カリナの疲労はピークに達していた。肉体的に……ではない。精神的消耗だ。
そもそも〈吸血鬼〉は〝
死人返り〟であると同時に〝
幽鬼〟の
類でもある。スタミナによる束縛など無いに等しい。
されど〝
心〟は、そうではない。
「何処だ……何処に行ったんだ……レマリア」
回廊の石段へと腰掛け、
呟き
耽る。
まるで不安定で
脆い印象であった。普段の孤高は見る影も無い。
現在の彼女は、単に無力な少女に過ぎない。
そもそも悲劇の
発端は、カリナが自室を離れていた事に
遡る──
即ち、ジル・ド・レ率いる防衛部隊が出陣した直後だ。
興の臭いを嗅ぎとった黒の
吸血姫は、好奇心のままに城外へと飛び立った。城壁の
天辺で足組ながらに腰掛けると、冷ややかに
眼下を
眺める。
喧噪けたたましい
下界には、
既に
苛烈な戦いが展開していた。不毛な
潰し合いは、単に
柘榴の
肴でしかない。
「まるで
蟻の縄張り争いだな」
高見に観察する
黒集りは、カリナの目にそう映った。
頻りに散る
赤花だけは華々しいが……。
「さてと、御手並みを拝見させてもらうか」
吸血貴族達の迷走を期待し、攻撃的にほくそ笑む。
戦況などは、どうでもいい。ただの退屈
凌ぎだ。
「片や選民意識に溺れた死体、片や自我損失に動かされる死体──どちらにせよ、殺し会うのは〝
死体〟同士だ。そして、生き残るのも〝
死体〟……
滑稽だよ」
嘲りに満ちた
達観を
漏らす。
別段〈
不死十字軍〉へと加勢する気など無い。どのみち、自分は招かれざるべき部外者だ。
と、尾を
靡かせながら飛来する
幾条もの
紅蓮!
火矢だ!
敵陣後方からの遠距離攻撃である!
次々と
射られる炎の加勢!
それさえも、カリナは冷静な分析で片付けた。
「デッドと違い、ゾンビには道具を使う応用性がある。それを
課す指示者がいれば……な」
仮に吸血鬼の城が
陥落しようと、
無頼者の自分には影響など無い。
堅固な石壁に
阻まれ、
火矢が落ちていく。
奇跡的な
流れ
弾が、カリナへと目掛けて飛んできた。
しかし、彼女は微動だにしない。
微かに顔だけをずらして
避ける。
脆弱な炎がチリッと頬の横を過ぎた。
「投石機でも据えれば良かろうよ」
数本は窓から城内へと飛び込んでいたが、だからといって戦局を
覆す事などあろうはずもない──そう
高を
括っていた。
直後、城内からの炎上!
勢いに
息吹いた炎が、窓から
雄叫びを上げた!
「何っ?」
予測外の事態である!
悪運強く部屋へと辿り着いた
火矢が、可燃性の内装へ引火したに違いない!
瞬時に脳裏を
過ぎったのは、何よりも優先されるべき保護対象──レマリアの存在!
「マズい!」
判断も
束の
間、無数の炎が降り
注ぐ!
敵は休む
間すらなく放ち続けた!
次々と容赦無く撃ち込まれる灼熱の流星群!
「チィ、確実に城窓狙いか……有効策と判断したな!」
種火と
種火が
互いに
助長し、巨大な
轟炎へと
化ける!
外敵を堅固に
退け続けるロンドン塔は、しかし内部から
蝕まれていた!
一際大きい爆発!
城郭の一部が吹き飛ぶほどの威力であった!
「クッ! 火薬庫でも誘爆したか!」
それが何処に在るかなど知らない。知ろうとする気さえ起きない。どうでもいい情報だ。
肝心なのは、その
炎害が
我が子へと
及ぶ危険性!
城塔の一角から、爆音を帯びた
巨炎が生まれ
弾けた!
頑強な石壁が内側から瓦解する!
それは、カリナの恐れる箇所──
即ち、自室の近くだ!
「レマリアァァァアア!」
噴き昇る熱風を
孕み、黒い
外套が
魔翼と
膨れる!
それを
滑空の
術と転じ、カリナは城壁から飛び降りた!
「いま行くぞ! レマリアァァァアア!」
渾身の叫びに大きく
旋回すると、防壁を
貫いた穴から内部へと
潜り
入る!
