第7話 知らない世界の話
文字数 4,766文字
低木の隙間から、
怖くて、涙が滲んで、体もがくがくと震えている。
でも、泣いちゃダメだ。
お姉ちゃんだから、泣いちゃダメだ。
泣いたら、怖がる子がいるから。
やがて——
上から覆いかぶさった闇に飲み込まれた。
*
びくんと大きく体が跳ね、驚いて目が覚めた。
開いた視界に映ったのは、見慣れた部屋の天井。夢だったと、心の底から安堵の息を吐いた。
「怖かった……」
嫌な音を立てて暴れる心臓を落ち着かせながら、未佳はベッドから起き上がった。全身にうっすらと汗もかいていて気持ち悪い。
変な夢だった。いまいち内容が判然としないのに、恐怖だけがこびりついている。
昨日の非現実的な出来事で、怖かったことが印象に残ったのかもしれない。
——空を飛ぶ飛竜。
——校庭に鎮座する大蛇。
——怪物たちを難なく壊滅させた、二人の人間。
否——本当に人間なのか?
(……シャワー浴びよう)
考えるのをやめ、ベッドから降りた。
机の上の時計を見ると、九時を差していた。昨夜なかなか寝付けなかったのもあり、平日より遅めの起床だった。今日が登校日だったら、また授業中に居眠りをしていただろう。
(昨日は大変だったな……)
怪物が消えた後、涼也はそのまま学校を去った。未佳は校内に戻ったが、すでに授業が始まっていた教室には入れず、休み時間になってからどさくさに紛れて席に着いた。
心配した愛美と紗利奈にいろいろ聞かれたが、何も言えるはずもなく、体調が悪くて保健室にいたことにした。そんな嘘を吐いた経験がなく、とにかく心臓が痛くて早く帰りたかった。
休日の朝は、ゆっくりできて気が休まる。
適当な着替えを揃え、部屋を出ると、階下から母の呼び声がした。
「未佳〜! 起きてるー?」
「はーい」
返事をして、玄関前に降りる階段を下る途中で、足が止まった。
母は、開かれた玄関に立っていた。宅配だろうかと見やると、ドアの向こうに見えたのは青灰色の髪の少年だった。
「……涼也!?」
予想外の来客にまず驚いた。
それから、今の状況を振り返り、だんだんと頬が紅潮していく。
起き抜けで、寝巻きに寝癖、寝ぼけた瞳。家族以外に見せられる姿ではない。
「おはよ」
それなのに涼也と来たら、こちらの心中を悟ることもなく、ぼんやりと挨拶してきた。
「未佳、もしかして今起きたとこなの? 早く着替えしちゃいなさい」
「あ、あう……その……ご、ごめん涼也! シャワー浴びてくるから待ってて!」
着替えを抱き締めて、未佳は風呂場に駆け出した。
少女の慌て様に、涼也は不思議そうに目を瞬いた。
*
青々とした綺麗な晴天の下、住宅街の端にある公園は楽しげな声で溢れていた。
走り回る子供たち、犬と散歩する女性などを横目に見つつ、隅のベンチに二人は腰掛けていた。
「……それで、何の用?」
未佳は言ってしまってから、思わず口を閉ざした。なんだか冷たい言葉になってしまった。
でも、ろくな説明もなしに外に連れ出されたから、理由くらい聞かないと不満が消えない。おかげで、途中コンビニに寄って買ったサンドイッチで現在朝食中だ。
見事な快晴だったので、未佳はお気に入りの生成色のワンピースを着て外出した。
玄関で見た時は、冷静に涼也の様子が見れなかったが、彼もまたいつもの学生服ではなかった。パーカーとゆったりとしたボトムスというラフな格好だったが、なんとなく洗練されて見えた。顔も整っている方だし、これでもし他者に認識されていたら、女子が放っておかなかっただろう。
(……そういえば)
涼也は、他人に意識されない。言い換えれば、どんな格好をしていようが気にされないということだ。
けれど、彼はちゃんと身なりを整えているし、毎日律儀に学生服を着ている。反対に叶は、それを理解してあの黒いドレスで学校にいるのだろう。
