第8話 境界者(ニアルタ)
文字数 5,555文字
夢の世界からやって来た人間は、こちらの世界の人間には一切見えなかったらしい。
声をかけても、ぶつかっても、ないものとされ、影響を及ぼすことができなかったという。
だが、子孫は少し違った。
声をかければ反応があり、ぶつかれば認知された。それでも、夢の存在を先祖に持つ故に、まるで夢から覚めるようにすぐ忘れられる。
そのうち、始祖と子孫は区別されるようになり、夢と現実の狭間に立つ者——境界者 と呼ばれるようになった。
彼らが始祖から受け継いだ使命は、シンプルだ。
一つ、夢の存在を認知した人間の記憶を消すこと。
二つ、人間を夢の存在から守ること。
三つ、魂 を始末すること。
ごお、と風が全身に叩きつけた。
「——⬛︎⬛︎⬛︎!!!」
薄い金属が擦れ合うような咆哮が降り落ちる。
急降下する緑の飛竜は、獲物を捉えた鷹そのものだった。
その鉤爪の一閃は、その鋭利な尾の一振りは、バターを切るように人間を容易く両断するだろう。
振り下ろされる爪を紙一重で回避し、叶は指を振り上げた。
飛竜の体が左右に別れる。それが白い光になって消える頃には、少女はすでに立ち去るところだった。
(魂 ——始祖の遺産ですか)
怪物たちが嫌いな叶は、忌々しく敵のことを思う。
この世界には、“裂け目”がある。
世界に刻まれた、癒えない傷のようなものだ。狭間に住まう王が開けたと言われているが、そんなことは現代の自分にはどうでも良い。
重要なのは、その裂け目から「血」が滴ることだ。
夢の世界の血——すなわち、夢の力が。
そのまま力が四散すると、この世界のあちこちで、未佳のように見える人間を不用意に増やす可能性がある。
先んじて血を拭おうにも、それは無形。形なき物には手も足も出ない。
故に、始祖たちは、“鋳型”を用意した。
夢の世界に生息する生物を、概念ごとに分けた五つの器。
型枠に力を流し込み、凝固させ、有形としてから滅ぼす。
夢の力で成形された幻想生物——それが魂 だ。
(問題は、その人形に意思があることなのですが)
どうも魂 は、夢の世界の残滓が本能のように刻まれ、認知できる人間を襲うようになっているらしい。
叶は、駅の西側にある美星通り商店街にいた。
観光客向けに整備された通りは、エスニック料理店の横に老舗の包丁屋が並び、向かいには執事のコンセプトカフェがあるといった、ジャンルも業種もごちゃ混ぜの並びで混沌としている。歩いているだけで楽しいと評判で、観光客はもちろん、地元の人々にも愛され、年中混み合っているエリアだ。
叶が歩くのは、大通りから伸びる脇道だった。
メインストリートから外れると、途端に古い街並みが顔を出す。物静かな日常が息づく古民家の小径では、大通りの喧騒は遠い。今日は晴れだから、犬と人の笑い声、軒下を掃除する音、シャワーの音など、ささやかな生活音が聞こえてくる。
耳を傾けながらアスファルトを歩くと、コツコツとヒールの音が鳴った。
それは生活音を縫い合わせるように響いて、やがて一つの音楽のように響く。この小径を歩くのが、叶は嫌いではなかった。
しばし音楽を堪能しながら歩いていたが、前方に人を見つけ、足を止めた。
現在この街で、魂 を討伐する境界者 は三人。そのうち一人は、優先的に魂 を処理する役目を負っている。だから彼が現れるのは常に想定しているが、叶は彼が嫌いだった。
青灰色の髪の少年と、昨日会ったばかりの少女が立っていた。
「おはよ、叶ちゃん。お買い物?」
「……おはようございます。哨戒です」
笑顔で言ってくる未佳を一瞥し、返答した。
