「クッ!
吸血姫共め!」
敗走の
呪詛を込め、魔女は
忌々しさを
咬む。
空間転移魔法による逃亡を選択するしかなかった。
テムズ川へと
墜とされたのは不幸中の
幸いか。黒く
淀む
川面のおかげで、誰にも
気取られる事無く脱出できたのだから。
手近な
屍兵を数体だけ巻き込み、魔女は転移呪文を実行した。無事にイングランドを抜け出すまでは護衛が欲しい。
況してや、シティ外にはデッドがいる。
万全な状態ならば敵ではないが、
疲弊した身では
排斥の自信が無い。
魔女が転移したのは、防壁を越えたシティ外──非管理地区だ。
反乱の暗躍者は、隔離された戦火を
睨み
据える。
「まだ死ぬわけにはいかぬ! 総ては
復讐のためだ! 歴史に
虐げてきた〈
人間〉達に!
半端な
魔性と
蔑んできた〈
怪物〉達に!」
徘徊する
喰屍達が獲物を察知して近付いて来た。
「やはり数は多いな……頭を狙って排除しろ。私に近付けるな」
命令を受け、死体が死体を殺し出す。手にした鉄パイプや
引き
千切った死体の腕を武器に、ゾンビはデッドを破壊し続けた。
屍のバリケードを
傍観し、
取り
敢えずは身の安全を確信する。
と、
徐に魔女は
黒月を
怯え
仰いだ。
その
巨眼へと
畏敬を込めて
懇願する。
「
我が
主よ!
我が契約悪魔〝バロン〟よ! いま一度チャンスを! 強大な魔力さえ与えて下されば、
更なる混沌を
御約束致します!
何卒、あの〈
吸血姫〉
共を
屠れるだけの魔力を!」
「ィェッヘッヘッ……くれるワケねぇだろ」
聞き覚えのある
濁声にギョッとした。
嫌悪感を誘発する気配を探して、
一角を
睨めつける。
やがて
細道の暗がりから
歩み出て来たのは、予想通りの
卑俗──ゲデとかいう死神だ。
「ま、正しくは『与えたくとも与えられねぇ』ってトコだな。テメェとお嬢じゃ、根本的に魔力底値が違い過ぎる。
下駄を
履かせるにも限度があらぁな」
「黙れ! たかが原始的宗教の死神
風情が! あの
御方に不可能など無い! あの
御方は──」
「あぁ、よぉ~く知ってるぜ?
同業者さんよォ?」
「な……何?」
思いも掛けぬ呼び方に動揺する。
「オレもアイツに
従う者さ。混沌の
御膳立てをして、負念を生み出す──ソイツが〝御主人様〟の
糧ってワケだ。そうして、より強大になる。強大になれば
闇暦世界の超自然的
摂理は、ますます
根深くなる──よくできた
負の
還元だよ」
言い
回しからして間違いない。
この死神もまた〈
黒月の使徒〉だ。
何らかの契約関係にあって
従う者だ。
「何故だ? 何故、キサマような
下衆が、
我と同じ立場に!」
腹立たしい屈辱感と納得出来ない動揺が、等しく魔女を支配する。
恨みがましい
凝視を
余所に、ゲデは
太々しく
葉巻の
紫煙を吐いた。
「ィェッヘッヘッ……オレにとっちゃあ、どうでもいい事さ。ま、
取り
敢えずアンタは
ミスを犯したんでな。その
御報告に来てやったってワケさ」
「
ミスだと?」
「まず〝カリナ・ノヴェール〟を巻き込んだ事。お嬢の機嫌を損ねて、無事に済むはずがねぇやな──オレ以外は。ィェッヘッヘッ……」
手近な
瓦礫に
腰掛け、
葉巻を
蒸かす。
「次に、あの
黒月を過大評価していた事。オマエさん、根拠無く
心酔し過ぎだぜ?」
「根拠無き
心酔……だと?」言葉の
端を拾い、ドロテアは自身の優位性を取り戻した。「クックックッ……
盲目の
愚者が! やはり
キサマと我は違う! あの
御方と
我は旧暦時代から固い
絆で結ばれた契約関係! 裏切られる事など無──」
「ィェッヘッヘッ……エリザベート・バートリーも同じ考え方だったなぁ? やっぱ
主従は似るのかねぇ?」
「ふざけるな!
