第6話 輪投げ大会ってなんやねん

文字数 3,367文字

「今日の検査、どうやった?」

風呂からあがった修二が、台所の小百合にたずねた。小百合は夕飯の支度をしながら、黒霧島の炭酸割りを飲んでいる。小百合はいわゆる“キッチンドリンカー”だ。日中に飲みたくなることは滅多にないが、夕方になると無性にアルコールが欲しくなる。

フルタイムで働いていたときは、アルコールを飲まなければ夕飯を作る気が起きなかった。お酒で疲労感を散らしていたのだろう。“ドカタ飲み”というやつである。今は働いていないので、夕方でも疲れてはいない。しかし、長年の習慣から小百合は今でも夕飯の支度は飲みながらである。

小百合は前職のホテルを辞めて、仕事を探そうとしていた時に、別府市の乳がん検診で乳がんが見つかった。それまで自分がガンだなんて想像もしていなかったぐらいなので、現状は元気である。しかし、今後の治療のことを考えると、今すぐ就職するのは難しい。

朝6時に起きて弁当と朝食を用意し、修二を送り出した後は掃除と洗濯、ゴミ出しをする。大人2人だけの賃貸住宅住まいである。一日の家事労働の大半は、それだけで終了だ。あとは日中ゴロゴロして、夕方近くになると近所のスーパーに買い物に出かける。

ダイニングテーブルには、スーパーで買った鳥刺しと、氷の入ったグラスがひとつ。修二の晩酌用だ。

小百合が大分に来てカルチャーショックを受けたことのひとつが、“スーパーで鳥刺しが売られている”ことであった。さすが九州!と感動したのを覚えている。

シマチョウなどの牛ホルモンも、東京のスーパーではめったにお目にかからなかった。小百合が東京にいた平成20年台後半ぐらいまでの記憶なので、今は普通に売られているのかもしれない。しかし東京でホルモンといえば、今でも圧倒的に豚であろう。

大分では、どこのスーパーにもシマチョウが必ずある。それどころか、ミノやセンマイ、希少部位の赤センマイなどが売られている店もある。「九州に引っ越してきてよかった」と思えることのひとつである。こんなことで幸せを感じられるのだから、都会の人間はちょろい。

修二は濡れた髪の毛を洗面所で乾かしていた。温泉の町・別府で暮らしているというのに、修二は温泉に関心がない。嫌いなわけではないが、平日は自宅のお風呂に入りたいのだ。近所には100~500円の共同浴場や日帰り温泉がいくつもある。しかし修二は、帰宅してから外の温泉に入りに行くのは面倒と考えていた。

髪の毛を濡れたままにしておくのも、修二には抵抗があった。共同浴場の多くは、ヘアドライヤーが使えなかったり、有料だったりする。車だったら10分以内で帰って来られる距離なのだが、そんな短時間でも髪の毛を濡れたままにするのは嫌らしい。小百合は毎日でも温泉に入りたい。しかし、平日は修二に合わせて家のお風呂を利用することにしている。

髪の毛を乾かし終わった修二が、食卓に着いた。

修二が飲むのは、小百合より高級な焼酎である。修二も酒飲みだが、適量のアルコールを味わいながら飲むことができるタイプだ。小百合のように、酔うことを目的に飲んでいるわけではない。

今飲んでいるのは、三和酒類の「西の星ビンテージ 上市」である。三和酒類をご存じない人でも、いいちこのメーカーといえばお分かりだろう。

「西の星」は、三和酒類が大分県と産官共同で開発した焼酎用の麦「西の星」を使った麦焼酎である。通年販売されている「西の星」のほかに、期間限定で販売される「西の星ビンテージ」がある。麦の圃場(ほじょう)ごとに焼酎の出来を競い合う社内コンテストで、優勝した焼酎がビンテージとして販売される。

2023年は「荘」(宇佐市安心院町)と「上市」(宇佐市安心院町)の2か所が受賞した。

上市は、完熟前のバナナのようなさわやかな甘い香りが特徴だ。圃場だけでなく造り方も特別なのだろう。同じ麦を使っていても、普通の西の星とは全く違う味だ。

「山本先生は非浸潤癌って言っていたけど、医療センターの先生は浸潤癌だろうって。10月6日に詳しい病状と今後の治療方針を説明するから、ご家族の方に来てもらって下さいって言われたわ。来週休めるかな?」

