第三十五幕 天子争奪戦(Ⅻ) ~猛獣使い

文字数 4,064文字

「な、何!? 一体何の騒ぎ!?」

 ラドクリフ軍の本陣。ディアナ軍の迎撃部隊を一方的に押し込み、後もう少しで破れるというタイミングで、本陣の後方が俄に喧騒に包まれ始めた。やがて馬蹄の音や、怒号、剣戟音などが響き渡るようになってくる。明らかに戦の音である。

 自分は絶対安全圏にいられると思いこんでいたエヴァンジェリンは、急に近場で聞こえ始めた戦の音に動揺する。

「メ、メルヴィン! 何が起きてるのか様子を見てきなさい!」

「は……お任せを」

 エヴァンジェリンの護衛役よろしく本陣に控えていたメルヴィンが、彼女の命令を受けて本陣の後方へと向かう。そこで彼が目にした光景は……


「こ、これは……ディアナ軍だと!?」

 メルヴィンは唖然とした。後方から突如現れて凄まじい勢いで手薄となった本陣に迫りつつあるのは、その旗や鎧の意匠からしても明らかに現在彼等が攻めているディアナ軍のものであった。

「ど、どういう事だ!? 奴等、伏兵を迂回でもさせていたのか!? いや、だがこの混戦模様でそんな事をしている余裕があるか!?」

 主戦場ではディアナ軍は相変わらずサディアス軍やイゴール軍と戦戈を交えている真っ最中だ。その上、こうして自分たちが後方を脅かしているのだ。間違いなく伏兵に戦力を割く余裕はないはずだ。

 だが現実にディアナ軍と思われる部隊が、今度は自分たちの後方を脅かしていた。

「ま、まずいぞ。エヴァンジェリン様がオズワルドの反対も押し切って、主軍を軒並みディアナ軍の攻撃にあててしまっている。敵の数もそこまで多くはないようだが、本陣に残っている我々の数はもっと少ない!」

 状況を判断したメルヴィンは慌てて本陣まで駆け戻る。


「も、申し上げます! ディアナ軍です! ディアナ軍の援軍が突如として現れ、この本陣目指して突き進んできております! 数は500ほどと思われますが、それでもここに残っている戦力だけでは到底防ぎきれません!」

「な、な、何ですってぇっ!? ディアナ軍がここに!?」

 メルヴィンの報告を受けたエヴァンジェリンが思わず立ち上がる。

「何をしているの! は、早く迎撃しなさい!」

「し、しかしここに残ってる兵力では到底……」

「それを何とかするのがお前の仕事でしょう!? 早く行きなさい、この愚図!」

 自分がほぼ全兵力を攻撃に傾けたせいで本陣の守りが手薄になったというのに、全く悪びれる事無く居丈高に命令するエヴァンジェリン。メルヴィンは顔を歪めるがその不満を表に出す訳にも行かず、そのまま無言で本陣を後にする。

 ここに残っている兵力は精々100ほどだ。とても勝負にならない。一応迎撃はするが、もし本当に危なくなったらさっさと逃げるまでだ。命をかけてまでエヴァンジェリンを守る義理も忠誠もない。

「アーサー達に伝令を送りなさい! すぐに戻って私を助けるのよ!」

 一方のエヴァンジェリンはメルヴィンが出奔の算段を立てている事など露知らず、前線で戦っているユリアン達本隊を呼び戻そうとする。 



「何、本陣が……!?」

 前線の部隊を指揮するユリアンは本陣からの伝令に目を見開いて後方を確認する。すると確かにディアナ軍の旗を掲げた部隊が自軍の本陣を脅かしているのが目に入った。ただの本陣ではない。あそこにはラドクリフ軍の君主であるエヴァンジェリンがいる。

 そして彼女自身の命令によって本陣には殆ど兵力が残っていない状態なので、このまま放置すれば間違いなく自分たちがカイゼルの迎撃隊を撃ち破るより先に本陣が陥落する。

 前線の将兵たちにも動揺が走る。ユリアンは舌打ちした。

「おのれ……あと一歩で迎撃部隊を撃ち破ってディアナ軍の本陣に攻撃できるという所で、まさかこちらの本陣が奇襲されるとは」

「あれはアーネスト、か? ふ、ふふ……まさかこの事態を見越して本国に残っていた訳でもあるまいが……結果的に見事にしてやられたな」

 前線に従軍していたオズワルドは、敵の奇襲部隊を率いているのが誰かを悟って陰気な笑いを上げる。

「どうする? 全軍で引き返して本陣を救援するか?」

「いや……それではこちらが師父の部隊に背中を晒す事になる。アーネストの奇襲部隊はそれほどの数ではない。誰かに1000程率いさせて本陣の防御に当たらせて、残りは引き続き目の前の敵に注力すべきだろう。……尤もそれでも一度失った勢いは取り戻せまいがな」

 ユリアンの問いにオズワルドは頭を振って助言した。その顔には僅かな諦念が浮かんでいた。『機』を逸した事を軍師の直感で悟ったのだ。


 オズワルドの助言に従ってレオポルドが1000の兵を率いて本陣の救援に向かう。アーネストの奇襲部隊は500程なのでまともにぶつかれば救援部隊の勝ちだ。だがそれが解っていて正面からぶつかる程アーネストは愚かではない。