我とエリザベートでは──」
「
捨て駒の
末路なんて、どうでもいい
些事なんだよ。テメェが〝
利用する側〟だったんだから、当然
解んだろ? ィェッヘッヘッ……」
「なっ?」
「ィェッヘッヘッ……どうしたよ? 魂が
動揺してやがるぜ?」
「ち……違う……
我は……
私は……?」
ドロテアを
懐疑心が
蝕んだ。
ゲデの
値踏みは絶対的な確信に満ちている。
故に
信条の
根本が
揺らぎを覚えるのだ。
(認める必要はない! こんな
下衆の
戯言に耳を貸す必要などない!)
そう自分に言い聞かせても、完全否定が出来ない。
狂信的な
心酔は、
一転して
得体知れぬ不安へと変わる。
均衡を
崩しそうな心を
愉快に
眺め、ゲデは満足な
一服を深く吐いた。
「そして、最後のミスは──オレの前で〈
ゾンビ〉なんかを使っちまった事だよ……ィェッヘッヘッ」
銜え
葉巻に指をパチンと鳴らす。
途端、取り巻くゾンビ達が脱力に崩れ倒れた!
まるで
糸を断たれたマリオネットのように!
「こ……これは!」
「ゾンビは
元々〈ブードゥー秘術〉だ。オレが自由に出来ねぇ道理は無ぇよ」
「な……何故だ!」
「あん?」
「その能力があれば、いつでも戦況を
一変させる事が出来たでは──」
「ああ、そりゃよ?」
卑しき
邪笑が歯を見せる。「
沢山殺し合ってくれた方が、オレとしても
オイシイんでな……ィェッヘッヘッ」
闇の
濃さが違う!
質が違う!
コイツの前では、カリナ・ノヴェールも、ジル・ド・レも、エリザベート・バートリーも、
生温い
仄暗さでしかない!
「さて、ボーナス問題だ。魔力支配を失ったゾンビは、単なる
死体──じゃあ、次にどうなるかね?」
答えるまでもない!
防壁外には
魔気が
泥寧している!
此処〝フリート街通り〟とて、そうだ!
そして、ダークエーテルの
干渉を受けた
死体は──!
恐怖に捕らわれ、視界の
隅を
見遣る。
ゆっくりと起き上がる
屍──忠実な衛兵だった肉体が、次々と
再起動していた。
「く……来るな!」
緩慢な動きに距離を縮める
捕食獣。
次の瞬間、
飢餓に開かれた
口腔が
喉笛を
噛み
千切った!
「っひゅ!」
悲鳴が空気と
漏れる!
魔女にとっては
致命的な
痛撃だ!
最早、
呪文詠唱も
叶わない!
街の
至る所から、次々とデッド達が
群がって来た!
死者の
芋洗いが、
鮮血塗れの
魔女を
呑み
込む!
「ひゃ……ひゃへ……ひゃへほぉぉぁぁぁァグァヴゥアァァ……────」
絶望に
足掻き伸ばした腕は、
喰屍の
底無し
沼へと沈んでいった。
「地獄に連行される
自滅ってか? 古臭ぇ
怪奇小説かよ。ま、何にせよゴチソーサン……ィェッヘッヘッ」
懐から取り出した
小瓶酒を
呷る。
肴は戦乱の立役者が
魅せた〈
死〉だ──期待したよりは
薄味だったが。
ふと黄色い単眼と目が合った。
「
アンタも呼び名を統一してくれねぇか? やれ〈
魔王〉だの〈
妖怪球〉だの〈
門の鍵〉だの……こっちも混乱していけねぇや。単なる〝
ダークエーテルの塊〟に過ぎねえってのによォ」
ゲデが
毒突いた通り、この〈
黒月〉は
ダークエーテルの集合体であった。
同時に知性体であり、超強大な〈魔物〉でもある。
闇暦世界に
蔓延するダークエーテル──なれば、その集合知性体は〈
世界〉
そのものと呼んでも
過言ではない。
存在自体が〈
秩序〉であり〈
法則〉だ。
その支配力は、
宛ら〈闇の神〉か。
口元の
垂れ
酒を
拭うと、ゲデは
興味醒めて歩き出した。
これ以上
留まっても、戦乱
鎮まったロンドンで利益は無い。
死神は新たな混乱を求め、
街路の
霧へと消えた。
食事処には困まらない。
闇暦世界の
総てが、彼の
遊戯場なのだから……。
神出鬼没で
自由奔放な〈
死〉への
漫遊──それが彼に授けられた
役得であった。