第12話 また明日
文字数 5,022文字
(……眠いな……)
制服姿の未佳は、朝から冴えない気分で学校の玄関で靴を履き替えていた。
土曜日、綺咲に助けられてからは何事もなく過ごした。日曜日はまったり過ごし、月曜日の朝を迎えたが、早く目が覚めてしまった。
知らないうちに、疲れた息が出る。
それを聞きつけた友人たちが、両脇からすかさず言ってきた。
「ミカリン、なんか眠そうだね? ドラマを見始めたら止め時が分からなくなって夜更かしとか〜?」
「そりゃ愛美だろ。今度は、何のドラマにハマって夜更かししたんだ?」
「サリー、マナだって早く寝ることあるよ~! 昨日は、九時に寝たんだから! 小学生みたいじゃない? お風呂上がってベッドに倒れたら朝だったんだよ! 最近、夜な夜な『リマインド』見てたからね!」
「安定の睡眠不足じゃねーか」
愛実と紗利奈は朝から元気だなあと他人事のように思いながら、未佳はあくびを噛み殺した。声が途切れたタイミングで、そっと答える。
「怖い夢を見て……早く起きたんだよ。最近、よく見るんだけど……」
「それは辛いな。睡眠不足で倒れそうになったら、我慢しないで保健室に行くんだぞ?」
「うん、頑張る」
「いや、頑張るとこじゃない」
「怖い夢って、お腹が痛くて手術したら、昔捨てたはずの人形が体内から出てきたとかそういう!?」
「愛実、お前は『リマインド』の見過ぎだ」
息をするような紗利奈の気遣いも、自分の世界で暴走しがちな愛実も、いつもの光景だ。
小さく笑って顔を上げると、玄関の向こうに眩しい光を見た気がした。
目で追ったまばゆい金色の髪は、黒いワンピースを着た少女だ。
一瞬、紫の瞳と視線が交わった。
けれど、叶はすぐに目を離した。まるで他人のような素振りだ。
思い返せば、涼也もそうだった。
向こうから声をかけてきたのは、命の危険や、説明をする必要がある時だけ。それ以外は、道ですれ違っても、まるで知らない人のように見て見ぬふりをする。
境界者 の不認知現象に巻き込んでしまうから、遠慮しているのだろう。
そうして知らんふりをするのは、実に慎ましやかだった。
「………………」
ちらりと横を見ると、友人たちは楽しげに会話しながら、未佳が靴を履き替えるのを待っている。
ここで叶に話しかけたら、彼女たちは未佳を待っていたことを忘れて教室に行くのだろう。
それくらいならいいか、と未佳は、近くまで移動していた叶を振り返った。
「叶ちゃん、おはよう」
黒い少女は、靴を履き替えているところだった。それだけは譲れないのか、外靴も上履きもブーツだった。
外靴を脱いだ叶は、不可解そうな顔をした。
「……おはようございます、未佳さん」
続いて、室内用の靴に足を差し入れ、ファスナーを引き上げながら言う。
「用がなければ、不用意にわたしたちに話しかけないことです。あなたの評判に関わります」
「えっ……」
思っても見ない言葉に戸惑ったが、すぐに合点した。
きっと、叶が言いたいのはこうだ。
境界者 に話しかけると、未佳の存在は誰にも意識されなくなる。
その不認知が働いている間は良い。
問題は、それが解除され、認知できるようになる瞬間だ。
普通の人間にとっては、さっきまで一緒にいたのに、気が付いたらいなくなっている……そんなふうに見えるはずだ。
家族や友人相手ならともかく、例えば教師と仕事をしていたのに、途中で境界者 と席を外し、別の場所で別れたら、教師はいつの間にか未佳がいなくなったように見えるだろう。
彼らに関わったせいで、未佳は怠け者だとうっかり評価されるかもしれないのだ。
思わず未佳が声を呑み込むと、顔を上げた叶は呆れた息を吐いた。
「何も考えずに声をかけてきたのですか」
「それは、その……だって、『おはよう』くらい言いたいでしょ?」
仲良くなったのに、目が合ったのに、何も言わずに通り過ぎるなんて。せめて一言、挨拶だけでもと、つい声をかけたのだった。
黒の少女の目元があからさまに冷え込んだので、未佳は慌てて話題を変えた。
「そ、そういえば! 叶ちゃんって、どうしていつもそういう服着てるの?」
苦し紛れに問いかけたのは、ずっと気になっていた彼女の服装だった。
今日もまた、叶がまとっているのは黒いゴシックワンピースだ。よく見ると、一昨日着ていたものと少しだけデザインが違った。
制服姿の生徒たちが行き交う朝の玄関で、闇を切り取ったような衣装はひどく場違いだった。教室でこの格好で席についている少女を想像するが、出来の悪いコラージュのようだ。彼女が立つべきはスクリーンの向こう側か、あるいは歌劇の舞台だろう。
役目のひとつである魂 討伐での利便を考えても、適している服装ではない。それでも、まるでそれが戦闘服であるように、彼女は頑なに黒のワンピースを着ている。
叶は無表情のまま、長い髪を翻した。
「あなたには関係ないでしょう」
それもそうか、と未佳は口を閉ざしたが、ふと気付いた。
(……もしかして、こういうのが好きだから?)
