ロンドン塔敷地内には
幾つかの
城搭が
聳えている。
双色の
吸血姫が連れられた場所は、その内の一つ〝ブラッディ・タワー〟であった。
「ずいぶんとカビ臭い場所だな」
カリナの毒突きを拾い、カーミラが簡潔な説明を
挟む。
「この塔は、かつて拷問処刑場でもあったの。
故に現在でも、多くの拷問器具が眠っている。
闇暦現在では利用されてないけれどね」
「ィェッヘッヘッ……そいつは、どうかねぇ? ま、お楽しみって事で……おおっと、此処だ此処だ」
ようやく目的の部屋へと到着し、
卑しい案内人は
軋み鳴く扉を開いた。
「こ……これは!」
あまりの惨状に言葉を失う
吸血姫達!
霊気と冷気が
滞る蒼い
石室──
時代の眠りから再利用された
痕跡を赤々と刻む拷問器具の数々──そして、
処狭しと散乱する死体の山!
子供! 子供! 子供! 子供! 子供!
吸血鬼ですら
噎せるかと思える
血腥さが部屋中に充満していた!
「これは……まさか、ジル・ド・レ卿が?」
思い当たる吸血騎士の
性癖に、カーミラは絶句した!
「ま、そういう事らしいな。いつから再発したかは知らねぇが……おっと、コイツだコイツ」
室内を慣れて探る死神が一人の子供の前で
止まる。
見覚えのある少年であった!
「この子は……っ!」
驚愕するカーミラ!
居住区で出会った
少年だ!
「何故、この子が此処に?」
「ィェッヘッヘッ……
浚ったのは〝魔女ドロテア〟さ」
「まさか、ジル・ド・レ卿と魔女は通じていたの?」
「いんや? あのショタコン騎士と魔女は通じてねぇよ。けど、まあ〈
魔女〉とは通じてねぇが〈
魔術師〉とは通じていたってトコかねえ? ィェッヘッヘッ」
ゲデの
示唆は意味が判らない。
判らないが……少年を守れなかったという後悔の念だけは、
獄刑のように彼女達を痛ぶった。
この少年だけではない。
惨たらしい部屋で
弄ばれた幼き
命──その全てに対する
懺悔だ。
虫の息で
喘ぎながら少年の瞳は縋っていた。
自責に拘束されたカーミラを
余所に、カリナが少年の脇へと歩み寄る。
「何が言いたい?」
片膝着きに
覗き込み、優しい瞳で
訊ねた。
「ゼェ……があ……ちゃ……」
言葉を
紡げぬもどかしさに幼い腕が伸びる。体を動かす事など叶わないというのに……。
懸命に
訴えようと震える手を、
黒姫の両手が柔らかく
包み込んだ。
「心配するな、オマエの母は無事だ」
苦しみ
喘ぐ少年の顔が
安堵を覚える。
母親が死んでいるか生きているか──真実は知らない。
それでもカリナは、そう
告げた。
「オイ……ラ……どうじで……ごんな……?」
「……私の強さは知っているな?」
「う……ん」
「なら、安心して待っていろ。吸血鬼如き、敵ではない」
「……うん」
苦しそうに、嬉しそうに、命が
微笑んだ。
慣れた母性が優しく
撫でる。
直後、少年が
吐血に
咳込んだ。
最期は近い──だからこそ、カリナは
呈する。
「ひとつだけ選ばせてやる……私と共に
生きるか?」
「ぎゅ……げづぎ?」
「ああ」
事の
成り
行きをカーミラは
黙して見守る。
その確固たる
眼差しは、この後の展開を信じているかのようであった。
「どうする? 私と共に来れば、そんな苦しみからは永遠に解放されるぞ?」
されども、少年は困ったように首を振る。
「ううん……があちゃ……の……子……いい……」
「……そうか」
黒の
吸血姫は
慈愛に
微笑んだ。
予想通りの返事であった。
望んだ答えであった。
少年の
瞼をそっと
綴じると、凛然とした
所作にカリナは立ち上がる。
厳かに引き抜いた
紅き
刃が小さな胸へと
切っ
先を
定めた。
「私を信じろ。痛みなど無い」
