紫翼は
墜ちた。
宛ら、天界から追放された
堕天使の如く。
否、そんなに
尊厳めいたものではないだろう。
単に
闇空から
滑り落ちる
投棄物だ。
地表へと
叩きつけられた衝撃に、
夥しい
土煙が
渦の
幕と広がる。
その
渦中で鳴った
骨身が
潰れる不快音は、爆発的な
轟音で
掻き消された。
「が……は…………」
地面を
抉るクレーターの中央で、起点たるエリザベートが
瀕死の
苦悶を吐く。
半身をめり込ませた彼女を核として、無数の
罅が
力強く放射状に伸びていた。
墜落衝撃の
凄まじさが
察せるというものだ。
全身が
砕骨しているのが自覚できた。
内蔵も
殆ど破裂している事だろう。
にも関わらず、彼女は死んではいない。
虫の息ながらも息絶えてはいない。
ここに
於いて〈
不死者〉の特性が恨めしかった。
死なぬとは言ってもダメージはある。
現状、小指ひとつ動かせなかった。
明らかな
致命傷過多だ。
さりとも
棺で再生休眠していれば、数日で復活できるだろう。
それが〈吸血鬼〉の特性だ。
しかしながら、それが叶うはずもない。
むざむざと敵が見逃すはずもないのだから……。
気配を感じた。
異なる方向から、ふたつだ。
ひとつは、自身が転落した上空からフワリと柔らかく舞い降りて来た。
もうひとつは、コツリコツリと冷たい足音を響かせ歩いて来る。
それらが誰かは言うまでもない。白と黒だ。
「エリザベート……」
視野の外からカーミラが呼び掛けてくる。
温厚な口振りからは、明らかな哀れみが
汲めた。
未だ
朽ちぬ
自尊心には
屈辱的だ。
言葉
交わす
宿敵を
睨みたくもあったが、
瀕死の
身体では
生憎と首を動かす事も叶わぬ。
「いまにして思えば、
露骨に
悟れる
手数は
誘うための
揚動であったか」
「ええ。
貴女が推察した通り、わたしは左腕を負傷していた。その時点で、左腕は
餌と割り切ったのよ」
「
何故、
詰めは借り物で? 愛用の
茨鞭ではなく……」
「密着体勢では
鞭なんて使えないわ」
「
成程……最初から
連携の
奇策有りきであったか」
「まさか? カリナの
助太刀は
咄嗟の判断よ」
「何?」
「ああ、思いつきで投げてやっただけだ」
醒めた口調は、カリナ・ノヴェールのものであった。
「カーミラがキサマを
縫い付けた時点で、何を
姦計しているかは
大方察しがついたからな」
「あら、
以心伝心ね。
察してくれて
嬉しいわ」
「ぬかせよ。どうせ
最初から、
己の右腕を
杭とするつもりだっただろう」
愛らしい白の
微笑みを、黒が
無愛想に
避わす。
「もっとも、
アレを使いこなせるかは
賭けだったがな」
挑発めいて
含み
笑うカリナ。
その
品定めに
似た視線が、カーミラには意地悪くも思えた。
気持ちを切り替えた少女盟主は、再びエリザベートへと関心を移す。
「エリザベート・バートリー──
貴女は
軽視できない切れ者。わたしは
常々、そう思っていたわ」
「……
随分と
買い
被ってくれたものだな」
「真性の武闘派であるジル・ド・レ卿には、武力面では
及ばないでしょう。けれど、メアリー一世と五分に渡り合えるだけの実力と
知慮を
内包している。そんな
好敵手を相手取るには、
虚を突く
奇策が必要だと判断したの」
「
好敵手……か」
宿敵が
無作為に発した言葉を拾い、強く噛み絞める。
エリザベートにしてみれば、カーミラ・カルンスタインは徹底的に
疎むべき
仇に過ぎない。
だが、カーミラの方は、そんな自分を尊重すべき〝
個〟として見ていたという事だ。
(……
器が
違うたか)
認めざる
得ない──
遅過ぎではあったが。
妖妃が
永らく
抱いていた野心は、いま此処に
潰えた。
もはや
未練すら無意味だ。
「さあ、殺すがいい。覚悟はできている」
「殺すのは構わんが、その前に
訊いておきたい事がある」
カリナが
尋問を向ける。
その
声音は、あくまでも冷淡であった。
「
訊きたい事だと?」
「キサマは
先程〝
ドロテア〟と叫んでいたな。
察するに
従者の名だろうが、何者だ?」
「クックックッ……そんな事か」
「ああ、そんな事だ」
互いに
交わす
乾いた
探り
笑い。
ややあって、エリザベートは素直に語り出した。
