どれほどの
街並を見たかは覚えていない。
如何ほどの
廃墟に
出会したかも覚えてはいない。
ただ、事実を情報へと更新すべく、
紅い
蝙蝠は飛び続けていた。
「この
有り
様では、一八〇体では
利かぬやも知れぬな」
屍軍の
未だ見えぬ実態を
懸念する。
A区画──B区画──C区画────行く先々は、
悉く
虐殺の
跡地であった。
そして、D区画。メアリーにとっても、特別な感情移入が
生じた居住区画である。
即ち、リック親子が住まう街だ。
「やはり、此処も……」
降り立つと本来の姿に戻り、メアリー一世は周囲を展望する。
同じであった。
建物や壁は暴力に崩れ、
夥しい
血痕が悲痛な
嘆きと断末魔の恐怖を
彩る。
「
宛ら内乱か暴動の
痕だな」
死体は無い……一体も。
在るはずがなかった。
それこそが敵の欲した〝素材〟であり、襲撃目的なのだから。
「この分では、あの親子も……」
自然と足取りは、例のボロアパートへと向いていた。
辿り着いた懐かしい
掃き
溜まりは、やはり
廃墟然と化けている。
軋む音に割れ朽ちた扉を開くと、安っぽいロビーへ足を踏み入れる。
静寂──荒涼とした霊気が、建物内部を
蹂躙していた。
「
耳障りで
下世話な
喧噪に感じたが、
現在となっては
微笑ましい
生活臭であったな」
階段を登り、
馴染みの部屋へと向かった。親子の無事な姿を
切望しつつ……。
だが、奥に見えた
戸口にゾッと
観念を
抱く。
辛うじて扉と機能しているものの、やはり襲撃の
痕が刻まれていた。
重い気持ちに立ち入る。
少年の姿は無い。
床に割れ落ちたランタンに面影を思い起こし、そっと卓上へと拾い置いた。
「……不憫な」
幼き身に苦労を
課せられながらも、明るく乗り越えていた
健気な生命力を
偲ぶ。
「こほっこほっ」
「っ!」
不意に
咳込む声を聞いた!
隣の部屋──つまり、母親の寝室だ!
一縷の希望を再燃させ、その部屋へと駆け込む!
ベッドの上に
半身を起こした
病姿を確認した!
「
母君、無事であったか!」
喜びに寄り支える。
「ああ……ああ! リャム様!」
「……そうか、そうであったな」
カリナが
悪戯心に付けた
偽名を思い出した。
とはいえ
疎ましくも、それはもういい。
いまは母親の無事が何よりだ。
「リックは、どうされた?」
「うう、あの子は……あの子は!」
母は泣き
咽び、声を詰まらせるばかりであった。
そこからメアリーは、少年の末路を察する。
「どうやら遅かったようであるな……許されよ」
再襲撃を予見できなかった
己の
迂闊さが恨めしい。
(カーミラ様には盟主として日々追われる責務がある。そして、カリナ殿は客人……居住区管轄の義務は無い。だが、せめて
我だけでも警戒に目を光らせていれば、未然に防げたはず!)
ひたすらに甘さを
悔いる。
が、母から聞かされたのは、予想外の
顛末であった。
「こほっ……あの子は
浚われました……
浚われたのです」
「何と!」
驚きを隠せない。
敵の目的は〝死体確保〟にある。
なればこそ多くの犠牲者を出しさえすれ、
拐かす意図が読めない。
「
母君、詳しく聞かせてはくれまいか? 今回の襲撃、どのような
経緯であった?」
「襲撃の惨状については、私も詳しくは存知ません──何せ病床の身ですから、
表の
様子を見に行く事が叶いませんので」
「御存知の範囲で構わぬ」
「二日前の事です……リャム様も
既に御承知の事とは思いますが、突如として死者の軍勢が襲撃してきたのです」
(二日前? それではバートリー夫人の
謀反後日ではないか。そんな直後から、ゾンビ増産へ
胎動していたというのか)
確かに
盲点ではあった。あれほど大きな
謀反劇の直後では、誰しも再襲撃など思いも寄らないだろう。
「老若男女問わず一人残さず殺され、そして、その死体を〝動く死者〟が区画外へと運び出して行きました。私が無事でいられたのは、おそらく此処が〝隠れ部屋〟のような構造だったからでしょう。私はリックと一緒に部屋へと
籠もり、息を潜めておりました」
「では、その時点ではリックも?」
「無事でした。けれど
程なくして、
他者の気配を感じたのです」
「この部屋に直接……か?」
「はい。それは前触れも無く、まるで湧き出るかのように部屋の
隅へと現れたのです。女でした──黒いローブを
纏った浅黒い女でした」
その容姿と出現経緯から、メアリーは直感する!
