第3話

文字数 2,127文字

 康葉だ。
「あいつ、こんな遅く帰ってきてスルーかよ」
 健は廊下に出ると、わざとどすどすと音を立ててトイレに行った。妹が無事に帰ってきてほっとしているのだが、それを言うのは癪に障った。
ただ音を立てただけでは不自然なので、仕方なく本当にトイレに入ってから出てくると、思わず声を上げそうになった。暗がりの中に、康葉が立っている。
「何……」
 言いかけて途中で止まる。康葉の顔は、能面を貼り付けたみたいに無表情だった。妹にこんな顔ができたのか、と思った。それから、無言のまますっと自分の部屋に入ってしまった。
 閉じられた妹の部屋のドアを見ながら、健は、鼓動が胸を激しく叩くのを感じた。
 康葉の頬には、うっすらと泥がついていた。
 
 彼は、光と音の刺激物を目指した。かつてのように手や足で動けるわけではなかったが、己が闇の中を移動できるのがわかった。
 光と音は気持ちが良かった。彼はそれを喜んだ。喜ぶことは、彼の意識をどんどん明確にしてくれるようだった。 
 やがて彼は、自分がひどく不快であることに気がついた。その感覚は体の奥底から込み上げてきて、彼を苛(さいな)んだ。
 それは〝飢え〟だった。彼は、その感覚に覚えがあった。だから、それを満たすことができることも知っていた。彼はそれを欲した。強力に欲した。
 
 同じようなことが、二、三度続いた。
 辺りが、夕暮れの残滓(ざんし)の紫と、夜の始まりの薄い青の混じり合った色に包まれる頃、部活を終えた健が空きっ腹を抱えて家路を急いでいると、前と同じところで、小山のほうへちょこちょこ駆けていく康葉ともう一人の女の子を見かける。
 健は、そんな日はなんとなく、帰ってきた康葉と顔を合わせる気がしなかった。だけどそれ以外は別におかしなところはなく、いたって妹は普通だった。
 きっとあの辺りで、何か新しい遊びでも見つけたのだろう。あのときの康葉のおかしな様子については、強いて考えないようにした。
 
 その日はたまたま、早く帰れることになった。先生が風邪を引いて休み、サッカー部の部活が休みになったのだ。
 家に着いたのは、いつもより大分早い時間だった。ゲームでもしようかな、と思いながら玄関を開けると、息が止まるほど驚いた。康葉がいた。妹からも、息を呑む気配が伝わってきた。
「……なんで、こんな早いの」 
「……何だっていいだろ」
「あ、そう。何だっていいけど」
「おまえこそ、どこ行くんだよ」
と言った後、健は康葉の持っているレジ袋に気がついた。健の視線に気づいて、体をずらして隠すようにする。
「どこだっていいでしょ」
 そういうと、横をすり抜けて出て行ってしまった。
「ははーん」
 健はにやりとした。そうかそうか、そうだったのか。いくら康葉が隠しても、上からのぞくことのできる健の目には、袋の中身が見えてしまった。中には、おにぎりやサンドイッチ、惣菜のパックやトマトまで入っていた。小学四年生の女の子が遊びに持っていくにしては、不自然だ。
 健はピーンときた。と同時にほっとした。ここしばらくずっと、胸につっかえていた何かが取れたようだった。

 夕飯の後、二階に上がってきた康葉を捕まえて健は言った。
「おまえ、犬かなんか飼ってるだろ」
 健の指摘に、妹はあからさまに動揺した。
「か、飼ってないよ」
 言いながらもぞもぞ体を動かしている。わかりやすい。
「嘘つけ」
「ほんとだもん。犬なんか、飼ってない」
「じゃあ、あの食べものは何だよ」
「佳苗ちゃんちで食べたのっ。ほんとっ」
と一息に言うなり、自分の部屋に逃げ込んでしまった。その様子を見て、健は野良犬説に自信を持った。多分、あの小山の辺りにいるんだろう。それを友達と見つけて、こっそり餌を持っていっているのに違いない。
 健は康葉の部屋の前でこっそり様子を窺った。ぼそぼそと話し声が聞こえる。どうやら、携帯で誰かと話しているらしい。
「うん……うん……MASAくん、美味しいって言ってくれたね……。うん……良かったね。……最近、おっきくなってきたよね……」
MASAくん? もっとよく聞こうとして、耳を強くドアに押しつけたそのとき、階下から母親の声がした。
「健、お風呂入ったー?」

 ぎくっ。
 心臓が喉までせり上がり、飛び出そうになるほど驚いた。康葉の声が止まった。しまった。
 健はなんとか自分の部屋の前まで戻り、そーっとドアを開けてもぐりこんだ。康葉が廊下に出てこないよう、祈りながら。
「健ー?」
 部屋の中から「まだー。今、入るからー」と大声で言った。当然康葉も、健の声を自分の部屋から聞いているはずなのだ。気づいていませんように……。
 しばらく耳を済ませていたが、何の物音もしなかった。
 風呂の支度をしてから階段を降りるとき、康葉の部屋をちらりと見ると、ドアはぴったりと閉まっていた。もう、中で話している声も聞こえない。胸を撫で下ろすと同時に、いつにない妹の用心深さを感じて、不安を覚えた。

 康葉がだんだん痩せていく。
 健はそれとなく妹の様子を観察していたが、特に変わった様子は見られない。健に見られていたことを知ったためか、もう小山の辺りで見かけることもなくなった。多分、もっと早い時間に行っているのだろう。
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