第19話 マイ・ホーム・グラウンド 競輪温泉

文字数 2,219文字

修二は小百合を助手席に乗せ、競輪温泉に向かった。自宅から競輪温泉までは、車で5分とかからない。温泉に行く前に、スーパーに立ち寄る。夕飯の食材を調達するためだ。最寄りのスーパーは「マルショク大学通り店」である。

マルショクは、北九州~大分を中心にチェーン展開するスーパーマーケットである。大学通り店は、別府大学のすぐそばにあるのでこの店名が付いている。最近の小百合は、修二が帰宅してから、マルショク大学通り店に一緒に買い物に行くのが日課になっていた。

結婚してから今まで、小百合は仕事をしていない。家にお金を入れられない代わりに、家事は完璧にこなそうと決めていた。

でも、こうして二人で買い物に来るようになって思う。修二が一緒だと、夕飯のメニューが決めやすい。荷物が重くなったときも、修二に持ってもらえる。何より楽しい。

「そういえば私たちって、新婚さんやねんな」
小百合が修二に言うと、修二はおどけて答えた。
「新婚さんいらっしゃいに出るか!」

バタバタで結婚した二人は、結婚式を挙げなかった。結婚指輪もない。「お金がもったいない」と小百合が断ったのである。結婚式に呼ぶような友達が小百合にはいないし、指輪だって無くすかもしれないからだ。

物より思い出である。小百合は内心「新婚さんいらっしゃいも悪くないな」と思った。でももし万が一、オーディションを通過するようなことがあったら困る。

(私は一生モブでいい)

浮かれてテレビにに出るなんて、小百合にはやはり考えられなかった。

「夕飯は鍋でええよ。鍋なら簡単でいいやろ?」
修二が提案した。最近、1日おきに鍋を食べている気がする。
「いいんで。オレは鍋が好きやけん」

乾物のコーナーに、鍋の素の特設コーナーが開設されていた。年々、鍋の素は種類が増えているように思う。鍋は偉大だ。同じ食材でも味を変えて飽きずに食べるつづけられる。残ったスープを雑炊にできるのも良い。朝ごはんにもピッタリだ。肉も野菜も採れて健康的である。夕飯は鍋に決定した。

食材の調達が済んだので、今度こそ競輪温泉に向かう。亀川バイパスと並行して走る県道642号線沿いに、競輪場入口のアーチが立っている。昔の「メガネの三城」みたいな、メルヘンチックなデザインのアーチである。アーチをくぐると、競輪場の駐車場の真ん中に2階建ての建物が見える。

競輪温泉はこの建物の1階にある。競輪をやらない人でも利用することができ、競輪が開催されていない日でも営業している。定休日は毎月10日と20日だ。(令和6年6月現在)

受付は男女の入口の間にある。料金は大人110円だ。(令和6年6月現在)小百合が別府に来た平成30年頃は、共同浴場は100円のところが多かった。今はどこも200円ぐらいに値上がりしている。燃料費高騰などが原因である。競輪温泉も以前は100円だったが、10円値上がりして110円になった。それでもよそに比べるとかなり安い。

受付で料金を支払い、小百合は修二とわかれて女湯の暖簾をくぐった。暖簾の奥はタイル張りの玄関である。玄関と脱衣所は、スライド式の扉で仕切られている。

別府では玄関と脱衣所が仕切られている共同浴場は少ない。玄関から靴を履いたまま脱衣所に入るのが別府スタイルだ。玄関だけではない。昔ながらの共同浴場は、脱衣所と浴室の間にも仕切りがない。玄関から洗い場まで、地続きになっているのである。

競輪温泉は、玄関・脱衣所・洗い場が独立している。共同浴場としては、近代的な造りだ。鍵付きのコインロッカーもある。しかもロッカーは返金式だ。太っ腹である。

小百合は脱いだ服をたたみ、コインロッカーとは別の、扉のない棚に入れた。貴重品を持っていないからだ。バスタオルを広げて、服の上に置く。脱いだ下着がまる見えにならないための配慮である。40年以上生きてきて、ようやく小百合が身に着けた“社会性”だ。

シャンプーなどが入っているバスケットを持って、小百合は浴室の扉を開けた。浴室には先客が3人いた。
「こんばんは~」
小百合が大きな声であいさつをすると、周りの人もあいさつを返してくれた。

かけ湯の時は気合が必要だ。競輪温泉にはシャワーがない。頭や体を洗うときは、湯船のお湯を洗面器ですくって使う。外から来た直後は、熱くて心臓が止まりそうに感じる。持病がある人にはよくないと思う。しかし小百合の体調不良には、これが効くのだ。

「背中を擦ってあげるけん、こっちおいで」

常連さんの一人が小百合に声をかけた。年齢は70代だろうか。白髪頭のその女性も、右胸が無かった。

20年以上前に別府医療センターで乳がんの手術をしたと、その人は話していた。医療センターがまだ「国立病院」と呼ばれていたころだ。

「お医者さんにも分からんことがあるけん。経験者に聞くんが一番よ。」

その人と初めて話したとき、小百合は少し泣いてしまった。人のあたたかさが身にしみた。他人との関わりを避けて生きてきたというのに。

その人は、小百合と一緒なると必ず背中を流してくれる。でもその人の名前すら、小百合は知らない。聞いたら教えてくれるのかもしれないが、野暮かと思い聞かずにいる。その人も、小百合の名前を聞こうとはしない。

「しんどいなら、お医者さんにちゃんと言わんと。“そんなことわざわざ聞きに来たんか”って笑われてもな」

その人は、小百合の背中を洗いながら言った。修二とお風呂の常連さんだけが、小百合の話し相手だった。
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