(おそらく、カーミラ様から聞き及んでいた〝魔女ドロテア〟に違いあるまい。此処を見つけたのは探知魔法か、
或いは……
我等の妖気が
残り
香となってしまったか)
しかし、目的が『死体集め』ならば、何故ゾンビに襲撃させず、
自らが
赴いたのか?
疑問は深まる。
黙考へと
耽るメアリーに、母親は続けた。
「その者は怯える私達親子を見て、意地悪く薄ら笑いを浮かべました。そして、こう言ったのです──此処にも
手土産があったか──と」
「
手土産 ?」
「最初は意味が分かりませんでした。ただただ死者の襲撃と、目の前の怪異に
怯え震えるばかりだったのです。やがて、その者は
抱き
庇う私から
剥ぎ取るかのように、リックを奪いました」
「
外道な。して、目的らしき事は言わなかったか?」
「どうやら襲撃に乗じて、子供や赤子を
浚っているようでした。そして、私に対して、こうも言っておりました──キサマは不要だ。どうせ
直に死ぬ。
病に
冒された体など、役には立たん──と」
「……なんと心無き暴言よ」
おそらく母は短命を自覚している──だがしかし、
斯様に追い打ちのような言葉を吐いて許されるはずがない!
メアリーの胸中に、
非道へ対する怒りが
沸々と込み上げた!
独白吐露で
堰が切れたか……母親はメアリーの手へと
縋ると、必死に
懇願する。
「リャム様、どうかカリナ様に御伝え下さい! あの御方なら、きっとリックを御救い下さるはず!
何卒!」
「
相分かった。そなたは何も案ずる事はない。カリナ殿には必ずや伝えよう。そして、私も
尽力を惜しまぬ」
「ああ、有り難うございます」
ようやく安心したのか、母親の白い手から力が抜け落ちた。
「これは……」
一瞬、メアリーは違和感を覚える。
半身起こしだった母親の姿は、直後の眠り姿と重なり合って消えた。
まるでフェードアウトするかのように……。
幻視的な感覚ではあった。
そして気付けば、ベッドに横たわっていたのだ。
母親の頬へと、そっと触れてみる。
体温は無い。
「そうであったか……
既に」
おそらくメアリーが来る前には亡くなっていた──
何時かは断定できないが。
それでも息子の身を案じ続け、救いの手を求めていたのだ。
深き母性が縛った
幽霊である。
「何も心配する事はない。神は
心正しいそなたを必ずや
御導き下さる。安らかに
逝くがいい」
神に許されぬ〈
魔〉は、それでも
福音を
説いた。
優しくも
不憫な魂の
為に……。
カーミラは、たゆとう。
無限に広がる赤き波へと……。
鮮血の
大海は
裸身を優しく
包み、
深淵なる
癒しを
与え
給うた。
微睡みにも似た
緩和感覚は、彼女の〈
個〉としての境界線すらも融解するかのようである。
もしもそうなったら、はたして主導権を握るのは〝
自分〟か〝
赤〟か──そんな黙想に
戯れた。
仰向けの視野へと映り込む大空は、夕暮れの如く淡い朱に染まる。
赤海の反射によるものだろうか。
「フフ……フフフ…………」
思わず細く零れた。
その声音は小悪魔的に愛らしい。
「赤く染まる空か……なんだか懐かしいわね」
旧暦時代に眺めた夕景を想起させる。
愛しい〝ローラ〟と眺めた情景を……。
闇暦では久しく見ていない光景に、カーミラは懐古的な安堵感を抱いた。
「
貴女は、どうなのかしら? わたしと同じく、そう思えて?」
無造作に投げた
訊い
掛けは、けれども
独り
言ではない。
頭側に立つ人影へと向けたものである。
カーミラは視線だけを動かし、相手を
見定めた。
憂いと
虚無感を等しく宿した少女──見た目の年齢は自分と変わるものではない。
それなりの身分を主張している黒いドレスは、しかしながら
端々が
煤け
破れていた。無情なる
歳月の
刻印だろう。
緩やかに
波掛かった金髪は、
所々に赤の宝石が散りばめられている。
