ひたむきな胸中
文字数 10,794文字
───スズラン。
何時から、こんなにも心を占める様になったのだろう。いくら追い出そうとしても、頭の隅にはいつもスズランの存在があった。
王宮の横庭で再会した時からだろうか。いや───。
はじめて出逢ったあの日から、ラインアーサの心には何時だってスズランの笑顔があった。辛い状況に陥った時期も、諦めそうになった時も笑顔を忘れずに乗り切って来られたのはスズランとの出逢いがもたらしてくれた想いがあったからこそだ。
「くそっ! なんて土砂降りだ」
酒場 への道のりが何時もより長く、もどかしく感じる。こんな時こそ移動術が使えたらと切に思う。大事な人の元へ瞬時に飛んでゆけたら、と。
ラインアーサはスズランの気配を探り透視を試みるも、走りながらでは集中することが出来ず何も感じ取れない。それがまた焦りの原因となり不安を煽った。
「スズラン、頼むから無事でいてくれ!」
大雨の中を走り、漸く酒場 に到着する頃にはすっかりずぶ濡れになったラインアーサだったが、構わず扉を開き店の中へと石段を降りてゆく。店内の様子を確認すると雨宿りで寄ったのか客は数名いるものの、客足はまばらだった。
頭からすっかりずぶ濡れになっている為か周りからの視線を浴びたが、ラインアーサはお構いなしに店奥のカウンターを目指す。入店した直後に店内をぐるりと見回したが、何処にもスズランの姿が見当たらない。
(スズラン! どこだ!? まさか既に……)
逸 る気持ちを抑えきれずにラインアーサはカウンターにいるマスターへと声を張り上げた。
「マスターっ! スズランは、スズランは何処にいる!?」
カウンターに両手を着いてそう息巻くラインアーサにこの店のマスター、ユージーンが驚いた様子だが落ち着いた声で返答くれた。
「おや、貴方様は…! うちのスズランがどうかなさいましたか? その様に濡れていては風邪を…」
「マスター! 今日一日何も変わった事は起きてないか? スズランは無事なのか?」
「え、ええ。無事も何も今、裏で空き瓶の片付けを…」
「裏庭っ!?」
ユージーンがそう言い終えたか否か、ラインアーサは勝手にカウンター奥手の部屋へと入ってゆく。
「困りますよ、いくら貴方様でも! そちら私室になって…」
「悪い…。緊急事態なんだ。ここから上がらせてもらう!」
ユージーンの言葉はラインアーサの耳に届かなかった。奥の倉庫から裏庭へと上る階段を見つけるとラインアーサは駆け上がり勢い良く扉を開け放つ。そのまま裏庭に飛び出すと、依然として止みそうにない大粒の雨の中で必死に酒樽や酒瓶を片付けているスズランの姿があった。
「っ…スズラン!!」
すぐ様駆け寄り性急にその細い身体を抱きしめる。
「きゃ…っ!」
突然の事に驚いたスズランの手から空き瓶がするりと滑る。しかし落下直前で素早く瓶を受け止めそのままそっと地面に置くとラインアーサは改めてスズランを抱きしめた。荒い呼吸を整え声を絞り出す。
「……ょ か、、た…っ!」
「っ…なんで、どうして……ライアがいるの?」
甘く香る君影草。澄んだ声。華奢だが女性らしい身体、柔らかい髪。抱きしめながら全てを確かめラインアーサは漸く安堵した。
「……よかった、無事で…っ」
「っや、、離して…! 突然なんなの?」
「っ…スズラン、話がある。とりあえず早く中に入ろう」
ラインアーサはあくまでもスズランを腕に抱いたまま酒場 の中へと移動しようとする。しかしスズランが小さな抵抗を見せた。
「やだ! はなしてっ! わたしに触らないで!!」
「……は?」
スズランの言葉が棘の様に胸に突き刺さる。この言葉を理解するのに一瞬の時間を要した。が、すぐに自身が盛大に嫌われていると言う事実を思い出し、少しだけスズランの身体から離れた。それでもスズランの手首を掴むと目線を合わせ少しだけ微笑みかけた。
「…っ! お願い。その手を離して! わたし…っ」
「悪いけど嫌でも我慢してくれ。今この手を離す事は出来ない! 緊急事態なんだ、マスターとスズランに大事な話がある。頼むから俺と一緒に来てほしい……」
