第11話 凛廻暁斗

文字数 5,200文字

「っ……」
 ぐらりと、赤い瞳が揺れた。
 突然、暁斗が額を押さえ、よろめくように身を引いたからだった。
 彼の視線が外れると、未佳を縛り上げていた呪縛は幻のように消えた。
「はっ……」
 いつの間にか、呼吸までも止まっていた気がした。
 息を吸い込んで顔を上げると、暁斗の背後に揺らめく不気味な影が見えた。
 人型をしたそれは、美しい顔立ちの女性だ。だが、その頭を飾るのは艷やかな髪ではなく、無数の蛇。その腹部には穴が空いており、異形の女怪物は白い光となって消えていくところだった。
 白貌をさらに青ざめさせた暁斗が、苦しげに呻いた。
綺咲(キサキ)さんかっ……」
 かつ、かつ、とヒールの音が近付いてくる。
 さっき、弟が去った道からだ。振り返ると、曲がり角に一羽の鴉が飛んでいた。
 黒い翼が止まり木に選んだのは、猫屋敷の細道から現れた細い肩だった。
「——暁斗。どうして、貴方がここにいるのかしら」
 叶が豪奢な芍薬なら、彼女は上品な霞草。
 綺麗な顔立ちをした女性だった。細い体躯にまとった無地のシャツと細身のパンツは淡い色遣いで、もし花束を持たせるなら控えめな白い花がよく似合うだろう。
 肩口を柔らかに流れる髪は、柔らかな青色。夜明けの星のように、小さな金の耳飾りが揺れていた。
 女性は、未佳の向こうにいる暁斗を厳しい瞳で見据えた。
「久しぶりね。その子に、何をしようとしていたの」
「……僕が……何かしようとしていたと?」
 一方、暁斗は、激しい頭痛にでも悩まされているように目を(すが)めて言った。
「昔馴染みを、信用してくれないのか」
「連絡もなく天海市に帰ってきて、不審な行動している人が言える言葉? 中央区との境に出現した複数の(アニマ)も、貴方の仕業でしょう。何を作ったの」
「……さすが綺咲さん。分身、かな……」
 女性の看破に、暁斗は降参したように少しだけ笑った。これまでの薄っぺらいそれではなく、称賛のような笑みだった。
「その子に近付いた理由は、話してくれるのかしら」
「………………」
「なら、この場は立ち去りなさい」
 ばさりと、女性の肩に乗っていた鴉が威嚇するように飛び立った。三本足の鳥は、いつでも飛びかかれるように、その上を旋回する。
 対して、暁斗の判断は早かった。
「そうさせてもらう……」
 彼の背後に、幾度も見た大きな影が滲む。暁斗は実体化した緑の飛竜に乗ると、空へと飛び去った。
 飛竜が巻き起こした風が止んでから、空を見上げる。
 青色に遠ざかる影は、暁斗自身が操っているのだろうが、飛竜に襲われたあの日と重なって緊張した。自分も、あんなふうに見えていたのだろうか。
「……逃げ足が速いこと。あなた、何ともない?」
 女性は小さく溜め息を吐いてから、未佳に近付いて顔を覗き込んだ。
 長い睫毛に彩られた翠玉の瞳は、宝飾品(ジュエリー)のように美しかった。思わず見惚れると、少しだけ心配そうになったので、はっとして頭を下げた。
「だ、大丈夫です! あの、ありがとうございました」
「そう。無事でよかったわ」
 端的に言うと、女性は小さな花のように淡く微笑んだ。上辺だけの暁斗の笑みと違い、自然と綻んだ安堵の笑みだった。
 こんなに綺麗な大人の女性を間近で見たことがなく、未佳は緊張していた。
(綺麗な人だな……)
 暁斗といたのに認知したということは、彼女も境界者(ニアルタ)だろう。普通の人間ではない空気感がそれを裏付けている。
 何より、雰囲気が

によく似ていた。
 女性の青髪を見つめて、未佳は尋ねていた。
「あの……もしかして、涼也のお姉さん……ですか?」
「違うわ。涼也は私の息子よ」
「息子さんなんですか………………って、え?」
 未佳は、たっぷり五秒は沈黙していた。
「……え、えええっ!? 息子!?」
「そんなに驚かれるなんて」
 その場で飛び上がる勢いで未佳が叫ぶと、女性はくすくす笑った。
「涼也から聞いているわ。私は綺咲(キサキ)。初めまして、未佳ちゃん」