このような結末になっては、
私事情報を
隠匿する事に意味など無い。
何よりも、自分を見捨てた裏切り者へと
一矢報いたい思いもあった。
「
アレは生前からの
従者よ。黒魔術の
師事がために、
我が
雇うた。
我を〈吸血鬼〉へと
誘った者でもある。以来、ヤツは
我の片腕として付き
従った。もっとも、最後には見限ったらしいが」
「そいつ自身は〈吸血鬼〉ではないのか?」
「違うな。ヤツは〈魔女〉──
即ち、
大別的には〈
人間〉だ。ただし、その実力は本物だがな」
「〈魔女〉……か」
推察するに、今回の
謀反騒動には大きく一枚噛んでいる──
下手をすれば
黒幕だ。
エリザベート自身に野心があったにせよ、それを
賢しく利用したに過ぎないのだろう。
利害合致や忠誠心があれば、主人の勝負所で雲隠れなどしない。
そう確信を
抱きながらも、カリナは
口にせず
伏せた。
眼前で
絶えようとしている敗者に対する、せめてもの
手向けであった。
各人の黙考が、
暫しの静寂を
生む。
それを
緩やかに
破ったのは、
諭すように
柔和な
抑揚であった。
カーミラ・カルンスタインである。
「ねえ、エリザベート? もう一度やり直せないものかしら?」
「……何?」
「確かに思想や理念で、わたしやメアリーの
対極にあるかもしれない。けれど、
貴女ほど有能な人材は
惜しいと思うのよ。だって、そうでしょう? なあなあと同調しただけのぬるま湯では、
更なる意識向上は望めないもの。そうした
見地も、また
一石を
投じる
貴重な意見。最近は
殊更にそう考えるようになったわ」
述べつつ
見遣る相手は、近況で一番の
不穏分子。
「……私を見るな」
意味深な視線に気付いたカリナは、
不貞気味に顔を
逸らした。
「
敢えて〝
毒〟となれ……と?」
「言葉は悪いけれど」
「……どこまでもアマいな、カーミラ・カルンスタイン」
なけなしの
反骨で
悪態をつきながらも、いまのエリザベートには
温情が痛かった。
身中の虫ですら
蟲毒と受け入れる
器量は、エリザベート自身には無い。
彼女の
根底を
成す自尊心と憎悪──それを
軟化させていく
慈母的な安らぎ──そして、そんな心情変化を
頑として認ようとしない拒絶と敵意。
それらが
混然となって、彼女の
情緒を
攪拌する。
短い
沈思の後、敗将は決断を呟く。
「…………行け……捨て置け」
「エリザベート?」
「
謀反者と
裁く気も無ければ、
我が
軍門に
下る気も無いと言う……そんな
生殺しの
晒し者にするぐらいなら、せめて無価値な
屍と捨て置け」
次期盟主の野望は
潰えたとしても、
己の
軌跡を否定する気など無い。
それでは、
心底から
醜過ぎる。
謀反者の意地を
逸早く
察したのは、孤高を
我が身と知るカリナであった。
だからこそ、黒の
魔姫は無関心を
装って
踵を返す。
「……行くぞ」
「カリナ?」
あまりに淡泊な対応に
戸惑うカーミラ。
既に
足早く先行した
黒外套を
後追いに駆け、白の
吸血姫は
酌量を
訴えた。
「待って、カリナ! あのまま放置していては、エリザベートは……」
「最悪、
朽ちるだろうな」
懸命に
訴える顔すら見ず、カリナは黙々と歩き続ける。
「
棺で再生休眠を
採れば復活もできようが、
床土すら無い野外放置では再生能力の発現は
芳しくない。
総ては負傷程度と個人の魔力にもよるが、あの
具合では……な」
「それが分かっていて、何故?」
「分かった上でヤツは選択した。本人が
下した決断に、
我等がとやかく言う
筋はあるまいよ」
「けれど!」
諦めの悪い温情を
一瞥し、カリナは冷たい言葉に突き放した。
「オマエの
甘言に乗るような
恥れ
者なら、私が斬り捨てている」
どこか寂しさを
孕んだ口調に、カーミラは思い出す。
望めど
叶わず死んでいった連中の無念を
腐るほど見てきた──かつて、カリナが
吐露した言葉だ。
故に、それ以上は食い下がるのをやめた。
現状に
於いて誰よりもエリザベートの心境を理解しているのは、
幾多の〝
死〟を見てきたカリナ自身なのだから。
後ろ髪を引かれる思いであったが、二人の
吸血姫達も、また
誇り高き選択を
下したのである。