第12話 センチネルリンパ節シンチ、痛ぇんじゃふざけんな!

文字数 4,679文字

11月6日。入院当日である。小百合は自宅の近くからタクシーに乗り込んだ。この日はひとりだ。

退院の時は修二が迎えに来てくれることになっている。今はまだ元気なので、ひとりで平気だろうと思ったのだ。

自宅から別府医療センターまでは、車で10分ほどである。病院に到着すると、まずは総合受付で入院の手続きを済ませる。入院に必要な書類を担当者に手渡し、待合室で待機していると、白い上下を着た女性が小百合を呼びにやって来た。ナース服のようだが、看護師とは違う服装だ。「病院クラーク」だろうか。求人サイトによく載っている。別府はホテルと病院が多い。求人も、サービス業か医療・介護が大半を占める。

その女性は病室まで小百合の荷物を持ってくれた。小百合より細くて小柄な人だ。なんだか申し訳なくて、小百合は「持ちます」と言った。
「いいんですよ」
笑顔でその人は答え、エレベーターや売店の場所を説明しながら部屋まで案内してくれた。

小百合の部屋は南館の3階だ。エレベーターを降りると、談話室のようなスペースとスタッフステーションがある。

ナースステーションのことを、今はスタッフステーションというらしい。スチュワーデスがフライトアテンダントに変わったように、看護婦も看護師と呼ばれるようになった。しかし、スチュワーデスはスチュワードの女性形なのに対し、ナースは性別を限定しない。ナースの何が問題でスタッフステーションに変更されたのだろうか。

医師や事務員などもナースステーションにいる。「ナース以外の者がなんでおるんか?」みたいなことを言ってくる患者がいるのかもしれない。

「うるせーバカ」

口が裂けてもそんなことは言えない職業だ。ちょっとした名称変更にも医療関係者の気苦労が垣間見える。本当にそんな理由なのかは知らないが。

小百合が案内された6人部屋は、小百合が入ると満床になった。昼間でもみんなベッドの周囲のカーテンを閉めている。同室の人がどんな人たちかまだ分からないが、全員が乳腺外科の患者というわけではないようだ。

小百合がベッドにこしかけて待っていると、テレビと冷蔵庫が搬入されてきた。小百合はパジャマとテレビ・冷蔵庫を病院からレンタルしている。

テレビ・冷蔵庫はセットで日額330円である。テレビカードなんかも今は必要ない。見放題である。別府市は民放3局しかないが、別府医療センターはBSも映る。福岡の方の放送も見られるのだ。

パジャマが届くと、小百合はさっそくそれに着替えた。自宅にも寝間着ぐらいはあるが、入院中は前開きの服を着用するように言われている。小百合が持っているのは、プルオーバータイプのスエットだけだ。パジャマのレンタルは一日250円。しかも毎日交換にきてくれる。一週間程度の入院なら、わざわざ買うよりレンタルしたほうがお得だ。

ベッドのすぐ横にテレビと冷蔵庫があるなんて。天国かここは。今日はテレビを見たりゴロゴロしたりして、のんびり過ごそう。小百合は思った。

「最高やんけ…」

だが、少しはやることがある。

・紙おむつとイヤホンの購入
・アイソトープの注射
・弾性ストッキングの採寸
・麻酔科医からの全身麻酔説明
・本日のメインエベント「センチネルリンパ節シンチ」

センチネルリンパ節シンチは、センチネルリンパ節シンチグラフィの略だ。ラジオアイソトープ(RI)を用いた画像診断法のひとつである。微量の放射線を放出する薬剤(アイソトープ)を注射し、体内から出てくる放射線を撮影して画像化する。

