第16話 もう恋なんてしたくない

文字数 2,776文字

小百合と修二は、亀川駅前のラーメン屋にいた。

「ラーメンいっちゃん琴別府店」

元力士の琴別府関が店主を務める熊本ラーメンの人気店だ。

亀川駅は別府医療センターの最寄り駅である。このあたりは飲食店が少ない。駅の近くに亀川バイパスが通っているので、観光客は素通りしてしまう。

お昼時の店内は満席だ。小百合と修二はカウンター席で、注文の品が出てくるのを待っていた。

「いっちゃんラーメンと、焼き豚ラーメン大盛です」

カウンター越しに、小百合はいっちゃんラーメンを受け取った。大きなチャーシューがどんぶりからはみ出している。チャーシューは薄くスライスされ、柔らかくて食べやすい。豚骨と味噌豚骨がある。小百合は豚骨にした。

焼き豚ラーメンは、いっちゃんラーメンのチャーシュー増量版である。放射状にチャーシューが敷き詰められている。ボリューム満点だ。大食漢の修二は、いっちゃんに来るといつも焼き豚ラーメン大盛を注文する。

以前は小百合も、焼き豚ラーメン大盛を注文していた。しかし、今日からダイエットをすると決めたのだ。レギュラーサイズのいっちゃんラーメンで我慢した。

この日は小百合の退院の日だった。修二は荷物持ちに来ていたが、退院前の診察にも同席した。大谷先生は摘出した腫瘍の写真を二人に見せて言った。

「やっぱり浸潤癌でした」

実物の腫瘍は、浸潤癌の周りに非浸潤癌がくっついているような形状をしていた。針生検では、外側の非浸潤癌の組織を採取したのだろう。簡易的な検査ではこのようなこともある。

ガンになっている部分は、素人が見てもわかるぐらい異常な見た目をしていた。健康な組織が「生のタラコ」だとしたら、ガンに侵されている部分は「焼きタラコ」みたいな感じなのだ。

「うわぁ~!!」

小百合と修二はおもわず同時に声を上げた。手術前の説明では、ガンは3センチあるかないかということだったが、写真を見るともっと大きいように感じる。

(全摘出してよかったでしょ?)

先生の表情が物語っていた。もしガンが非浸潤癌なら、治療はこれで全部終了だった。しかし小百合のガンは浸潤癌だ。治療は今後も続く。

約1か月後に、最終的な病理検査の結果が出る。
・腫瘍の悪性度
・ホルモン療法の適応度
・がん細胞の増殖の速さ
などが判明するのだ。これらの結果を見て、今後の治療方針を決定するらしい。

診察の最後に、修二がたずねた。
「温泉には入れるんですか?ウチのが温泉好きなもんで」
先生は答えた。
「お風呂に浸かるのは構いません。でも、ドレーンの跡にテープがまだ付いているので、共同浴場はやめてください。お風呂の中で剥がれると迷惑になるかもしれないから。家の温泉ならいいですよ。」

小百合の家のお風呂は温泉ではない。水道水の沸かし湯である。
「温泉に入るのは、もうしばらくの辛抱やな。」
修二が言った。

別府市では各家庭に温泉が引かれている。

よく言われるが、あれはウソだ。温泉がある家は、お金を出して掘削している。町内会でお金を出し合って、各家庭に温泉を引いている地区も多い。掘削工事のお金を出した家にだけ、温泉が供給される仕組みだ。下水道を通すのと似たシステムである。お金を出さなかった家は、近くの共同浴場に入りに行く。お風呂のない家が別府市には多いのだ。

小百合の家も、以前はお風呂がなかったそうだ。当時のなごりで、お風呂の小屋が敷地内にある。小百合の住む上人(しょうにん)~亀川エリアには、同じような借家が多い。大家さんを同じくする複数の賃貸住宅や、マンション専用の共同浴場が併設されているのだ。

しかし、自宅にお風呂がない借家は人気がない。時代の流れである。小百合の大家さんが持っている借家も、お風呂がないのは今は6軒中1軒だけだ。敷地内にある共同浴場は、お風呂が無い家の人の専用になっている。小百合も温泉に入りたいときは、よその共同浴場に行くことにしている。

ラーメンを食べ終え二人は車で帰宅した。自宅は小百合が入院した日と同じ状態だ。姉が子宮がんで入院した時、一時帰宅すると洗濯物が山積みになっていてウンザリしたと話していた。掃除洗濯が大好きな修二に、そんな心配はない。
「のんびりしていたらいいよ」
修二は小百合にそう言うと、洗濯機を回し病院から持ち帰ったものを片付けてくれた。お言葉に甘えて、小百合は寝室で横になり入院生活を振り返っていた。

入院中の土曜日。別府医療センターの外来は土日祝日が休みだ。「今日は大谷先生も休みだろうな」小百合はそう思っていた。

「は~い、おはようございます!」
いつもの回診の時間に、先生がカーテンを開けた。

外来が無いのに病院には来てるの?!小百合はちょっとびっくりしてしまった。国立病院の先生って休みが少ないんだな…小百合は先生に同情してしまった。

地下鉄サリン事件の時、「これはサリン中毒だ」と診断を下した防衛医大の先生が、今は美容の方面にいると聞いたことがある。保険診療はそれぐらいおいしくないのだろう。

公立病院の給料は安いと聞く。激務で責任も重く、その上休みも少ない。プライドややりがいが無いとやってらんないと思う。大谷先生が神様に見えた。

(退院の日は先生にお礼を言おう)

小百合はそう心に誓ったのだった。

そして今朝である。いつものように回診にやってきた先生は、傷を確認してすぐに立ち去ろうとした。

「あの!先生…」

ベッドに横になったまま、小百合が声をかけた。大谷先生は立ち止まって振り返った。

「お世話になりました、ありがとうございました!」

小百合がそういうと、先生は一瞬ビクッとなった。そして

「ドゥフフ…」

と笑ったのだった。小百合にはわかった。これは“答えを準備していない会話が発生し、挙動不審になっている笑い”だ!

いつもエレガントな大谷先生はコミュ障だったのだ!先生の意外な一面に、小百合は興奮した。

(なんて返そう??こういう時は、えーっと、えーっと…)

先生は今、そう思っているのだろう。黒目の動きが激しい。

「あ…、えっと…頑張ってね!」

大谷先生は物凄い早口でそう言うと、そそくさといなくなった。

(先生、完全に“こっち側”やん…)

小百合は自宅の天井を見上げながら、先生の顔をぼんやりと思い浮かべていた。

(やめとけ、やめとけ、お前は人妻なんだぞ?先生にだって家庭があるだろう。それに医者と患者は普通の人間関係じゃない)

心のどこかで声が聞こえた。そんなことは分かっている。だけど気持ちが勝手に引っ張られてしまうのだ。

中年以降の恋愛に、若いころのような楽しさはない。ただひたすらにしんどいだけである。大谷先生が好きな気持ちを、小百合は“病気の治療に張り合いが出る”と思っておくことにした。しかし本音は憂鬱だった。

(また好きになっちゃったな…)

恋は疲れる。もうしたくない。でも自分の力ではどうにもできなくなっていた。
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