている」
笑みは崩さないままだったが、暁斗は意表を突かれたのか、少しだけ沈黙があった。
こちらが話しかければ、ちゃんと応答がある。そんな当たり前のことが確認できて、ホッとしてから言葉を続けた。
「叶ちゃん、使命だからって、普段から街を見回っているそうです。休んでないんじゃないかって、心配してるんですけど」
「それは、叶が『見える』からそう思うだけだ」
「……それは、そうかもしれませんけど……」
「人間の認知は、相対的なものだ。見えるから覚えている。見えなくなれば次第に忘れてしまう」
謎掛けみたいな言葉を重ね、暁斗は告げた。
「
——息が止まった。
彼は、まるで明日の天気でも話すように言って、言葉を失った少女に構わず続ける。
滔々と紡がれるそれは、呪詛のようでもあった。
「
「………………」
「滅びゆく者たちに、もはや使命も、存在することにも意味はない。ただの透明人間だ。いずれ忘れるものに、君はわざわざ気を揉んでいる。それなら、見えなくていい存在だっただろう」
「……見えなくていい存在、は酷いんじゃないですか」
思わず反論できたのは、「二人」を思い出したからだ。
けれど、「見えなくていい存在」なんて言われたら、返す言葉は決まっている。
だって、いつか忘れても、たとえ人の目に映らなくても、
「涼也も叶ちゃんも……暁斗さんも。今は、私の目の前に立ってるじゃないですか」
私は
願わくば、もっといろんな人に彼らを知ってほしい。見えなくていいはずがない。
未佳の真っ直ぐな眼差しを受け止める赤の瞳は、見開かれていた。これまで上辺だけの表情だったのに、なんとなく、本当に驚いているように見えた。
しばらくして、暁斗は呟いた。
「……なら、僕に協力してほしい」
「協力?」
「人間たちに、
未佳は、今度こそ言葉を失った。
心を——淡い願いを、読まれたような気分だった。
「涼也や、叶ちゃんが……皆の輪に入れるってこと?」
——もし、そんな未来があるなら。
愛美と紗利奈に、涼也も『ハルカナタ』が好きなんだよって言いたい。人見知りしない二人は、目を輝かせて話を聞いてくるだろう。きっと涼也も巻き込まれて、皆でカラオケに行くことになる。涼也は興味なさそうだから、後ろでぼーっとしてそうだ。
それから、いつも真面目に使命をこなしている叶と〈ビアンカッタ〉でゆっくりお茶したい。気が利く伯父は、いつも肩に力が入っている彼女にぴったりな一杯を出してくれるだろう。プリンを食べながら、他愛ないおしゃべりをしたい。
それに、三人で公園に行ったら、ボールを取ってもらった少年も、きっと次は涼也に声をかけてくれる。
それは、なんて色鮮やかな世界だろう。
けれど——
(涼也たちが見える、ということは……)
未佳の脳裏に過ぎったのは、体を締めつけた恐怖だ。
空を覆う大きな影。見たこともない怪物に追いかけられ、捕まり、空高く連れて行かれたあの日。
——もし、あの時。大蛇が学校に現れた時。
学校の皆にも、あの怪物が見えていたら、どうなっていた?
恐怖の声が響き渡り、混乱の坩堝と化して——
知り合いも他人も分け隔てなく、大蛇に捕らわれ、振り回され——
それらを討伐する二人を見て、人々は何を思うのか。
(……どうなっちゃうんだろう)
想像するのが怖くなって、考えることをやめた。
もし、本当にそんな可能性があるとしても、それは本人たちが選ぶことだと思った。
だから、未佳は顔を上げた。
「……暁斗さんは、認知されたいんですか?」
少しだけ、夕日色の瞳が揺れた気がした。
「……どうでもいい。それは、『おまけ』だ」
「おまけ……? 何の?」
「君には関係ない」
「そ、そうかもしれませんけど……見えるようになる方法は、見つかってるんですか? 一応、皆にも聞いてからの方が」
「君の意見は聞いていない」
切り落とすような物言いに、胸がぞっと冷え込んだ。
うっすら感じていた、些細で致命的な違和感が爆発する。
暁斗は、本当の意味で未佳と会話するつもりがなかった。
最初から彼は、何らかの目的で未佳に近付いたのだ。
「貴方は、何が目的……」
思わず身を引きながら暁斗を見たら、赤い瞳と目が合って——
気が付いたら、未佳の体は、石のように動けなくなっていた。
「………………」
動かないのは、体だけじゃなかった。
さっきまであった恐怖も、逃げ出そうとした思考も、すべてが時が止まったように硬直していた。
瞳は景色を映し出すだけのガラス玉と化し、手足は動かし方が思い出せない。
何かを感じとることも、判断することもできない。
視界の真ん中で輝く夕焼け色の双眸だけが、少女の世界だった。
「君にはついて来てもらう」
もはや何も理解できない少女に、暁斗の手が伸びた。