第18話 手術が済んだらハイ終了?

文字数 2,574文字

退院してから20日ほどで、小百合のバストバンドが外れた。外のお風呂に入る許可も同時におりた。ドレーン跡のテープを、もう貼らなくてよくなったのだ。

手術で切った部分にはまだテープが必要だ。傷口が開いた状態で塞がるのを防ぐためである。今後は、自分で入浴時にテープを貼りかえる。

退院してからの通院は、10日おきである。大谷先生は、前にもまして小百合に笑顔を向けてくれるようになった。

初対面の大谷先生は、小動物を狙うネコのような目をしていた。「大谷先生は笑うことなんてあるのだろうか」小百合にとっての大谷先生はそんな感じの人だった。最近の先生は、猫目どころか細いタレ目でニコニコしている。小百合が診察に来ると何だか嬉しそうだ。

(まさか先生、わたしのこと…)

いやいや、そんなわけはない。乳腺外科の患者さんのほとんどは女性である。鈴木杏樹や田中麗奈レベルでもない限り、お医者さんの目に止まりはしないだろう。

それに、好きにもいろいろある。小百合は障害のせいで天然ボケに見られやすい。バカにされたりイライラされたりも多いが、「抜けているけど一生懸命な人」と好意的に捉えられるパターンもある。または、

(動きが面白いなぁ…)

そう思っているのかもしれない。

あさっては10日に一度の診察だ。通院はそれ以降、3か月に一度になる。たまにしか大谷先生に会えなくなるのは残念だが、楽な治療で済んだのだ。喜ばしいことである。しかし小百合は、モヤモヤした気持ちを抱えていた。

乳がんが発覚してから小百合は、乳腺外科の先生にずっと頼りきりだった。最初は山本先生。医療センターに紹介状を書いてもらってからは大谷先生だ。困ったことや要望などがあれば全部、乳腺外科の先生に持って行けばよかった。

ところが、手術が成功し、ホルモン治療に移行した途端。「じゃ、あとは自分で頑張って!」となったのである。

小百合の受けているホルモン治療には、注射と飲み薬が使用される。

・リュープリン(注射)で生理を止める
・タモキシフェン(飲み薬)でエストロゲンがホルモン受容体と結合するのを抑える

X(旧Twitter)で同じ治療をしている人のポストを検索すると「白髪やシミ、シワが増えた」「太りやすくなった」「疲れやすくなった」と言っている人が多い。薬で老化が急激に来る感じだ。

ホルモン治療での困りごとの多くは、乳腺外科の先生にはどうすることもできない。たとえば、小百合が抱えている「更年期障害」などがそうだ。鬱症状が出ることもある。角膜や網膜に異変が起こる場合もある。

これらは外科の分野ではない。

ホルモン療法が始まる前、小百合は薬剤師さんからホルモン療法に関する説明を受けた。医療センターには薬剤師さんが常駐している。病理診断の検査結果が出た日、小百合は薬の説明のため別室に呼ばれた。

リュープリンは武田薬品の薬だ。世界中で使われているリュープリン注射は、武田薬品が一社で製造している。タモキシフェンはいろんな会社から出ている。ノルバデックスという後発品もある。

小百合は薬剤師さんから、武田薬品が出しているリュープリンの冊子と、日医工のタモキシフェン治療の冊子を渡され、今後の治療や副作用についての説明を受けた。

副作用が多いのはタモキシフェンである。タモキシフェンの冊子には「次の症状に気付いたら、すぐに医師または薬剤師にご相談ください」と記されていた。

・発熱/考えがまとまらない/視力低下/足の痛み/発疹 …etc.

町のドラッグストア売られている市販薬にも、副作用についての記述がある。タモキシフェンの冊子に書かれていた説明は、それらと似たようなものだった。

(形だけでも説明しないといけないんだろうな)

小百合はそう思いながら、薬剤師さんの話を軽く聞いていた。

ところがタモキシフェンの服用をいざ開始すると、起き上がっているのもつらい状態になってしまった。順調すぎるぐらい順調にここまで来たのに、青天の霹靂である。身体のキツさだけではない。宇宙空間にひとりで放り出されたような孤独感があった。

前回の診察のとき、小百合は強い倦怠感があることを大谷先生に話した。倦怠感のほかに、血圧の上昇もあった。大谷先生は言った。

「それは副作用じゃなくて、エストロゲンが不足することによる更年期障害です。辛くて我慢できないときは、自分で病院に行ってください」

こんなに体調が悪いのに、副作用じゃないだと?!小百合は愕然とした。しかも先生の言い方。「そんなことぐらい自分で考えたら?」
とでも言いたげに見えた。もちろん小百合の被害妄想である。小百合は体調の悪さも相まって、突き放されたような気分に襲われていた。

そんな小百合を助けてくれたのが、温泉だった。小百合は毎日「競輪温泉」に通い始めたのだ。修二と結婚する前にも行っていた温泉である。

競輪温泉は別府競輪場の敷地内にある。温泉地に公営ギャンブル場があることは珍しくない。しかし、ギャンブル場の敷地内に温泉がある例は少ないだろう。青森県の青森競輪にも「競輪場温泉」がある。しかしこちらは、選手宿舎内の温泉を、日にちを指定し一般開放しているにすぎない。

別府の競輪温泉は、共同浴場である。朝7時~夜10時まで、110円払えばいつでもだれでも入浴することができる。

競輪温泉のお湯の特徴は、とにかく熱いことだろう。別府市内の温泉は、源泉の温度が100℃近い高温のところが多い。競輪温泉の源泉は70℃くらいである。もちろん、このままでは熱すぎて入ることができないので、入浴客が湯船に水を足して好みの温度に調節する。

競輪温泉のお湯が熱いのは、熱いお湯が好きな常連さんが多いからである。居合わせた人の好みにもよるが、いつも45℃以上ある。

熱すぎるお風呂は体によくない、とよく言われる。しかし自律神経系の不調には、熱い温泉が効果的だ。小百合の個人的な感想である。

最近、よく耳にする「整う」という言葉。サウナ愛好家が考え出したワードだが、競輪温泉のお湯も「整う」感じがある。緩んでいたネジがぎゅっと締まる。隙間が空いていたパーツがビシッとそろう。そんな感じである。

小百合と一緒に修二も競輪温泉に通い始めた。最初のうちは「熱すぎる」と文句を言っていたが、しばらく通っているうちに修二も、熱い温泉の魅力に目覚めたようだ。
ワンクリックで応援できます。
(ログインが必要です)

登場人物紹介

登場人物はありません

ビューワー設定

文字サイズ
  • 特大
背景色
  • 生成り
  • 水色
フォント
  • 明朝
  • ゴシック
組み方向
  • 横組み
  • 縦組み