第8話 手術説明ムズすぎワロタ

文字数 3,580文字

令和5年10月6日。乳がん手術について、修二と一緒に説明を受ける日である。のりおちゃんはこの日、小百合たちと一緒ではなかったと思う。

小百合が初めて修二を連れて実家に帰省したとき、小百合の母親が修二に話していた。

「うちの子には霊感というか、超能力みたいなのがあるから…」

修二はその時、愛想笑いを浮かべながら「?」という表情をしていた。面と向かってそんな話をされても、普通は困るだろう。だから小百合はのりおちゃんのことを、修二にまだ話していない。

修二と小百合は9時過ぎに別府医療センターに到着した。予約の時間は9時30分。名前を呼ばれたのは10時過ぎだった。予約の時間を30分以上超過しているが、これでもスムーズに行ったほうだろう。

小百合の母親は、結局不参加だった。輪投げ大会がどうのこうのと言っていたけれど、本当のことを知るのが怖かっただけではないか、と小百合は思っている。小百合が実家を離れてから約30年。「お母さんってこんな人だっけ?」と感じることが年々増えていくような気がする。

(私としゅうちゃんは、嫌でも現実と対峙しないといけないのに…)

小百合は修二のことを「しゅうちゃん」と呼んでいる。修二は三人兄弟の長男だ。親や兄弟からは「おにいちゃん」と呼ばれてきた。家族から名前で呼ばれる機会が少なかったから、「しゅうちゃん」と呼んであげるととても喜ぶ。

大谷先生は修二と手短に挨拶を済ませ、前回撮影したマンモグラフィーと乳房MRIを修二に見せながら、浸潤癌の可能性があることなどを説明した。

そして、「乳がん手術の説明書」と書かれた書類を机の上に出した。今後の治療の流れを説明するためである。

「菊池さんの乳がんは、第0期の非浸潤癌ね。手術の目的は主にこの3つです。」

・ガンを切除することで局所的な病状の進行を食い止める
・腋窩(えきか)リンパ節への転移の有無を調べる
・摘出した乳がんを病理学的に詳しく調べることで、乳がんの性質を理解し、術後の治療方針を決定する

大谷先生は、重要な箇所に赤ボールペンでアンダーラインを引きながら説明を進めた。

「“腋窩リンパ節”というのは、わきの下のくぼみのあたりにあるリンパ節のことです。乳がんが最初に転移するリンパ節と考えられています。手術では、右乳房全切除術のほかに“センチネルリンパ節生検”というのを行います。」

腋窩リンパ節への転移は、手術が行われた乳がんの約30%に認められる。術前検査でリンパ節に転移が確認された場合、乳房切除術といっしょに「腋窩郭清(えきかかくせい)」と呼ばれる手術が行われる。腋窩郭清は、リンパ節を神経や血管などの周辺組織と一緒に、まとめて切除する方法だ。

以前は術前検査でリンパ節に転移がなくても、腋窩郭清を行って転移の有無を調べていた。しかしそれによって、手術した腕のリンパの流れが悪くなったり(リンパ浮腫:頻度約20%)、上腕の内側がしびれたり、肩が上がりにくくなったり、といった合併症が起こる。これらの合併症を少なくするために開発されたのが“センチネルリンパ節生検”である。

「センチネルリンパ節は、ガン細胞が最初に流れ着くリンパ節です。ここを調べることで、リンパ系を通じてガンが他の部位に広がっているかどうかを確認することができます。センチネルリンパ節は別名『見張りリンパ節』とも呼ばれています。」

センチネルリンパ節生検の方法は、手術の前日に放射性物質(アイソトープ)を乳輪に注射し、手術当日の全身麻酔後に青い色素(インジゴカルミン)を乳輪に注射する。

「青い色素が集まった腋窩リンパ節が、センチネルリンパ節です。そのリンパ節を術中に摘出し、顕微鏡検査で転移の有無を調べます。センチネルリンパ節生検には、“迅速検査”と“永久標本”の2種類があります。」

・迅速検査…手術中に行われる病理診断の一種で、迅速に(通常は30分以内)検体を分析して結果を得る方法。手術中にがんの広がりに応じて適切な処置を行うことができる。
・永久標本…摘出されたリンパ節を、より詳細かつ正確に評価するための検査。通常、手術後に行われ、最終的な診断のために用いられる。

センチネルリンパ節に転移がなければ、その他のリンパ節も約95%の確率で転移がないと予想される。センチネルリンパ節に転移があった場合は、他のリンパ節にも転移している可能性があるので腋窩郭清を行う。