毎日、わざわざ爪先までコーディネートしている理由はシンプルだろう。
なんだか普通の女の子みたいで、未佳は人知れず、くすりと微笑んだ。
後を追いかけようと思ったら、叶の足が止まっていた。
前方を覗き込むと、青灰色の髪の男子生徒が壁に寄りかかっていた。
「……おはよ。二人とも」
「あれ? おはよう、涼也。珍しいね、いつも教室で寝てるのに」
「……何の用ですか」
相変わらず、叶が涼也に投げかける言葉は刺々しい。
対して、涼也は気にすることもなく端的に言った。
「暁斗兄さんが来てる。未佳に接触してた」
「……暁斗さんが?」
少しだけ見開かれた紫の瞳が、真偽を問うようにこちらを向く。未佳は慌てて、こくこくと頷いた。
「赤い目の境界者 の男の人と、会ったよ。よく分かんないけど、連れていかれそうになって……」
「……赤の瞳ですか。本物のようですね」
叶は、納得したように呟いた。
暁斗の凛廻家については、飛竜で家まで送ってくれた綺咲からざっくり聞いている。
夢の力を魂 に変換する鋳型を作った始祖の家系で、魂 使い。
強く遺伝するのが赤い瞳で、境界者 で赤の瞳なら凛廻家だそうだ。確かに黒髪だけなら珍しくないが、あの真っ赤な瞳は一度見たら忘れられない色合いだった。
ちなみに、睦月家は青灰色の髪、風切家は紫の瞳が遺伝因子として強いらしい。
「だから、俺と叶で、しばらく護衛する。明日から」
涼也は唐突に、決定事項のように言い放った。
驚いたのは未佳だ。要人のニュースやドラマでしか聞かない単語に、目を瞬く。
「ご、護衛って?」
「暁斗兄さんは……未佳を捕まえる気みたいだから。家に帰れないのは、未佳も困るでしょ」
「それは、そうだけど……」
(暁斗さん、そんなに悪い人じゃなかったような)
口にすると涼也に怒られそうな気がして、心の中で呟いた。
誘拐されていたかもしれないし、なんとなく不気味な瞬間は何度かあった。だが、あのまま連れて行かれても、暁斗はそれ以上はして来なかったように思えた。
「叶は、未佳の登下校についてて。学校にいる間は、俺がいるから良い」
涼也が言うと、叶は不服そうに少年を睨みつけた。
「普段の哨戒はどうするのですか」
「叶がやってるだけでしょ。もともと必要ない」
「あなたはもっと危機感を持つべきです」
「じゃあ、代わるように母さんに伝えとく」
「………………」
反論したつもりが颯爽と潰され、叶は少し考えた後、涼也を見て口を開く。
「何故、暁斗さんは、未佳さんを捕まえようとしたのですか。未佳さんは、やはり特殊なのですか」
涼也は、少しだけ口ごもった。
「……後で話す」
「涼也さん」
「暁斗兄さんの目的を測るのも兼ねてる。叶、やるよね」
それは、信頼というより事実を確認しているようだった。
叶は、人間を守るという使命を第一に行動している。現在、最も危険に晒されている未佳を守ることは、使命にも即しているだろう。
答えがもらえなかった風切家の少女は、不服そうに溜め息を吐いて、未佳を見据えた。
「良いでしょう。未佳さん、わたしは登下校時に傍で控えていますが、わたしには話しかけず、普通に過ごしてください」
「よ、よろしく……」
どんな日々になるのか想像つかなくて、未佳は今から緊張した。
友人たちと登校している時、叶も静かに傍らにいるのかもしれない。それなのに声をかけないのも、むずむずして落ち着かなさそうだ。
「……叶ちゃん、お家の事情とかないの?」
自分の登下校に付き合わせるのは申し訳ない気がしたし、叶に自由度がない。例えば、早く帰らないと行けない日はどうするんだろう。