深雪のように白い肌だが、かといって少女自身は病弱な心象にない。むしろ
硝子細工のように繊細な美貌からは、底知れぬ不敵さすら
孕んだ冷徹な
貫禄も感じられた。
不思議な少女ではある。
外見の可憐さとは不釣り合いな
貫禄が
醸し出されながらも、それが
破綻無く同一化していた。
だからこそ、カーミラは親近感を覚える。
永遠の処女性と、悠久を噛み締めた
末に
至る
達観──それは彼女自身が持つものと
同質だからだ。
「ようやく会えたわね、ジェラルダイン──我が血統の
始祖」
ジェラルダインは何も語らず、ただ淡々と子孫へと
見入っていた。
意思の
疎通は、それで充分だ。
ジェラルダインの瞳が語り掛け、カーミラが無言の意図を
汲む。
「ええ、そうだと確信はしていたわ。あの剣を手にした時から。やはりカリナ・ノヴェールは、私と同じ──
貴女の血統なのね。わたし達は〈ジェラルダインの牙〉を
組敷いたわけじゃない……
貴女自身の意思で
助力をしたのでしょう?」
古の魂が淡い
黙視に
慈しんだ。
アイコンタクトでもテレパシーでもない。
血の
系譜のみが可能とした魂の共鳴であった。
「不思議なものね。
貴女は、わたしの〝
親〟ではない。けれども、実の親より強い
絆を
課している」
医学的には〈
隔世遺伝〉というものがある。父母よりも祖父母からの遺伝が強く出る現象だ。
カーミラとジェラルダインの関係も、それに近しい。
ただし、祖父母などという近親的距離ではない。
原初吸血姫は、
遙か昔に血脈の
礎を
築いたのだから。カルンスタイン家の
発端よりも、
遙か昔に……。
「
貴女達〈
原初吸血鬼〉は人間と
交わり、その〝呪われし血〟──
即ち〝
呪血〟を脈々と受け継がせてきた。そうした交配種が歴史の中で分岐していき、やがて各地で家系となる……
我が〝カルンスタイン家〟や〝バートリー家〟のように。
俗に言う〝
呪われし家系〟かしらね。ただし〝
呪血〟は次第に
希釈化し、
系譜者からも〈吸血鬼〉の特性が失われてしまう。
永い歴史に
於いて
人間の血が濃くなるのだから当然ね。そうした中で、
稀に〈
先祖返り〉を
覚醒する
異端が
現れる──
わたしみたいに」
カーミラ──いや〝
マーカラ〟以外には、カルンスタインの家系に〈吸血鬼〉は存在しない。彼女の両親も、数代後の子孫である〝ローラ〟も、純然たる〈人間〉だ。
「転生プロセスに
他者の
介入が無いだけに、
貴女達〈
原初吸血鬼〉の魔力素質がダイレクトに遺伝するのよ。これが〈
血統〉と呼ばれる
所以──
云わば
貴女は、私にとって〝
会った事すら無い母親〟なのよ。
或いは〝歴史の彼方に存在した母体〟かしらね」
カーミラの結論通り〈
原初吸血鬼〉と〈
血統〉の関係性は、
それに
尽きる。
生体的な
柵は関係ない。悠久なる時代の
隔たりすらも意味がない。
ヘソの緒や家庭の群像が刻み示す関係性ですらない。
純粋に〝
潜在因子によって直系的覚醒を果たした魂〟が全てである。
そして、これが
鼠算的に増産同属化する〈覚醒型〉以降とは一線を
画する理由でもあった。
仮に第三者たる吸血鬼によって同属化させられたのならば、カーミラとて〈覚醒型〉に属する存在となっていただろう。それは吸血行為を
経て、
呪血が不純化するからだ。
だが、カーミラは
自発的覚醒を
果たした。原初世代たるジェラルダインの血を、高純度のまま受け継いだのである。
そして、カリナ・ノヴェールもまた、そうした
希有な存在の一人であった。
「
初見から感じてはいたのよ……それが〝
何か〟までは判らなかったのだけれど。だから〝親密な友達〟になれそうな気がしていたのね」
独り
合点を
呟き
漏らす。
「けれどね、ジェラルダイン。カリナは自分の出生すら知らないのよ。これって奇妙だと思わなくて?