そして、魔剣は
墓標となり、幼い命を生き地獄から解放した。
約束通り、一瞬たりとも痛みなど与えずに……。
暗い静寂──。
またひとつ命が
逝った。
たった数時間で、
尊き魂が続けて
逝った。
重い現実だ。
「さて……と、じゃあ約束通り教えてやるかね。お嬢の過去を──」
頃合いを
見計らい、ゲデが切り出す。
「アンタはカルンスタイン令嬢が言う通り〈ジェラルダインの
血統〉だ……って、それはいいか。聞きてぇのは、そっから先だろうからよ。ま、
百聞は
一見にしかずってな。直接見た方が早ぇ。オレの手間も
省ける」
「直接見る? どうやって?」
怪訝を浮かべるカーミラに、
酒瓶呷りの優越が答える。
「
霊視を
共有してやるって話よ。コイツもまた、出血大サービスだ……ィェッヘッヘッ」
そして、ゲデの
卑しい目は
目映くも
毒々しい
赤光を
垂れ
放ち、
吸血姫達を悪夢へと
呑み込んだ。
旧暦中世、イギリス・ウェールズ地方に存在した
しがない田舎村──。
風そよぐ小高い丘にカリナ達は降り立った。
空は清々しいほど青く、萌える草花は健全な生を
息吹いている。
足下の緑が風に
撫でられる
度に、
仄かに甘い香りが
鼻腔を
擽った。ラベンダーの香りだ。見渡せば遠景に山々が見え、
丘陵を越えた先には質素な集落が日常を
営んでいた。
「なんだか懐かしいわね、この正常な光景は……」
周囲の情景を展望したカーミラが、しみじみと懐古に
浸る。
「どうやら村の
外れか」
呟いたカリナは奇妙な違和感を覚えた。
己の両手を視認し、
更に全身を
眺め
回す。
まるで
幽霊のように自分自身が
透けていた。
いや、彼女だけではない。カーミラも、ゲデも──全員が霊体化しているではないか。
「幽体化した覚えはないが……」
途惑いを察知した案内役が、安い優越感で教示する。
「
現状のオレ達は〝時空を越えた意識体〟そのものだ。ただ
眼前の出来事を鑑賞するだけ……どう逆立ちしても史実に介入できないようになってるのさ。つまりは〝時空の摂理〟ってヤツだ。ま、
アチラさんも
コチラを見る事が出来ねぇがな……おおっと、来た来た」
急に身構えるゲデの注視を追った。
一人の娘が丘を登って来るのが見える。
純白ドレスに、
花摘みのバスケットケース。赤い髪はツインテールに
纏められていた
その少女を見るなり、
吸血姫達に衝撃が走る!
とりわけ、カリナの驚愕は
殊更に強い!
「アレは……
私?」
「この村の領主〝アンカース家〟の娘──それが
生前のアンタだよ」
「なるほどな。だから、キサマは〝
お嬢〟と呼ぶ……か」
「まあな」
「に、しても──」過去の〝
自分〟を、まじまじと観察する。「──まるで
真逆だな。実感が
涌かん」
自嘲に
苦笑う。
どちらかと言えば、カーミラ
寄りのお嬢様だ。
血腥い生き方に身を投じる自分と同一人物には思えない。世間知らずが
滲み出た雰囲気は、むしろイケ好かないぐらいだ。
花摘みに
座るアンカース令嬢が、ふと背後へと気を取られる。誰かを待っているかのようだ。
小さな人影が、せっせと
駈けて来た。
その姿を視認した瞬間、カリナは絶句に
固まる!
「まさか……レマリア?」
絞り出した声が震えていた。
懐かしさと、
寂しさと、
愛しさと、哀しみ──
鎮静化していた
総ての感情が息を吹き返す。
「レマリアーーーーッ!」
思わず駆け出していた!
感情に支配されるままに!
ただ
愛しさのままに!
「ああっと! 待てよ、お嬢!」
制止の声など知った事ではない!
歴史の改変が、どうした!
あの
温もりと安らぎが再び得られるなら、
時空神にさえ
唾を
吐こう!