到達した先は、まるで爆撃跡のように崩壊していた。状況把握に左右を見渡すも、
焦臭い
粉塵が見通しの邪魔をする。普段ならば霊気漂う陰湿な通路は、破壊の
痕によって荒々しく
賑わっていた。中には通路幅の大半を占拠する
瓦礫も有り、爆発被害の深刻さを物語っている。
「クソッ! 無事でいてくれよ、レマリア!」
武骨な進路障害を物ともせず、カリナは駆け抜けた。ひたすらに目指すは自室──それ以外に関心は無い。
もはや
戦の
顛末など、どうでもいい!
吸血鬼だろうとゾンビだろうと、好きに
死に残れ!
件の爆発は、やはり自室付近にも被害をもたらしていた。
半壊した部屋の扉が視野に入ると、カリナの疾走が拍車を増す。
「レマリア!」
室内へと飛び入ると同時に叫ぶ!
瞬間、
愕然と立ち尽くした。
あまりの惨状である。
チロチロと
目障りな
息吹。可燃性の
餌に爆炎の子供が
貪りついていた。崩れ倒れた石壁が、全てを重圧に
潰す。意匠に凝った家具類も見事に粉砕し、いまや木材の
屑でしかなかった。
視界が悪い。
濛々とした煙が
滞っているせいだ。
「レマリア! サリー! 何処だ!」
「ぅぅ……」
虫の息を気配に感じた!
「サリーか?」
血の匂いを頼りに捜索すると、老婆は大きな瓦礫の下に埋もれていた。
鎮座する障害物を片腕払いに
退ける!
華奢な腕とはいえ〈吸血鬼〉の腕力は超人的だ。
「ぅぅ……ぁぁ……カリナ様?」
引き
摺り出されたサリーが、
霞む意識に
主を認識した。
見るも痛々しい無惨さだ。右腕は引き
千切れ、両足も
膝下から
潰されている。
「サリー、しっかりしろ!」
「ぅ……」
「レマリアは……レマリアは、どうした!」
「ぅ……ぁ……」
どうやら言葉を
紡ぐ事も
儘ならない様子だ。いや、そもそもカリナの
訊い
掛けすら、耳に届いてないのであろう。それほどの重傷だった。
これ以上は
酷と
悟り、カリナは質問を中断する。
それよりも、現状で優先すべきはサリーの救命処置だ。
「待っていろよ、いますぐ
屍棺安置室まで運んでやる」
肩を貸して
担ぐと、彼女は
荷重を
負って歩き始めた。
この重みは、そのまま命の重さだ。
数少なくも
心許した存在だ。
失いたくはない──
否、失ってはならない。
現ロンドン塔の地下には、幾つかの増築施設が在る。
全て〈吸血鬼〉の必要性によって要求されたものだ。
それは
糧を貯蔵する〈
血液貯蔵庫〉であり、
或いは血液搾取用人間を
捕らえた牢獄であった。
此処〈
屍棺安置室〉も、そうした
一環となる。過剰ダメージを負った〈吸血鬼〉が、再生休眠を
試みる場所だ。言うなれば、彼等の〝集中治療室〟というところか。
石造りの部屋は陰気な冷涼が支配していた。光源と照らすのは、古ぼけた蛍光灯。そのせいか、弱々しくも薄暗く浮かび上がる。色濃く充満する鉄分臭は、言うまでもなく血の匂い。床一面を埋め尽くす無数の
棺桶は、規律然とした列構成で安置されていた。奥行きに連れて暗くなるため、部屋の
端を見通す事は難しい。
戸口の脇へと据えられた
樫卓には、青年吸血鬼の姿が在った。見た目にも明らかなティーンエイジャーである。外見に限っては。
彼──〝マーティン・エドワード〟は、此処の管理番であった。
青年吸血鬼は文庫本の黙読へと
耽入り続ける。それだけ
暇な部署という事だ。彼にしてみれば、日課として
課せられた時間の浪費でしかない。
「無理解の果てに蓄積していく社会的阻害感と、それが暴発した激情か──
宛ら〝ムルソー〟の孤独は、僕達〈吸血鬼〉が内包する心情と似通い過ぎているな」
小説の主人公へと感情移入を
漏らす。
「もっとも、僕達は死後転生する事で
柵から解放されたけど……果たして、それは
幸いだったのか不幸だったのか」
皮肉な
顛末を
自嘲に乗せた。
「
人身堕落と引き替えに得た物は、永劫に死ねない無限地獄だ。
如何に
辛い現実が在ろうとも、直視して生き続けなければならない。
或いは、それこそが
摂理に
反した者への
神罰かもしれないな……」
直後、けたたましく叩かれる
樫戸。
ささやかな楽しみを
阻害され、彼は
溜め
息混じりに『異邦人』を閉じた。
物臭に扉を開ける。
と、青年は思わず息を
呑んで
見惚れた。
戸外に立っていたのは、
黒外套の少女。
艶やかな赤髪のツインテールがキュートであった。しかしながら、未成熟さが残る顔立ちには凛然とした気高さが共存している。
彼女が肩を貸しているのは、
肉塊寸前の老婆──
血塗れで、
四肢の損傷も激しい。右腕が
千切れていたが、それは少女が持っていた。
ツインテールの少女は、鋭い口調で簡潔に言い放つ。
「スコットランド、グラスコー地域だ!」
「何だって?」
「
床土だ! 早く用意しろ!」
器量の足りない管理番に、カリナは切迫を叫んだ!