愛剣として守り続けてきた
貴女なら、何か知っているのじゃないかしら?」
上目遣いで真意を求めるも、
始祖たる娘は沈黙に見つめ返すだけであった。威風と慈愛を宿す瞳には有益情報が何も込められていない。
「自分で確かめろ……か。それって意地悪な試練よ?」
意向を
汲んだカーミラは、それ以上の追求を諦める。
とはいえ、一つだけ確信も
抱けた。
ジェラルダインは
慈しみ、見守っているという事実だ。
自らの
血を
受け
継ぐ
娘達を……。
その深い母性に
嘘偽りは無い。
「
度重なる
謀反に、
貴女との
邂逅──次々と転機が表層化している。だとしたら、そろそろ
潮時かしらね……カリナを〈
レマリア〉と決別させるにも」
重い気持ちを、目の前に広がる
朱へと投げた。
憎まれるのは
勿論、場合によっては
一戦交える覚悟も必要となるだろう。
「それは〝
姉妹〟たる〝
わたし〟の役目でしょうね」
静かに
含まれた決意を、ジェラルダインが
穏やかな
微笑で受け取った。
やがて赤の世界は揺らぎ、
怒濤が
全てを溶かし
呑んだ。
「っ!」
覚醒に眼を見開き、カーミラは
棺から
半身を起こす!
なみなみと
注がれた鮮血を
波飛沫と
零して!
白の
吸血姫は、魂の最深層から帰還を果たした。
未成熟な
裸身が毒々しい
滑りに
照り
染まる。
彼女専用の
棺は、
生命の赤に満ち
溢れていた。
「此処は……」瞬間的な
一瞥で必要な情報を吸収し、
自らの状況を
把握する。無惨に
半壊しながらも
豪奢な室内装飾が、謀略の
痕を
刻んでいた。吹き抜けとなった壁からは熱風が侵入し、赤いビロードカーテンを
弄ぶ。おそらく投石機等によるダメージだろうが、
悉く見慣れた部屋の
面影が残っていた。「わたしの部屋?」
「カーミラ様! 御無事で!」
聞き慣れた声が
安堵に駆け寄る。
「メアリー?」
「心配致しました。発見した時は、
既に意識の無い状態でしたから」
「では、これは
貴女が?」
「はい。調査から帰ってみると、血の海に倒れる
貴女を発見致しましたので。適切な再生処置さえ
行えば
蘇生するとは思いましたが、賭けでもありました。何せ、経過時間が分かりませんでしたから」
「そう……心配を掛けたわね」
淡い
微笑みで安心を
授け、
棺から起き出た。
装束を用意するメアリーが、事の真相を
訊ねる。
「それにしても、いったい何があったのですか?」
「
謀反です」
手伝われながら
袖を通し、カーミラは簡潔に伝える。
「
謀反? この交戦下にですか?」
「逆に
好機だったのかもしれないわね」
「カーミラ様相手に誰が? よもや、カリナ殿が?」
「いいえ、ジル・ド・レ卿です」
「ジル・ド・レ卿? まさか?」
「本当よ。もっとも油断を突かれた形ではあるけれど」
事実を伝えながらも、カーミラの胸中には
拭えぬ疑問が
芽生える。
(何故、ジル・ド・レ卿は
止めを刺さなかったのかしら)
腹部を
貫いた程度では死なない──それはジル・ド・レ卿も重々承知のはず。
そして、無抵抗と
化したカーミラを〝吸血鬼殺し〟の手段に
下すのは
他易い。
にも関わらず、何故?