普段は不必要なほど静寂に祝福された大広間が、
現在は
殺伐とした決闘場へと一転していた!
黒が攻め、白が
避わす!
白が攻め、黒が
弾く!
カリナ・ノヴェールとカーミラ・カルンスタインの攻防は、
拮抗した実力
故に
一進一退を
刻み続けた!
「そうか……キサマか! キサマだな! キサマがレマリアを!」
少女城主を
睨めつける目に
沸々とした
憎悪が
宿る。
虚ろう魂が
見定めた新たな獲物だ。
然れど、それは最大に
手強い。
「いまにして思えば、最初からレマリアを狙っていたな! だからこそ、私の滞在を周到に約束させた! そうだろう!」
「とうとう〈
レマリア〉は消えたのね」
「とぼけるな! 恥知らずの〈
女吸血卑〉が!」
ついに来るべき瞬間を迎えた──それを覚悟したカーミラの表情は、儚げな悲哀を
含んでいた。
(
消す手間は
省けた。後は、どう納得させるか)
カーミラの哀れみが自分へと向けられたものだと、カリナが
悟れるはずもない。激情へと
呑まれた
現状の彼女には……。
「
狡猾に友情を
装い! まやかしの共感を
抱かせ!
虎視眈々と舌なめずりをしていたのか!」
怒り任せに
紅い
弧を
生む!
その軌跡は鋭利ながらも、相変わらず乱雑であった。
他の吸血鬼ならいざ知らず、カーミラに
避けられぬ道理はない。
「……
墜ちたわね、カリナ・ノヴェール」
「上から言うかよ! その高貴ぶった態度、
常々気に食わなかったさ!」
紅い閃光と繰り出される突き!
白き
外套がカーミラの
円舞に
併せ、敵意の牙を
纏わり
呑んだ!
自身が
常套とする回避動作を
真似され、カリナは
癪を
咬む。
「よくも、その動きをっ!」
「
貴女だけの専売特許じゃなくってよ」
生んだ勢いを殺さぬまま、カーミラは回転の余力に舞った。
その遠心力を
活かした反撃に、
茨の
双鞭が襲い伸びる!
眼寸前まで襲い迫る
双蛇を、カリナは紙一重の後方跳びに
退けた!
「
所作が似ても当たり前。同じ〈
血〉が、そうさせるのだから」
「何が〈
血〉だ! 馬鹿にしてくれる!」
足裏が地面の感触を踏んだと同時に、カリナは屈伸態勢をバネと転化する!
「レマリアを返せぇぇぇーーーーっ!」
地を蹴る間合いに繰り出される突き!
勢いと全体重を乗せた
渾身の一撃!
が、
紅の切っ先は金髪を
梳き
貫いただけ。
標的と
定めた
憂いは残像が
滑るかのように
脇へと
避けた。
紙一重で
為す技量もまた、先刻のカリナ
宜しくだ。
「また猿真似か!」
「言ったでしょう? 同じ〈
血〉が、そうさせる……と」
「
虚言に
惑わすかよ!」
苛立ちを
吼えつつも、せっかく得た好機は逃さない!
まだ剣の間合いだ!
そのまま
刃を
凪ぎ払い、
虚を突いた斬撃を狙う!
「もらった!」
手応えを確信するもカリナが捕らえた像は
霞!
刃が裂くと同時に、カーミラは白く
霧散していた!
「チィ……
霧化かよ!」
カーミラほどの技量ならば、交戦下で行使できて当然。
だがしかし、精神集中の行程すらも
踏まえぬ対応の早さと魔力底値は、正直、予想を
上回っていた。
白外套による〈魔力増幅〉の効力も大きいのだろうが。
「何処から来る」
鋭敏な警戒心を
鳴子と張り巡らせ、潜伏した気配を周囲に追い睨む。
霧と
化した〈吸血鬼〉は、その場に存在しながらも
存在しない。
或いは、存在しないながらも
存在する。見渡す空間そのものが〈
潜伏する敵〉だ。
(とはいえ、
霧化状態のままでは、アチラも手が出せまいよ)
物理攻撃へと転じるには再実体化の必要がある。
(双方が下手に動けぬ以上、襲撃時に実体化する気配を捕らえるしかない──一瞬の賭けではあるが)
瞼を
綴じ、静寂に身を
委ねた。
感覚を細く
尖らせ、カリナは精神世界の闇へと
浸る。
落ち
弾ける
滴の音……大気の流動……先刻の死に損ないが乱す
息遣い…………
総ての
微音が
索敵の邪魔であった。
黙想に立ち尽くすカリナは、
一見には無防備だ。
しかし、秘めたる応戦意識に
隙は無い。
大気拡散した
霧──
即ち〝カーミラ〟は、素直に
感嘆を覚えていた。
(
天賦ね。先程まで理不尽な激情に溺れながらも、局面では冷静な対応判断を
下せるなんて)
荒んだ
流浪に
磨かれた〈戦士〉としての
素養だろう。こればかりはカリナの優位性だ。自分では遠く及ばない。
(はてさて、何処から攻めたものかしら?)
