第17話 ホルモン治療は楽だって言うけど…

文字数 2,175文字

「ただいま~!」

玄関を開け、修二は大きな声で帰宅を告げた。12月下旬である。18時を過ぎると、外はもう真っ暗だ。自宅は電気が消え、静まり返っていた。

修二は会社を出る直前、小百合にLINEを送っていた。

「今から帰るよ」

メッセージは未読のままだ。

玄関前の駐車場には、小百合の車が停まっている。修二は玄関と廊下の電気を点けた。家に上がり、ダイニングキッチンの電気を点ける。誰もいない。食器乾燥機の中に、朝の食器がまだ残っていた。

居間をのぞいてみた。ここも無人だ。空気清浄機が突然、大きな音を立ててフル稼働を始めた。

「失礼なヤツやな…」

そうつぶやくと、修二は居間の奥のふすまを開けた。真っ暗闇の中で、小百合が布団に横たわっていた。眠ってはいない。仰向けで天井を見つめている。

「おかえり…」

張りのない声で、小百合が言った。

「どうや?調子は?」

修二は布団の横にかがみ、小百合の頭をなでた。

およそ2週間前。最終的な病理検査の結果が出た。小百合は病院に行くとき、「ひとりで大丈夫」と修二に言った。悲観的になるような結果ではないだろうと考えていたからだ。修二も了解し、診察にはついて行かなかった。

診察で大谷先生から告げられた検査結果は、以下のようなものである。

【腫瘍の悪性度(核グレード)】
ガンのタチの悪さ(転移・再発のしやすさ)をあらわす項目である。乳がんには、3種類の“核グレード”がある。核や組織の異型度(正常からのへだたり具合)を表す指標だ。数値が大きいほど、異型度が高い=ガンの悪性度が高い。

小百合のガンのグレードは『1』であった。大人しいタイプのガンである。

【ホルモン受容体の有無】
この項目では、乳がんにホルモン治療を適応できるかが分かる。ホルモン治療は、抗がん剤のような強い副作用がないのが大きな利点だ。

乳がんの7割は、女性ホルモンによって引き起こされる。ホルモン依存性の乳がんには、がん細胞の表面に「ホルモン受容体」と呼ばれる分子が発現する。女性ホルモンとホルモン受容体は、鍵と鍵穴のような関係だ。女性ホルモンはホルモン受容体と結合することで、細胞にさまざまな指令を下すことができるようになるのである。この結びつきをホルモン剤で阻害し、ガンの増殖を食い止めるのが「ホルモン治療」だ。

ホルモン受容体には2種類ある。
・エストロゲン受容体(ER)
・プロゲステロン受容体(PgR)

病理検査でこの両者が確認された場合、またはどちらか一方でもある場合には、積極的にホルモン療法が行われる。逆に、どちらのホルモン受容体もなければ、そのがんは女性ホルモンの影響とは関係なく増大するがんなので、ホルモン療法は効かない。

小百合のホルモン受容体の検査は、以下の結果であった。
・エストロゲン受容体… 強陽性(90%)
・プロゲステロン受容体…強陽性(90%)

小百合の乳がんには、ホルモン療法が適応できることが分かった。

【ガン増殖の早さ】
がん細胞の増殖に関係するタンパク質HER2(ハーツー)が、乳がん細胞の表面にたくさん存在しているタイプが、HER2陽性乳がんである。HER2陽性の場合、抗HER2薬(ハーセプチン)を投与する。

小百合は『HER2陰性』だった。

以上の結果から、小百合の乳がんの性質は
・ルミナルA
と診断された。

女性ホルモンがガンの増殖に関与する乳がんを、「ルミナル」と呼ぶ。ルミナルAは、ホルモン受容体のエストロゲン受容体(ER)とプロゲステロン受容体(PgR)の両方が陽性のタイプだ。

ルミナルAの治療は通常、ホルモン療法だけでよい。放射線や抗がん剤、ハーセプチンは不要である。

病理検査と一緒に、センチネルリンパ節生検の結果報告も行われた。

腫瘍の大きさは2~5㎝で、腋窩リンパ節や他の臓器への転移は無い。針生検でステージ0と言われていた病期は、「2A期」に上がった。

以上の検査結果から、小百合の乳がんは以下のように結論づけられた。

・悪性度が低く
・リンパ節や他の臓器に転移が無い
・増殖スピードの遅いガン
・放射線や化学療法の必要が無い
・ホルモン剤だけで治療ができるガン

浸潤癌ではあるが、非常によい結果である。

しかし小百合の心は沈みきっていた。ホルモン治療の影響で、完全にダウンしていたのだ。とにかくダルい、眠い。

楽なはずのホルモン剤でも、こんなにしんどいのか。抗がん剤治療はどれほどキツイのだろう。インチキ医療に逃げてしまう人たちのことを、悪し様に言えないな。小百合はそう思った。

朝はなんとか起きることができる。修二が毎朝6時45分に家を出るので、小百合も6時に起き朝食と弁当を作る。修二を送り出すと、そのままの流れで、掃除・ゴミ出しなどを行う。

そして洗濯機のスイッチを入れ、洗濯が終わるまでしばし仮眠。…のはずが、気が付けば真っ暗だ。帰宅した修二の声で目を覚ます。そんな日が続いていた。

小百合の体調不良は、ホルモン剤で引き起こされる「更年期障害」だった。四十代後半の女性が、毎日ダルい・眠いのは普通のことだろう。みんな我慢して働いているのだ。病気にかこつけて、一日中寝て過ごしてしまう自分が情けなかった。

修二は小百合に言った。

「温泉に行くついでにスーパーにも寄ろうえ」

ホルモン剤で体調を崩している小百合のために、修二は数日前から近所の温泉に一緒に通うことにしたのだ。
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