     *


 商店街隅の純喫茶、〈ビアンカッタ〉。
 その店のドアを開くと、上部につけられたベルが控えめに鳴った。
 カウンターの向こうで、コーヒーをハンドドリップしているマスターはこちらを一瞥したが、何もなかったようにすぐに目を離した。
 昔ながらのレトロな店内には、聞き慣れたクラシック音楽が密やかに響いている。年季が入った重厚なテーブルセットは数えるほどしかない。
 何度か訪れたことがあるが、この店は軽食とドリンク、デザートしか提供しないため、ご飯時には客がぐっと減る。もともと、常連が集まるだけの小さな喫茶店だから客入りが少ないが、これだけ人気がないと別世界に迷い込んだ気分になるのだった。
 その店の一番奥、窓際の席に、この静寂を貸し切っている客が座っていた。
「母さん」
「……涼也。珍しいわね、貴方がここに来るなんて」
 窓の外を眺めていた睦月綺咲は、我が子に呼ばれて振り向いた。
 先ほどまでホットサンドを食していたらしく、女性の前には空の皿があった。夜型人間の母は十一時台に起き、自宅から飛竜で五分のこの場所で、いつもランチ時に朝食を摂っている。逆に、涼也は朝が早いので、親子が顔を合わせられるのは基本的に午後からだった。
 活動時間がずれていると(アニマ)に対応しやすいし、これで良かったと今では思うが、子供の頃は少しだけ寂しかったのを覚えている。
 涼也は彼女の正面の席に立って、ブラックコーヒーを味わう母に聞いた。
「さっきの(アニマ)……母さんが還した? (アニマ)、だった?」
 叶と、六体の怪物たちを倒した頃。商店街の近くで(アニマ)の気配を感知したが、間もなく消えた。
 討伐されたこと自体は良い。それより気になったのは、その「気配」だ。
 涼也は、気配だけで幻想生物の種別と等級が把握できる。だが、さっき感知したものは彼の知らない種別のものだった。
「ええ、(アニマ)だったわ」
「……変な気配だった」
「鋳型にはない種だったもの」
「どういうこと?」
 涼也が追及すると、母はカップを静かに置いた。
「……涼也。昨日、貴方が言っていた懸念は当たっていたわ」
 昨日の(アニマ)の同時発生が気にかかった少年は、帰宅後、妙なことが起きている気がすると母に報告していたのだった。
 常に静謐な母の翡翠の瞳は、今は厳しい色を帯びていた。
「——暁斗が来てる。未佳ちゃんが連れて行かれそうになっていたわ」
 突然、少女の名前が出て、呼吸が止まった。
 母がとんとんとテーブルを指で叩いて、座るように促していなければ、すぐに店を飛び出していただろう。
「安心なさい。暁斗は、(アニマ)の反動をしっかり受けていたから、二日は動けない。ひどい顔色だったわ」
「……そっか……」
 ひとまず安心していいと分かり、肩の力を抜いた涼也は、勧められた通り席についた。
 すると、ちょうどいいタイミングで少年の前にコーヒーカップが現れた。淡い茶色と白の泡が浮かぶそれは、カフェラテだ。
 急に現れた店のマスターはそれを置くと、愛想なく立ち去った。どうやら母が、自分が来ることを見越して注文していたらしい。
 綺咲は、スマートフォンを取り出し、画面を見て言った。
「さっき、唯ヶ丘区の端の方まで行っていたわね」
「うん」
 (アニマ)討伐を主な役目としているのは、涼也、叶、綺咲の三人だ。
 現代は便利なもので、GPSを介して専用アプリで互いの現在地を把握できるので、(アニマ)が発生した際は誰が近いか、誰が向かったかなどが逐一共有されるのだった。
 今だって綺咲は、これのおかげで、涼也がここにやって来るのを見ていたのだから。
 なお、三人が使っているアプリには、出現した(アニマ)の位置も表示するという驚異的な機能もあるが、それはさておき。
 涼也は、カフェラテにシュガーを入れ、スプーンで静かにかき混ぜる。ソーサーに置き、カップを傾けて一口飲むと、優しい甘さが口の中に広がった。
 けれども、頭に浮かんでくる謎は晴れない。
 もう一口飲んでから、涼也は言った。
「……下位の(アニマ)が、六体いた」
「ええ、不自然ね。その間に、暁斗が未佳ちゃんと会っていた」
「うん。だから、あの(アニマ)たちは……暁斗兄さんが呼んだと思う。でも……」
 涼也たちを別の人形で誘き寄せてから、暁斗は未佳に近付いたのだろう。
 だが普通、(アニマ)使いは、あんな大勢の人形を操れないし、それらを壊されると精神に傷を負う。
 そんな状態で、同時刻に別の(アニマ)まで使用していたとなれば、どうにも計算が合わない。
 涼也の絡まる思考を読み取って、綺咲は残りわずかのカップを持ち上げた。
「涼也は、暁斗のことは覚えてる?」
「……少し……いや、あんまり」
 記憶を手繰って、涼也は首を振った。
 ——凛廻暁斗(リンネ アキト)
 五年前、天海市から去った境界者(ニアルタ)
 暁斗との思い出は数少ない。涼也にとっては、何かあったときに頼る大人——ドラマなどを見て想像するに、普通の人間にとっての親戚のような——そんな距離感だった。
「そう。けれど凛廻家についてなら、知っているわね」
