餅は餅屋

文字数 2,398文字

「う~ん、彼と私は違う人格だから、あくまでも憶測なんだけど…。夫婦喧嘩したとか、そんなんじゃないの?うっかりあなたが彼の地雷を踏んだとか。次に会った時にはもとに戻ってるよ、きっと」
山本先生が小百合に言った。山本乳腺外科クリニックでの会話である。令和6年1月17日。時間は16時を過ぎていた。
「そんなとこだろうと私も思うんですけど。だからって私にあたっていい理由にはならなくないですか?」
小百合は不満げに答えた。別府医療センターで1月4日に起こった件の相談に乗ってもらっていたのだ。予約の電話で「話が長くなるかもしれない」と伝えたところ、山本先生は一番最後の時間に小百合の予約を入れて下さった。

小百合はあの一件から、もんもんとした日々を送っていた。大谷先生の豹変の理由を、なんとか自分の中に見つけようとした。しかしいくら考えても、そこまでの落ち度があるとは思えないのだ。思い詰めている小百合の様子を見て、修二も大谷先生に憤慨していた。
「そんなおかしな医者のところにもう行かんでいい!ちょうどいいタイミングやないか。転院しろ」
小百合は「普段はいい先生やねん。手術してもらった先生に最後まで診てもらいたいだけなんよ」と説明した。「大谷先生のことが好きだから転院したくない」なんて修二に言えるわけもなかった。

小百合は一日中ひとりで家にいる。家族は遠く離れて暮らしているし、悩みを相談できる友達もいない。小さな出来事が、小百合には大ごとになってしまうのだ。徐々に小百合は、精神面が不安定になっていった。自分でもそれには気が付いていた。

(私がとっさに思いつくことは、情緒不安定な精神状態が見せるまやかしかもしれない)

小百合は自分の心と頭が信用できずにいた。考えたことを紙に書きだし、なんども見返した。思考を客観視しようとしたのだ。そうやって悩みに悩んだ上で出した結論が「山本先生に相談に乗ってもらう」ことだった。
別府医療センターに紹介状を書いてもらったとき、山本先生が話していたことを思い出したのだ。

「大谷先生は私の後輩なんですよ」

山本先生は普段の大谷先生を知っている。それなら話が早いと小百合は思った。

「私が知っている彼は、いたって物静かで温厚な人物なんだけどね?」
山本先生は首をひねっている。小百合も山本先生に調子を合わせて言った。
「そうなんですよ。あんなに高圧的な大谷先生は私も初めてで…びっくりしてその場では何も言い返せなかったんです」
山本先生が言った。
「まぁ、いずれにしても大谷先生とよく話し合うことだね。私には彼の考えていることは分からないよ」
ごもっともである。山本先生は大谷先生と同じ診療科目で、同じ大学の知り合いというだけだ。友達ですらない。そんな山本先生に、大谷先生が何を考え不機嫌になったのかなど、分かるわけはない。

山本先生が話を終わらせようとしているのを感じた小百合は、あきらめずに食い下がった。
「話し合えと言ったって、次に大谷先生と会う時、私は転院させられることになっています。私の話を聞いてくれる気が大谷先生にあればいいのですが、もし機嫌が直っていなかったら…私は話し合いで大谷先生に勝てる自信がありません!」
山本先生は、小百合にこうアドバイスをくれた。
「先生に手紙でも書いてみたらどうかな?別府医療センター/乳腺外科/大谷先生で届くから」
しかし小百合はそれを聞いて、心の中でこう思っていたのだ。

(は?なんでワシがそんなことせなあかんの?)

小百合は手紙を書いたことがほとんどない。深い人間関係を築くことが苦手な小百合には、手紙を出す相手がいないのだ。手紙と言えば、お礼状やわび状のイメージしかなかった。小百合にとって手紙を出すことは、頭を下げに行くことに等しい。
(何も悪くない私がなんで頭を下げるような真似せなあかんの?お手紙出すのは向こうのほうでは?)
山本先生はそんな小百合の表情から「こいつは平和的に問題を解決する気がないな」と察したのだろう。次にこう言ったのである。

「それか、医療センターの院長に直訴してみたら?」

山本先生によると、九大病院には「投書箱」があるらしい。投書箱のカギは、院長と医局長しか持っていない。投書箱に投書した手紙は、必然的に院長の目に触れる。山本先生は「投書箱に今回の件を投書する」ことを提案してくださったのだ。

「高齢の患者さんがいてね。わたしがもっと若かったころの話なんだけど、『もう歳だし乳房全摘出でいいでしょ?』って感じのことを言っちゃったんだよね。そのことが投書箱に投書されて、院長に『ちょっとちょっと』って呼び出されてさ。これどういうこと?って。苦情になって当たり前だと今は思うよ。女性はいくつになっても女子なんだから。あのころは経験もまだ浅かったしさ。反省したよ。」
山本先生はそんな昔話をしてくれた。小百合は思った。

(そら言われるわ)

患者さんのほとんどが女性だからといって、乳腺外科の先生が女性の気持ちに敏感だとか、人一倍女性に配慮ができるだとか、そんなことはないのである。最初のうちはお医者さんも、そのへんにいる男性と同じなのだ。

「でも、医療センターに投書箱があるかは分からない。医療センターで働いたことがないから」
山本先生はそう言うと、パソコンで別府医療センターのホームページを開いた。
「ホームページには、投書箱については載ってないな。無いのかな?書いていないだけかな?どっちかは分からないけど、“相談窓口”っていうのはあるみたいだね。これが投書箱と同じ役割なんだろうな」

山本先生は小百合の目を見すえて言った。
「あなたがこれからやるべきことは二つ。院長に伝えたいことを文章にすること。それを手紙にして相談窓口に持って行き『院長に渡してくれ』と窓口の担当者に渡してくること」

それを聞いた小百合は内心、(大ごとになってしまった)と思っていた。
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