第19話 寝不足の少年
文字数 2,482文字
それから数日は、平穏な時が流れた。
朝は、影のように寄り添う叶を伴って友人たちと登校し、教室では相変わらず隣で涼也が寝ていて、たまに声を掛けて他愛ない会話をした。
時折、猫みたいに遥がふらっとやって来て、適当な理由であちこちに居座り、飽きたらいなくなったり。
夕方になって部活動に移動すると、叶は美術室の隅で静かに佇んで待っている。なんとなく忠犬のようだと思ったけれど、言ったら怒られそうなので内緒だ。
そして部活動が終わると、叶とお喋りしながら帰る。
未佳にとっては、短いながらも充実した日々だった。
もちろん、境界者 たちと友人らの視線が交錯することはなかったけれど、なんだか一人だけ、どちらの世界とも馴染めているような錯覚があった。
ただ、ひとつ気になっているのは……
「……ねぇ、涼也」
昼休み後の授業が終わってから、未佳は隣に声をかけた。
丸い背中で席につく涼也は、すぐに反応しなかった。
さっきの授業の最後に、教師が難しい宿題を残していったため、クラスメイトたちがあちこちで不満げな声を上げていた。教室内が騒がしかったから、もしかして聞こえなかったのかもと心配になった頃、少年はこちらに目を向けた。
宝石のようだった青い瞳は、とろんと溶けた飴玉みたいで、なんとなく前より色がくすんで見えた。
「なんか最近、すごく眠そうだね?」
例の護衛が始まった頃から、少年は、昼間に寝ている時間が増えたように思えた。
特に今日は、未佳が教室に来た時点でもう突っ伏していて、三時間目終わりにようやく顔が上がった。それから昼食直後からまた眠り、やっと今、体を起こしたところだ。
これまでは、授業が退屈だから寝ている感じだったのに、どうにも本気で寝ている様子なのが気になった。
怠そうな涼也は、重たい瞼を擦って呟く。
「……眠い……」
「ちゃんと寝れてないの?」
「まあ……」
「ほ、保健室行く? あ、認識されないからだめか……」
「うん……」
強烈な眠気のせいか、生返事でろくに会話もしてくれないのでちょっと寂しい。何か提案したくても、情報がなさすぎてどうすればいいのか分からない。
未佳がもどかしい気持ちで見つめていると、突然、青い目が見開かれた。
「……魂 だ」
「えっ……近い?」
「うん」
思わず身を強張らせながら聞くと、少年は廊下の方を指差した。中学校の東側ということらしい。
涼也は、学生服のポケットから当然のようにスマートフォンを取り出し、何やら地図アプリを見た後、気だるげに立ち上がった。驚いて、未佳は慌ててその袖を掴んだ。
「そんな、ふらふらな状態で行ったら危ないよ」
「いや……霊種だし、叶には……」
倦怠感のせいか、いつもより饒舌に答えてから、涼也は何かに気付いた顔で振り返った。
「でも、未佳の護衛がいなくなるのか……」
「え……」
未佳は目を丸くした。
この数日、涼也は、日中の魂 の対処を叶に一任していたようで、常に自分の傍にいた。睡眠不足のせいかと思ったが、それは護衛が理由だったのか。
この状態でそれが成り立っていたのか甚だ疑問だが、それでも少年は気にしているらしかった。
(だったら……)
そうしている間に、教室の戸ががらりと開いて、次の科目の女性教師がやって来た。
クラスメイトたちが各々着席する中、未佳は逆に立ち上がって挙手した。
「先生、すみません! 頭痛がするので、保健室に行ってもいいですか?」
「え?」
教師もクラスメイトたちも、隣に立っていた涼也も、呆然と少女を見つめた。
注目を一身に集めた未佳は、体調不良を訴える者とは思えぬ真剣な目で、まっすぐ教師を見つめていた。
その目で見られて否定しきれなかったらしい女性教師は、おずおずと答えた。
「ど……どうぞ。じゃあ、付き添いは……」
「一人で大丈夫です」