駈けて来る我が子を
片膝着きに待ち、
抱擁せんと両腕を広げた。
「此処だ! 私は此処にいるぞ、レマリア!」
されど屈託のない笑顔は、
待ち
詫びる母性を
擦り
抜けていく。
「もう! わたし、まってっていったのよ!」
満面の笑顔で幼女が抱きついたのは〝忌まわしき
吸血姫〟ではなく、
清廉貞淑な〝アンカース令嬢〟であった。
「おねえちゃん、ズルい! わたし、こどもなのよ! おそいんですからねーだ!」
「うふふ、ごめんなさいね。さあ、
膨れてないでこっちへいらっしゃいな。ダリヤやラベンダーが一杯よ?」
「わあ、ほんとなの! これ〝おはなばたけ〟なのよ?」
「そうよ? 綺麗でしょう」
「うん、きえいね」
噛み締める
虚無感には、背後から聞こえる
微笑ましい
戯れが残酷だった。あまりにも残酷過ぎた。
現実の無情を突きつけられた
黒外套を、ゲデが
嘲笑う。
「ィェッヘッヘッ……だから言ったじゃねぇかよ? オレ達ァ〝時空を越えた意識体〟そのもの。過去には介入できねぇんだよ」
「……分かっている」
「意識体が
抱擁しようなんざ笑っちまわぁ。
況してや相手は
過去の史実に過ぎねぇ。金縛りにすら出来ねぇよ」
「分かっていると言っている!」
癇癪のままに
吠えた!
さぞかし失意に沈んでいる事だろう──
卑しい
下衆根性は、それを期待してほくそ笑む。
しかし、立ち上がった
美姫は、意外にも
気丈を
保っていた。
「そうか……あの子供が〈レマリア〉の
前身か」
「ありゃ? 思ったよりも平然としてやがらぁ」
「
意のままにならぬ現実など、とっくに受け入れている」
「クソッタレなタフさな事で」
正直、カリナにしても平気なわけではない。
傷心は
癒えてなどいなかった。
むしろ
一生拭えぬ。
それでも、受け止めるだけの
強さを学んだ──いや、ふたつの
尊き
命によって
授けられた。
後は〈現実〉に
呑まれるか
否か……それだけの話だ。
無論、言うほど簡単ではないが。
「……あの二人、姉妹なのか?」
「ああ、あのチビスケはアンカース令嬢の妹──つまり〝生前のアンタ〟の妹さ」
「……そうか」
実感を
伴わない
思い
出を
眺め続けた。
心を満たしてくるのが〝嬉しさ〟なのか〝寂しさ〟なのかは、彼女自身にも判らない。
月明かりがテラスから射し込む。
穏やかな気候だ。寝苦しさは無い。
にも
拘わらず、アンカース令嬢は寝汗に
蝕まれ苦しんでいた。ネグリジェを乱し、
苦悶に
喘ぎ続ける。
「ぅぅ……ぁぁ……ハァ……やめ……て」
艶めかしく悩ましい
様は、まるで
夢魔の
夜這いに
遭っているかのようであった。
その
辱めを、カリナ達はベッドの
傍に
佇んで
眺めた。
「……どういう事?」
「それはどちらの意味だ、カーミラ?」
「どちらも……よ、カリナ。わたし達はさっきまで
花香る
丘陵に居た。けれど、気がつけば此処にいる──時間帯も変わってね。それに……」苦しみ
悶え続ける
寝姿を心配そうに見つめる。「生前の
貴女、とても苦しそう。この苦しみ方、ただの〝
悪夢〟じゃなくってよ?」
「ああ、微弱ながら魔力を感じる。
残り
香にも近いものだがな」
彼女達〈吸血鬼〉が吸血行為に
通う
際、似たような事象を獲物へと
課す事がある。相手に催眠効果を及ぼし、
夢幻の中で
貪るのだ。
常套手段のひとつだ。
眼前の
痴態は、それと同じ
臭いがした。
「さて……と、まずは軽く説明してやるかねぇ?」
耳障りな
濁声が、
揚々と解説を名乗り出る。
「まずは〝時間と場所の
推移〟だが、コイツは自然と
生じるのさ。時間
軸は〝生前のお嬢〟で、観察対象は〝
吸血姫へと
変貌した
経緯〟だ。それを基準として
眺めているわけだから、関係事象だけをピックアップして過ぎていくって
寸法さな。そうでもなきゃ、
一生分の時間経過を付き合わなきゃならねえ。クソ長ぇ
駄作映画の
垂れ流しみてぇなモンだ。とてもじゃねぇが、オレでさえ
御免だね」
実体無き
葉巻を深く吐いた。
「で、お嬢を気持ちよ~く
悶えさせている──」カリナの
殺気を感じ、
愉しげに言い直す。「──苦しめている〝
悪夢〟だが、いまは
野暮に語らねぇよ。それこそが今回の〝
肝〟だしな。ただし、相手は
チンケな〈
夢魔〉なんかじゃねぇ。それだけは教えといてやらぁ」
「ハァ……ぃゃ……ぃゃ……」
「この現象は毎夜続き、
日毎に強くなっている。今晩で五日目
辺りかねぇ?」
「ぅぁぁぁあああーーーーっ!」
突然、アンカース嬢が絶叫に
反り
跳ねた!
