第10話 椎葉村の山の神

文字数 3,220文字

小百合の乳がん手術が来週にせまった。

乳房を失ことについて、小百合は充分に納得しているつもりだった。しかし、乳房が無くなった自分の姿を実際に見たら、どんな気持ちになるのだろう?小百合には想像もつかない。意外と平気なものだろうか。それとも、喪失感に打ちのめされるだろうか。手術への恐怖は無かったが、自分がどう感じるかの不安は大きかった。

小百合は気持ちが落ち着かないとき、神社にお参りにいく。今回は大きな手術が目前に控えている。気合いを入れるため、九州を代表するパワースポットを訪れることにした。のりおちゃんにも、手術にむけて英気を養ってもらおうという思いもあった。

手術前の最後の日曜日、小百合と修二は高千穂の「天岩戸神社」に向かった。別府から高千穂に行くルートはいくつかあるが、今回は東九州自動車道を利用した。

小百合は物心がついたころから、神社やお寺が大好きだった。小百合の生まれ故郷は、大阪南部に位置する「藤井寺市」である。今は無き近鉄バファローズの本拠地があった場所だ。市の名称は、読んで字のごとく寺の名前に由来している。

藤井寺市は市政になる前、美陵町(みささぎちょう)と道明寺町のふたつの町であった。藤井寺市には古墳がたくさんある。「古市古墳群」と呼ばれ、古代史を研究する上で非常に重要な地域だ。美陵町は、緑あふれる美しい御陵(みささぎ)という意味で名付けられた。

道明寺町の名称も寺の名前から来ている。桜餅で知られる「道明寺」が所在しているのだ。大阪夏の陣「道明寺の戦い」や、少女マンガの登場人物でも有名だろう。名前はよく知られているが、道明寺はどこにでもありそうな小さなお寺である。

河内以外の地域の人は、神社仏閣や古墳になじみが少ない。関心もあまりないと知った時、小百合は衝撃を受けた。神社仏閣に興味が無いなら、何をアイデンティティにしているのだろう?純粋に疑問だった。それぐらい、小百合にとって寺や神社はあって当たり前の存在なのだ。

東京に住んでいた時、15年付き合った元カレと、どこだか忘れたがお寺に行った。神社仏閣ガチ勢の小百合は、由緒書きにあった「発心」という漢字を普通に読むことができた。

発心(ほっしん)とは、出家して仏門に入ること/菩提(ぼだい)心を起こすことを表す仏教用語である。

その時、元カレが驚きの声を上げた。

「なんでこの漢字の読み方を知っているんだ?!」

普通の人は“発心”を読むことができない。小百合はその時、初めて知った。元カレがびっくりした理由は、彼が創価学会員だったからだろう。非学会員でこの漢字が読める人は少ないのだ。たぶん。

こんな感じで、小百合の半生はお寺や神社とともにあった。しかし、小百合が関心を持っていたのはあくまでもカルチャーの面である。神様や仏様が本当にいるとは思っていなかった。信じていなかったというより、どんなものかよく分かっていなかったのだ。のりおちゃんは、神や仏ほど高次元な存在ではない。

小百合がはじめて神の存在を感じたのは、二十代後半のころ。山梨県のクリスタルラインを走っていた時である。クリスタルラインは、北杜市、甲斐市、甲府市、山梨市の4市にまたがる県営林道だ。小百合はバイクが趣味だ。東京にいたころ、クリスタルラインにはよく走りに来ていた。

クリスタルラインは、冬季に閉鎖される。期間は12月上旬から4月下旬までだ。その日は、閉鎖される直前の11月下旬であった。

折しも霧が出ていた。木々は葉を落とし、生き物の気配も感じられない。通る車はほとんどなく、シンと静まり返った林道は、耳が痛くなるような無音の世界である。張り詰めた空気が、山全体を覆っていた。

掃き清められた神社の境内のような空気感。それをもっと野性的にした感じだろうか。禍々しいとも言えるかもしれない。バイクで走っていると、何かにずっと見られているような気持ちになる。