気になって聞くと、少女は朝食の話をするように言った。
「ありません。一人暮らしですから」
「え……」
その言葉に重さがなかったからこそ、未佳は声を失った。
涼也には母親がいた。家族がいるなら、自分が思っているより孤独ではないのかもしれないと思っていた。
繊細な話題だと思って、恐る恐る聞いた。
「ご……ご家族は?」
「祖母がいます」
「別居してるんだ……?」
「わたしを嫌っていますから」
「そ……そっか」
断片的に返される言葉から、なんとなく事情を察することしかできなかった。
ご両親はとか、寂しくないのかとか、いろんな想いが溢れ、頭をぐるぐる回る。
昔から、悲しんでいたり寂しそうな人を見ると、つい声をかけてしまうのだった。それで粘着質な人に執拗に後をつけられたこともあって、愛美と紗利奈に、お節介もほどほどにするようにと怒られたこともあった。
友人たちに心配をかけるのは本意じゃないので、今は目立った行動を起こさないようにしているが、根っこは変わっていない。
(涼也に話しかけるようになったのも、一人だったからだし……)
そういう人を見かけると、気になって仕方ないのだった。
叶は学校でも家でも一人なのかと思うと、胸に風が吹き抜けるようだった。
使命に実直で、陰ながら人間たちを守っている綺麗な女の子が、誰とも縁を紡げないなんて、寂しい。
(……でも、叶ちゃんはいらないって言うだろうな)
初めて会った時、真っ先に記憶を消そうとしてきた少女のことだ。使命を遂行するのに邪魔なら不要と切り捨てるだろう。それが分かってしまうから、より寂しい。
せめてもの足掻きで、未佳は口を開いた。
「……あの、叶ちゃん。私、登校はいつも友達と一緒だけど、帰りは一人なんだ。だから帰りは、お話ししよう?」
「何故ですか」
「えっ……私が話したいからだよ」
何故と問われると思わず、思わずたじろいだ。叶はさっきのように何処か呆れた目をした。
「その時間に、わたしと長時間関わることはお勧めできません。ご家族が、あなたの分の夕食を作ることを忘れます」
「うっ……でも、傍にいるのに話さないのも気になるから。話そう!」
確かに下校時間といえば、家庭では夕飯の支度の頃合いだろう。正論だったが、計算してギリギリ大丈夫だろうと答えた。だめだったらコンビニでも行こう。
何にせよ、話しかけられたら、叶は返答せざるを得ない。真面目な性分だからこそ、きっと無視はしないという信頼があった。
話がまとまったのを見て、涼也は背を向けた。
「じゃ、決まり」
「もう教室に行かないとね。叶ちゃん、明日からよろしくね!」
未佳が笑って言うと、叶は妙な顔をした。別世界の言語を聞いたような、知らない挨拶をされたような顔だった。
「……明日……ですか」
アメシストの瞳は、不思議そうに揺れていた。
思わず足を止めたら、叶は髪を翻した。
「分かりました。明日の朝、ご自宅に向かいます。後ほど、住所を教えてください」
艷やかな金髪をなびかせて、黒の少女は立ち去った。
残された未佳は、教室に歩き出しながら、少し考えて気が付いた。
(……そうか)
きっと叶は、普通の人間と「明日」の話なんてしたことがないのだ。
未佳は新しい友達ができた感覚でいるが、叶からすると前の続きを話したり、明日の約束をする人間の方が異端なんだろう。
特異な人間は、記憶に残る。
もし私が忘れても、彼らはずっと、私のことを忘れないだろう。
遠い目をして、子供の頃に記憶を消した子を想った涼也のように。
(それって、良いこと……だよね?)