気圧されたマーティンが、たじろぎつつも応対する。
「ああ……いや、用意するまでもなく有るよ。此処には在城吸血鬼の
床土を
敷いた棺桶が、常時保管されているからね。幹部吸血鬼たちは、各自の部屋に個人所有しているけれど」
「能書きはいい! 何処だ!」
「中央の列、奥から六番目……」
聞くが早いか、カリナは連続した跳躍に突き進む。他の棺は踏切扱いだ。
「コレか!」
目的の棺を手早く見つけると、まどろっこしさに
蓋を蹴り跳ねた!
老婆と右腕を棺内へと納め、次の手順を語気荒く指示する。
「血だ! 再生用の血液を注げ!」
「そんなに
焦らなくとも、すぐに出来るよ。血のバケツで運ぶわけじゃないんだから」
マーティンは壁に通る金属管へと向かった。その脇にフックしてある大口径のホースを取ると、老婆の棺へと
凭れ差す。再び管まで戻ると、据えてあるバルブを
捻った。
ホース先端から流れ出る毒々しい赤。同時に、鮮度高い鉄分臭が室内へと充満し始める。
「この供給管は貯蔵血液庫に直結してるからね。即時対応可能なのさ」
カリナは無視に
徹していた。深刻な
面持ちで見つめるのは、なみなみと
注がれる貯蔵血液。
「サリー、
暫く我慢しろよ。
直に傷も痛みも
癒える」
慈しむ鼓舞を残して、彼女は棺の
蓋を閉めた。
踵を返す
黒姫をマーティンが後追いする。
「ねえ、キミ?」
「なんだ」
振り返りもせずに無愛想を返した。
突っ
慳貪な態度にも心折れず、青年吸血鬼は続ける。
「本気で言ってるのなら申し訳ないけれど、彼女は相当な深手だ。だから、その……再生する可能性は低い。気休めでしかないよ」
「知っている」
「知っているだって?」
「そもそも〈吸血鬼〉という身に
於いても、サリーの魔力底値は低い。
況してや老体では厳しいダメージだ。確率は五分以下だろうよ」
「それが判っていて、何であんな?」
立ち止まったカリナは、
苛立ちに睨み返した。
「キサマなら言えるのかよ──救かる見込みは低い……などと!」
胸ぐらを掴んで激情を
吼える。
「そうか……キミも〝ムルソー〟なんだね」
「何?」
「クールな仮面を装っても、本当は人一倍強い激情家なんだ……だから苦しむ。人知れずね」
「……
戯言を!」
怒気を
削がれ、
畏れ知らずの若者を解放した。
持て余す
憤りに唇を噛む。
しかし、気持ちを切り替えねばなるまい。現状は最優先すべき問題があるのだから。
歩を再開したカリナは、
憮然とした態度で命じる。
「いいか、死なせるなよ」
「無茶ぶりだなあ。ま、やれる事はやってみるよ」
管理番は困惑気味に軽い苦笑を返した。
頼りない管理番に事を任せると、すぐさまカリナは自室へと駆け戻った。
「レマリア! 返事をしろ! 無事なんだろう! レマリア!」
四方に我が子の無事を求めるも、返事は無い。
「レマリア! 声を出すんだ! レマリアーーーー!」
やはり返事は
疎か、
生命の気配すらも感じない。
だが、それは心のどこかで予感していた事ではあった。
「いない……この部屋には」
では、何処に?
「死んでなどいない……死んでなどいるものかよ!」
そう、必ず何処かにいるはずなのだ。
城内の何処かに……。
何よりも〝
血〟の匂いがしないではないか。
「きっと一人で避難したのさ。日頃から危険の回避方法は教えてあるからな。そうだ──そうとも」
それだけを
頑なに信じ、カリナは魔城を汲まなく捜し続けた。
「何処にいる……レマリア」
回廊の石段へと腰掛けると、力無い声が
掠れ
漏れる。
捜索の
甲斐は無かった。
心の
拠を見失った
現在の彼女は、単に
脆い少女に過ぎない。
困憊状態にあって、カリナは喪失感を抱きしめていた。
初めて体験する〝心細さ〟と共に……。