それは絶頂にも悲痛にも似た叫び!
呼応するように、
吸血姫達は真っ赤な波動を感じる!
カーミラは身に覚えがあった。
魔剣を手にした時の荒れ狂う波動だ。
ただし圧迫感は、あの時の比ではない。
「こ……この波動は?」
「まさか〝ジェラルダイン〟か?」
「イヤ……イヤァァァアアーーーーッ!」
悪夢の餌食が激しく乱れ苦しむ!
と、赤き圧迫が次第に
鎮まっていった。
汗塗れに
紅潮したアンカース嬢は、
荒息ながらに軽く
痙攣している。
「ィェッヘッヘッ……果ててやんの」
「……殺すぞ、キサマ」
いつもよりも気色悪く感じるニタリ顔を、カリナが殺気任せに
睨めつけた。
「けれど、これでハッキリしたわね。生前の
貴女を
魅入っていたのは──」
「──ああ、間違いなく〝ジェラルダイン〟だ」
カーミラの
演繹を、カリナが
忌々しげに噛む。
ややあって、アンカース令嬢が起き上がった。
その表情に自我は
窺えず、
虚ろな瞳は
仄かに赤く
灯っている。
「やはり〝催眠効果〟を植え付けたかよ」
「いいえ、カリナ。どちらかと言えば、これは〝遠隔支配〟だわ。何故なら〝ジェラルダイン〟自身は訪れていないのですからね」
「さすがは〈
原初吸血姫〉だ。たいした〈
怪物〉だよ」
皮肉を吐き、
柘榴を
齧った。
アンカース令嬢が虚脱的に
滑り出たのは、夜風吹き抜けるテラス。
「いよいよ迎えに来るのかしら?」
「オマエなら、そんな面倒を
敷くか?」
カリナの指摘に、カーミラは
苦笑いで首を振る。
「いいえ、あそこまで
操れるなら、
呼ぶわね」
観察対象が
芝庭へと跳んだ!
まるで猫のように、しなやかな身のこなしで!
二階の高さから物音
一つ立てずに!
「あら、この頃から体術に覚えがあって?」
「……なワケあるかよ。どう見ても、
アレは運動音痴な
箱庭飼いだ」過去の自分を
誹謗するのは、なんとも奇妙な感覚だ。「遠隔支配で身体能力までコントロールしてやがる。まさに〈
怪物〉だな」
思わず腰の魔剣へと警戒心を向けていた。
白い夢遊病が辿り着いたのは、閑散とした石造りの
間であった。奥には祭壇のような
角石が祭られており、
一振りの剣が気高く突き刺さっている。
魔剣〈ジェラルダインの牙〉だ。
その前まで進むと、アンカース嬢は崩れ落ちた。
様子を見る意識体が気配すら
生まずに会話する。
「おい、ゲデ……此処は何だ」
「此処は〝ジェラルダインの墓〟だな」
「……何?」
「人も寄りつかねぇ
墓地裏の
雑木林──そこには見つけにくい
祠があってな。ま、
或いは魔力で
見つからねぇようにしてるのかもしれねぇが……ともかく、その中だ」
「じゃあ〝ジェラルダイン〟は、この村で
最期を?」
食いついてきたカーミラを
一瞥すると、
葉巻蒸かしの
物臭が答える。
「さあねぇ?