小百合が台所から、修二に言った。

「大丈夫やと思う。会社の人もみんな心配しよんよ。嫁がガンやのに休ません会社なんてねぇわ。それより、お義母さんはどげぇすん。」

病院から帰ってすぐに、小百合は大阪の母親に電話をかけた。小百合の母は70歳を過ぎているが、まだまだ元気である。これから太極拳のスクールに行くというので、明日にでもかけ直して欲しいと伝え電話を切った。

「病状の説明を聞くためだけに、大阪から来させるのも申し訳ないなぁ。元気とはいっても70代やし。LINEのビデオ通話とかZoomとかで、実家にいたまま参加でけへんのかな。診察の時に先生に聞いたらよかったんやけど。そこまで気が回らんかったわ。」

翌朝、小百合の母親から小百合の携帯に電話があった。病状を説明すると、少しパニックになっているようだった。

「ええ!やっぱりガンやったんか。それはえらいこっちゃ…」

離れてくらすわが子がガンというだけでも心配だろう。胸を全摘出するなんて聞いたら、落ち着いている方が無理というものだ。

「10月6日に病状と今後の治療方針の説明があるんやけど、大阪から来るのは大変やろ?先生にZoomとかビデオ通話とかでお母さんに説明してもらわれへんか聞いてみようと思うんやけど、どうかな。」

小百合が母にたずねた。しかし、母から返ってきた答えは予想外のものだった。

「その日は輪投げ大会があるから無理や。」

小百合の地元では、高齢者の間で“輪投げ”がブームらしい。町内会ごとに得点を競い合い、市内で大会も開かれるそうだ。小百合の母は輪投げ大会の役員をやっていた。

「休んだのに家にいることがバレたら、周りから何を言われるかわからない」というのが、輪投げ大会を休めない理由である。

小百合の母は昔から、世間体をやたらと気にする人だった。学校の先生という職業柄、仕方がないことなのだと小百合は思っていた。しかし、小百合が大人になり、母が小百合を育ててくれた年代になって感じる。母はちょっと異常だった。

「輪投げ大会にどうしても出たいんや」と言うのならまだいい。小百合も、もう大人だ。離れて生活する家族が楽しく暮らしてくれていることが、何よりも嬉しいし安心なのである。母に同席を求めたのは、母のためだった。だから、母が参加しないというなら別にそれで構わない。

参加しない理由がモヤモヤするのだ。「周りからどう思われるか」を、娘の生死に関わる問題よりも優先するとは。しかし、母のそういう言動に小百合は慣れっこである。「なんやそれ。まあ、別にいいけど」と言って、電話を切ろうとした。

だが小百合の母は、小百合の選択にケチをつけ始めた。説明を聞くことを拒んだくせに、である。

「医者は金のために必要もないのに手術をしたがるんや。知り合いに聞いたけど、乳がんの手術をしたせいでガンが破れて余計に悪くなった人もいるらしい。」云々。

「そういう話はお医者さんに直接言うてくれへん?そのために説明に参加してってお母さんに言うたんや。話し合いを拒否しておいて、どこの誰とも分からん人から聞いた話で、勝手に不安がるのやめてくれる?」

小百合が言うと、母親は逆上した。いつものことである。小百合は無言で電話を切った。その後も母親からの鬼LINEが止まらない。母が落ち着くまで無視することにした。

しばらくすると、母と同居している姉から電話がかかってきた。母が家で荒れているらしい。他の家族にも当たり散らしているとのことだった。電話でのやり取りを説明すると、小百合の姉はあきれていた。

「寄り添うとかそういうことが何ででけへんねやろ?私が子宮がんで入院してた時もそうやったわ。不安なんはわかるけど、病人を不安にさせるようなことばっかり言うてくるねん。よっしゃ、私がガツンと言うといたるわ!」

姉は昔から、小百合のことをとてもかわいがってくれた。ケンカもほとんどしたことがないぐらい、仲が良い。連絡はめったに取らないが、離れていても姉妹である。

翌朝、母親から小百合のもとに「昨日はごめん」とLINEが来た。姉にガツンと言われたようだった。
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