ラインアーサはスズランと瞳を合わせたまま丁寧に、ゆっくりとした口調で願い出た。
「緊急、事態…?」
「そう、緊急事態なんだ…」
こんな時だというのにスズランの不思議な色に煌めく瞳に魅入られ惚けてしまいそうだった。スズランもまた、ラインアーサから視線を逸らさないままでいる。
見つめあったまま暫しの沈黙が訪れた。その間も冷たい雨は二人の身体を容赦なく打ち付ける。
「スズ!!」
叫びの様な呼び声に沈黙が破られると、その場にセィシェルが現れラインアーサは我に返った。
「…!」
「……セィシェル」
二人の間に弾丸の如くセィシェルが割込んでくる。
「何してんだよ、スズ! 早くそいつから離れろ!! おい、あんた! スズからその手を離せっ!」
「っ…嫌だ。それは出来ない!!」
普段ならセィシェルとは張り合わずに躱す所なのだが、今はそんな余裕がなくつい声を荒げてしまった。
「っな!? 大体何なんだよあんた! 最近ずっと俺たちの周りをうろつきやがって…。はっきり言って目障りなんだよ! これ以上スズに手出ししようってんなら容赦しない」
「ちがうっ…俺はただスズランを守りたいだけだ!」
「はぁ?! 守る? 何から?? 俺だってお前みたいな男らからずっとスズを守って来たんだ! 怪我したくなかったら早く俺たちの前から消えろよ!!」
セィシェルが鋭い目つきをこちらに向けてくるが、ラインアーサも負けじと睨み返す。
「やめて……二人とも」
大雨の中、雨音に掻き消されそうなほど弱々しく震えたスズランの声にはっとした。ラインアーサは冷静さを保つ様に低い声を絞り出す。
「……とにかく今はお前にかまっている暇などない。俺はスズランとマスターに話があって来た。お前は店に戻ってくれ」
「はっ! こっちは話す事なんかないね! 今すぐ帰るのはあんたの方だ!!」
両者供一歩も引かず睨み合いが続く。
つい手に力を込めてしまいラインアーサに腕を掴まれていたスズランが痛みに顔を歪ませる。
「ライアっ、、腕……いたい! はなして…っ」
「わ、悪い! つい……大丈夫か?」
スズランの悲鳴にすぐ手の力を緩めたが、白く細い腕にはくっきりと指の痕が赤く着いてしまっていた。スズランの瞳から大粒の涙が溢れ落ちる。
「っ…いたいよ、、」
「痛くするつもりじゃあっ…わ、悪かった! 泣かないでくれ!」
ラインアーサは痛みを軽減しようと即座に癒しの風を施した。赤味は消え去り、痛みも殆どなくなった筈だ。しかしスズランの涙は止まるどころか増して溢れ出した。どうしたら良いのかわからず慌ててスズランの顔を覗き込む。だが、そうすると露骨に顔を背けられてしまう。
「っ…ふ、、…っうう」
「ああ、もう。本当悪かったよ! お願いだ、泣かないで……」
おろおろと狼狽えるラインアーサの横でセィシェルのあからさまな溜息が聞こえてくる。
「はぁぁ…。何が守りたいだ。あんたが一番スズを傷つけてるじゃあねえか…!!」
「俺が、スズランを傷つけている…? どうしてそうなるんだよ…」
「また自覚なしかよ? 俺は…。絶対に認めたくないけど、だけど…っスズが好きなのは俺じゃあなくてあんたなんだよ…! なのにあんたはっ…」
「やめて…っ!」
スズランが懸命に首を振りながらセィシェルに向かって叫んだ。ラインアーサは突然の話の流れについてゆけず、再度質問を投げかける。
「…? っ…今なんて……」
するとセィシェルが苛立ちを露わに半ば怒鳴る様な口調で繰り返した。
「だからっっ! まだわかんないのかよ…! スズはあんたが好きなんだ!!」
「?! …っなに、言って……そんな訳、ないだろ」
にわかに信じられないラインアーサは確認する様にスズランに視線を戻すが、本人は俯いたままでどんな表情をしているのか窺い知ることが出来ない。
「……勝手な事を言わないで…っ! わたし、あなたの事なんて好きじゃないっ!!」
「っ!」
やはり予想通りの返答だ。そんな事わざわざ言われなくても知っている。しかしそこにセィシェルが反論した。