或いは此処で一度死んで、また復活した可能性はあるが……相手は〈
伝説上の怪物〉だ。オレ
等とは存在自体が格違い。その真相詳細なんか
把握出来ねぇよ。何にせよ、此処に〝ジェラルダインの想い〟が強く
遺されているのは事実だがな」
アンカース嬢が
朦朧とする意識を起こした。
眼前に構える剣を認識した
途端、その表情が
強ばる。
「アナタなのね……毎晩、私を苦しめているのは!」
わなわなと抗議の
声音を震わせているのが、怒りか恐怖かは
定かにない。
「何故? 何故、私を苦しめるの? アナタとは会った事すら無いというのに!」
傍目に不可解な状況であった。
彼女の反発は魔剣へと向けられたものではある。
しかしながら、その口調や態度は明らかに〝
物〟へと向けられたものではない。目の前に居る〝
何者か〟へと向けられたものだ。
「どういう事かしら?」
「おそらく
見えているのさ。いや、
見えるようにされているのかもな」
「それって〝ジェラルダイン〟の魂?」
「
或いは魔剣に
巣食う残留思念だ。どちらにせよ〝選ばれた〟って事さ……クソ
忌々しいがな」
哀れな
贄の抵抗が続く。
「なんでよ! なんで毎晩『血を吸え』と
強いるの! そんな異常で恐ろしい事を、私にさせようとするの!」
愁訴が涙を
含んでいた。表情も
感極まりつつある。
「アナタは恐ろしい精神異常者よ! そして、私にも
一線を越えさせようとしている! 悪い仲間に引き込もうとしている!」
必死な無力を
眺め、黒の実力者が零した。
「どうやら相手を〈
吸血姫〉とまでは認識していないようだ。まだ〈人間の異常癖性者〉だと勘違いしてやがる」
我ながら馬鹿らしい
白痴さだ。情けなくて笑えてくる。
「私は狂ってなんかいない! 血を飲みたいなんて思ってない!」
一心不乱に頭を振って、否定し続けた。
それが何にもならぬ事を〝カリナ・ノヴェール〟は知っている。
「
血液嗜好症は無かったのかしら? 強引に〝ジェラルダイン〟から植え付けられた?」
「いや、潜在的に有ったはずだ──何せ〈
血統の
覚醒〉だからな。さもなくば、魂の共鳴など起きん。その現実を直視出来ず、駄々に拒絶しているだけさ」
とはいえ、それは〈
人〉で在り続けるには大事な線だ。
屈した者こそ〈
外道〉へと
堕落する。
「もう、やめてよ! 父様も、母様も、村の人達も……そして、レマリアさえ──大事な人が、みんな
美味しそうに見えるの! その肌の下に熱く赤い物が流れていると思うと、食らいつきたくなるほど
渇くのよ!」
アンカース嬢は
蹲まり、苦しみの
吐露に
啜り泣いた。
「それを理性で
組み
敷くのが、どれほど苦しい事か! アナタに分かって?
