第三十九幕 戦乙女の伝説(Ⅰ) ~トレヴォリ開城

文字数 5,672文字

 リベリア州バルディア郡の中の一県トレヴォリ。ディアナ軍とラドクリフ軍の『競争遊戯』に巻き込まれて、ディアナ軍がイグレッドを占領したように、同じくラドクリフ軍によって占拠された都市であった。

 この県は元々トレヴォリ伯であったドメニコという太守が治めていた。能力的には凡庸であったが、保身に優れ長く太守の座を堅持してきた。また女性官吏を登用して重用するなど、既存の価値観にも囚われない革新的な部分も持ち合わせていた。

 しかしこのトレヴォリは先述のラドクリフ軍と、それ以前にもクレモナ伯リオネッロの侵攻によって、計2度の占領の憂き目に遭っていた。最初はリオネッロ軍に占領され、その後今度はラドクリフ軍によって占拠された。

 その結果、現在このトレヴォリの太守は……なんと未だにドメニコのままであった。戦乱の世においてこれはかなり稀有な事象であった。これにはドメニコ自身の保身能力と、そして運の要素も絡んでいた。


 1度目のリオネッロ軍の侵攻の際は、リオネッロがすでにイグレッドを制圧していた事もあって勝ち目無しと判断したドメニコがすぐに降伏と恭順を選んで保身に走った事で、君主ではなくなったがトレヴォリ太守としての地位は堅持できた。

 そして2度目のラドクリフ軍の侵攻の際には、リオネッロの命令によって抗戦はしたものの落城。しかしラドクリフ軍がディアナ軍との『競争遊戯』の最中であった事から、統治体制を整えている時間も惜しいという背景によって、素早く降伏を申し出たドメニコがそのままトレヴォリを監督する権限を与えられたのであった。


 そのトレヴォリの街。依然としてこの街で太守を続けているドメニコは、数日前からどうにも落ち着かない妙な胸騒ぎを感じていた。

 この感覚には馴染みがあった。ここ最近の2度の所属勢力変更事変の直前にも似たような胸騒ぎを覚えたのだ。

 そしてその感覚は、天子争奪戦のために意気揚々と出陣していたはずのラドクリフ軍が、妙に意気消沈した昏い雰囲気でこの街を通り過ぎてエトルリアに戻っていく様子を見て更に増幅された。

(また何か起きるのか? もうウンザリだ。どこでもいいから早くこのリベリア州を……いや、天下を統一して欲しいものだ。儂はこのトレヴォリ伯以上の地位は望んでおらん。ただこの街で安寧に、程々贅沢な暮らしを続けられればそれで充分だというのに……)

 彼には自分が天下統一を成し遂げようなどという気概は最初からなかった。また今のこの地位を守る為の『戦い』の気配が迫っている予感に、ドメニコは憂鬱な溜息を吐いた。

(……やはりヴィオレッタを手放したのは惜しかったな。対外的な事は全部あの女に任せて、儂は遊んでいるだけで良かったからな。あの頃に戻りたいものだ……)

 しかしヴィオレッタは軟派な浪人に引き抜かれて野に下ってしまい、今ではトランキア州のセルビア郡を治める君主にまで成り上がったその浪人の主席軍師に出世していた。彼女がいなくなってからというもの、ドメニコは今の自分の地位を守るために自らが働かざるを得なくなり、それまでのように暢気に遊び暮らす事が出来なくなってしまった。

 また安穏な生活に戻るためには、どこか大きな勢力の下についてその一都市の太守という地位に納まるのが理想的であった。はっきり言えばその勢力がどこであっても彼にとってはどうでもいい事であった。彼の今の地位さえ安堵してくれるのであれば、どんな勢力であっても良かった。

(……だがこの感覚を覚えたという事は、ラドクリフ軍は終わりかも知れんな。次はどこの勢力がこの街を支配するのだ? 例えどこが来たとしても儂は今の地位を守ってみせるぞ)

 それが彼の『戦い』であった。ドメニコがそんな自身の戦いに何としても『勝利』しようと決意した時、それ(・・)はやってきた。


『た、太守様、失礼いたします! 敵軍です! ディアナ軍(・・・・・)がこの街に攻めてきました! その数、1万ほどと思われます!』


「な、何だと! ディアナ軍が……!?」

 執務室に駆け込んできた伝令の報告に思わず立ち上がるドメニコ。ディアナ軍も例の天子争奪戦に参加していたはずで、戦は皇帝が帝都に戻るという選択をした事で終結したはずであった。つまりディアナ軍も天子の確保という目的を果たせずに敗北(・・)を喫したはずである。

 普通に考えれば一旦本拠地であるソンドリア郡に戻って、改めて決戦の準備を整えるのが常道のはずだ。それが何故いきなりこのトレヴォリに攻めてきているのか。しかも1万と言えば、ほぼディアナ軍の実効戦力……つまりは全軍に等しい戦力のはずだ。

