第13話 イッチョメ イッチョメ

文字数 3,694文字

小百合は談話室の窓際に座り、ぼんやり外を眺めていた。談話室の窓から見える景色は、巨大な屏風絵のようだ。窓の中央には、八幡竈門神社が鎮座している。このあたりは、温泉地の喧騒から隔絶されている。鉄輪温泉の湯けむりも山にさえぎられ見えない。

小百合の手術は今日の13時からだ。「今からそっちに向かう」と修二からLINEがあった。

入院病棟は患者とスタッフ以外、病室に入ることができない。面会のときは、患者本人がエレベーターホール前の談話室に出向く。手術の付き添いも同じである。小百合は修二が病院に到着するのを、談話室で待っていた。

入院病棟は携帯電話の電波が入る。以前は携帯電話を操作することも病院では禁止されていたが、今は「大声での通話は控えましょう」程度だ。医療現場の常識はどんどん変わっていく。

昨夜、修二は夜中の12時近くまで小百合にLINEを送ってきていた。よほどさみしかったのだろう。しばらく相手をしていた小百合だったが、いつの間にか眠っていた。朝起きるとLINEからこんな通知が来ていた。

「このユーザーのメッセージを非表示にしますか?」

一方的にメッセージを送り続ける修二を、LINE側がストーカーか何かと認識したようだ。LINEにこのような機能があることを、小百合は初めて知った。

マメに連絡をくれる男性は安心感がある。小百合が修二とうまくやれている要因のひとつだ。だが連絡をくれない男性のほうが、女性は夢中になる。ぞんざいに扱われるドキドキ感が、修二にはない。

(たまには連絡が来なくてソワソワしたいな…)

人間は無いものねだりである。

時計の針は9時をさしていた。午前中に手術を受ける人が手術室に入る頃だろうか。この期に及んでも、小百合には手術の恐怖心が湧いてこない。小百合のガンは「浸潤癌かもしれない」と言われてはいるが、命を脅かす可能性は低い。のんびりしていられるのはそのためだろう。

(腹減ったな…)

小百合は窓の外を眺めながら、そんなことばかり考えていた。八幡竈門神社の石段の最上段から、のりおちゃんがこっちを見ている気がした。談話室の窓越しから、小百合は神社に向かって手を合わせた。

(のりおちゃん、そして八幡様、私を見守っていて下さい)

修二が談話室に到着した。小百合より修二の方が不安げな顔をしている。

小百合の母も、今日の手術に付き添いたいと言っていた。しかし医療センターでは、付き添いが1人だけと決まっている。入院中の面会も15分以内だ。コロナ対策のためである。大阪からわざわざ来たって、小百合の顔を見ることができる時間はごくわずかだ。

母には事情を説明し、この日は実家で待機してもらうことにした。手術が終わったら、修二が母に電話をかけることになっている。

そうこうしているうちに、とうとう“その時”がやってきた。

「菊池さ~ん」

背後から声がして、小百合は振り返った。声をかけたのは大谷先生だった。先生は、エレベーターホールの奥にある「関係者以外立ち入り禁止」と書かれた大きな扉の奥に、トコトコ歩いていった。手術室に向かうのだろう。

看護師さんが小百合のもとに来た。患者も自分で歩いて手術室に移動するそうだ。可動式のベッドに乗せられて手術室に入る光景を想像していた。医療ドラマなんかにありがちなシーンである。歩けるんだから歩いて行くわな。そりゃそうだ。

小百合はいったん病室にもどり、手術着に着替えた。昨日、採寸した着圧ソックスも着用する。着圧ソックスは白色で、ひざ下ぐらいの長さだ。ダボっとした手術着に白いハイソックスを合わせると“ドリフの合唱隊”っぽい。

(〽 生麦・生米・生卵 ワオ!)

脳内再生が止まらない。お気楽な女である。小百合はマスクの下でニヤニヤ笑いながら、看護師さんに連れられ手術室に移動した。

大谷先生が消えていった扉の奥に、手術室に通じるエレベーターがある。小百合はホッとした。ドリフの合唱隊の格好で、一般のエレベーターに乗るのはちょっと恥ずかしかったのだ。

手術室に入った小百合は、手術台に上がり仰向けになった。あいみょんの「マリーゴールド」が室内に流れている。

(あいみょん、いいよね)

浜田省吾とか佐野元春とか、あの頃の雰囲気があいみょんにはあるように思う。アラフィフにも人気があるんだろうな。あんま聞いたことなかったけど、退院したら聞いてみよう。

小百合は手術台の上でそんなことばかり考えていた。

手術用のスモッグみたいな服を着た大谷先生が、隣に立っていた。説明に来て下さった麻酔科の先生もいた。麻酔科の先生の隣には、若い男性医師がいる。

全身麻酔はまず点滴で患者を眠らせてから、麻酔と空気の管を気管に入れる。若い男性医師が、小百合の左手の甲に点滴の針を刺した。

(このまま記憶を失って、目覚めたときには右のおっぱいが無くなっとんのか…)