おそらく安全
且つ有利な方角など無いだろう。
霧は
僅かながらにも勝算を考えて、獲物の周囲を漂い始めた。
足の
腱を斬られたジョンには身動きすら叶わない。引きずる痛みを
庇いつつ、その場で座り倒れるしかなかった。
「な……なんて戦いだ」無力な
傍観に、
驚嘆の息を
呑んだ。改めて
介入の
余地が無い事を自覚する。正直、
矛先の
推移に命拾いした気持ちだ。「カーミラ様も、カリナ・ノヴェールも、
桁外れた実力じゃないか! 完全に僕等とは格違いだ!」
「で、あろうな」
不意に聞こえた声に振り向く。
彼の背後に立っていたのは、真紅のロイヤルドレスの吸血妃──メアリー一世であった。気高き
淑女は、
険しい
面持ちで戦いの
成り
行きを見守り続ける。
「
貴女から見ても、やはり一線を
画するのですか? メアリー?」
「次元が違い過ぎる」
観察視を動かす事もなく、メアリーは淡々と答えた。
その場に座り込むジョンは、斜め下よりメアリーを仰ぐ姿勢となっていた。そのアングルから
窺う彼女の目鼻立ちは
荘厳に美しい。元〝イングランド女王〟の肩書きは
伊達ではない──ジョンは
内心思った。彼女ならば〝
吸血貴族〟という称号さえも、違和感無く受け入れられる……と。
「僕から見れば、
貴女やジル・ド・レ卿だって相当なものですが」
「恐縮だが
買い
被り過ぎだな……ジル・ド・レ卿は、ともかくとして」
「そうでしょうか?」
認識不足の格下が
漏らす甘さに、ようやくメアリーは
一瞥を向けた。
「確かに、私の魔力底値は〈
不死十字軍〉の中でも高い方であろうな。だが、
活かすべき実戦技能が
皆無だ。カーミラ様と、カリナ殿──そして、ジル卿には、その両側面が
不備無く
備わっている。いざ一対一の決闘とでもなれば、私など相手にならぬだろう」
結論を
述べて、再び交戦へと
見入る。
重みを持て余したジョンも、彼女に
倣った。
「どう見ますか? 有利な方は……」
「
判らぬな。純粋に戦闘技能ならば、カリナ殿に
分があるが……現状は正気を
欠いている。普段の冷静な判断力を発揮できていない」
「それは
幸いだ。なら、カーミラ様が負けるはずがない」
「カーミラ様とて
万全ではないぞ」
「え?」
「重傷を
押しての応戦だ。先程、再生休眠を終えたばかりとはいえ、ダメージ完治には遠い」
「じゃあ、どちらも不利な条件を?」
「だから言っている……
判らぬ、と」
抱く不安を噛み殺して、メアリーは
苦い
見解を
紡ぐ。「付け入るとすれば、カリナ殿が平常心を
欠いている事だが……あのような対応力を見せられてはな。どうやら戦闘に関しては、従来の技量が
心髄から
滲み出るらしい」
「自我の損失に関係なく……ですか?」
「筋金入りの〈戦士〉という事だろう」
交わす言葉が
尽き、二人は
黙して
見入った。
ややあって、ジョンは異なる疑問を
訊ねる。
「あの……〈
レマリア〉とは何ですか? いや、
或いは〝
誰〟なのかもしれませんが」
「何? 何故、そなたが〈
それ〉を?」
「先程、カリナ・ノヴェールが襲い来る
際に
口にしました──『レマリアを殺したな?』と……それから『私のレマリアを返せ』とも」
「ふむ?」メアリーは居住区での
一波乱を
想起する。「
生憎と、私も〈
それ〉は判らぬ。名前だけは聞いた事があるが……」
介入を制された事柄ではあるが、そもそも真相すらメアリーは把握していない。
だが、カーミラは〈
それ〉が〈
何か〉を確信している。
そして、あの時に少女盟主が秘めていた決意が、迎えるべく瞬間を迎えたのだ──と。
カリナの
瞑想は続く。
微かに霊気が流れた。
瞬間は近い──そう確信した
刹那!