「どうだかな。お前、最近毎日溜息ついてばっかじゃねーか! こいつの事好きなんだろ? その位お前を見てれば分かる……」
「っちがう! 好きじゃない!」
スズランはセィシェルの発言を頑なに否定する。
「違わないだろ! ……だったら、なんで最近笑わなくなった? スズが好きなのはこいつだろ…っ俺の気持ちは迷惑なんだろ!? でも……それでも構わない! 俺はお前が好きなんだ!! だからっっ」
セィシェルが何を言っているのか理解できない。スズランは先程から何度もラインアーサの事は好きではないと宣言していると言うのに。
「───待ってくれ、話がよく見えない。それに今は緊急事態って言っただろう! とりあえず店の中に入って話を聞いて…」
「……帰って…!」
土砂降りの中でスズランが小さく呟いた。漸くこちらを向いたその瞳は、雨で濡れているのか涙で濡れているのか判らなかったがとても苦しげな表情だった。
「スズラ…」
「帰ってよ! あなたに出すお酒は一滴もないの! もう、店に来ないでくださいっ…」
スズランのその言葉に心臓がずしりと重くなる。
やはりラインアーサの想いは一方通行。
「おいスズ、いいのかよ……」
ラインアーサは意を決してスズランの瞳を見据えるとにこりと微笑んだ。そして耳元に口を寄せ優しく囁く。
「分かった…。じゃあ本当に今日で最後にするから」
ラインアーサは片手でスズランの頬を優しく包み込む様に触れ、瞼にそっと唇を落とした。
「涙が、止まるおまじない……」
「…っ」
最後にもう一度あの笑顔が見たくて幼い頃の様に 〝おまじない〟と称した。だがやはりスズランは笑顔を見せず、呆けた様に言葉を失ったままこちらを見つめ返している。同様にセィシェルも茫然とその様子を眺めていた。
「……おい! セィシェル。頼みがある」
「なっ、なんだよ!」
「スズランを早く店の中に連れて行ってくれ。そしてマスターを呼んで来てほしい」
ラインアーサはスズランの手を引いてセィシェルに軽く頭を下げる。
「何なんだいきなり! 言われなくてもそうするし! それと親父となに話そうってんだよ……親父だって店があるから、連れてくるなんて…」
「───セィシェル。この方の言う通りにしておくれ……」
「親父!?」
声がした方へ振り向くと、酒場 の裏口の扉の前にユージーンが傘をさして立って居た。
「セィシェル。スズを部屋で休ませたらカウンターはお前が入れ」
「は? 俺が!? 無理だって!」
「厨房はレフに任せて来た。ソニャにも少し場を離れると言ってあるから大丈夫だ……」
ユージーンが何時になく落ち着いた口調と真剣な眼差しでセィシェルを諭す。その様子にセィシェルは諦めたかの様に小さく息を吐いた。
「……わかったよ。親父がそこまで言うならよっぽどなんだな? 俺はとにかくスズを部屋に連れてく。ほら、スズ行くぞ!」
セィシェルがスズランのもう片方の手を引いて歩き出した。ラインアーサと軽く繋いでいた方の手が自然とほどける。
「…あ……!」
瞬間、スズランが縋る様な視線でこちらを見上げたのでラインアーサはその手を追う様に腕を伸ばす。しかし途中で諦め、引っ込みのつかない手を力一杯握りしめた。
セィシェルに連れられてスズランが酒場 の中に入るのを見届けると、ラインアーサはユージーンに頭を下げた。
「ありがとう。マスター」
「おやめください…! 貴方様が私めに頭を下げるなど!!」
ユージーンは慌てて傘をラインアーサに渡すと、その場に片膝を着いて跪いた。今更傘をさしても手遅れな程、ラインアーサの服とマントは雨水を含みずしりと重い。
まるでラインアーサの今の胸中の様だが、そうも言っていられない。
「マスターこそやめてくれ!! それよりもマスターは俺の事知ってるのか…!?」
ラインアーサは傘を手にユージーンに詰寄る。しかし、ユージーンはその姿勢のまま続けた。
「アーサ様…。我が子の数々のご無礼、誠に申し訳ございません。セィシェルもスズランも、これまで貴方様にとんでもなく失礼な言動を…」