よく町中を哨戒しているのは、使命第一ということもあるが、実際のところ時間を持て余しているからだ。
叶は、少し意外そうな顔をしている涼也を横目で睨み据えた。どうせまた、商店街にいるなんてとか思っているのだろう。
(——魂 使いの睦月家)
魂 は、亀裂の雫による自然発生以外にも生まれる。それが、涼也のような魂 使いによる生成だ。
怪物たちの材料は、夢の力。それさえ用意すれば、人為的に生み出せるのは必然だ。自らの夢の力を鋳型に注ぎ、生み出した生物の意識は術者のものだ。
彼らは魂 をもって、魂 を滅ぼす。
当然のように隣に立っている未佳を見て、叶は言った。
「未佳さんに説明はしたのですか。記憶を消せない以上、身を守るためにも最低限の知識は持つべきです」
「うん。全部教えた」
「正しく伝わっていると良いですが」
嫌味を交えて嘆息した。
涼也は言葉が足りないとは常々思っている。自分たちや夢の世界の説明は複雑だから、正確に説明できたか怪しいものだ。
すると、未佳が声をかけてきた。
「えっと……叶ちゃんも、涼也と同じなんだよね?」
「一緒にされるのは不愉快です。涼也さんとの共通項は、境界者 ということだけです」
「でも、やっぱり友達はいないんだよね?」
「それが、どうかしましたか」
境界者 にとっては、これが普通だ。今更それを嘆くことはない。
すると、未佳は最高の思いつきを披露するように手を広げた。
「じゃあ、改めて、友達になろうよ。三人で!」
「……三人?」
首を傾げる涼也とは違い、叶は嫌そうな顔をした。
「お断りします。涼也さんと友人なんて」
「だから、『三人で』。私と叶ちゃんと涼也、三人揃わなきゃ友達じゃないの」
「……未佳と俺、友達じゃなかったっけ」
「それはそれ。ダメかな?」
「興味ありません」
迷うことなく、未佳の言葉を切り捨てた。黒の少女にとって、役目以外の些事はどうでも良いのだ。
だから、最も気になっていることを尋ねた。
「涼也さん、気になることがあります。昨日、未佳さんを襲ったという飛竜……自然発生のものでしたか?」
「……気付いたんだ」
やはり勘付いていたらしい少年は、平坦な口調で答えた。
成形される魂 の規模、強度は、毎度異なる。いわば鋳型は、幻想生物の抽選箱なのだ。
大抵は、先刻の飛竜のように小型のものが出現するが、稀に昨日の大蛇のように強大なものが生まれる。
だが、一回で生まれる魂 は一体である。
つまり昨日、飛竜と大蛇が頭を揃えているはずがないのだ。
人為的に生み出されでもしない限り。
「あなたではないのですか」
紫瞳は、まっすぐに少年を貫いていた。
*
——『興味ありません』
そうして綺麗な声に両断され、未佳は少し肩を落とした。
やっぱり、涼也を含めたことが良くなかったかもしれない。未佳とて、叶が少年を嫌っているのは気付いていた。
友達になろうなんて言い出した大本の理由は、単純に、叶と友達になりたかっただけだ。
(……でも)
でも、境界者 でもない自分は、もしかしたら長く友達ではいられないかもしれない。
いつか、公園でボールをキャッチした男の子のように、彼らを見過ごす日が来るかもしれない。
しかし涼也と叶は違う。たとえ叶が涼也を嫌っていても、お互いが見える。
だから、二人がちゃんと友達になれたら、少しは寂しさも減るんじゃないか——なんて、お節介から、「三人揃わないと友達じゃない」とまで言ったのだけれど。
「あなたではないのですか」
叶の冷ややかな声に、未佳は顔を上げた。
これまでの話は聞こえていた。
焦点になっているのは、昨日襲って来た飛竜——魂 。