未佳は会釈して、教室から出ていった。
ひとまず玄関に向かっていると、後ろから慌てた足音が近付いてきた。肩越しに見ると、予想通り青灰髪の少年が駆け寄ってくるところだった。
「ちょっと……未佳、何処行くの。保健室は、反対……」
狐につままれたような様子の涼也が物珍しくて、くすりと笑みが浮かんだ。
「頭は痛くないよ」
「……そうなの?」
「うん。叶ちゃんを助けに行かないといけないんでしょ? 私もついていくよ」
涼也が未佳の傍を離れることを懸念しているなら、逆に、未佳が涼也に付き添えばいいだけの話だ。
少年は、一瞬納得した顔をしたが、それでも表情は晴れなかった。
「……でも……危ないから」
「私がここにいると、涼也が動けないんでしょ。叶ちゃんも困るだろうし」
「そうだけど……」
涼也は、未佳——人間を守るという使命と、魂 を倒さなければならないという、もうひとつの使命で板挟みになっていた。
ましてや、魂 を倒すために、守るべき人間を危険な場所に連れて行くなんて矛盾している。
それは未佳も分かっていたし、未佳だって怖いものは怖い。
でも、自分のせいで涼也が身動きをとれないなんて。
もし、そのせいで叶が怪我なんかしたら。
(どっちも、やだな)
だから、悩める少年の背中を押すように、未佳は言葉を添えた。
「ほら、ずっと飛竜の上に乗ってるようにするから」
「……分かった」
ようやく腹を決めた涼也は、おもむろに廊下の窓を開いた。それから、近くの空き教室から椅子を持ってきて窓の下に置き、ひょいと窓枠に乗り上げる。ここから出るつもりらしい。
枠の上で少し屈んだ格好の涼也は、振り返って手を差し出した。
青い瞳は、やはり少しだけ不安そうだった。
「……絶対、傍から離れないで」
未佳とて傍で隠れているつもりなのに、彼は随分心配性だ。
祈るように差し出された手を、未佳は軽い挨拶のようにとった。
「もちろん。私だって怖いもん」
椅子を踏み台に、未佳も窓枠に立った。
ここは三階だ。下を見るとやっぱり怖いけれど、少年が何をしようとしているかはもう理解できる。
魂 だって、涼也や境界者 たちが一緒なら恐れなくても大丈夫だ。
空中に飛び出した少年少女を、飛竜が掬い上げ、二人は東の空に舞い上がった。
朝は、影のように寄り添う叶を伴って友人たちと登校し、教室では相変わらず隣で涼也が寝ていて、たまに声を掛けて他愛ない会話をした。
時折、猫みたいに遥がふらっとやって来て、適当な理由であちこちに居座り、飽きたらいなくなったり。
夕方になって部活動に移動すると、叶は美術室の隅で静かに佇んで待っている。なんとなく忠犬のようだと思ったけれど、言ったら怒られそうなので内緒だ。
そして部活動が終わると、叶とお喋りしながら帰る。
未佳にとっては、短いながらも充実した日々だった。
もちろん、
ただ、ひとつ気になっているのは……
「……ねぇ、涼也」
昼休み後の授業が終わってから、未佳は隣に声をかけた。
丸い背中で席につく涼也は、すぐに反応しなかった。
さっきの授業の最後に、教師が難しい宿題を残していったため、クラスメイトたちがあちこちで不満げな声を上げていた。教室内が騒がしかったから、もしかして聞こえなかったのかもと心配になった頃、少年はこちらに目を向けた。
宝石のようだった青い瞳は、とろんと溶けた飴玉みたいで、なんとなく前より色がくすんで見えた。
「なんか最近、すごく眠そうだね?」
例の護衛が始まった頃から、少年は、昼間に寝ている時間が増えたように思えた。
特に今日は、未佳が教室に来た時点でもう突っ伏していて、三時間目終わりにようやく顔が上がった。それから昼食直後からまた眠り、やっと今、体を起こしたところだ。
これまでは、授業が退屈だから寝ている感じだったのに、どうにも本気で寝ている様子なのが気になった。
怠そうな涼也は、重たい瞼を擦って呟く。