猟奇を美徳とするアナタに〈
人間〉であろうとする心が理解出来て?」
魔剣は黙したまま語らない。
が、傍観する魔姫達は意思意向を感じる事が出来た。
「……次だな」
カリナが確信を
呟いた直後、それは現実の展開となる。
「い……いや!」
アンカース嬢の
身体が、本人の意思とは関係無く動かされ始めた。
「これって、まさか強制支配を?」
「ああ、遠隔支配の延長だろう。まったく……強引な手に出てくれる」
魔剣が
強いたにせよ〈
原初吸血姫〉が
強いたにせよ、
己が〈
吸血姫〉と
化す瞬間を見るのは気分がいいものではない。
「いや……やめて……いやよ!」
理性を振り絞って抵抗するも、少女の
細腕は
不可視の
剛腕で無理矢理動かされた。
「私は、アナタの〈
娘〉なんかじゃない! 私は〝アンカース家〟の娘よ! 御父様と御母様の娘なのよ! 絶対に〈吸血姫〉になんかならない! なりたくない!」
クシャクシャに泣き崩れた顔で、それでも〈人間〉としての尊厳に
縋り続ける。
されど、強大な〈魔〉の前では、小鳥の
囀りに過ぎなかった。
震える手が着実に
柄へと伸び、そして──。
「いやあぁぁぁーーーーっ!」
彼女は呪われし魔剣を引き抜いた。
血塗られた
業と共に……。
夜風は
穏やかだった。
窓から吹き込む
風精霊が踊る
度に、幼き寝顔は髪や
頬を
撫でられて笑う。
夢現で、いい匂いがした。
レマリアが大好きな人の匂いだ。
だから、ゆっくりと意識が覚める。
お姉ちゃんが胸へと沈めてくれていた。
髪を
撫でる優しさは、いつからか風の
戯れではなかったようだ。
「……ん、おねえちゃん?」
寝ぼけ
眼で見た表情は、優しく、寂しく、何処か冷たい。
これから起こる事を確信しながらも、カリナは傍観するしかない。それが、とても
歯痒かった。
「……ゲデ、いま一度
訊う。過去は変えられぬのだな?」
「ああ、無理だね」
喜色に酒の小瓶を
呷る。
「例外的な措置法も無いのか?」
「無いね」
「……そうか」
それ以上は
抗わなかった。
覚悟を決めて直視するだけだ。
確定された哀しみを強く抱き締める。
堪え
難い展開に心折れぬように。
「おねえちゃん、どうしたの?」
「どうもしないわ、レマリア」
魔性の
成り
掛けは、優しく髪を
撫で続けた。
幼い妹は、
未だ本性を見抜けていない。
軽く感じた違和感さえも、警戒心へ直結させる事が出来なかった。
「ねむねむできないの?」
「そうね。ちょっと眠れないの」
「イタいイタいなの?」
「ううん、もう苦しくないわ」
「うん?」
親指吸いにコテンと頭を
委ねる。
姉は──
姉だった者は、
愛しさのままに
細指を動かし続けた。
時折、髪を
梳いてやりつつ。
感情を浮かべぬ冷たい表情が、
若干寂しそうな
儚さを
含んだ。けれども、それは
仮面ではなかっただろう。
「ねえ、レマリア──」
「うん?」
「──大好きよ」
「わたしも、おねえちゃんだいすきなのよ?」
「……有り難う」
悲しみを微笑んだ。
「ずっと大好き……ずっとずっと一緒だからね」
「うん。ずっといっしょなの」
幼さが嬉しそうに染まる。
深く顔を
埋めた愛を、
幻夢はあやし続けた。
「さあ、もう眠りなさい……それまで、こうしていてあげるから」
「うん」
約束通り、幼き
癒しが
寝付くまで続けた。
穏やかな寝息が聞こえると、ようやく魔性が行動を起こす。
静かに──そして、ゆっくりと
喉笛に牙を刺した。
起こさぬように──声を上げさせぬように──痛くないように──そして、恐怖を与えないように。
気品に愛された
麗しき令嬢は、血を
啜る
卑しい
獣畜生と
堕ちた。
咥内が
生温かさで満たされていく。鉄分の臭いが鼻を抜けていく。
愛しい
生命を自分の中へと受け入れた瞬間、彼女の脳内で
赤が
弾けた。
それを
契機に満たされぬ
渇きが暴れ出す。
爛々と
血走った目から
零れ
堕ちた涙は、彼女が哀しみに
遺した〈
人間〉の
一滴であった。