もしかしたら、彼は
手を伸ばせば、皆すぐそこにいるのだから。
「昨日のこと、説明しようと思って」
涼也は、グミを食べながら言った。
コンビニに行った際、涼也がどうやって物を購入するのか気になって観察していたが、店員は少し驚いた顔をして対応し、少年が去ると何もなかったように普通の顔に戻っていた。彼から話しかけると認識はされるらしいが、すぐに見えなくなるみたいだった。
「昨日って……怪物のこと?」
「うん。俺達のこととか」
「それだったら、午後に来ればいいのに……朝早すぎるよ」
連絡もなしに、九時に抜き打ちでやって来るなんて意地悪もいいところだ。そのせいで、こっちはひどい醜態を晒すはめになった。
恥ずかしくなってきて黙り込むと、涼也はきょとんと目を瞬いた。
「……そっか。早いんだ」
(……あ。そうか)
口をもぐもぐ動かしながら、ようやく気付いた。
少年は、ほとんど他者と関わらず生きてきた。だから、世間や同世代の常識はあまり分からないのだ。
きっと涼也にとって、休日の九時は早い時間ではないのだろう。彼なりに、この時間ならいいだろうと思って、自分の家に……来た?
「……あれ? そういえば、どうして私の家の場所、知ってたの?」
「俺もこの辺に住んでるから」
「……そうなの?」
「うん」
相変わらずのやりとりで、そこで会話は途切れた。
近所だったから、見かけたことがあったのだろうか。
だが、この近辺に住む同じ中学校の生徒は、他にも多数いる。自分だけが記憶に残るものなんだろうか。名前も知らなかったのに?
(……変なの)
釈然としないまま、口の中のものを呑み込んだ。紙パックの豆乳にストローを差して、思考を切り替える。
「……それで、説明しに来たって言ったね」
「うん。記憶が消せたら、必要ないけど」
「消すって……」
未佳ははっとして、肩を押さえた。
昨日、それぞれ二人が触れ、目を見つめた瞬間があった。そういえば、直後に叶がそんなことを言っていた気がする。
(……記憶を、消す?)
自分では何も忘れたつもりはないが、もし本当に記憶を操作されていたなら気付きようがない。
自分は、何を忘れたんだろうか。
記憶がなくなったら、どうなるんだろう。
今ここにいる自分は、あの時と同じ自分なんだろうか。
急に足元が崩れていくような気がして、頬を強張らせて少年を見返すと、彼は少しだけ悲しそうな顔をした。
「どうして、そんなこと……」
「普通の人には、俺達は意識できない。でもたまに、未佳みたいに見える人がいる。その時は、早く記憶を消さないといけない」
「………………」
「記憶を消すと、俺達も、
つまり、涼也や怪物が認識できる状態は危険だから、記憶を消すことで、怪物に狙われないようにしているのか。
確かに昨日も、飛竜を見た未佳は襲われたが、認知できない校舎の生徒たちは大丈夫と言っていた。
「認知する」ということは、「認知される」ということ。
深淵をのぞく時、深淵もまたこちらをのぞいているのだ——とは、有名な哲学者の言葉だったか。
意識の死角に恐ろしい化け物がいるなんて、早く知りたかったような、知りたくなかったような気持ちだ。
けれど涼也は、首を振った。
「でも、未佳の記憶は消せなかった」
「……そう、なの?」
「うん。未佳は何も忘れてない。俺も初めて」
「………………」
淡々と言う少年は、大事なことを言わない節はあるが、嘘は吐かない。
何も忘れてないと彼の口から聞いて、未佳は胸を撫で下ろした。
「そっか……よかった」
「……『よかった』? なんで?」
「え? うーん……」
まさか尋ねられると思っていなかった。さっきの心の動きを思い出して、丁寧に紐解く。
「もし、何か忘れてたら、自分が自分じゃない気がしたから……かな?」