「……眠い……」
「ちゃんと寝れてないの?」
「まあ……」
「ほ、保健室行く? あ、認識されないからだめか……」
「うん……」
強烈な眠気のせいか、生返事でろくに会話もしてくれないのでちょっと寂しい。何か提案したくても、情報がなさすぎてどうすればいいのか分からない。
未佳がもどかしい気持ちで見つめていると、突然、青い目が見開かれた。
「……
「えっ……近い?」
「うん」
思わず身を強張らせながら聞くと、少年は廊下の方を指差した。中学校の東側ということらしい。
涼也は、学生服のポケットから当然のようにスマートフォンを取り出し、何やら地図アプリを見た後、気だるげに立ち上がった。驚いて、未佳は慌ててその袖を掴んだ。
「そんな、ふらふらな状態で行ったら危ないよ」
「いや……霊種だし、叶には……」
倦怠感のせいか、いつもより饒舌に答えてから、涼也は何かに気付いた顔で振り返った。
「でも、未佳の護衛がいなくなるのか……」
「え……」
未佳は目を丸くした。
この数日、涼也は、日中の
この状態でそれが成り立っていたのか甚だ疑問だが、それでも少年は気にしているらしかった。
(だったら……)
そうしている間に、教室の戸ががらりと開いて、次の科目の女性教師がやって来た。
クラスメイトたちが各々着席する中、未佳は逆に立ち上がって挙手した。
「先生、すみません! 頭痛がするので、保健室に行ってもいいですか?」
「え?」
教師もクラスメイトたちも、隣に立っていた涼也も、呆然と少女を見つめた。
注目を一身に集めた未佳は、体調不良を訴える者とは思えぬ真剣な目で、まっすぐ教師を見つめていた。
その目で見られて否定しきれなかったらしい女性教師は、おずおずと答えた。
「ど……どうぞ。じゃあ、付き添いは……」
「一人で大丈夫です」
未佳は会釈して、教室から出ていった。
ひとまず玄関に向かっていると、後ろから慌てた足音が近付いてきた。肩越しに見ると、予想通り青灰髪の少年が駆け寄ってくるところだった。
「ちょっと……未佳、何処行くの。保健室は、反対……」
狐につままれたような様子の涼也が物珍しくて、くすりと笑みが浮かんだ。
「頭は痛くないよ」
「……そうなの?」
「うん。叶ちゃんを助けに行かないといけないんでしょ? 私もついていくよ」
涼也が未佳の傍を離れることを懸念しているなら、逆に、未佳が涼也に付き添えばいいだけの話だ。
少年は、一瞬納得した顔をしたが、それでも表情は晴れなかった。
「……でも……危ないから」
「私がここにいると、涼也が動けないんでしょ。叶ちゃんも困るだろうし」
「そうだけど……」
涼也は、未佳——人間を守るという使命と、
ましてや、
それは未佳も分かっていたし、未佳だって怖いものは怖い。
でも、自分のせいで涼也が身動きをとれないなんて。
もし、そのせいで叶が怪我なんかしたら。
(どっちも、やだな)
だから、悩める少年の背中を押すように、未佳は言葉を添えた。
「ほら、ずっと飛竜の上に乗ってるようにするから」
「……分かった」
ようやく腹を決めた涼也は、おもむろに廊下の窓を開いた。それから、近くの空き教室から椅子を持ってきて窓の下に置き、ひょいと窓枠に乗り上げる。ここから出るつもりらしい。
枠の上で少し屈んだ格好の涼也は、振り返って手を差し出した。
青い瞳は、やはり少しだけ不安そうだった。
「……絶対、傍から離れないで」
未佳とて傍で隠れているつもりなのに、彼は随分心配性だ。
祈るように差し出された手を、未佳は軽い挨拶のようにとった。
「もちろん。私だって怖いもん」
椅子を踏み台に、未佳も窓枠に立った。
ここは三階だ。下を見るとやっぱり怖いけれど、少年が何をしようとしているかはもう理解できる。
空中に飛び出した少年少女を、飛竜が掬い上げ、二人は東の空に舞い上がった。