旧暦中世──かつてウェールズ地方には、
しがない田舎村が存在した。
一夜にして地図から消えた〈呪われし村〉だ。
紅蓮に染まる灼熱と、
阿鼻叫喚を
木霊させる
殺戮の赤き
刃──血に飢えた狂気の
麗獣が、
総てを
根絶やしに終わらせた。
墓地裏に在る
祠は発見される事も無く、
錆びた
鉄扉を硬く閉ざし続ける。
その奥深くで、魔性は眠りに
就いた。
忌むべき牙を抱きかかえ、いつ目覚めるかも判らぬ眠りに……。
激情任せの
虐殺を忘却したかった。
己の存在さえも消し去りたかった。
されど──。
「──レマリア」
愛しい存在だけは忘れたくない。
魂が疲れ果てた。
その
心労が
誘眠を
植え付ける。
そして、彼女は石の如く眠った。
運命の目覚めまで──。
気がつけば、カリナ達は例の拷問場に居た。
状況が動いた形跡は無い。
現実時間は数秒しか経過していなかった……という事だろう。
「そう……そうだったの」
カーミラは
独り納得する。
闇暦以前の記憶が無い──カリナの奇妙な経歴が、ようやく説明付いた。
同時に、彼女が〈レマリア〉という幻像を生み出し、狂気的
固執を
抱いていた理由も。
(けれど、彼女は〝同属化〟をしなかった──妹を始めとして、村人の誰一人として)
カーミラの
慈しみを
掻き消すように、
下衆な死神が
声高に
雄弁を演じる。
「最愛の妹をテメェで
殺めた罪悪感に
堪えきれず、理性がブッ壊れた。コレが惨劇の幕開けだ。血に飢えた魔獣と
堕ち、一晩で村を全滅させちまいやがった。家族も、村人達も、それこそ
女子供も、一人残らずな。ま、それさえも魔剣の支配意志かもしれねぇが……さすがのオレ様も、そこまでは判らねぇ」
聞いているのかいないのか……カリナは無反応だ。
少年の
亡骸へと
黙祷を
捧げるだけである。
「何にせよ、それからお嬢は
永い眠りに就いた。
忘却の眠りってトコか──ま、オレから言わせりゃ
現実逃避だわな……ィェッヘッヘッ。ところが目覚めの時が
訪れる。
旧暦一九九九年七の月にな」
「それって〈
終末の日〉で?」
「
御名答さ、カルンスタイン令嬢。ダークエーテルが呼び起こしたのは〈デッド〉だけじゃなかったって事だ。
夥しい
負念を魔剣が吸い、お嬢の
糧へと転じた。眠りながらにして、吸血行為に等しい魔力吸収が
行われていったのさ。もっとも
暫くは
蓄えて眠るだけ……
準備万端に目覚めるのは、
闇暦年号が始まってからだ」
またひとつ、カーミラの疑問が
氷解した。
(
柘榴偏食ながらも、
衰えを感じさせない魔力底値の高さ──それは魔剣の性質によるものだったのね。吸血行為を
自粛するカリナにとって、魔剣は〈武器〉であり〈牙〉なんだわ。つまり敵を斬り捨てれば斬り捨てるほど、吸血行為に等しい
糧が
得られるという事……)
「
斯くして最強最悪の〈怪物〉たる〝カリナ・ノヴェール〟の誕生でござ~いってな……どうよ?
御満足頂ける
御伽話だったかい?」
沈思に
浸るカリナへと、ゲデの
値踏みが投げられる。今度こそ、さぞかし失望しているであろう──ゲデは
内心ほくそ笑んでいた。
「
三文役者、聞くに
堪えん
狂言は終わったか?」
期待を裏切り、カリナは平然と憎まれ口を返す。
目の前で眠る少年の顔を
眺めていると、何故か〝レマリア〟が
重なった。
見渡す限りの
未熟な命──約束された未来を奪われた不条理。その哀れさを思うと、
己の過去など
些末にさえ思えた。
「
生憎、もはや過去などに興味は無い」
「はあ? お嬢が説明しろって言うから、わざわざ──」
「結局、
現在の私は〝
カリナ・
ノヴェール〟だという事だ。それよりも優先すべき事がある」
腹立たしさを噛むゲデ。
とはいえ、結局は折れるしかない。
癪だが、それが両者の力関係だ。
「チッ! 何だよ、優先すべき事ってのは?」
「この部屋で
息絶えた子供達の
無念──
一人遺さず、私に伝えろ!
一人遺さずだ!」
激情
露わに立ち上がり、
孤高なる愛が
吼えた!