「いや、本当に違うんだマスター。こっちが何も言ってなかったんだ…。だから二人は全然悪くない。お願いだから顔を上げて欲しい」
そもそもラインアーサは地位を利用し、権力を振りかざすのを好まない。それでもユージーンは中々顔を上げようとしなかった。
「……じゃあ、着替えを貸してくれないか? あと、マスターに大事な話がある。聞いてほしい」
「仰せの通りに…」
結局ラインアーサも酒場 の中に入り、厨房隣の小さな控え部屋でユージーンから借りた服に着替えた。
ユージーンの待つ客間に移動すると、すっかりと濡れてしまった服を乾かしてもらいながらひとつひとつ話の詳細を伝える。今現在シュサイラスア国内で起きている事件について───。
そして、首謀者の意図はまだ把握できてないが被害者の少女達が何故か未成年の孤児である事。それも内乱後にこの国へ移住してきた者ばかりが狙われていると言う事実を告げる。話を進めるごとにユージーンの顔ばせが蒼白になってゆく。スズランがその条件全てに当て嵌まることは、やはり彼には言わずとも明白な事だ。
「マスター。この事件が解決するまで、スズランを一人にしないで欲しい。それとこの建物の外に出ても駄目だ。出来れば裏庭にも出てほしくない。事件は早期に解決する様、国をあげて調査するから……」
「話は分かりました。スズランには言って聞かせましょう。セィシェルにもなるべく一緒に行動する様にと伝えます」
本当は王宮で保護したい所なのだが……。
ああもスズランに嫌われてしまい気の重いラインアーサはなかなか切り出せずにいた。
「……もし、スズランさえ気にならないのであれば、王宮で保護と言う手も…」
「その必要は全くないね!」
ラインアーサの説明を遮る様に、セィシェルが客間に入って来た。
「ああ、セィシェル…! スズの様子はどうだい?」
「あー。とりあえず雨にたくさん当たったから着替えをさせて、寒くない様にしてやった。あと少し寝ろって言ってきた。ここ最近ずっと寝不足だったみてえだし」
セィシェルがじろりと視線をこちらへ寄越す。まるでラインアーサの所為だと言わんばかりに。
「そうか……」
ユージーンが安堵し、短く息を吐く。
「で、さっきの話だけど。わざわざ王宮で保護とか意味わかんねぇし! スズは俺が守るからな!!」
先ほどよりも挑戦的な視線をぶつけてくるセィシェルを受け流し、正面に向き直って話を進める。
「では、マスター。今言った要点だけは守って貰えれば…」
「へっ! あんた王宮の関係者だかなんだか知らないけど、こんな物騒な事件早いとこ解決して欲しいもんだぜ!!」
そう吐き捨てるとセィシェルは客間を出て行った。
「……度々の無礼、申し訳ございません。あれも幼い頃、内乱がまだ落ち着かない頃に母親を亡くしまして……多少気が短いと言うか」
ユージーンが困り気味に苦笑する。やはりこの親子も内乱による多大な被害を受けているのだ。その事実に複雑な気持ちになる。
「マスターが謝らなくても良いよ。それより気になってたんだけど…。マスターは何時から俺の正体に気づいていたんだ?」
「初めからでございます」
「最初から?! な、何で判ったんだ?」
変装に自信がある訳ではないラインアーサだが、初めから判っていたと言われてしまうと流石に動揺を隠せない。
「いえ、私が例外なだけでございます。他の人々は貴方様がアーサ様である事には全く気付かれてはいないでしょう」
「…?」
ユージーンの口振りにますます困惑する。
「……貴方様は、お母上のエテジアーナ様と良く似ていらっしゃる」
更に突然母の名を口にされ、ラインアーサは眼を見開いた。
「母様……いや、母を知っているのか?」
「ええ…。私たちは身分は違えど幼馴染みの様な間柄でした故。それに私は曾て、宮廷料理師の仕入担当として王宮に仕えておりましたので」
「そうだったのか!」
そう言われれば納得が行く。エテジアーナを知っているならば王子だと悟られても仕方がない程、ラインアーサの顔立ちはエテジアーナによく似ている。