それが希望になるか、呪いになるかは分からない。
少なくとも今、未佳は彼らの未来に光を手向けたいと思った。
制服姿の未佳は、朝から冴えない気分で学校の玄関で靴を履き替えていた。
土曜日、綺咲に助けられてからは何事もなく過ごした。日曜日はまったり過ごし、月曜日の朝を迎えたが、早く目が覚めてしまった。
知らないうちに、疲れた息が出る。
それを聞きつけた友人たちが、両脇からすかさず言ってきた。
「ミカリン、なんか眠そうだね? ドラマを見始めたら止め時が分からなくなって夜更かしとか〜?」
「そりゃ愛美だろ。今度は、何のドラマにハマって夜更かししたんだ?」
「サリー、マナだって早く寝ることあるよ~! 昨日は、九時に寝たんだから! 小学生みたいじゃない? お風呂上がってベッドに倒れたら朝だったんだよ! 最近、夜な夜な『リマインド』見てたからね!」
「安定の睡眠不足じゃねーか」
愛実と紗利奈は朝から元気だなあと他人事のように思いながら、未佳はあくびを噛み殺した。声が途切れたタイミングで、そっと答える。
「怖い夢を見て……早く起きたんだよ。最近、よく見るんだけど……」
「それは辛いな。睡眠不足で倒れそうになったら、我慢しないで保健室に行くんだぞ?」
「うん、頑張る」
「いや、頑張るとこじゃない」
「怖い夢って、お腹が痛くて手術したら、昔捨てたはずの人形が体内から出てきたとかそういう!?」
「愛実、お前は『リマインド』の見過ぎだ」
息をするような紗利奈の気遣いも、自分の世界で暴走しがちな愛実も、いつもの光景だ。
小さく笑って顔を上げると、玄関の向こうに眩しい光を見た気がした。
目で追ったまばゆい金色の髪は、黒いワンピースを着た少女だ。
一瞬、紫の瞳と視線が交わった。
けれど、叶はすぐに目を離した。まるで他人のような素振りだ。
思い返せば、涼也もそうだった。
向こうから声をかけてきたのは、命の危険や、説明をする必要がある時だけ。それ以外は、道ですれ違っても、まるで知らない人のように見て見ぬふりをする。
そうして知らんふりをするのは、実に慎ましやかだった。
「………………」
ちらりと横を見ると、友人たちは楽しげに会話しながら、未佳が靴を履き替えるのを待っている。
ここで叶に話しかけたら、彼女たちは未佳を待っていたことを忘れて教室に行くのだろう。
それくらいならいいか、と未佳は、近くまで移動していた叶を振り返った。
「叶ちゃん、おはよう」
黒い少女は、靴を履き替えているところだった。それだけは譲れないのか、外靴も上履きもブーツだった。
外靴を脱いだ叶は、不可解そうな顔をした。
「……おはようございます、未佳さん」
続いて、室内用の靴に足を差し入れ、ファスナーを引き上げながら言う。
「用がなければ、不用意にわたしたちに話しかけないことです。あなたの評判に関わります」
「えっ……」
思っても見ない言葉に戸惑ったが、すぐに合点した。
きっと、叶が言いたいのはこうだ。
その不認知が働いている間は良い。
問題は、それが解除され、認知できるようになる瞬間だ。
普通の人間にとっては、さっきまで一緒にいたのに、気が付いたらいなくなっている……そんなふうに見えるはずだ。
家族や友人相手ならともかく、例えば教師と仕事をしていたのに、途中で
彼らに関わったせいで、未佳は怠け者だとうっかり評価されるかもしれないのだ。
思わず未佳が声を呑み込むと、顔を上げた叶は呆れた息を吐いた。
「何も考えずに声をかけてきたのですか」
「それは、その……だって、『おはよう』くらい言いたいでしょ?」
仲良くなったのに、目が合ったのに、何も言わずに通り過ぎるなんて。せめて一言、挨拶だけでもと、つい声をかけたのだった。
黒の少女の目元があからさまに冷え込んだので、未佳は慌てて話題を変えた。
「そ、そういえば! 叶ちゃんって、どうしていつもそういう服着てるの?」
苦し紛れに問いかけたのは、ずっと気になっていた彼女の服装だった。
今日もまた、叶がまとっているのは黒いゴシックワンピースだ。よく見ると、一昨日着ていたものと少しだけデザインが違った。
制服姿の生徒たちが行き交う朝の玄関で、闇を切り取ったような衣装はひどく場違いだった。教室でこの格好で席についている少女を想像するが、出来の悪いコラージュのようだ。彼女が立つべきはスクリーンの向こう側か、あるいは歌劇の舞台だろう。
役目のひとつである
叶は無表情のまま、長い髪を翻した。
「あなたには関係ないでしょう」
それもそうか、と未佳は口を閉ざしたが、ふと気付いた。
(……もしかして、こういうのが好きだから?)