「……忘れていたら、怖い思いはなかったことになるのに?」
飛竜に襲われたことや、大蛇を見て恐ろしいと感じたことだろう。
涼也も叶も見えなくなって、怖い思い出はなかったことになり、平穏な日常に戻っていたのかもしれない。
すべてを忘れ、忘れたということにも気付かず、真実を知る術はない。それが幸せか不幸せかは、今の自分に論じることはできないだろう。
怪訝そうな涼也に、未佳は笑いかけた。
「本当のことを知った今の私は、そう思うだけだよ」
「………………」
少年は不思議そうに、青い目を見開いていた。
やがて、正面を向いて、小さな声で呟いた。
「……子供の頃」
「?」
「記憶を消した子がいた。その子だけじゃないけど」
「………………」
「あの子も……そう思ってたかな」
独白は、賑やかな園内に煙のように漂った。
言葉少なに呟く少年の横顔は、遠い目をしていた。
彼が言うように、記憶を消したことがあるのは一人二人ではないだろう。
その中でも特別な存在だったらしい子を、遠く青空に思い描いている気がした。
子どもたちの笑い声が、二人の間をすり抜ける。
足元を見ていたら、涼也と自分の前に何かが転がってきた。土汚れがついた野球ボールだ。
「すみませーん、お姉さん! そのボール、投げてください!」
元気の良い男の子の声が聞こえて、顔を上げる。少し離れたところで、グローブを片手につけた小学生の男の子が大きく手を振っていた。
「あ、はい!」
指名されて、未佳はボールを手に立ち上がった。渾身の力で男の子に投げるが、軌跡は大きく逸れてしまう。しかし男の子は器用にキャッチして、笑顔で走り去った。
小さくなる背中を呆然と見つめてから、横目で涼也を見た。彼も、男の子の背を見つめていた。
「………………」
今のボールは、ほとんど涼也の前に転がっていた。それに今の未佳はワンピース姿だし、とても運動的な格好ではない。普通なら、隣にいた涼也を指名するのが妥当だろう。
隣にいても、会話が途絶えて互いの意識が散乱すると、涼也だけ見えなくなるようだった。
すぐ傍にいるのに、見えない壁があるようだった。
未佳は、ベンチに座り直して、口を開いた。
「……なんで、涼也たちは見えないの? 普通の人と変わらないように見えるけど……何が違うの?」
少年を初めて認識した時。今まで彼が見えていなかったことを思い知ったから、どうも「人には見えない存在」というのは理解していた。
とはいえ、納得したわけじゃない。この短い付き合いでも、涼也は急に消えたり、肌の色が保護色になったりはしない。同じように寝食するし、怒ったり笑ったり、やはり人間だと思う。
違うのは、人に意識されないだけだ。
生まれつきなのか。
自ら認知を断っているのか。
(……それは違う)
記憶を消そうとした時の悲しそうな顔が、雄弁に物語っていた。
きっとこの現象は、空に雲ができ雨が降るように、花が咲き枯れるように、定められたもの。
変えることができない、宿命。
涼也は、すぐには答えなかった。何から話そうか考えているようだった。
やがて、ぽつりと言った。
「現実の幻想や想像が反映される夢の世界が、ある」
「……え?」
「そっちにも人間がいるみたいで……ある日、こっちの世界にやって来た。夢の住人が、現実にやって来たんだ。こっちの人には誰も見えなかった。空気みたいだったって」
「………………」
淡白な声音が、何を言っているのか、半分も理解できなかった。
伝聞のような口ぶりは、読み古された伝承を語るようだった。
「……それは……本当のこと?」
「うん。たぶん」
「たぶん?」
「そう聞いてるだけで、夢の世界を見たわけじゃないし。でも、たぶん本当」
涼也は、空を仰いだ。
遠く遠く、空の向こうを見つめるようでもあった。
「夢の世界から渡ってきた人間の末裔が、俺たちだから」