 ドメニコは兵士達と共に城壁上まで急ぐ。すると街道の先から確かに大軍が迫ってきているのが見えた。その軍が掲げる旗は……ディアナ軍。

 とてもではないが今このトレヴォリにいる戦力だけで防げるような数ではない。現在はラドクリフ軍に所属するドメニコとしては、籠城しつつディアナ軍を足止めし、その間にエトルリアに救援要請を行うのが筋というものだろう。だが……


「……城門を開け」

「は……?」

 一瞬何を言われたのか分からなかった兵士がドメニコの方を注視する。彼は苛立って声を荒げた。

「馬鹿者! 早く城門を開いて、ディアナ軍を迎え入れる(・・・・・)のだ! 白旗も忘れるな! 一度戦端が開いてしまってからでは遅いのだぞ! トレヴォリはディアナ公に恭順し、その理念と理想に賛同するという旨の使者を送れっ! 急げっ!!」

「はっ、はは!!」

 強く命令された事で思考を放棄した兵士達は、慌ててその命令に従う為に散っていく。それに兵士達としてもあのような大軍と戦わずに済みそうで、ホッと胸を撫で下ろしているものが少なくなかった。少なくともトレヴォリの守備兵達にとってエヴァンジェリンは、命を捨てて戦う忠誠に値する主君ではなかった。




 トレヴォリの城門を開き、兵を武装解除した状態で城門前で平伏してディアナ軍を迎え入れるドメニコ。既に先ぶれの使者はディアナ軍首脳との接触に成功しており、降伏の意志があるなら受け入れるという旨の返事を貰っていた。

 それを受けてのこの出迎えであった。とりあえず降伏は受け入れられた。これはまあ左程難しい事ではない。侵攻側も相手が降伏してくれるなら余計な時間も兵力も消耗せずに済むからだ。侵攻側がよほど苛烈な君主であったり、また互いに深い遺恨があったりなどしない限り、本心から降伏すればまず受け入れられる場合が殆どだ。

 しかしドメニコにとって問題はここから(・・・・)であった。降伏した相手をどのように遇するかは、その勢力の君主の性格、性質によって大きく異なってくるからだ。

 武官寄りの君主だと降伏など唾棄すべき惰弱な行為だと断じて、降伏を決めた責任者が処刑されるケースが多い。文官寄りの君主だとすぐに降伏するような者は信用できないとして、処刑されないまでも放逐されたり庶民に降格させられたりも珍しくない。

 降伏という行為はつまる所、保身のために元の主君を裏切る(・・・)行為な訳であって、基本的に印象は良くない。そのため暴君は勿論、仁君タイプの君主にも嫌われる事が多い。

 ドメニコとしては降伏で自分の身の安全を図りつつ、何としても新たな勢力下においても『今の地位』を保持し続ける事が最大目標だ。

 そして彼もリベリア州内の太守の1人として、既にディアナ公の人となりは聞き及んでいた。そこに攻略(・・)の糸口があると睨んでいた。


 やがて進軍を停止したディアナ軍の中から、少数の騎馬が進み出てきた。先頭にいるのはやや露出度が高めの派手な鎧に身を包んだ女性武者であった。間違いなくあれが【戦乙女】ディアナ公だ。

 噂にも勝る凛とした美貌に思わず目を奪われてしまうドメニコだが、その後ろに護衛のように随伴する大戟を携えた巨漢に睨まれて慌てて平伏し直した。ディアナ公には他にも冷徹そうな雰囲気の軍師と思しき男や、非常に研ぎ澄まされた雰囲気の眼光鋭い将官が随伴している。いずれもディアナ公の側近であろう。

 彼等は全員ドメニコ達の前まで来ると騎馬から降りた。

「トレヴォリ伯のドメニコ様ですね? 私がソンドリア公のディアナです。どうぞ面を上げて下さい。この度はよく降伏という選択肢を選んでくださいました。お陰で私達の戦略がより迅速に、より確実に進行できます」

 耳心地のよい女声に顔を上げると、思ったよりも近い距離にディアナ公の麗姿があった。その横にいた軍師風の男が口を開く。

「私はディアナ軍の主席軍師アーネスト。お前にこの降伏の真意を問いたい。何故一戦もせずに降伏した? お前は主君の為に戦う事も出来ない腑抜けであるようだな。そのような人物は我が軍においても不要。お前の返答次第で処遇が決まると心得よ」

 心臓を鷲掴みされるかのような冷徹そのものな視線と口調。ドメニコは激しく緊張したが今更後戻りは出来ない。


「不遜を承知で言わせて頂けるなら、エヴァンジェリンは最初から忠誠に値する主君とは言えませんでした。私が今の地位を維持できていたのも単に例の『競争遊戯』での事後処理が面倒であったからというだけに過ぎません。そして曲がりなりにもラドクリフ軍に接収された事で、エヴァンジェリンが将来に何の展望も無く、ただ帝国の破壊と混乱を目的として戦乱を巻き起こしているだけの暴君である事が解ったのです」