 レオポルドの部隊が反転して向かってくるのを見ると即座に攻撃を中断してレオポルドと直接当たる事を避ける。それによってレオポルドはとりあえずエヴァンジェリンがいる本陣を確保する事はできたが、アーネストの部隊は付かず離れずを維持して隙あらば本陣を狙う構えを見せる。それによって常に本陣を脅かされる形になり、前線で戦う将兵達の士気にも大いに影響する。  



「潮目が変わった、か? ふふ……レイめ。よもや儂が助けられるとはな。だが仮にも英雄と言われたこのカイゼル、やられっぱなしのままでは終わらんぞ!」

 一方ラドクリフ軍からの圧力が如実に減じた事を悟ったカイゼルは、それを成したのが己の息子であると知り、今度こそ喜びに相好を崩した。そして自分もまだまだ息子には負けていられんとばかりに奮起する。

 士気が下がったラドクリフ軍は兵力ではるかに劣るカイゼルの部隊を中々撃破できなくなる。そうしている間にもアーネストの奇襲部隊が本陣を脅かす。結果としてディアナ軍はサディアス軍、イゴール軍、そしてラドクリフ軍と、3つの軍勢相手に一歩も退かない戦いを繰り広げる。 

 戦況は何度目かの一進一退の状況となる。そしてやはり……何度目かの大きな異変が発生する。


*****


「おーおー、派手にやり合ってんなぁ。こりゃ今まで溜め込んだ分、存分に暴れられそうだぜ。まさにお前が言った通りの状況になってんなぁ、アズィーザ?」

 4つの有力な軍がぶつかり合う戦場。その戦場を見下ろせる位置にある小高い丘。その丘の上から戦場を睥睨するのは暴君の眼差し。

 【西海の風雲児】トリスタンであった。他の軍からは真っ先に戦場に殺到すると思われていた賊軍の大将が、逆に最後に戦場に到着して先に戦っている4軍を悠然と見下ろしているのである。その後ろには彼が率いてきた無傷のトリスタン軍約1万。

 トリスタンは型破りな賊将らしく、戦場にも自らの寵姫達を同行させていた。彼はそんな寵姫のうちの1人を自らの肩に抱き寄せて、胸を弄り口づけをする。そのくすんだ赤毛が特徴の美女……アズィーザは媚びるような嬌声を上げた。

「はぁぁ……ぁ……トリスタン様……。私が言った通りでございましたでしょう? 今ならこの中原の主だった軍がどれも入れ喰い状態です。後はどうぞお心の向くままにご蹂躙ください」

「へへ、この血の気の多い奴等をここまで抑えるのには苦労したが、その甲斐はあったってもんだな」

 相変わらずトリスタンはアズィーザの胸や腹、太ももなどをまさぐりながら凶暴な笑みを浮かべる。その顔を見ながらアズィーザは内心で表の態度とは裏腹な冷笑を浮かべていた。


 今回の戦において突出しそうになる軍をトリスタンに抑えさえ今の状況を作ったのは、他ならぬこのアズィーザであった。いや、今回だけではない。およそ戦略というものに縁がなく暴れ回るだけの賊軍である彼等が、イスパーダ州の州都をも手中に収め一大勢力となった裏には常に彼女の存在があった。彼女がトリスタンの寵姫に収まって、閨の場で彼に様々な戦略や内政を助言してきたのだ。

 その関係を知っているのはトリスタン本人だけだ。バルタザールを始めとした部下たちは何も知らない。ただトリスタンの命令に従って暴れ回るだけだ。部下たちだけでなく諸外国の軍師達でさえ彼女の存在には気づいていなかった。

 軍師と呼べるような存在もおらず、猪突猛進なだけのトリスタン軍がどうやってイスパーダ州に覇を唱える事が出来たのかは、他勢力の軍師達にとっても大いなる謎であった。ただ運が良いだけだと思われてさえいた。

 まさかトリスタンが放蕩で集めた寵姫達の1人が軍師の役割を担っている事など誰も知らないのだ。そして彼女はそれで良かった。アズィーザは自分が表舞台に立つ気はなかった。表の覇王を裏で操る影の黒幕。それこそが彼女の目指している立ち位置であった。

 ディアナやエヴァンジェリンのように矢面に立てば世間の好奇や逆風に晒されるばかりだ。噂の【伊達男】マリウスの女将達にしても同様だ。

 アズィーザの目から見れば彼女らは自分から損な役割を背負い込んでる愚かな女としか思えなかった。如何に自分の能力に自信があろうと、この男尊女卑の世の中で無理に男と張り合う必要などないのだ。それよりは上手く男に取り入って利用し、彼等を矢面に立たせつつ自分は安全な所で甘い汁だけを吸う。それが賢い女の生き方というものだ。

 今回の戦にまさか自分たち寵姫団も同行させるとは思っていなかった為それだけは予想外であったが、上手くトリスタンを宥めすかして一番安全に敵を殲滅できる戦術を取らせる事はできた。


 そのトリスタンが麾下の軍勢を振り返る。

「お前ら、よくここまで我慢したな! そんなお前らに褒美をくれてやる! あそこにいる奴等はいくら殺しても問題ねぇ連中だ! 思う存分暴れまくって、一人残らず食らい付くしてやれぇっ!!!」

 ――ウオォォォォォォォォォォッ!!!

 荒くれ者達の歓喜と興奮の怒号が響き渡る。そして君主トリスタンの号令に従って、混迷を極める戦場に新たな、そして最悪の無法者達が雪崩を打って襲いかかった!
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