手術当日は、全身麻酔の後に青い色素(インジゴカルミン)を乳輪に注射する。そして皮膚を2~3cm切開し、色素で青く染まったリンパ節を取り出すのだ。

センチネルリンパ節シンチは、「皮膚の上からセンチネルリンパ節の場所にあたりをつける」検査である。

サインペンで皮膚に直接しるしを描くので、検査をする15時までにお風呂に入るよう看護師さんから言われた。

やることを列挙してみると、けっこう忙しい。まずは売店に買い物に行く。手術のときに着用するオムツを購入するためだ。

全身麻酔をすると、翌朝まで身動きがとれない。トイレにも行けないので、尿道にチューブを通して排尿する。万が一尿が漏れたときのためにオムツを着用するのだ。オムツは1枚あればよい。

医療センターの売店には、大人用オムツが個別包装で売られている。町のドラッグストアに、大人用オムツのバラ売りがあるか分からないが、無さそうな気がする。探すのも面倒なので、オムツは病院の売店で購入することにしたのだ。

病室のテレビにつなぐイヤホンも売店で売られている。小百合はiPhoneユーザーなので、手持ちのイヤホンはBluetoothイヤホンとiPhone用だけだ。イヤホンジャックに刺すタイプは無い。こういう時、androidは汎用性が高くていいなと思う。

医療センターにはローソンが売店として入っている。お弁当やサンドイッチなどの品揃えは、外のコンビニと遜色がない。病院で働いている人が食事を買う時に利用するのだろう。たばこや酒はさすがに無いが、酒のつまみっぽいものはたくさん売られている。病院食は薄味で味気ないだろう。そう思った小百合は、オムツとイヤホンと一緒におつまみジャーキーを購入した。

売店で購入したものを病室に置きにもどり、1階の乳腺外科外来に向かう。センチネルリンパ節シンチは15時からだが、3時間前にアイソトープを注射するのだ。

診察台で横になり、パジャマの前を開いた。

「痛っっっって!!!」

思わず大声が出る。乳輪に注射するのって、こんなに痛いのか!聞いてへんぞ?

「あー、痛いねぇ、ちょっとガマンしてね~」

大谷先生は慣れたもんである。

(くそう…こんなに痛いのに麻酔もせぇへんのか。ふざけやがって!)

小百合は痛みに弱い。痛みで短気になりやすいタイプだ。ぼんやりした顔に生まれついてよかったのかもしれない。

病室に戻ると、食事を運ぶワゴンが通路に出ていた。もうお昼ご飯の時間をすぎていた。小百合のベッドサイドにも食事のお膳が置いてあった。お膳の上にはメモのような紙が添えられている。メモには小百合の名前と、その下に「減塩」と書かれていた。

前回の診察の時、小百合は栄養士さんから栄養指導を受けた。乳がんの一因が食生活と考えられているからだ。小百合は血圧も高い。入院当時はバルサルタンという降圧剤を服用していたが、薬を飲んでも150/90ぐらいあった。

せっかく減塩メニューを用意してくださったのに、小百合はおつまみジャーキーを買ってきてしまった。食い意地の張った人間に、栄養指導なんて無意味だ。

昼食を食べながら、小百合は栄養指導のときのことを思い出していた。

「お酒は何をどれぐらい飲まれますか?」
栄養士さんから聞かれ、小百合は答えた。

「黒霧島を毎日、2合ぐらいです」

栄養士さんはちょっと笑って言った。
「私は転勤で都城にいたことがあるんです。地元というわけではないですが。都城のお酒を飲んでくださってありがとうございます。」

後になって思ったのだが、栄養士さんは“黒霧島”とかそんなことは聞いていなかった。焼酎とか、ビールとか、酒の種類を聞いたのだ。本当は3合以上飲んでいたが、ちょっとさばを読んで2合と言った。どっちにしろ飲み過ぎなので無意味な虚勢なのだが。栄養士さんは口には出さなかったが、

「2合ってことは、毎日3合ぐらい飲んどんな」

そう思っていたであろう。

小百合は猛烈に恥ずかしくなってきた。恥ずかしさのあまりベッドの上でジタバタしていると、食事係の人が不意にカーテンを開けた。
「菊池さん、もう戻られてますか?」
ひとりでジタバタしているところを見られ、さらにジタバタすることが増えた小百合だった。

