大谷先生の豹変

文字数 2,576文字

令和5年12月25日。今年最後の診察である。小百合は鶴見にある「火売神社」にお参りしていた。朝の8時前だった。
火売神社の正式な名称は、火男火売神社(ほのおほのめじんじゃ)という。鶴見岳の2つの山頂を、男女二柱の神に神格化したと言われている。火売神社は上宮・中宮・下宮からなる。鶴見の火売神社は下宮だ。上宮と中宮は鶴見岳の山頂と中腹にある。

別府の人は鶴見岳を指してよくこう言う。
「鶴見岳が噴火したらうちらは終わりや」
鶴見岳は活火山である。1498年に起こった日向灘地震では、鶴見岳のふもとにあった延内寺という大きなお寺の地面が爆発し、寺は焼失した。延内寺は、今の天然坊主地獄の場所にあったらしい。やまなみハイウェイから明礬に向かう交差点の近くである。火売神社も天然坊主地獄から近い。

別府には坊主地獄が2つある。「鬼石坊主地獄」と「天然坊主地獄」だ。天然坊主地獄は、本坊主とも呼ばれる。鬼石坊主地獄は観光用に新しく開発された地獄だが、天然坊主地獄は別府が観光地になる前からある。天然記念物に指定されていること、昔からあることなどから、鬼石坊主地獄と区別するため「天然坊主地獄」「本坊主」と呼ばれている。
天然坊主地獄は昭和48年・平成元年にも爆発している。別府の人にとって、鶴見岳の噴火は決して笑い話ではない。充分にあり得る災害なのだ。

火売神社は、別府にある神社の中で社格が一番高い。小百合は鉄輪のホテルで働いていたとき、火売神社によくお参りに来ていた。マッチングアプリに登録したときも、火売神社にお願いしたのである。
「いい人と結ばれますように」
その直後に修二と出会った。火売神社には、縁結びのご利益があると思う。少なくとも小百合にはあった。
しかし小百合はこの日、火売神社でこう祈っていた。
(大谷先生とどうにかなりますように…)
火売神社の神様は、きっとあきれていただろう。小百合だって本当にどうにかなるなんて思っちゃいない。「今より仲良くなれたらいいなぁ」くらいだった。そういうことにしておこう。

病院の予約時間は9時30分だ。一時間前には来るよう言われた。血液検査の結果が出るのに1時間ぐらいかかるからだ。拝殿に背を向けると、鳥居越しに参道が海へと一直線に続いている。八幡竈門神社からのオーシャンビューも素晴らしいが、火売神社からの景色も小百合は大好きだ。

ドーン、ドーン、ドーン…

拝殿から太鼓の音が聞こえてくると、鳥が一斉に飛び立った。
(のりおちゃん!)
今日は普通の診察なのだが、なぜかのりおちゃんがやってきた。何か起こるのだろうか?小百合は嫌な予感を抱えながら、医療センターへと向かった。

いつにもまして医療センターには人が多かった。広い待合室には腰掛ける余裕もない。小百合は名前を呼ばれるのを立って待っていた。
診察の順番が回ってきたとき、時計は11時を過ぎていた。小百合の体力は限界である。
(予約は9時半で?今、何時よ。待たせすぎやろ、さすがに!)
先生は今日もニッコニコだった。しかし小百合は忍耐力も限界に達していた。大谷先生のせいではないのは分かっているのだが。小百合は言った。
「あの、先生。私のガンは転移もなくて、放射線治療も必要ないんですよね?」
大谷先生は「そうだよ」と答えた。
「だったら、もっと小さい病院に転院とかできないんですか?待ち時間が長いのが本当にきつくて…」
先生のほうに目をやった小百合は、心臓が止まりそうになった。
先生の目がバッキバキになっていたのである。今まで見たことがない表情だった。黒目が泳いでいる。まばたきが激しい。

「あ――――、いいよ!」
先生はそう答えた。小百合は(えっ?いいの?)と思った。てっきり先生はこんな風に言うと思っていたのだ。
「う~ん、転院はまだちょっと早いかな?待ち時間がきついなら、予約を遅い時間に入れようね。朝より空いているから」
バッキバキだった大谷先生はすぐにもとの表情にもどり、小百合に言った。
「次の診察は2月22日だから、その時にもう一度転院の意思を確認しますね」
小百合はホッとした。本当に転院の流れになるとは思っていなかったのだ。今日はどうかしている。「体がキツいから待ち時間をどうにかして欲しい」と素直に頼めばよかったのに。これも更年期障害のせいだろうか。
(次の診察で、転院はやめますと言おう)
小百合はそう思いながら、診察室を出ようとした。

「では先生、よいお年を」
去り際、小百合がそう言うと大谷先生がハッとした表情になった。
「あ!ちょっと待って!次の診察はだいぶ先になるから、跡だけ見せて。お~い、ちょっと誰か!」
胸を見るときは、先生と二人きりにならないように看護師さんが同席する。女性の看護師さんが診察室に入ってきた。小百合は荷物を置いて、席に腰をかけて洋服の前をたくし上げた。
「えっ?これ蕁麻疹じゃないの?」
先生は小百合の胸を見て言った。小百合はアレルギー体質だ。アトピーもあるし、温熱蕁麻疹もある。なんかよく分からん赤みやかゆみがあるのは日常茶飯事だった。先生が指摘した箇所は、確かに少し赤くなっている。しかし、小百合にとっては問題にもならないような微妙な赤みであった。
「今から皮膚科で診てもらおう。薬疹の可能性があるからね。それからでないと、転院もさせられない。」

やっと家で寝られると思っていたのに、まだ診察があるのか。小百合はヘロヘロになりながら、医療センターの2階にある皮膚科へと向かった。皮膚科で待っている時、小百合はさっきの先生の表情を思い出していた。

(あの目…ひょっとして先生、私の仲間なの?)

初めての診察のときに見た、猫背でしゃなりしゃなりと歩く先生の姿を思い出した。小百合の仲間は、姿勢が悪い人が多い。歩き方にも特徴がある。スッと伸びた姿勢でちゃっちゃと歩く人はいないのだ。なぜだか分からないが。
小百合も、「天空の城ラピュタに出てくるロボットに歩き方が似ている」と何度か言われたことがある。猫背で腕を垂らし、だらだら歩いているらしい。姿勢が悪い人がすべて小百合の仲間というわけではない。先生の歩く様子を見た時、すこし気になってはいたが、深くは考えていなかった。
あの時、のりおちゃんは小百合を小突いた。それは私の仲間が近くにいることを教えようとしていたのだろうか。そして今日も。
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