酒飲みの思考回路

文字数 2,287文字

外科病棟から病室に戻ると、食事を運ぶワゴンが通路に出ていた。もうお昼ご飯の時間をすぎている。小百合のベッドサイドにも食事のお膳が置いてあった。お膳の上にはメモのような紙が添えられている。メモには小百合の名前と、その下に「減塩」と書かれていた。
前回の診察の後、小百合は栄養士さんから栄養指導を受けた。食生活が乳がんの一因と考えられているからだ。小百合は血圧も高い。入院当時はバルサルタンという降圧剤を服用していたが、薬を飲んでも150/90ぐらいあった。
せっかく減塩メニューを病院で用意してくださったのに、小百合はおつまみジャーキーを買ってきてしまった。食い意地の張った人間に、栄養指導なんて無意味だ。

昼食を食べながら、小百合は栄養指導のときのことを思い出していた。
「お酒は何をどれぐらい飲まれますか?」
栄養士さんから聞かれ、小百合は答えた。
「黒霧島を毎日、2合ぐらいです」
栄養士さんは笑顔で小百合に言った。
「私は転勤で都城にいたことがあるんです。地元というわけではないですが。都城のお酒を飲んでくださってありがとうございます。」
後になって思ったのだが、栄養士さんは“黒霧島”とかそんなことは聞いていなかった。焼酎とか、ビールとか、酒の種類を聞いたのだ。本当は3合以上飲んでいたが、ちょっとさばを読んで2合と言った。どっちにしろ飲み過ぎなので無意味な虚勢なのだが。栄養士さんは口には出さなかったが、

「2合ってことは、毎日3合ぐらい飲んどんな」

そう思っていたであろう。
小百合は猛烈に恥ずかしくなってきた。恥ずかしさのあまりベッドの上でジタバタしていると、食事係の人が不意にカーテンを開けた。
「菊池さん、もう戻られてますか?」
ひとりでジタバタしているところを見られ、さらにジタバタすることが増えた小百合だった。

食後は着圧ソックスの採寸をする。着圧ソックスは、手術の時に“肺血栓塞栓症”いわゆる「エコノミークラス症候群」を防ぐ効果がある。
看護師さんの間でも、病院の着圧ソックスは人気があるそうだ。脚が疲れた日に、このソックスを履いて寝ると脚がスッキリするらしい。市販の着圧ソックスもあるが、病院で買った方が安いのだろう。

ソックスを採寸する時、手術をする右乳房の毛を看護師さんに剃ってもらった。
おどろかれるかもしれないが、女にも乳毛はある。小百合の場合、乳毛は1~2本が乳輪の周りにちょろっと生えているだけだが、もっと剛毛の女性もいるだろう。毛の濃さにかかわらず、「手術前に乳毛は剃る」と決まっているのかもしれない。乳毛はシェーバーで処理する。ちょんちょんって感じで剃毛は終了した。

その後は麻酔科医からの説明だ。小百合を担当して下さる先生は、30代前半ぐらいの女性である。先生は麻酔説明のプリントを小百合に手渡した。麻酔を受ける手順や、安全性・危険性などについて書かれている。

先生は女医さんとしてはかわいらしい外見だが、話し方がぶっきらぼうだ。説明の最中も常に無表情で、笑った顔が想像できない。最後に先生は「何か質問は?」と小百合に言った。
小百合はその日、生理の初日だった。明日の手術では、経血の量が多くなることが予想される。トイレは朝まで行くことができない。紙オムツが生理用品代わりで大丈夫なのだろうか。
「明日は生理の2日目なんですが…大丈夫ですかね?トイレとか」
女同士なので、みなまで言わずとも伝わるだろう。小百合はそう思った。しかし、先生の答えがなかなか凄かった。

「チューブを入れるのは違う穴だから問題ありません。」

先生はそう言ってから、質問の意図を理解したのか「ふっふっふ…」と笑った。
「麻酔を使うと身体の活動も止まるみたいで、2日目でも経血がドバドバ出ることはないです。」

この先生、好きだな~。小百合はそう思った。

全身麻酔の説明が終わり、残すはセンチネルリンパ節シンチである。時計を見るともう14時を過ぎていた。大急ぎでシャワーを浴びて準備をする。
検査では、ガンマカメラという機材を使う。体内から放出されたガンマ線を信号として受け止め、コンピュータ処理し画像化する装置だ。このとき撮影された画像を「シンチグラフィ」という。シンチグラフィをもとに、センチネルリンパ節の位置を特定し、皮膚にしるしをつける。
1階の画像解析センターに行くと、ガンマカメラがある部屋に通された。ガンマカメラは、見た目はMRIによく似ている。寝台の頭の位置に、大きなドーナツ型の装置が付いている。
「検査をしている間、身体がカーっと熱くなりますが終わったら元に戻ります。」
技師さんが言った。撮影時間は20分ほどだろうか。撮影が終わり、しばらく待っていると乳腺外科外来から呼ばれた。

「今度は痛くないからねぇ」

大谷先生は画像を見ながら、乳房に点線で丸を描いた。腫瘍があるのがこのあたり、ということなのだろうか。そして、センチネルリンパ節のある位置にも小さな丸でしるしを付けた。
センチネルリンパ節シンチはこれにて終了である。刻一刻と、右おっぱいが無くなる準備が整っていくのに、実感がない。まだ夢の中にいるみたいだ。

病室に帰ると、夕食が用意されていた。のんびりする時間なんか無かったな。小百合は思った。
21時以降は水とアルジネードウォーター以外の飲食は禁止である。アルジネードウォーターは、糖分やビタミン、ミネラル、電解質、炭水化物を含む術前補水食である。術後の体力を補うために飲むのだ。125ccの紙パックに入ったものを、4本渡された。明日の9時までに、できるだけ全部飲んで下さい。看護師さんからそう言われた。
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