第7話 同じ星の吉田先生

文字数 2,914文字

JR日豊本線の普通列車に小百合は揺られていた。かかりつけの内科に行くためだ。内科は浜脇と呼ばれるエリアにある。最寄り駅は別府駅だが、駅から浜脇までは徒歩20分ほどだ。

暦は9月下旬。真夏のような気温が続いている。楠銀天街のアーケードを、汗を拭き拭き歩く。屋根があるので暑さはいくぶんマシだ。それでも気持ちが悪くなるような高温に変わりはない。

「吉田内科医院」と書かれた建物が見えてきた。外観は昔ながらの町のお医者さん、という感じである。今の先生で何代目だろうか。以前は入院患者も受け入れていたようだが、今は外来診療だけである。

目的地に到着した時にはもう汗だくだ。小百合が内科に通院している理由のひとつが「汗」である。この日も汗のせいで、村下孝蔵みたいな髪型になっていた。

小百合は、水分のコントロールがうまくできない。汗っかきなだけでなく、お腹も下しやすい。偏頭痛持ちで、天気の悪い日には吐き気が起こることもある。原因のひとつは「酒の飲み過ぎ」だろう。でも、病院でそんな話をしたら「お酒を控えましょう」と言われてしまう。

(言われてできるなら、とっくにやめてるんですわ。)

だから小百合は、酒飲みであることを吉田先生には黙っていた。

この日は「良性発作性頭位めまい症」の治療が目的である。良性発作性頭位めまい症は、特定の頭位でめまいが誘発される病気である。更年期の女性に多いことから、女性ホルモンの低下や加齢などが原因で起こると考えられている。

数日前の朝、修二を送り出した小百合は少し横になっていた。家事をするために起き上がった瞬間、ぐらっと頭が揺れたのだ。

小百合の祖母はメニエール病である。自分も遺伝的になりやすいかもしれない、そう思った小百合は、近所の耳鼻科に行った。診察結果は良性発作性頭位めまい症。一時的なめまいの病気である。メニエール病でなくてよかったが、めまいが治まるまで車の運転は控えるように言われた。

記録的な猛暑日が続いていた。出かける用事は通院と買い出しぐらいだが、10分ほど出歩いただけでも暑さでフラフラである。運転中にめまいを起こして、事故にでもなったら大事だ。しかし徒歩も危険な暑さだった。

「針でなんとかなりませんか?」

小百合が吉田内科医院に問い合わせると、吉田先生は「診てみましょう」と言って下さった。吉田内科には車で通院しているが、今は運転を止められている。仕方がないので、この日は電車と徒歩で来た。

吉田先生の専門は漢方薬だ。必要に応じて普通の西洋薬も処方して下さる。それだけではない。針もできる。医学部の教科書を積み上げると、男性の身長より高いと聞くが、吉田先生はさらに漢方専門医と鍼灸師も持っているのだ。凄すぎる。

それなのに、吉田先生の見た目は全然凄そうに見えない。いつもボロボロの服を着て、ブツブツ独り言を喋っている。マンガに出てくる“天才科学者”みたいなキャラクターだ。

この日は、ズボンのお尻に特大の穴が開いていた。穴というより、部分的に繋がっているだけのショートパンツに近い。

(ギャルみたい…)

吉田先生に初めて出会ったとき、小百合は「同じ星の人だ」と感じた。”特性”を持った人に会うと、小百合は異国の地で同胞に遭遇したような気持ちになる。

大人になるにしたがい、特性がある人も世間に紛れ込むのが上手になる。まるで、人間に化けて地球で暮らす宇宙人のように。小百合はそれを見破るのが得意なのだ。

普通の人に擬態していても、根っこは宇宙人だ。はみ出し者だったり、人生がうまくいかずひねくれた人も多い。

(こんなところにおられましたか!)

小百合は心のなかで歓喜しながら、同胞に近づいていくのだ。宇宙人は宇宙人同士で周波数が合うことが多い。小百合が心を許せる人のほとんどは「人間に擬態した宇宙人」である。

小百合は障害のせいで、人の顔色や場の空気を読むのが難しい。普通の人には当たり前に見えているものが、小百合には見えないのだ。そんな小百合が人間関係を築くうえで基準にしているのが、「相手の誠実さ」である。

吐いていい嘘はある、と小百合は思っている。だから必ずしも正直でなくてもよい。誰のために、何のためについた嘘なのかが重要だ。誠実さは、真っ暗な海で行く先を示す羅針盤や、灯台のあかりのようなものである。“見えている”ばっかりに、羅針盤を無視し座礁した船を何艘も見てきた。

特性を持っている人は、多かれ少なかれ小百合と同じ倫理観を持っているように思う。もちろん、悪い奴もいるし性格が合わない奴もいるが、善悪の基準に通じるものがある。医師のような頭のいい宇宙人は、特に誠実だ。普通の人からは、誠実とみなされない基準で動いているだけで… 吉田先生も、しばらく付き合うと先生なりの正義感で動いていることが分かってくる。

小百合が先生に病状を説明しょうとすると、

「も、も、いいから!そういうの!後で聞くから!」

吉田先生が大きな声で制止した。先生はいつもこうだ。こちらが伝えたいことを話すのもひと苦労である。患者との距離が近すぎるから、イライラしたり怒りっぽくなってしまったりするのだろう。吉田先生の素晴らしさは、一度や二度診てもらったぐらいじゃ分からない。小百合はそう思っている。

吉田内科医院の患者さんは、地元の高齢者がほとんどだ。YES or NOの質問で、世間話を始めてしまう人も多いだろう。「余計な情報は要らない!」の姿勢が徹底している。

「いいからうつ伏せになって!」

怒っているような口調である。しかし、これがいつもの吉田先生だ。

吉田内科医院の針治療は独特である。小百合は幼少期から祖母に連れられて鍼灸院に通っていた。そことは全くやり方が違う。他の人が治療を受けている様子をチラッと見たが、膝の裏から血を採っているようだった。手塚治虫のブッダに出てくる“瀉血”だろうか。こんな治療法もあるのかと小百合は驚いた。

小百合はこの日、腕や耳の周りなどに鍼を打ってもらった。吉田先生の針は無痛針ではないが、痛みの少ないタイプだと思う。どこをどう施術されているのか分からないまま、治療は終わった。

診察の終わりに、小百合は乳がんの手術を受けることを先生に話そうとした。相変わらず先生は「五苓散まだある?血圧の薬は?何日分要る?特定検診の結果出た?見せて!」と畳みかけてくる。全く喋らせてくれない。

小百合は、特定検診の結果と一緒に、乳がんの病理組織検査報告書を吉田先生に手渡した。

「乳がんが見つかりました。10月24日に全切除手術の予定です。」

愕然とする吉田先生。先生は小百合に言った。

「・・・早く言ってよ」

こんな先生だが、小百合は吉田先生を心から信頼している。先生も、小百合が自分を頼ってくれていることに気が付いているのだろう。他の患者さんよりも丁寧に接してくれているような気がする、これでも。

良性発作性頭位めまい症は、耳石と呼ばれるカルシウムの粒が剥がれ落ち三半規管に入り込むのが原因だ。石が取れてしまえばウソのように快癒する。吉田先生の針が効いたのか、そういうタイミングだったのかは分からないが、その日の夜からめまいは起こらなくなった。
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