涼也が言うには、魂 には二種類あり、自然発生するものと、人為的に生み出されたものがあるらしい。
涼也は後者。怪物たちを生み出し、操り人形とすることができる魂 使いだという。
故に、叶はこう言っている。
涼也が、魂 で未佳を襲ったのではないかと。
「違うよ」
誰の言葉かと思ったら、それは自分の口から発せられていた。
気が付いたら、未佳は二人の間に立っていた。
涼也を背に、目を見開いている叶に言う。
「上手く言えないけど……襲って来た怪物と、私を助けてくれた怪物、ちょっと違ったから」
同じ飛竜でも、雰囲気が異なったことは記憶に焼きついていた。
冷え切った気配の飛竜と、威圧感も存在感もなく空気みたいな気配の飛竜。少しだけ、本人と似ていた気がした。
「だから、涼也じゃない」
未佳は真正面から、叶を見つめて言い切った。
紫の瞳は、戸惑うように揺れていた。
やがて、黒の少女は目を逸らした。
「……分かっています。涼也さんではありません。もちろん、綺咲 さんでもない」
「……え?」
「うん。叶の言う通り」
背後から、涼也も平坦な声で答えた。彼は、無実の罪で追及されたというのに、弁明したり心象を悪くすることもなかった。
「心当たりはあるのですか」
「ない。叶は?」
「あるはずがないでしょう。見分けはつくのですか」
「集中すれば分かると思う」
「あなたの話はしていません」
「ならできない。叶は感知、苦手じゃん」
「自分では動けない方に言われたくありません」
(……この二人……)
毒舌を返す叶と、事実のみ返す涼也。傍で聴いていると険悪そうにも見えるが、未佳には少し違って聞こえた。
本人が言うように、叶は涼也を嫌っている。でも、遠ざけているわけじゃない。
それは、性格、能力、すべてを客観的に判断した上での「嫌い」なのかもしれない。
叶は、間違いなく涼也を信用している。涼也が人を襲ったりしないと、誰よりも理解しているのだ。
このやりとりは、二人にとって日常。
つまり、さっきの叶の一言も、いつもの嫌味の一貫ということだ。
(私……出しゃばったかな?)
少し恥ずかしくなってきて、四肢から力が抜けていく。
言葉を重ねる二人を邪魔しないように、そーっと横に外れて、未佳は頬に両手を当てた。
*
話し合いの結果、叶は不機嫌そうにそっぽを向いた。これもいつものことだ。
涼也は、いつの間にか脇に移動して、いたたまれない様子でいる未佳を見やった。
(……不思議だ)
記憶を消そうとした旨を話した時、少女の顔には恐怖が浮かんでいた。
覚悟はしていた。そんな顔をさせたくなくて、そんな顔で見られたくなくて、だから遠ざけていた。
こんな力を持つ自分たちを、あるいは怪物たちを——それを操る自分を——人が恐れるのは当然なのだ。
怖い思いをさせているのに、忘れさせることもできないなんて、申し訳なかった。必要な説明だけしたら、二度と近付かないつもりでいた。
でも少女は、「忘れてなくてよかった」と笑ったのだ。
——『違うよ』
さらに未佳は、間髪入れず自分の前に立った。
たった数日の仲、しかも魂 で怖い目に遭ったのに、少女は一片の曇りもなく言い放った。
その背後で、自分がどんな顔をしていたか、彼女は知る由もないだろう。
「……未佳」
「は、はいっ!」
声をかけると、未佳は慌てて背筋を伸ばして返事をした。
先ほど格好良く割って入った時とは別人のような様子が面白くて、思わず笑った。
「ありがとう」
その一言には、詰め込もうとしても積み切れない、感謝と喜びがのっていた。
少女は、ぱちぱちと目を瞬いた。
「よく分かんないけど……どういたしまして?」