「そこかよ!」
振り向き
様に魔剣を
凪ぐ!
奇襲に飛び掛かる
双蛇を、
紅玉石の
刃が
弾き
逸らした!
後方頭上!
そこからカーミラは現れた!
「カリナ・ノヴェール!」
「カーミラ・カルンスタイン!」
愛用の武器を
弾かれたカーミラが、強襲の勢い任せに近接態勢へと取り付く。
茨鞭の
柄と
紅剣の
柄が、一歩も引かずに
鍔迫り合った!
「カリナ・ノヴェール! いい加減に目を
醒ましなさい!
貴女が追い求めているのは、永遠の白昼夢に過ぎないのよ!」
「何を意味不明な事をホザいている! 脳味噌でも
逝ったかよ!」
ギリギリと攻めぎ合う押し比べ!
「かつて
貴女は言った──わたしがロンドンに見ているのは、自尊的な幻想だと! 結局は己の奉仕行為に酔った〝
自己愛〟だと!」
「言ったがどうしたよ! 事実は事実だろうが!」
吼え返す中、カリナはハッと思い当たった。「そうか、だからか! その腹いせに、レマリアを殺したのか!」
「まだ
不毛を続けるというの! カリナ・ノヴェール!」
叶わぬ
疎通に
歯痒さを
咬む。
哀れみと悲しさが
堰を切り、カーミラは激情を叫んだ!
「ならば、ハッキリと言ってあげる! 最初から存在しないのよ!
貴女の言う〈
レマリア〉なんてね!」
「なっ?」
一瞬、カリナが
動揺に
染まった。
想像すらしていなかった言葉だ。
そして、彼女の
根幹を破壊するほどの
暴言だ。
放心に
怯んだ
隙が、
力の
均衡を
崩し掛けた。
カーミラには好機である!
だが、それも一瞬──。
「言うに……
事欠いてぇぇぇーーーーっ!」
カリナが
憤怒を爆発させた!
激情が
力と転じ、
拮抗していた対立を
弾き
跳ばす!
「あう!」
床へと
転げ
滑るカーミラ!
直接的な肉弾戦となれば、全開状態のカリナに
勝るわけがない!
すかさず
半身を立て直し、
難敵に
身構える!
痛みを感じている余裕などない!
それほどの相手だ!
(
霧化を!)
「させるかよ!」
瞬間的に回避を意識したにも関わらず、
既にカリナが踏み込んで来ていた!
捕食の如き瞬発力が赤い
閃きを突き出す!
「っあああああーーーー!」
非情の
凶牙が腹を
貫いた!
ジル・ド・レが負わせた致命箇所だ!
「妙だとは思ったが……キサマ、
手傷を
負っていたな」
「っくう!」
「隠していても、
微かに
血の匂いがするんだよ。私はキサマ
等よりも鋭敏なんだ。普段から
絶食しているからな」
「やっ……ぱり、あの〝
柘榴〟は……そういう事なのね」
苦悶に
堪えながら、白の
吸血姫が指摘する。
「古代ギリシアの神話に於いて、
柘榴は〈冥府の果実〉として伝わる。
貴女は、それを代用品とした──
糧である吸血行為のね!」
「ああ、そうさ。レマリアと──あの子と共に生きるために、私は吸血行為を捨てる必要があった。己の生命と魔力を維持するために、新たな糧を模索したのさ。常若の国の〈妖精の林檎〉や日本神話の〈
黄泉戸喰〉、人間共が創り出した〈人工血液〉──あらゆる神話や科学産物を
模索し続けた。だが、どれもこれも
糧に代わる効用は無い。そうした
模索の中で
辿り着いたのが〈
柘榴〉だ!」
カーミラは言葉に
含まれていた重みを
噛む──此処にもいた……人間との理想的共存を
模索する〈吸血鬼〉が!
奇しくも、それは自分の姉妹──
ジェラルダインの血統であった。
原初の血が、そうさせる。
哀しき
呪縛が、同じ
宿命を
課す。
それでも、自分とカリナには
決定的な差があった。
それを思うと笑わずにはいられない。
どこまでも哀れみを
帯びた笑いであった。
「フフ……フフフ」
「何だ? 何が
可笑しい!」
「だって、
可笑しいわ……
可笑しくて、
滑稽で、哀れだもの。
存在しない存在を溺愛するなんてね!」
「キサマァァァアアーーーーッ!」
逆上が
力を込める!
それに呼応するが如く、
紅い
刃が輝きを
帯び始めた!