小百合は切ない気持ちを噛みしめていた。しかし、針を刺されている左手がなんだか痛い。若い男性医師が言った。

「あの…膨らんできちゃったんですけど」

点滴の針がうまく血管に刺さらなかったようだ。その様子を見た麻酔科の先生は「チッ」と舌打ちをした。新人さんに舌打ちはやめてあげて。

ひったくるように点滴の針を取り上げた麻酔科の先生は、無言で小百合の手の甲に針を刺した。

(痛ッ!?!?)

「チクッとしますよ~」とか普通は言わん?ぶっきらぼう過ぎるやろ。小百合はちょっと笑ってしまった。

(先生、ウケる…)

麻酔の眠りに沈んでいく瞬間、小百合は麻酔科の先生にツボっていた。半生を走馬灯のように振り返ることもなく。

小百合が目を開けると、「あっ!目が開いた」という女性の声が聞こえた。

小百合は過去に一度、全身麻酔で手術をしたことがある。親知らずを抜くためだった。その時は、目が覚めると顔全体が腫れてズキズキしたのを覚えている。今回は、頭がぼんやりするだけで痛みは特に感じない。

(楽勝やんけ)

小百合は思った。ベッドに寝かされたまま、手術室を出る。心配そうな顔の修二が小百合を覗き込んだ。

「よく頑張ったな」

修二の声が聞こえたのはその一言だけだった。小百合はすぐにエレベーターに乗せられ、病室に移動した。両足に圧迫装置が装着され、腕には点滴が付いている。点滴の中身は抗生剤だろうか。

病室に戻ってしばらくすると、強い吐き気が襲ってきた。夕方の回診にきた大谷先生に「胃がむかむかする」と伝えると、吐き気止めを点滴に入れてくれた。吐き気はすぐに治まった。

今夜は仰向けのまま、ほとんど身動きできない状態で一晩を過ごす。これが結構キツイのだ。排尿用のチューブが特につらい。おしっこが出切っていないような不快感が一晩中つづく。圧迫装置のシューッという音も気になった。

圧迫装置は、エアバッグのような袋が膨らんだりしぼんだりする仕組みだ。温泉なんかにある脚用マッサージ器みたいなのを想像していたが、あんなにギューギュー押す感じは無い。一晩中装着するにはマッサージ器の締め付けはきつすぎるのかもしれない。

胸の周りには「バストバンド」と呼ばれる、コルセットのようなものが巻かれている。手術跡に血が溜まらないよう圧迫するためだ。

手術した場所からドレーンが出ていた。管の先にはシリコン製の容器がついている。この容器に血やリンパ液が溜まるので、定期的に容器の中身を捨てる。リンパ液を溜める容器は、邪魔にならないよう普段はポシェットに入れる。旅館で浴衣についてくる貴重品を入れるためのポーチみたいなヤツだ。誰かの手作りだろうか。ちょっとかわいい。

翌朝の回診のとき、大谷先生はバストバンドを外し、ガーゼを交換した。小百合は思わず目を逸らしてしまった。まだ傷跡を見る勇気はなかった。

大谷先生は折りたたんだガーゼの束を傷に当てて、バストバンドをぎゅっと締めた。ガーゼは傷口の衛生のためというより、圧迫して止血するために挟むようだ。

回診の後で、点滴と排尿用のチューブ、脚の圧迫装置が取り外された。足のむくみを解消するストレッチを看護師さんと一緒に行い、その後で着圧ソックスを脱いだ。手術の装備はこれで全部外れた。はれて自由の身である。

早くも昼食の時間になっていた。小百合のもとにも昼食が運ばれてきた。食事は減塩の普通食である。おかゆや流動食ではない。小百合はものすごい勢いで食事を平らげた。お腹がすいていたのだ。食後、小百合は自分でお膳をワゴンに片づけに行った。

「あら?ごはんまだ来てないの?」

小百合の様子を見に来た看護師さんがたずねた。小百合は答えた。

「・・・もう食べちゃいました」

看護師さんは大笑いだ。

「食欲があるのはいいことですよ!」

小百合は昼食だけでは物足りず、1階の売店におかしを買いに行った。手術後24時間でこの元気である。バストバンドとドレーンが体に付いている以外、普段となにも変わりがない。

「元気そうだけどどこが悪いの?」

同室の人からそう聞かれるぐらいである。

(これものりおちゃんと八幡様のおかげかな)

小百合は談話室でハッピーターンをボリボリかじりながら、八幡竈門神社のほうに向かって手を合わせた。
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