「うん。未佳はすごい」
「そんなふうにお礼を言われること、した覚えないけど……」
未佳は妙な顔をしていたが、すぐに表情を引き締めた。
「……それなら、涼也も叶ちゃんも、よく聞くように!」
眉の角度を少し厳しくして、腰に手を当てて、肩を怒らせて。全身で怒っているポーズをとった少女は、まるで子供を叱る保育園の先生のようだった。
「涼也は、もっと怒っていいと思うな! だって、私が『犯人じゃないの?』なんて言われたら傷つくもん」
「……そう……かな?」
「そう! 言っていい冗談と悪い冗談があるよ。叶ちゃんは、ちょっと考えた方がいいと思う!」
「……余計なお世話です」
真正面から叱ってくる未佳に、涼也は目を瞬き、叶はばつが悪そうに目を逸らした。
自分も叶も、戸惑っていた。こんなことを言われたことは、もちろんなかったから。
境界者 の対人関係はあまりにも狭い。関わる相手が少なければ熟知もするし、コミュニケーションも言葉少なく最適化される。だからこれが普通だった。
これからは、不用意に未佳を傷つけないように、発言する前に少しだけ考えよう。
そう思って、涼也は人知れず笑った。
(……そんなの、気にしたことなかった)
面倒で、もどかしい。初めての感覚は、くすぐったかった。
同じ顔ぶれで変わらない日々が流れるだけの日常に、突然差し込まれたイレギュラーは、暖かな春の風のようだった。
「………………」
一方で、望まぬイレギュラーもある。
——『あなたではないのですか』
叶の嫌味はもっともだ。
つまり——近くに、自分たち以外の境界者 ……それも、魂 使いがいる。
「未佳……」
呼びかけて、言葉を呑み込んだ。
感覚に引っかかった気配を振り返る。
少し離れたところで、魂 が生まれる反応があったのだ。
息をするように、意識を体の奥底に向けた。
夢の存在の末裔たる証——夢の力を呼び出す。
そして、世界に刻まれている魂 の機構、不可視の器に注ぎ込む。
涼也の横に、背景から滲み出すように緑の飛竜が現れた。静かに佇むそれの上に飛び乗る頃には、叶も気付いたらしかった。
「……明日は、嵐でも来るのでしょうか」
皮肉を呟くと、黒の少女もその方向へ駆け出した。
ふわりと浮いた飛竜の上から見下ろすと、立ち尽くしている未佳と目が合った。
少女の顔は、二人の緊迫を感じ取ったのか、少し不安げだった。
事態に置いて行かれている未佳を見て、急に遠い存在に思えた。
(——違う)
否定する。
何を勘違いしたのか。
何を思い上がったのか。
たまたま会話できて、一緒にいただけ。彼女はもともと遠い存在で、普通の人間なのだ。
「……未佳は帰ってて」
それだけ言うと、涼也は飛竜で飛び去った。
声をかけても、ぶつかっても、ないものとされ、影響を及ぼすことができなかったという。
だが、子孫は少し違った。
声をかければ反応があり、ぶつかれば認知された。それでも、夢の存在を先祖に持つ故に、まるで夢から覚めるようにすぐ忘れられる。
そのうち、始祖と子孫は区別されるようになり、夢と現実の狭間に立つ者——
彼らが始祖から受け継いだ使命は、シンプルだ。
一つ、夢の存在を認知した人間の記憶を消すこと。
二つ、人間を夢の存在から守ること。
三つ、
ごお、と風が全身に叩きつけた。
「——⬛︎⬛︎⬛︎!!!」
薄い金属が擦れ合うような咆哮が降り落ちる。
急降下する緑の飛竜は、獲物を捉えた鷹そのものだった。
その鉤爪の一閃は、その鋭利な尾の一振りは、バターを切るように人間を容易く両断するだろう。
振り下ろされる爪を紙一重で回避し、叶は指を振り上げた。