「クッ……ァァァアアアアア!」
堪えきれず絶叫に
悶えるカーミラ!
彼女の中で
カリナが暴れ狂っていた!
「吸え! 吸い尽くせ〈ジェラルダインの牙〉!
総てを
糧と喰らい尽くせ!」
深い憎悪が、けしかける!
ますます光を輝かせる魔剣──と、その輝きは
程なくして
鎮静化していった。
「何だ? 何故止まった〈ジェラルダインの牙〉よ!」
「ハァハァ……フ……フフフ」九死に一生を得た
贄が、
脂汗ながらに
含み笑う。「……どうやら〝ジェラルダイン〟は、わたしの考え方に味方したみたい」
「な……何だと?」
「魔剣の中で
邂逅して以降、
演繹し続けたわ。何故〝ジェラルダイン〟が魔剣内に存在していたのか──何故、
貴女が〝ジェラルダイン〟の
棲む魔剣を所有しているのか」
「な……何だ? 何を言っている!」
「この魔剣は〝ジェラルダイン〟そのもの──おそらく〝魂の転生体〟か、
或いは〝残留思念の
具象化〟なのよ。そして、そんな
禍々しい
代物を愛剣としている以上、
貴女自身も無関係ではない」
「だから、何を……!」
「わたし達は共に〈
ジェラルダインの血統〉という事──因果的な〝
姉妹〟という事よ! カリナ・ノヴェール!」
驚愕すべき
指摘に、黒の
吸血姫が固まる。
確かに自身の
生い
立ちは
何一つ知らない。
さりとも、あまりに予想外の
指摘であった。
「た……
戯言を言うな! 何を
根拠に!」
「だからこそ、
貴女は〈
レマリア〉に
異常固執する。かつて、わたしが〝
ローラ〟を愛したように──
元凶たるジェラルダインが〝
クリスタベル〟という名の少女に
焦がれたように──わたし達〈ジェラルダインの血統〉は、自身の愛を注げる対象を強く求める
性なのよ。
無償の愛を
傾ける存在を求め続けるの。
貴女にとっては〈
レマリア〉が、そうだったようにね。それは
無限の
虚無から
脱したいが
故かもしれない。孤独に対する精神的
自衛かもしれない。けれど、
貴女の悲劇は〝
自らが創り出した幻影〟に
依存してしまった事。それは、とても哀しい事ではなくて?」
「幻影……だと!」
またも
逆鱗へと
触れられ、憎悪に
歯噛みする!
「私のレマリアが……
あの子が幻影だと言うか!」
「
貴女が来訪して
今日まで、城内に〈レマリア〉を見た者なんて一人もいないのよ」
「ふざけるな! 現にキサマは──」
「──見てないわ」
頑とした
目力に、カリナは言葉を
呑む。
いいや、コイツは見ていたはずだ。
初めて顔合わせをした時も、まじまじと
外套の内を──いや待て、まじまじと〈
何〉を見た?
あの時の
怪訝そうな表情は何だ?
直後の
意味深な
一考は?
まじまじと〝
何も存在しない外套〟
へと見入ったのではないか?
私の
奇行を……。
「わたしだけじゃなくてよ。城内の者は
誰一人として〈レマリア〉なんて見ていない」
「……黙れ」
「メアリーも、エリザベートも、ジル・ド・レ卿も……リック親子でさえもね!」
「黙れと言っている!」
思い返せば、レマリアへの対応を見せるのは、他ならぬ
カーミラだけだったのではないか?
メアリー一世も、リックも、その場にいるはずの女児には無関心だった……
無関心過ぎた!
「そもそも思い出して
御覧なさい!
貴女自身〝
一人の瞬間〟が、多々あったのではなくて?」
ジル・ド・レと対峙した時、あの子は何処にいた?
居住区でのゾンビ退治から戻った時、カーミラに
促されるまで何処にいた?
リックの母親と対面した時には?
自分が揺らぐ。
だが、ようやくカリナは反論の
種を
見出した。
「いいや、サリーだ……サリーがいる! サリーは、私とレマリアを見続けてきた!」
一縷の希望に
縋るような思いであった。
しかし、無情なる現実は、それさえも
否定する。
「……優しいのよ、彼女は。だからこそ、
貴女へと
宛がった」
「なっ?」
「彼女の
半生は聞き
及んでいるでしょう? おそらく
貴女の母性を、自分自身と重ね合わせた……だからこそ、口裏を合わせていたに過ぎないわ。
貴女を──
貴女の〝
心〟を守ろうと」
サリーの
言い
訳を
想起した──「なにせレマリア様は、おとなしゅうて、おとなしゅうて」
いまにして思えば、あれは〝
見えていない事〟への
取り
繕いだったのではないか?