毎日、わざわざ爪先までコーディネートしている理由はシンプルだろう。
なんだか普通の女の子みたいで、未佳は人知れず、くすりと微笑んだ。
後を追いかけようと思ったら、叶の足が止まっていた。
前方を覗き込むと、青灰色の髪の男子生徒が壁に寄りかかっていた。
「……おはよ。二人とも」
「あれ? おはよう、涼也。珍しいね、いつも教室で寝てるのに」
「……何の用ですか」
相変わらず、叶が涼也に投げかける言葉は刺々しい。
対して、涼也は気にすることもなく端的に言った。
「暁斗兄さんが来てる。未佳に接触してた」
「……暁斗さんが?」
少しだけ見開かれた紫の瞳が、真偽を問うようにこちらを向く。未佳は慌てて、こくこくと頷いた。
「赤い目の
「……赤の瞳ですか。本物のようですね」
叶は、納得したように呟いた。
暁斗の凛廻家については、飛竜で家まで送ってくれた綺咲からざっくり聞いている。
夢の力を
強く遺伝するのが赤い瞳で、
ちなみに、睦月家は青灰色の髪、風切家は紫の瞳が遺伝因子として強いらしい。
「だから、俺と叶で、しばらく護衛する。明日から」
涼也は唐突に、決定事項のように言い放った。
驚いたのは未佳だ。要人のニュースやドラマでしか聞かない単語に、目を瞬く。
「ご、護衛って?」
「暁斗兄さんは……未佳を捕まえる気みたいだから。家に帰れないのは、未佳も困るでしょ」
「それは、そうだけど……」
(暁斗さん、そんなに悪い人じゃなかったような)
口にすると涼也に怒られそうな気がして、心の中で呟いた。
誘拐されていたかもしれないし、なんとなく不気味な瞬間は何度かあった。だが、あのまま連れて行かれても、暁斗はそれ以上はして来なかったように思えた。
「叶は、未佳の登下校についてて。学校にいる間は、俺がいるから良い」
涼也が言うと、叶は不服そうに少年を睨みつけた。
「普段の哨戒はどうするのですか」
「叶がやってるだけでしょ。もともと必要ない」
「あなたはもっと危機感を持つべきです」
「じゃあ、代わるように母さんに伝えとく」
「………………」
反論したつもりが颯爽と潰され、叶は少し考えた後、涼也を見て口を開く。
「何故、暁斗さんは、未佳さんを捕まえようとしたのですか。未佳さんは、やはり特殊なのですか」
涼也は、少しだけ口ごもった。
「……後で話す」
「涼也さん」
「暁斗兄さんの目的を測るのも兼ねてる。叶、やるよね」
それは、信頼というより事実を確認しているようだった。
叶は、人間を守るという使命を第一に行動している。現在、最も危険に晒されている未佳を守ることは、使命にも即しているだろう。
答えがもらえなかった風切家の少女は、不服そうに溜め息を吐いて、未佳を見据えた。
「良いでしょう。未佳さん、わたしは登下校時に傍で控えていますが、わたしには話しかけず、普通に過ごしてください」
「よ、よろしく……」
どんな日々になるのか想像つかなくて、未佳は今から緊張した。
友人たちと登校している時、叶も静かに傍らにいるのかもしれない。それなのに声をかけないのも、むずむずして落ち着かなさそうだ。
「……叶ちゃん、お家の事情とかないの?」
自分の登下校に付き合わせるのは申し訳ない気がしたし、叶に自由度がない。例えば、早く帰らないと行けない日はどうするんだろう。
気になって聞くと、少女は朝食の話をするように言った。
「ありません。一人暮らしですから」
「え……」
その言葉に重さがなかったからこそ、未佳は声を失った。