食後は着圧ソックスの採寸である。着圧ソックスは、手術の時に“肺血栓塞栓症”いわゆる「エコノミークラス症候群」を防ぐ効果がある。

看護師さんの間でも、病院の着圧ソックスは人気があるそうだ。脚が疲れた日に、このソックスを履いて寝ると脚がスッキリするらしい。市販の着圧ソックスもあるが、病院で買った方が安いのだろう。

ソックスを採寸する時、手術をする右乳房の毛を剃ってもらった。

おどろかれるかもしれないが、女にも乳毛はある。小百合の場合、乳毛は1~2本が乳輪の周りにちょろっと生えているだけだが、もっと剛毛の女性もいるだろう。毛の濃さにかかわらず、「手術前に乳毛は剃る」と決まっているのかもしれない。乳毛はシェーバーで処理する。ちょんちょんって感じで剃毛は終了した。

その後は麻酔科医からの説明だ。小百合を担当して下さる先生は、30代前半ぐらいの女性である。先生は麻酔説明のプリントを小百合に手渡した。麻酔を受ける手順や、安全性・危険性などについて書かれている。

先生は女医さんとしてはかわいらしい外見だが、話し方がぶっきらぼうだ。説明の最中も常に無表情で、笑った顔が想像できない。最後に先生は「何か質問は?」と小百合に言った。

小百合はその日、生理の初日だった。明日の手術では、経血の量が多くなることが予想される。トイレは朝まで行くことができない。紙オムツが生理用品代わりで大丈夫なのだろうか。

「明日は生理の2日目なんですが…大丈夫ですかね?トイレとか」

女同士なので、みなまで言わずとも伝わるだろう。小百合はそう思った。しかし、先生の答えがなかなか凄かった。

「チューブを入れるのは違う穴だから問題ありません。」

先生はそう言ってから、質問の意図を理解したのか「ふっふっふ…」と笑った。

「麻酔を使うと身体の活動も止まるみたいで、2日目でも経血がドバドバ出ることはないです。」

この先生、好きだな~。小百合はそう思った。

全身麻酔の説明が終わり、残すはセンチネルリンパ節シンチである。時計を見るともう14時を過ぎていた。大急ぎでシャワーを浴びて準備をする。

検査では、ガンマカメラという機材を使う。体内から放出されたガンマ線を信号として受け止め、コンピュータ処理し画像化する装置だ。このとき撮影された画像を「シンチグラフィ」という。シンチグラフィをもとに、センチネルリンパ節の位置を特定し、皮膚にしるしをつける。

1階の画像解析センターに行くと、ガンマカメラがある部屋に通された。ガンマカメラは、見た目はMRIによく似ている。寝台の頭の位置に、大きなドーナツ型の装置が付いている。

「検査をしている間、身体がカーっと熱くなりますが終わったら元に戻ります。」
技師さんが言った。撮影時間は20分ほどだろうか。撮影が終わり、しばらく待っていると乳腺外科外来から呼ばれた。

「今度は痛くないからねぇ」

大谷先生は画像を見ながら、乳房に点線で丸を描いた。腫瘍があるのがこのあたり、ということなのだろうか。そして、センチネルリンパ節のある位置にも小さな丸で記を付けた。

センチネルリンパ節シンチはこれにて終了である。刻一刻と、右おっぱいが無くなる準備が整っていく。まだ夢の中にいるみたいだ。実感がない。

病室に帰ると、夕食が用意されていた。のんびりする時間なんか無かったな。小百合は思った。

21時以降は水とアルジネードウォーター以外の飲食は禁止である。アルジネードウォーターは、糖分やビタミン、ミネラル、電解質、炭水化物を含む術前補水食である。125ccの紙パックに入ったものを、4本渡された。明日の9時までに、できるだけ全部飲んで下さい。看護師さんからそう言われた。

小百合は21時までに、おつまみジャーキーを急いで食べた。
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