「これで分かったでしょう?」
突きつけるカーミラに反論ができない。
それでもカリナは
虚脱に
呟く。
「レマリアは……いるんだ。いまでも私を待っている」
「
闇暦年号になってから、三〇年間……何故〈
レマリア〉は〝成長〟しなかったの?」
「──っ!」
「悪夢から解放される
瞬間が来たのよ! カリナ・ノヴェール!」
「まだ……言うかよぉぉぉーーーー!」
役立たずとなった愛剣を放り捨て、
拳で殴り掛かった!
薄々と認め始めた真実から目を
逸らすべく……。
己の
保身にしがみつくべく…………。
「レマリアが……アイツが、いないだと! 存在しないだと! よくも言える! あの子と私が過ごした日々も知らずに! よくも!」
無抵抗な
仰向けを、カリナは容赦なく殴りつけた!
「アイツはな、
整った環境でないと寝れないんだ!
川魚は食わない!
生臭さがイヤなんだとよ! 野菜嫌いを克服させるために、
柘榴ジュースに混ぜ忍ばせた事もある! それでも見抜いて飲まなかった! 鼻が
利くヤツだよ! まったく手が焼ける!」
沸き立つ感情の
総てを
拳に乗せる!
「機嫌がいい時は、うろ覚えの『オーバー・ザ・レインボー』を口ずさんだ! 舌足らずでな! 好奇心が強過ぎるから、片時も目が離せない! ムカデを手掴みにしそうになった時は、慌てて引き離したものさ!」
拳を振る!
振り抜く!
振るい続ける!
カーミラは
殴打されるままに
金糸を乱すも、絶対的な勝者であった。
認め始めている──そう思えばこそ、この痛みは〝痛み〟ではない。
これは〝
カリナの痛み〟だ。
愛しい
妹の……。
「いつも寝顔を
撫でてやった! そうすると夢の中で安心するんだ! 私に
摘んだ花をくれた事もある! 雑草だったがな! まだまだ思い出は、たくさんあるぞ! これだけ聞いても、まだ存在しないなどと言えるか! どうだ!」
拳に込められる
力が、
徐々に抜けていくのが分かった。
次第に勢いも
失速する。
やがて完全に
鎮まった暴力は、相手の
胸鞍を
掴んで
蹲まった。
「……どうなんだ……なんとか……なんとか言えよ!」
咽ぶように
絞り出した声は、完全に
拠を
見失っていた。
「カリナ・ノヴェール……」
カーミラには、ただ抱きしめるしか
術がない。
咬み殺す
嗚咽に震える頭を優しき
細指が
撫で
宥める。
まるで子供をあやすかのように……。
反目の決着は覚悟していた以上に
心痛かった。
と、不意に聞き慣れた下品な
濁声が
二人を
嘲る!
「ィェッヘッヘッヘッ……
吸血姫同士のキャットファイトたぁ、イイモンを見せてもらったぜ。アンタ等〝
百合〟だったのかよ? ィェッヘッヘッヘッ……」
耳にした
途端、カリナの内で
再燃する
希望!
「ゲデか!」
その姿を周囲に捜した!
自分と
傍観者達との間に黒い
靄が集結し始める。
それは
次第に
人の
形を
成した。
普段なら見たくもない
腰巾着だ。
「よぉ、お嬢……こりゃまたご機嫌そうだな? ィェッヘッヘッ」
死神は山高帽子を
摘んだ
会釈を向けると、
葉巻と
酒瓶を
嗜み
浸る。
相変わらずの
太々しさだ。
だが現状では、どうでもいい。
カリナは
疎むべき
下衆へと
歩み、普段の
気丈さで
確固たる
助言を
命じた。
「ちょうどいい! キサマ、証言しろ! レマリアは
実在する──とな!」
「なんでぇ? おチビちゃん、いなくなったのか?」
飄々と露骨に驚いて見せる。
いつも通りの
茶化しぶり──けれども、カリナは安堵すら覚えた。叩き落とされた非情な指摘から、ようやく現実へと
還れる
足掛かりだ。
「それをいい事に、コイツ等は『レマリアが実在しない』などと言いやがる!」
「そりゃ無慈悲だねぇ?」
「キサマは知っているはずだ! レマリアは
幻想なんかじゃないと! 証言してやれ!