涼也には母親がいた。家族がいるなら、自分が思っているより孤独ではないのかもしれないと思っていた。
繊細な話題だと思って、恐る恐る聞いた。
「ご……ご家族は?」
「祖母がいます」
「別居してるんだ……?」
「わたしを嫌っていますから」
「そ……そっか」
断片的に返される言葉から、なんとなく事情を察することしかできなかった。
ご両親はとか、寂しくないのかとか、いろんな想いが溢れ、頭をぐるぐる回る。
昔から、悲しんでいたり寂しそうな人を見ると、つい声をかけてしまうのだった。それで粘着質な人に執拗に後をつけられたこともあって、愛美と紗利奈に、お節介もほどほどにするようにと怒られたこともあった。
友人たちに心配をかけるのは本意じゃないので、今は目立った行動を起こさないようにしているが、根っこは変わっていない。
(涼也に話しかけるようになったのも、一人だったからだし……)
そういう人を見かけると、気になって仕方ないのだった。
叶は学校でも家でも一人なのかと思うと、胸に風が吹き抜けるようだった。
使命に実直で、陰ながら人間たちを守っている綺麗な女の子が、誰とも縁を紡げないなんて、寂しい。
(……でも、叶ちゃんはいらないって言うだろうな)
初めて会った時、真っ先に記憶を消そうとしてきた少女のことだ。使命を遂行するのに邪魔なら不要と切り捨てるだろう。それが分かってしまうから、より寂しい。
せめてもの足掻きで、未佳は口を開いた。
「……あの、叶ちゃん。私、登校はいつも友達と一緒だけど、帰りは一人なんだ。だから帰りは、お話ししよう?」
「何故ですか」
「えっ……私が話したいからだよ」
何故と問われると思わず、思わずたじろいだ。叶はさっきのように何処か呆れた目をした。
「その時間に、わたしと長時間関わることはお勧めできません。ご家族が、あなたの分の夕食を作ることを忘れます」
「うっ……でも、傍にいるのに話さないのも気になるから。話そう!」
確かに下校時間といえば、家庭では夕飯の支度の頃合いだろう。正論だったが、計算してギリギリ大丈夫だろうと答えた。だめだったらコンビニでも行こう。
何にせよ、話しかけられたら、叶は返答せざるを得ない。真面目な性分だからこそ、きっと無視はしないという信頼があった。
話がまとまったのを見て、涼也は背を向けた。
「じゃ、決まり」
「もう教室に行かないとね。叶ちゃん、明日からよろしくね!」
未佳が笑って言うと、叶は妙な顔をした。別世界の言語を聞いたような、知らない挨拶をされたような顔だった。
「……明日……ですか」
アメシストの瞳は、不思議そうに揺れていた。
思わず足を止めたら、叶は髪を翻した。
「分かりました。明日の朝、ご自宅に向かいます。後ほど、住所を教えてください」
艷やかな金髪をなびかせて、黒の少女は立ち去った。
残された未佳は、教室に歩き出しながら、少し考えて気が付いた。
(……そうか)
きっと叶は、普通の人間と「明日」の話なんてしたことがないのだ。
未佳は新しい友達ができた感覚でいるが、叶からすると前の続きを話したり、明日の約束をする人間の方が異端なんだろう。
特異な人間は、記憶に残る。
もし私が忘れても、彼らはずっと、私のことを忘れないだろう。
遠い目をして、子供の頃に記憶を消した子を想った涼也のように。
(それって、良いこと……だよね?)
それが希望になるか、呪いになるかは分からない。
少なくとも今、未佳は彼らの未来に光を手向けたいと思った。