「迅速検査で転移が認められた場合、その場で腋窩郭清を行います。術後の永久標本で転移が見つかった場合は、腋窩郭清を改めて行うか、または放射線治療を行います。」

手術の時間は約1.5時間。大谷先生は午前と午後に1人ずつ手術を行うそうだ。小百合は午後の予定である。一日に2人も手術をするなんてめちゃくちゃ大変そうに感じるが、大谷先生にとってはいつもの作業なのだろう。心強いような、ちょっとわびしいような複雑な心境である。

「麻酔は全身麻酔です。酸素の通り道を確保するため口や鼻を通して気管の中に管を入れます。この操作によって、のどの痛みや声のかすれが術後しばらく続くこともあります。頭痛や吐き気が起きることもあります。手術の前日に担当麻酔医から改めて説明があります。」

全身麻酔といえば、小百合は気がかりなことがひとつあった。看護師の知り合いから聞いたのだが、全身麻酔が覚めるとき、無意識に周りの人を罵倒したり卑猥なことを言い出したりする人が結構いるらしい。

「全身麻酔、怖すぎる…」

自分も気が付かないところで、そんなことになっていたらどうしよう。手術よりそっちのほうが不安で仕方がない。

「次は予後についてです。手術後の10年生存率は、第0期の場合97%、第Ⅰ期で89%、第Ⅱ期で76%です。手術以外の治療も日々発展しています。術後化学療法、抗がん剤治療のことですね、あとはホルモン治療。」

小百合の術前検査の結果は第0期である。切除した腫瘍(細胞が異常に増えて塊になったもの)の病理検査の結果は、約3週間後に判明する。検査結果によっては、術後のホルモン療法、抗がん剤治療、放射線治療が必要となる。

「術後の経過ですが、手術の翌日から歩行や食事が自分で出来ます。点滴は手術翌日まで、抗生剤の点滴も当日だけです。自然に溶ける糸を使うので抜糸の必要はありません。手術をした場所に血液やリンパ液が貯まらないように“ドレーン”という管を入れます。これも術後7日ぐらいで抜きます。退院はドレーンが取れてからです。術後8日以降になるでしょう。」

大谷先生はさらに話を続けた。

「乳房の再建をご希望の場合はおっしゃって下さい。形成外科を紹介します。ただし、乳がんの切除と乳房再建手術は同時に行えません。大分で同時にできる病院は、大分県立病院だけです。」

乳房の再建は必要ない。小百合はそう考えていた。乳がんが発覚する3か月ぐらい前、小百合は長湯温泉のラムネ温泉館で、片方の乳房が無い女性と一緒になった。小百合と同年代のその人は、手術の跡を隠すことなく自然に振る舞っていた。その姿が、颯爽としていてカッコよかったのだ。「これが私だ!」という感じがしたのである。もちろん、傷跡を気にする人を否定するつもりは無い。

「再建は考えていません。」

小百合が即答すると、大谷先生は説明書の「乳房再建を希望しない」欄にチェックを入れた。

「手術の間ずっと横になっていることで、静脈の中の血流の流れが遅くなり、血液が固まることがあります。“深部静脈血栓症”といいます。下肢の静脈の中で血栓ができると、血栓が血管の中を流れて肺の動脈に詰まる“肺血栓塞栓症”がおこる恐れがあります。『エコノミークラス症候群』といえば分かりやすいでしょうか。小さい血栓は自然に溶けますが、大きな血栓は命取りになりかねません。予防のために、手術中は弾性ストッキングを着用し、ふくらはぎに間欠的空気圧迫装置を装着します。」

弾性ストッキングを着用すると、皮膚に近い部分の血管が圧迫され血流が減る。そうすることで、深い部分の静脈の血液が増え血栓ができにくくなるのだ。間欠的空気圧迫装置は、手術中や手術直後など自分で足が動かせないときに、自動で足の静脈を圧迫する装置である。

「説明は以上になります。何か分からないことは?」

分からないことが分からない。そんな気持ちだった。大谷先生は、乳がん手術の説明書と一緒に“乳がんと診断されたあなたへ 治療を始める前に知っておきたいこと”というタイトルの冊子を小百合に渡した。

「大事なことが書かれていますから、帰ってからでも読んでください。まぁ、読まなくてもいいですが…」

どっちやねん!と小百合は思った。

診察が終わり、外科外来の受付で署名や住所の記入などが必要な書類をたくさん渡された。帰ってから大仕事だな…。小百合は思った。
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