実在すると!」
「ああ、そういう事ね。了解了解」
カーミラは初めて会った
卑俗を
睨めつける。
(何処の誰かは知らないけれど、余計な事を……せっかくカリナが現実を受け入れ始めたというのに)
そうした
疎みも、
生来の嫌われ者は承知だった。優越に吸血令嬢を
一瞥するのも心地いい。
ゲデは
葉巻を深く
噴かすと、向けられた敵意に酔う。
「さあ、真実を言ってやれ! ゲデ!」
「あいよ」
意気を甦らせたカリナが
急いた。
ゲデは
物臭そうに従い、大きく
口角を
歪ませる。
そして、ヌッとカリナへ顔を近付けて、こう言うのだ。
「レマリアだぁ? そんなヤツァ、
いねぇよ」
「なっ?」
思いも掛けぬ残酷な裏切り!
呆然と立ち尽くすカリナが見たのは、普段以上に
卑しい
喜悦面であった。
予想外の衝撃に絶句したのは、彼女だけではない。カーミラも、メアリーも、ジョンも……あまりに冷酷なゲデの対応に言葉を失っていた。思わせぶりな
素振りで希望を
抱かせ、
奈落へと叩き落とす──あまりな
嬲り方である。
やるせない
憤りが、
外道への怒りと転化する。
が、集中する憎悪さえも、ゲデには
享楽に過ぎない。
「まったく面倒だったんだぜぇ? アンタに合わせた
道化芝居は。ま、幻影とはいえ〈意識の結晶〉だからな、本質は〈魂〉と似たよなモンだ。おかげで、オレの
幻視で見る事は出来たがな……ィェッヘッヘッ」
「嘘を……嘘を言うな!」
絞り出した
否定は、わなわなと震えていた。「現にキサマは、レマリアと会話しているではないか! その品性の無さに嫌われていたのを忘れたか!」
「だからよぉ、そいつは〝お嬢の
潜在意識〟ってヤツだ。アンタ自身の感情を、ガキの幻に投影行動させていたに過ぎねぇよ。ガキなら、こう言動するだろう……ってな」
「な……何?」
「この国に着いて
早々にデッドが
群がったのもよ、
アンタ自身が
喚いて呼び寄せたのさ。ガキの幻影を
現実的に体感したくってな。
傍目にゃ
狂ってたぜ……ィェッヘッヘッ」
「う……そだ」
「ィェッヘッヘッ……ま、どちらにせよオレ様がエラく嫌われてるのは間違いねぇがな」
噴かす
紫煙に優越を乗せる。「で、どうだったよ? 自己満足の母親ごっこは? アンタの〈レマリア〉は、いい子ちゃんだったかい? ィェッヘッヘッ」
最早、
嘲りすら耳に入らない。
ただ
虚ろな拒絶だけが
呟き
漏れた。
「う……嘘だ」
「嘘じゃねぇよ。ぜーんぶ、アンタの妄想だ」
「嘘だ……嘘だ!」
一心不乱に首を振る。
直視させられた現実に怯え、
頑なに
拒むかのように。
目に見えぬ悪魔が小娘の心を
鷲掴みにしていた。
非力な抵抗を容赦なく
握り
潰さんと……。
「嘘だ嘘だ嘘だ嘘だ嘘だ嘘だ嘘だ嘘だ嘘だ嘘だ!」
「オイオイ、お嬢ともあろう者が。
往生際が悪ィねぇ」
「嘘だァァァァーーーーーーッ!」
「ありゃりゃ、もう壊れてやんの。チッ、案外思ったよりも
ヤワだったな」
孤高は崩れた。
頭を抱えて
慟哭に沈む姿は、
凡百な存在の
一つに過ぎない。
「つまらねぇ……こんなオチのために付き
纏ってたワケじゃねぇんだぜ? オラ、
還って来いよ? お嬢には、もっともっと楽しい展開を見せて
貰わねぇとな。ィェッヘッヘッィェッヘッヘッィェッヘッヘッヘッヘッ──ィェッ?」
遠慮なく
嘲笑う
下衆の首が
跳ね
飛ぶ!
カーミラ・カルンスタインの
茨鞭であった!
傷を
押して立ち上がった麗姿が、静かなる怒りを
孕む!
「ゲデとやら、そこまでにしておくのね」
首無し紳士は転げ落ちた一部を探り拾い、有るべき
箇所に
据え直した。その
様は
滑稽ながらもグロテスクだ。
「オイオイ、カルンスタイン令嬢よォ? オレァ、アンタの手助けをしたようなもんだぜ? 聞き分けないワガママ娘に、物の
分別を教えただけさ……ィェッヘッヘッ」
「
口を
慎みなさい。わたしと
貴方では、カリナへ向ける
想いが違うわ。これ以上、まだ彼女を苦しめるというのならば──」
「ハァ? どうするってのよ?」
「──その
薄汚い
口から全身を
八つ
裂きにしてくれる! 二度と再生が叶わぬほど完全消滅させてやるから、そう思え! わたしは〈
妹〉ほどアマくはないぞ!」
誰も見た事のない〈
鬼〉としての
側面が
露呈した!