「うん」
 復習するような母の物言いに、息子は頷いた。
 凛廻家の能力は、『夢を形にする』。
 この世界に設置されている不可視の鋳型は、凛廻家の始祖が作った仕組みだ。
 その力では必ず有形となるので、形にしやすいものを選ぶのが基本となる。故に、この世界には存在しない生物を作ることになったとか。
 そこで、母が言わんとしていることを察し、少年は衝撃を受けた。
「……まさか、自分で鋳型を作った?」
「ええ」
 「鋳型を作るのは大変、とは言っていたけれど」と、綺咲は呟いた。
 末裔たる暁斗にも、始祖と同じような力があると考えれば、さまざまな辻褄が合う。
 さっき感じた妙な(アニマ)も、母は「鋳型にはない種」と言っていた。凛廻家の力なら、見たこともない(アニマ)を生み出せるのだ。
(それに、鋳型って抽選だし……)
 自然発生の(アニマ)は種別と規模がランダムで決まるが、実は人為的に生成する場合も、規模に関しては同様だ。
 もし暁斗に鋳型を作る能力があるなら、何が出るか分からない既存のものを扱うより、自分で器から作った方が確実だろう。
 不確定な抽選箱から、狙ったものを生成できる睦月家が普通ではないだけだ。
「……なら、分身みたいな(アニマ)を作って、鋳型の(アニマ)を生成させた……とか」
 もう一人の自分のような概念は、世界にままある。それに、涼也とて普段からもう一人、自分がいたら楽なのにと思っているから、本当ならちょっとだけ羨ましい。
 母はすでに知っていたらしく、「当たり」と呟いた。
「暁斗も、分身と言っていたわ。分身を二体作って、それぞれに三体ずつ生成させた結果が、さっきの六体でしょう。分身が壊されなければ、暁斗は無傷で済むわ」
 恐らく、暁斗が操作できるのは分身までで、その向こうの(アニマ)は操作できないのだろう。となると、人形たちが自然発生に近い動きをしていたのも納得できる。
 今思えば、現場に向かう前は微弱な気配もあった気もするが、六体が片付いた時にはもうなかった。気のせいだと思っていたが、分身の気配だったのかもしれない。
 ともかく、不可解な謎の全貌が見えてきて、少しだけすっきりした。
 一息吐いて、涼也は尋ねた。
「……暁斗兄さん、何歳になるんだっけ」
「五年前が23だから、28ね」
 五年前——涼也は、九歳の頃を思い出そうとする。
 当時の自分が見上げた暁斗は、とても大きかった。一番身近な大人の男性が暁斗だった。
 暁斗がいなくなった後、母は言った。
 彼は、二つの理由で市外に住んでいる。
 一つは、病人。
 もう一つは——罪人。
 だからもし、市内で出会ったら、注意するように言われていた。
 けれど、どうにもしっくり来なかった。
 ぼんやりした記憶の中の暁斗は真面目で、とても「罪人」とは程遠かったからだ。
「……なんで、未佳に近付いたんだろう」
 五年間、不在にしていた凛廻家の末裔と、一週間前から自分たちが見えるようになった少女と。お互いに面識があるはずがない。
 すっかり混ざってマーブル模様がなくなったカフェラテを飲むと、正面から意外な答えが返ってきた。
「暁斗は答えなかったけれど、推測ならあるわ。本当は……貴方が大人になってから話したかったけれど」
「……何のこと?」
 綺咲は、白い指でカップを撫でた。ゆっくり優しく触れるのは、話すことを考えている時の癖だ。
「去年、私が言ったことを覚えてる?」
「……うん」
 急な話題転換だったが、心当たりがあった涼也は頷いた。
 秋の暮れ、降り注ぐ落ち葉を見上げて、何処か遠い目をした母が歌うように言った言葉。
 淋しげでもあったし、不思議な内容だったからよく覚えている。

  ——『もし、記憶が消せない人間に会ったら、大事にしなさい』

 そんな人間がいるんだろうかと思った。
 でも、今は知っている。
 記憶を消す力をものともせず、自分たちに笑いかけてくる少女が頭に浮かんでいた。
眠り花(ドローズ)——夢の存在が見えてしまう、微睡む人間のことよ」
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登場人物紹介

仁井谷未佳(にいたに みか)

中学三年生/14歳

誕生日 2/25 魚座

身長 155cm

睦月涼也(ムツキ スズヤ)

中学三年生/14歳

誕生日 8/31 乙女座

身長 168cm

風切叶(カザキリ カノ)

中学二年生/14歳

誕生日 4/5 牡羊座

身長 159cm

睦月綺咲(ムツキ キサキ)

37歳

誕生日 10/13 天秤座

身長 167cm

凛廻暁斗(リンネ アキト)

28歳

誕生日 11/10 蠍座

身長 181cm

彼名方 遥(カナタ ハルカ)

22歳

誕生日 5/28 双子座

身長 175cm

睦月ノーエ(ムツキ ノーエ)

58歳

誕生日 5/2 牡牛座

身長 160cm

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