コンクリートジャングルは魂のかたまりだ!

文字数 2,137文字

「相談窓口で『こんなことがあったから何とかしてください』なんて言ったって、絶対にうまく行きっこないからね」
山本先生が言った。
「看護師同士のいざこざなんかも、現場で解決しようったってうまくいったためしがない。それを見て思った。現場で働いている人間に、今いる現場の問題を解決することはできないって。相談窓口の担当者は、病院内のヒエラルキーでは大谷先生と同じ階層にいる、同じ現場にいるようなもんだ。相談窓口の人間に、この問題は解決できない」
そこの階層は飛び越えろ、院長に直で行け!山本先生はそう言った。

「『院長先生に渡して』で本当に渡してもらえるものなんですか?」
小百合は山本先生にたずねた。
「そりゃそうだよ。逆に『院長に渡して』で渡っていかないような病院は組織として腐ってる」
医療センターの院長が一気に身近な存在になった。そんな簡単に話を聞いて下さるんだ。知らなかった。
「わかりました、やってみます!」
小百合は“院長に直訴作戦”で行くことを宣言した。山本先生には、無理を言って相談に乗っていただいたのだ。あれも嫌これも嫌は通用しない。当たって砕けろ!である。
「絶対にケンカ腰にならないように。ワチャワチャになったら元も子もないからね。手紙で『わたしはこの病院に通いたいだけなんです、争うつもりはありません』とアピールするのを忘れないこと」
山本先生は診察の最後にそう言った。

山本先生に相談に乗ってもらった翌日、小百合はノートパソコンを引っ張り出した。パソコンの電源を入れるのは何か月ぶりだろう。久しぶりに目をさましたWindows10は、アップデートだのなんだのとなかなか動いてくれない。
ようやくWordを起動することができた。手紙は手書きのほうが気持ちを伝えやすいのかもしれない。しかし小百合は、そんなことより“できる感”を出したかった。

小百合は就職氷河期ど真ん中世代である。小百合が大学を卒業した年、同級生で就職が決まっていたのは学校の先生だけだった。当時のことを振り返ると、景気が突然悪くなったことが問題を大きくしたように思う。みんな心の準備ができていなかった。そして不景気がこんなに長く続くとも思っていなかったのだ。

昔から「使えねぇヤツ」だった小百合に、就職氷河期は関係ない。もし景気がよくていい会社に就職できていたとしても、きっと仕事は長続きしなかっただろう。
小百合は就職が決まらない状態で卒業し、先輩の会社にアルバイトで入った。会社は埼玉県の狭山市というところにあった。日本茶の産地として知られる場所だ。会社の周囲は、見渡す限り茶畑であった。
会社の従業員は、ほとんどが大学のOB・OGだ。知り合いに囲まれて働くのは気楽だった。ラッシュアワーで混雑する上り線を横目に、空いている下り列車で通勤できるのもよかった。しかし小百合は焦燥を感じるようになっていった。
東京に来て何年も経つというのに、小百合は東京のことを何も知らない。東京タワーがどこにあるのかも分からない。渋谷駅から文化村に行くのに、いつも道に迷う。中央線沿線に住んでいたので、吉祥寺と新宿は少し分かる。ほかの場所はさっぱりだった。

小百合はバイトをやめた。求人情報誌に載っていたバイク便の会社に入ったのだ。小百合は小型バイクを持っていた。
“月収100万円可能”
そんな景気のいい宣伝文句が踊っていた。バイク便は業務委託の会社が多い。報酬はライダーのがんばりや能力で変わってくる。「月収100万はベテランが不眠不休で働いても年に1回出せるかどうか」という数字である。入社してすぐそのことに気が付いたが、もう手遅れだった。少しはたくわえがないと、仕事をやめることもできない。貯金ができるようになったころには、3年ぐらい経っていた。

仕事で初めてレインボーブリッジを渡った日の感動を、小百合は今でも思い出す。
「コンクリートジャングル」という言葉がある。ビルが林立する都会の光景をジャングルに見立てた語だ。無機質で殺伐とした光景を揶揄している。しかし小百合はレインボーブリッジを初めて見たとき思った。
「この巨大な建造物を構成する小さなネジの一本まで、人間が設計し、造り、運搬し、組み立てている。人間はすごい!そして自分は何て小さいんや…」
レインボーブリッジは、巨大な生命体のように有機的な形状をしていた。都会が無機質なんて、いったい誰が言い出したのだろう。むしろ都会は人間の魂のかたまりのようである。

バイク便が小百合には性に合っていたようだ。気がつけば委託から社員になり、部下も何人か抱えるようになった。上司としての小百合は、ヒルナンデスのナンチャンみたいな感じだった。存在意義が希薄な昼行灯。部下の方が有能だ。うっかりミスが多い小百合のフォローをするため、チームが一丸となっていた。だからチームワークはよかった。それを評価する上司もいた。

社会人としてはダメダメだったが、小百合は一応ビジネス文書が書ける。大学時代はレポートもさんざん書いた。長い文章を書くのは得意だ。それを院長に見せたかった。「この人はただの田舎の主婦じゃない」と思わせたかった。

いい格好をしたかったからではない。その方が、話を聞いてもらえると思ったのだ。
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