爛々と吊り上がった目に宿るのは、氷の如き殺意!
その
鬼気は圧倒的であった!
彼女を中心として
渦巻く黒き
台流は、カリナとの
反目で見せた魔力の解放である!
初めて見る主君の
苛烈さには、メアリー達ですら
畏怖を覚えずにいられない。
カーミラ自身にしても、
潜む残虐性を
露にしたのは数百年ぶりだ。
「チッ……へいへい、承知しましたよ」
ゲデは
忌々しそうに舌を鳴らした。
肌で感じる魔力の
底深さは、さすがにカリナと同格である。
ややあって
自らを鎮めたカーミラは、虚空を仰いで慟哭する放心を慈しみに抱きしめた。
「レマリアは……私の〈レマリア〉は……」視界が
滲む。
漏れる声が涙を
帯びる。「……レマリアが……いない?」
「御聞きなさい、カリナ・ノヴェール。
貴女の行為は、祖先の
呪血が
歩ませた
宿命──わたし達〈ジェラルダインの娘〉が
踏襲する
性なのよ」
「ジェラルダインの……娘?」
虚ろに
鸚鵡返しを
零す。
「ええ、そうよ。わたしも
貴女も、
原初吸血姫〈ジェラルダイン〉の
血統なの。
貴女とわたしが
不確かな共感を
見出し、
更には魔剣〈ジェラルダインの牙〉を
従える事ができたのが証明よ」
カーミラは優しく
諭し続ける。
きっと
想いは届く……
清水が石へと
染み
入るように。
「
貴女だけじゃないのよ、カリナ・ノヴェール。わたし達は、
皆〈孤独〉なの。誰かを愛するのは、誰かに愛されたいから。けれど、叶わないのよ。不老不死を宿した瞬間から、
常命とは
相入れないの。それでも、愛し続けるの。それが〈
人間〉としての
性だから。例え〈不死の怪物〉だとしても……〈吸血鬼〉だとしても、わたし達は
根幹的に〈
人間〉なのよ。だからこそ
足掻く。
温もりを求め続ける。
気高くあろうともすれば、逆に
慢心や
悪徳にも溺れるの。それもこれも
根が〈
人間〉だからよ。
心宿さない〈デッド〉や〈ゾンビ〉とは違うわ」
「人……間……?」
「それは
夢幻の
虚無から
脱したいが
故かもしれない。孤独に対する自衛かもしれない。けれど、
貴女の悲劇は〈自らが創り出した幻影〉に
依存してしまった事。それは、とても哀しい事ではなくて?」
「私には……私には何も無い。
最早、何も……」
「何も無いわけないでしょう!」
此処が
正念場だ!
いまのカリナは境界線の手前にいる!
往かせてはならない!
「レマリアが……レマリアが、いないんだ」
「わたしがいる! わたしが
貴女の〝
レマリア〟となり、
貴女がわたしの〝
ローラ〟となるの! 世界中が敵になっても、わたしは
貴女を愛し続けるわ!」
「レマ……リア……」
愛する名を
口にするだけで熱いものが
零れ落ちた。
充足に
培った歳月が、
総て
雫と消えていく。
「しっかりなさい! いつもの
貴女は、どうしたの! 誇り高く、不敵で、気丈で、何事にも
媚びない──そんな孤高の
吸血姫は何処へ行ったの!」
脆く壊れそうな心を強く抱きしめる!