飛竜の体が左右に別れる。それが白い光になって消える頃には、少女はすでに立ち去るところだった。
(
怪物たちが嫌いな叶は、忌々しく敵のことを思う。
この世界には、“裂け目”がある。
世界に刻まれた、癒えない傷のようなものだ。狭間に住まう王が開けたと言われているが、そんなことは現代の自分にはどうでも良い。
重要なのは、その裂け目から「血」が滴ることだ。
夢の世界の血——すなわち、夢の力が。
そのまま力が四散すると、この世界のあちこちで、未佳のように見える人間を不用意に増やす可能性がある。
先んじて血を拭おうにも、それは無形。形なき物には手も足も出ない。
故に、始祖たちは、“鋳型”を用意した。
夢の世界に生息する生物を、概念ごとに分けた五つの器。
型枠に力を流し込み、凝固させ、有形としてから滅ぼす。
夢の力で成形された幻想生物——それが
(問題は、その人形に意思があることなのですが)
どうも
叶は、駅の西側にある美星通り商店街にいた。
観光客向けに整備された通りは、エスニック料理店の横に老舗の包丁屋が並び、向かいには執事のコンセプトカフェがあるといった、ジャンルも業種もごちゃ混ぜの並びで混沌としている。歩いているだけで楽しいと評判で、観光客はもちろん、地元の人々にも愛され、年中混み合っているエリアだ。
叶が歩くのは、大通りから伸びる脇道だった。
メインストリートから外れると、途端に古い街並みが顔を出す。物静かな日常が息づく古民家の小径では、大通りの喧騒は遠い。今日は晴れだから、犬と人の笑い声、軒下を掃除する音、シャワーの音など、ささやかな生活音が聞こえてくる。
耳を傾けながらアスファルトを歩くと、コツコツとヒールの音が鳴った。
それは生活音を縫い合わせるように響いて、やがて一つの音楽のように響く。この小径を歩くのが、叶は嫌いではなかった。
しばし音楽を堪能しながら歩いていたが、前方に人を見つけ、足を止めた。
現在この街で、
青灰色の髪の少年と、昨日会ったばかりの少女が立っていた。
「おはよ、叶ちゃん。お買い物?」
「……おはようございます。哨戒です」
笑顔で言ってくる未佳を一瞥し、返答した。
よく町中を哨戒しているのは、使命第一ということもあるが、実際のところ時間を持て余しているからだ。
叶は、少し意外そうな顔をしている涼也を横目で睨み据えた。どうせまた、商店街にいるなんてとか思っているのだろう。
(——
怪物たちの材料は、夢の力。それさえ用意すれば、人為的に生み出せるのは必然だ。自らの夢の力を鋳型に注ぎ、生み出した生物の意識は術者のものだ。
彼らは
当然のように隣に立っている未佳を見て、叶は言った。
「未佳さんに説明はしたのですか。記憶を消せない以上、身を守るためにも最低限の知識は持つべきです」
「うん。全部教えた」
「正しく伝わっていると良いですが」
嫌味を交えて嘆息した。
涼也は言葉が足りないとは常々思っている。自分たちや夢の世界の説明は複雑だから、正確に説明できたか怪しいものだ。
すると、未佳が声をかけてきた。
「えっと……叶ちゃんも、涼也と同じなんだよね?」
「一緒にされるのは不愉快です。涼也さんとの共通項は、
「でも、やっぱり友達はいないんだよね?」
「それが、どうかしましたか」
すると、未佳は最高の思いつきを披露するように手を広げた。
「じゃあ、改めて、友達になろうよ。三人で!」
「……三人?」
首を傾げる涼也とは違い、叶は嫌そうな顔をした。
「お断りします。涼也さんと友人なんて」
「だから、『三人で』。私と叶ちゃんと涼也、三人揃わなきゃ友達じゃないの」