 これは本当の事であった。エヴァンジェリンは帝国の体制を憎んでいてそれを覆して滅茶苦茶にしようとしている。敢えて言うならそれがエヴァンジェリンの展望(・・)であった。

「私は天下統一の気概など到底持ち合わせていない小人物です。私の器は一県の太守止まりでしょう。私は自分の所領を大過なく治めて安穏に過ごせればそれが何よりなのです。しかしだからこそ今の戦乱の世を憂いて中原の平和と安定を求める気持ちは、ある意味で誰よりも強いと自信を持って断言できます」

 これも本心であったので、ドメニコとしても強気で訴えることができた。

「その意味でエヴァンジェリンは私の理想とする主君像とはかけ離れていました。私にとっては中原に安定を齎してくれる英雄こそが仕えるべきお方。そしてディアナ様は伝え聞くソンドリア郡の治世、何よりも帝国の臣として皇帝の御旗のもとに中原に再び安寧を取り戻す為に戦っているというその動機、いずれもが信頼に値する英雄の器であると密かに期待を寄せておりました」

「なるほど……ディアナ殿が中原の平和をもたらす英雄と睨んでの降伏であったと。随分よく回る口のようだ」

 アーネストは冷徹な口調を崩さず、皮肉気に口の端を歪める。武官2人の視線の圧も強まり、それに比例してドメニコの背中の冷や汗の量も増える。


 と、それまで黙って話を聞いていたディアナ自身が口を開いた。

「ドメニコ様……では、私からあなたにお聞きしたい事は一つだけです。もし今後我が軍が順調に勢力を伸ばし続け、しかし私がエヴァンジェリンのような暴君に変わってしまったとしたら……あなたは如何いたしますか?」

「……!!」

 ドメニコの心臓が跳ねる。もしディアナ軍が劣勢になった時どうするかという質問であれば、迷わず最後までディアナの為に戦うと答える事ができたが(劣勢になったら裏切りますという答えはどんなケースであれ絶対に悪手だ)、ディアナが『変わってしまったら』どうするのかという質問は難しい所だ。

 自分自身の先程までの弁明に拠るなら、ディアナが変わってしまったならその時は彼女を裏切ると答えねばならない。しかしそれが正解なのか。

 人が変わらないという保証など無い。目の前で堂々とあなたを裏切りますと宣言するような人物を、果たしてそのまま今の太守の地位に据え置いてくれるだろうか。中原の価値観や倫理観から考えるとノーだ。分の悪い賭けかもしれない。

 ドメニコは沈思黙考した。彼が今までに伝聞したディアナ公の性格やその統治の評判、そして彼女が為そうとしている大義、それらを総合的に勘案し、彼は結論を出した。

 これは賭けだ。負ければ全てを失う。彼は人生一世一代の大勝負に出た。


「……ご不興を怖れずに敢えて申し上げるならば、もしディアナ公が中原に破壊と混沌を齎すだけの暴君に変わってしまったその時は……私はこの城の城門を、より有望な英雄のために躊躇いなく開け放つでしょう。今のように」

「……!」

 言い切った。ディアナ……ではなく、その側近たちが威圧の度合いを強める。それは最早物理的な圧力さえ伴う程のものであった。その圧力に晒されたドメニコにとって永遠にも思える時間が過ぎ去った後……


「あなたの考えはよく解りました、ドメニコ様。それがあなたの答えであるならば…………私は我が軍の領土となったこの街を、今まで通り(・・・・・)太守であるあなたに大過なく治めて頂きたく思います」


「っ!!」

 ドメニコは大きく身体を震わせた。彼は賭けに勝ったのだ。身体中から強張っていた緊張が抜けて崩れ落ちそうになるのを全力で堪えねばならなかった。

「良いのか、レア?」

 将軍風の武人がディアナに確認するが、彼女は躊躇う事無く頷いた。

「ええ、そう決めました。私が道を誤ったらそれに阿諛追従するのではなく、諫言し下野や寝返りも辞さない。私に必要なのはそういう人達です。そんな人達と共にいてこそ私も自分を保てるのだと思います。兄上達だって私に対しては同じスタンスでしょう?」

「……そうだな。まあお前がそう決めたのであれば反対はせん」

 武人はそう言って肩を竦めた。ディアナはドメニコに向き直った。


「そういう訳でドメニコ様。今後ともこの街を宜しくお願いします。共にリベリア州に……そして最終的には中原に安定と平和を齎しましょう」

「は……ははぁっ!! 是非とも!」

 ドメニコは『戦い』に勝利した安堵も手伝って、殊更大仰に平伏して感謝の意を表した。こうしてドメニコは彼の思惑通りトレヴォリの太守という座に据え置かれ、ディアナ軍は一兵も損なう事無くトレヴォリ県を接収する事が出来たのであった。
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