第2話

文字数 1,972文字

 今、視界の端を掠めた後ろ姿は、もしかして妹の康葉(やすは)じゃないだろうか。
 健はそちらを向いた。田んぼの中ののどかな田舎道が、向こうへと続いている。そこをちょこちょこと遠ざかっていく小さな後ろ頭が見えた。左右に分けて束ねた髪が、ふぁさふぁさと揺れている。
「何やってんだ、あいつ。あんなとこで……」
 むっとする草いきれの中に立っていると、すぐに体がじっとりと汗ばんでくる季節。一年の中で一番、太陽と顔を合わせる時間が長いとき。といっても、こうして中学二年生の健が部活を終えて帰ってくる時間になると、さすがに辺りはもう薄暗い。薄墨を纏(まと)ったように、視界がはっきりとしない。
 健は迷った。声をかけようか、やめとこうか。迷っているのには、理由があった。康葉が向かっていく先には、あれがあるのだ。
 そのとき、そばの横道から、誰かが駆けてくるのが見えた。泰葉と同い年くらいの女の子で、胸にレジ袋を抱えている。康葉もその子に気がついたらしく、手を振っている。二人とも、遠くから健が見ているのには気がついていないらしく、二人で合流すると、そのまま向こうに行ってしまった。
 二人の姿が見えなくなっても、健はしばらくそこに立っていた。
どうしよう。追っていこうか。
 辺りを包む夕闇は、あっという間にその密度を増している。白っぽく浮かんでいるように見えた田舎道も、黒い影の中に埋まろうとしていた。重く湿気を含んだ風がざわざわと草木を揺らし、髪をかき上げながら吹き過ぎていった。
「……もうすぐ夜だし、すぐに帰ってくるだろ」
 自分に言い聞かせるようにそう言うと、健は再び足を家のほうに向けた。

 家には誰もいなかった。まだ両親とも仕事から帰っていないのだろう。風呂場に行って追い炊きのスイッチを入れてから、キッチンに行って、冷蔵庫の中に総菜とサラダがあるのを確かめる。それから棚にあったクラッカーの箱から一枚取ってかじりながら、リビングに行ってテレビをつけた。
 途端に、自分のたてる音以外に物音一つしなかった家の中に、騒々しい声が満ちる。しばらくの間、スマホをチェックしつつぼうっとテレビを見てから、お風呂に入った。出てきても、まだ康葉は帰っていなかった。
 時計を見ると、もう二十時近かった。外はもう真っ暗だ。田舎のことで外灯の数もあまり多くない。夜になると、外では家々の窓から洩れる明かりだけが頼りになる。
 階段を上って自分の部屋に入ると、「あーあ。疲れたー」とわざと声を出しながら、ベッドに横になった。
 それからそばの漫画に手を伸ばした。仰向けになってページを繰っていたが、内容が頭に入ってこない。なんだか落ち着かなかった。

 ここⅠ県I市は、広大な関東平野の北の端にある。健に言わせれば、東北地方関東支部ということになるのだが。遠くには霞んだ山並みを望み、家や学校の周囲には、畑と田んぼが広がっている。
 そしてその中に、ところどころ、お椀をひっくり返したような小さな里山がある。そういうところは滅多に人が足を踏み入れることもないので、木や草が伸び放題に生い繁っている。
 そしてそういう小山の中には大抵、いつ誰が何のために作ったのかよくわからない道がある。そういう道は一歩足を踏み入れると、暗い。両側から差し伸べられた木々の枝が、空を隠してしまうのだ。
 そのまま回れ右をして帰りたくなる気持ちを抑えて、やわらかい土の上を一歩一歩踏みしめて歩くと、どこからか、何の生き物かわからない、クアアッという鳴き声が聞こえてくる。一声それが聞こえると、もうダメだ。ギャー、グエッグエッ、ゲゲゲゲ。いろいろな鳴き声が一斉に聞こえてくる。暗い森の中に、一人佇む子供を包み込むかのように。そうなると、今までの我慢もどこへやら、ほとんどの子は一目散に逃げ出してしまう。
 それはこの辺の小学生なら誰でも経験している、秘密の冒険だった。
 だけど中学生にもなると、そういうことにもう興味と魅力をなくしてしまう。背の伸びた彼らにとって、結局、小山はただの小山なのだ。
さっき康葉が向かって行った先にも、そういう小山の一つがある。それもあそこにあるそれは特別だった。他の小山は、最終的に健は大体制覇したが、あそこだけは駄目だった。
「康葉のやつ、まさかあそこに行ったんじゃないだろうな……」
もう一回時計を見ると、二十時十八分だった。二十時半になったら考えようと思って、健は漫画に目を戻した。

「わあああああ」
 どさり、と音を立ててベッドから落ちた。夢の中で、すごく高いとこから落ちていった気がする。
「いたたた……」腰をさすりながら起き上がった。
 何かの音を聞いたような気がした。それで目を覚ましたのだ。健は耳を澄ました。階段を上がってくる、とんとんとんという音。続いて、ドアの閉まるばたんという音。
ワンクリックで応援できます。
(ログインが必要です)

登場人物紹介

登場人物はありません

ビューワー設定

文字サイズ
  • 特大
背景色
  • 生成り
  • 水色
フォント
  • 明朝
  • ゴシック
組み方向
  • 横組み
  • 縦組み