「……未佳と俺、友達じゃなかったっけ」
「それはそれ。ダメかな?」
「興味ありません」
迷うことなく、未佳の言葉を切り捨てた。黒の少女にとって、役目以外の些事はどうでも良いのだ。
だから、最も気になっていることを尋ねた。
「涼也さん、気になることがあります。昨日、未佳さんを襲ったという飛竜……自然発生のものでしたか?」
「……気付いたんだ」
やはり勘付いていたらしい少年は、平坦な口調で答えた。
成形される
大抵は、先刻の飛竜のように小型のものが出現するが、稀に昨日の大蛇のように強大なものが生まれる。
だが、一回で生まれる
つまり昨日、飛竜と大蛇が頭を揃えているはずがないのだ。
人為的に生み出されでもしない限り。
「あなたではないのですか」
紫瞳は、まっすぐに少年を貫いていた。
*
——『興味ありません』
そうして綺麗な声に両断され、未佳は少し肩を落とした。
やっぱり、涼也を含めたことが良くなかったかもしれない。未佳とて、叶が少年を嫌っているのは気付いていた。
友達になろうなんて言い出した大本の理由は、単純に、叶と友達になりたかっただけだ。
(……でも)
でも、
いつか、公園でボールをキャッチした男の子のように、彼らを見過ごす日が来るかもしれない。
しかし涼也と叶は違う。たとえ叶が涼也を嫌っていても、お互いが見える。
だから、二人がちゃんと友達になれたら、少しは寂しさも減るんじゃないか——なんて、お節介から、「三人揃わないと友達じゃない」とまで言ったのだけれど。
「あなたではないのですか」
叶の冷ややかな声に、未佳は顔を上げた。
これまでの話は聞こえていた。
焦点になっているのは、昨日襲って来た飛竜——
涼也が言うには、
涼也は後者。怪物たちを生み出し、操り人形とすることができる
故に、叶はこう言っている。
涼也が、
「違うよ」
誰の言葉かと思ったら、それは自分の口から発せられていた。
気が付いたら、未佳は二人の間に立っていた。
涼也を背に、目を見開いている叶に言う。
「上手く言えないけど……襲って来た怪物と、私を助けてくれた怪物、ちょっと違ったから」
同じ飛竜でも、雰囲気が異なったことは記憶に焼きついていた。
冷え切った気配の飛竜と、威圧感も存在感もなく空気みたいな気配の飛竜。少しだけ、本人と似ていた気がした。
「だから、涼也じゃない」
未佳は真正面から、叶を見つめて言い切った。
紫の瞳は、戸惑うように揺れていた。
やがて、黒の少女は目を逸らした。
「……分かっています。涼也さんではありません。もちろん、
「……え?」
「うん。叶の言う通り」
背後から、涼也も平坦な声で答えた。彼は、無実の罪で追及されたというのに、弁明したり心象を悪くすることもなかった。
「心当たりはあるのですか」
「ない。叶は?」
「あるはずがないでしょう。見分けはつくのですか」
「集中すれば分かると思う」
「あなたの話はしていません」
「ならできない。叶は感知、苦手じゃん」
「自分では動けない方に言われたくありません」
(……この二人……)
毒舌を返す叶と、事実のみ返す涼也。傍で聴いていると険悪そうにも見えるが、未佳には少し違って聞こえた。
本人が言うように、叶は涼也を嫌っている。でも、遠ざけているわけじゃない。
それは、性格、能力、すべてを客観的に判断した上での「嫌い」なのかもしれない。
叶は、間違いなく涼也を信用している。涼也が人を襲ったりしないと、誰よりも理解しているのだ。
このやりとりは、二人にとって日常。
つまり、さっきの叶の一言も、いつもの嫌味の一貫ということだ。
(私……出しゃばったかな?)