「……レマ……リア……」
感触は感じている──状況も
把握している────それでも、カリナの心は
還って来なかった。
「お願いよ、カリナ……わたしと共に生きて…………」
「う……うう……」
顔を
埋めた孤高は声を殺して泣き
濡れた。白い胸が熱く
湿る。
カーミラは
慈母の如く、その
全てを
包み込む。
されど──
瓦解しそうな自我──残酷な現実に
弄ばれた
傷心──それは、カーミラにも
繋ぎ
留められるかは
定かにないものであった。
その時、聞き覚えのある
老声がカリナの耳に届く。
「カリナ様ーーーーっ!」
この場に居るはずのない声だ。
油断ならない魔城にて
唯一心許した声だ。
虚脱の瞳が、その存在を
見定める。
「サ……リー?」
広間の一角──重傷を
押した老婆が駆けつけていた。
「カリナ様! ああ、おいたわしや!」
よろつく足取りに駆け寄る。
荒い
息遣いからカリナは察した。
サリーは
四肢こそ復活していたが、ダメージが完治したわけではない。むしろ、逆だ。
自分の腕へと崩れ抱かれる老婆を困惑に見つめる。
「サリー……何故?」
「お許し下さい! レマリア様を……カリナ様の大切なレマリア様を守れませんでした! されど、生きておりますとも……きっと! このサリーが保証致します!」
老婆が
宥めようとすればするほど、少女の心は痛みを増した。
だが、その痛みが本来の冷静さを取り戻させる。
現実を直視させる鎧へと変わっていく。
「サリー……もう、いい……もう、いいんだ」
「いいえ、よくありません! レマリア様は生きておられる! カリナ様のレマリア様は生きておられる! ですから、決して
夜叉羅殺に成り下がってはなりませんぞ!
左様な事になっては、レマリア様が泣かれます! このサリーも悲しゅうてなりません! ぐっ……うう……」胸を押さえて
苦悶を
堪える
妖婆は、ようやく
訪れた
最期を心静かに自覚した。「はぁ……はぁ……カリナ様は、お優しい方。本当に心優しい方……サリーは……知って……おり……──」
老体から静かに
力が抜けた。
「なんだ、それは……私が心優しい……だと? とんだ勘違いだ……迷惑な誤解だぞ。私は
拈れ
者なんだ。嫌われ者の
疫病神なんだよ。おい、起きろ。オマエには
懇々と説明してやらねばならん。起きろよ、サリー……」
呼び起こそうと揺らし続ける。
されど
最早、答える事はない。
眠りから覚める事はない。
「起きろと言っている! サリー!」
やがて、腕の中から黒い
塵が消えていった。
抱く重みが
無へと
還っていく。
「サリィィィイイーーーーーーッ!」
老塵が拡散する
虚空を
仰ぎ、少女は
悲嘆を叫び
染めた。
悲しみを噛み締めた瞬間から、どれくらいの時間が
経っただろうか──。
数分か?
数時間か?
或いは、数秒だろうか?
存在すら消えた
亡骸を
抱き続け、カリナは深く沈んでいた。
項垂れた表情を
覗き
窺う事は叶わない。
その場に居る誰もが彼女の
胸中を
察して
佇む──
品性下劣なゲデを
除いて。
「ケッ……
御涙頂戴の
安物劇なんざ、
阿呆らしくて笑えもしねぇぜ」
蚊帳の
外の死神は、
露骨な
興醒めを
持て
余していた。
「……カリナ」
神妙な
面持ちで、カーミラが呼び掛ける。
続ける言葉など見つからない。
けれど、このままにしてはおけなかった。
身命を
擲ったサリーの
為にも……。
「カーミラか……
要らぬ
気遣いをするなよ」
「え?」
意表を突かれる。
カリナから返ってきた
抑揚は、予想に反して
泰然としていた。
「……上から目線の同情など
癪に
障るだけだからな」
憎まれ
口に上げた表情からは狂気が消えていた。
脆さが消えていた。
そこに存在するのは、気高き
拈れ
者だ。
「大丈夫……なの?」
「それが
癪に
障ると言っている」
レマリアを失った。
サリーを失った。
だが不思議な事に、彼女の心は以前より強く
在った。
静かに
呪縛から立ち上がると、カリナは冷ややかな
蔑視に言い放つ。
「おい、
下衆野郎」
「か~?
正気に戻った
途端、コレかよ」
久々となる
無碍な対応に、山高帽子を
潰して
嘆いた。
「オマエ、霊視ができるんだったな」
「そりゃあ、オレ様の固有能力だからな」
「ならば、私の
素性と
経緯も
見通せるはずだな」
「それを知った上で
付き
纏ってるんだよ」
「……だろうさ」
自嘲と
侮蔑を
等しく浮かべる。
ようやく
悟った──何故、この
異教の死神が、
固執的に
付き
纏うのか……を。
根深い
闇は悲劇の
連鎖を呼ぶ。コイツにとっては
居心地のいい
享楽場だ。
いいだろう。
それさえも受け入れ、私は生きる──
生き続けてやる。
「ま、お嬢の頼みとありゃあ聞いてもいいがよ。その前に少しばかり付き合ってもらうぜ? こっちも時間が無ぇんでな」
「時間?」
不機嫌と
怪訝を混ぜて
睨み返す。
「ああ、アンタに
会いたがってるヤツがいるんだよ」