ポッポポッポポッポ…

バイクの排気音が霧にぶつかって消えていく。この山全部が神なのだ、小百合はそう感じた。

修二は水道工事の会社に勤めているが、若いころは土木会社でトンネル工事や砂防工事に従事していた。土木業界もいまだに、山のしきたりを大事にしている。たとえば、「ごはんに味噌汁をかけて食べると土砂崩れが起きる」や、「山の神の日に仕事をしてはいけない」などである。

小百合と修二は初めてのデートのとき、山の神の話でめちゃくちゃ盛り上がった。修二が小百合を気に入った理由のひとつである。山の神の話題で成婚したマッチングアプリユーザーは、そう多くないだろう。

今回、東九州自動車道を利用したのも、山の神に関係している。

数年前、小百合と修二は水俣に旅行に行った。その帰り道。榛葉村(しいばそん)を経由して、阿蘇方面に抜けるルートを通ることにした。

椎葉村は、高千穂から20㎞ほど南にある山間部の村である。岐阜の白川郷、徳島の祖谷とともに日本三大秘境のひとつに数えられている。村全体が標高1000mから1700m級の山々に囲まれ、川沿いや山の緩斜面に集落が点在している。

車にはナビが付いていた。ナビの案内通りに進んだのだが、いくら走っても椎葉村の中心地に着かない。気が付くと、さっき通った場所に戻っていた。

ガソリンの残量も心もとなかったので、その日は椎葉村経由で帰るのは諦め、東九州自動車道を目指したのだ。あの日のことを思い出すと、今でも気味が悪くなる。修二は「山の神に歓迎されていないのでは」と不安がった。

この日は、椎葉村でお昼ご飯を食べる予定にしている。道に迷わないよう、高速を使って、なるべく単純なルートで行けるようにしたのだ。椎葉村にたどり着いたとき、修二は

「椎葉村は本当にあったんだ…」

と探検家のような言葉をつぶやいた。

昼食は「平家本陣」という、椎葉村が運営する物産館で食べる。ここで出されている蕎麦が絶品なのだ。

九州で麺類というと、全国的にはラーメンか福岡のうどんが有名だろう。小百合は九州に引っ越してくるまで、蕎麦は九州であまり食べられていないと思っていた。

大分県も蕎麦の産地である。耶馬渓や宇佐では春と秋の2回、新蕎麦のシーズンが訪れる。大分の蕎麦もとてもおいしいが、東京の蕎麦の方が小百合は好きだった。特につゆである。

大分のそばつゆは、うどんと同じだ。蕎麦には関東風のかえしの効いたつゆのほうが合うと、小百合は思っていた。

平家本陣のつゆも、透き通ったうどん出汁である。しかし、うどん用とか蕎麦用とか、そんな固定概念を超越したおいしさなのだ。

「なんだこれ?しいたけ出汁?」

平家本陣の蕎麦を初めて食べた時、小百合はそのおいしさに度肝を抜かれた。蕎麦のイメージがない宮崎県の内陸で、こんなにもおいしい蕎麦が食べられているなんて。人生で食べた蕎麦の中で一番美味しい。

小百合はそれまで、そばつゆは三越前の「そばよし」が日本一おいしいと思っていた。そばよしは、かつお節問屋が直営している立ち食いそば店である。平家本陣のつゆは、そばよしとはタイプが全然違う。そばよしのような際立った香りは感じられない。しかし、食べ進めるうちに奥からこみあげてくるような滋味は、そばよしに負けずともおとらないだろう。

蕎麦の味は、平家本陣が圧倒的に上である。素朴な手法で作られた田舎そばのおいしさは、都会では絶対に味わうことができない。わずかな量しかとれず、流通にも乗らない椎葉産そば粉使用した「椎葉そば定食」は、1日20食限定だ。この日は、そば定食にもありつくことができた。

「今年もまた、この蕎麦を食べに来ることができました…」

小百合は心の中で手を合わせた。修二にもこの蕎麦をぜひ食べさせたかった。念願かなって、ふたりでこうして椎葉村に来られたのだ。修二も平家本陣の蕎麦を気に入ったようである。

来年もまた食べに来られますように。心の中で祈りながら、小百合たちは高千穂に向かった。
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