少し恥ずかしくなってきて、四肢から力が抜けていく。
言葉を重ねる二人を邪魔しないように、そーっと横に外れて、未佳は頬に両手を当てた。
*
話し合いの結果、叶は不機嫌そうにそっぽを向いた。これもいつものことだ。
涼也は、いつの間にか脇に移動して、いたたまれない様子でいる未佳を見やった。
(……不思議だ)
記憶を消そうとした旨を話した時、少女の顔には恐怖が浮かんでいた。
覚悟はしていた。そんな顔をさせたくなくて、そんな顔で見られたくなくて、だから遠ざけていた。
こんな力を持つ自分たちを、あるいは怪物たちを——それを操る自分を——人が恐れるのは当然なのだ。
怖い思いをさせているのに、忘れさせることもできないなんて、申し訳なかった。必要な説明だけしたら、二度と近付かないつもりでいた。
でも少女は、「忘れてなくてよかった」と笑ったのだ。
——『違うよ』
さらに未佳は、間髪入れず自分の前に立った。
たった数日の仲、しかも
その背後で、自分がどんな顔をしていたか、彼女は知る由もないだろう。
「……未佳」
「は、はいっ!」
声をかけると、未佳は慌てて背筋を伸ばして返事をした。
先ほど格好良く割って入った時とは別人のような様子が面白くて、思わず笑った。
「ありがとう」
その一言には、詰め込もうとしても積み切れない、感謝と喜びがのっていた。
少女は、ぱちぱちと目を瞬いた。
「よく分かんないけど……どういたしまして?」
「うん。未佳はすごい」
「そんなふうにお礼を言われること、した覚えないけど……」
未佳は妙な顔をしていたが、すぐに表情を引き締めた。
「……それなら、涼也も叶ちゃんも、よく聞くように!」
眉の角度を少し厳しくして、腰に手を当てて、肩を怒らせて。全身で怒っているポーズをとった少女は、まるで子供を叱る保育園の先生のようだった。
「涼也は、もっと怒っていいと思うな! だって、私が『犯人じゃないの?』なんて言われたら傷つくもん」
「……そう……かな?」
「そう! 言っていい冗談と悪い冗談があるよ。叶ちゃんは、ちょっと考えた方がいいと思う!」
「……余計なお世話です」
真正面から叱ってくる未佳に、涼也は目を瞬き、叶はばつが悪そうに目を逸らした。
自分も叶も、戸惑っていた。こんなことを言われたことは、もちろんなかったから。
これからは、不用意に未佳を傷つけないように、発言する前に少しだけ考えよう。
そう思って、涼也は人知れず笑った。
(……そんなの、気にしたことなかった)
面倒で、もどかしい。初めての感覚は、くすぐったかった。
同じ顔ぶれで変わらない日々が流れるだけの日常に、突然差し込まれたイレギュラーは、暖かな春の風のようだった。
「………………」
一方で、望まぬイレギュラーもある。
——『あなたではないのですか』
叶の嫌味はもっともだ。
つまり——近くに、自分たち以外の
「未佳……」
呼びかけて、言葉を呑み込んだ。
感覚に引っかかった気配を振り返る。
少し離れたところで、
息をするように、意識を体の奥底に向けた。
夢の存在の末裔たる証——夢の力を呼び出す。
そして、世界に刻まれている
涼也の横に、背景から滲み出すように緑の飛竜が現れた。静かに佇むそれの上に飛び乗る頃には、叶も気付いたらしかった。
「……明日は、嵐でも来るのでしょうか」
皮肉を呟くと、黒の少女もその方向へ駆け出した。
ふわりと浮いた飛竜の上から見下ろすと、立ち尽くしている未佳と目が合った。
少女の顔は、二人の緊迫を感じ取ったのか、少し不安げだった。
事態に置いて行かれている未佳を見て、急に遠い存在に思えた。
(——違う)
否定する。
何を勘違いしたのか。
何を思い上がったのか。
たまたま会話できて、一緒にいただけ。彼女はもともと遠い存在で、普通の人間なのだ。
「……未佳は帰ってて」
それだけ言うと、涼也は飛竜で飛び去った。