二人が幼馴染ならば何か知っているかもしれない。───不意にそう思い立ち、ラインアーサは半ば諦め半分に質問を投げかけた。
「……マスター。突然話を変えて悪いんだけど、母が持っていた特殊な力について…。何か知っていたら教えてほしい」
「…っ!!」
途端にユージーンの表情が凍り付いた。
「その様子だと何か知ってるんだよな? どんな些細な事でも構わないから俺に教えてくれないか?」
この話題をイリアーナやライオネルに尋ねても必ずはぐらかされてしまう。ユージーンがその能力の事を知っているのであれば、どんな小さな情報であれ得ておきたい。
「……あの、忌まわしい能力の事。でしょうか?」
「え…?」
今程まで落ち着いた雰囲気だったユージーンの声色から、僅かに怒りの様な気配が発せられる。普段見ない厳しい表情のユージーン。
「あの忌まわしい力があったが為にアナ…、エテジアーナ様はお体を壊してしまわれたのです」
「忌まわしい能力って、古代リノ族の力の事か?」
「古代リノ族の力? ……あれがそう呼ばれる力なのかは存じませんが、元々他人の為ならばご自分の身を顧みないほど献身的な気質のエテジアーナ様には、絶対にあって欲しくなかった能力なのは確かです」
何処かで似た様な言葉を──自分の場合はもっと辛辣な物言いだが──聞いたことのあるラインアーサはどきりとした。
「どんな、力なんだ…?」
「貴方様がご存知ない、と言う事はアーサ様にもイリア様にもその能力は遺伝しなかったと言う事ですね」
「……多分」
「それは良かった…。あの能力はエテジアーナ様の実の妹でも持ち得なかったのですから」
「んん? 待ってくれ。母に妹が居るのか!? 俺……知らなかった!!」
「え、ええ。マリアーナという名でして、残念ながら彼女は内乱の暴動時に亡くなっているのですが……」
「……そう、だったのか」
ユージーンがふと、寂しげな表情を浮かべた様に見えた。
「……あの能力は人が当たり前に抱く痛み、悲しみ、苦しみや恐怖や不安など、〝負の感情〟に繋がる〝全ての穢れ〟を吸い取り、ぬぐい去ってしまうのです…。エテジアーナ様は困っている者を放っておけない方でしたから、その能力を惜しみなく発揮し身分や地位を問わず沢山の人々を救っておられました……」
「凄い! そんな術、聞いた事が無い…。だけど、何故それが忌まわしい能力なんだ?」
そんな力を持っていたならば、自身もきっとエテジアーナと同様に街の人々を救う為に使うだろうとラインアーサは思った。
「私はエテジアーナ様以外にこの能力を持つ者を知りません。そしてこの能力は多用すれば術者の身体に吸い取った負の力が蓄積する性質のものでした。では、エテジアーナ様の身に降り積もったその負の力は誰が拭い去ってくれるのか?」
ユージーンが苦虫を噛み潰した様な表情で話を続ける。
「……エテジアーナ様はそれに気付いた周りが、必死に止めるのも聞かず力を使い続けた。そうしてお身体を弱らせてしまわれたのです」
「っ…力を、使い過ぎて…?」
ラインアーサは絶句した。
今まで知り得なかった事実に衝撃を受け、考えが上手く纏まらない。そんなラインアーサの心中を察してか、ユージーンもそれ以上は何も口に出さず俯いていた。
暫くの間、重苦しい空気がその場を包んだが、やっとのことで声を絞り出す。
「……マスター、色々とありがとう。俺はそろそろ、お暇するよ」
するとユージーンはいつもの穏やかな表情に立ち戻り弾かれた様にこちらを向いた。
「いえ…! こちらこそわざわざご足労 頂いてしまい申し訳ありませんでした!! 我が子たちの無礼な態度にも今一度!」
「本当にいいって! マスターが煎れてくれた珈琲、美味かったし」
ラインアーサはそう言いながら平時の様に笑って見せる。するとユージーンは先程とはまた違った真剣な面持ちでこちらに詰め寄った。
「……アーサ様」
「? どうしたんだ? マスター。そんなにかしこまって」
まだエテジアーナの事について何かあるのかと聞き構える。
「不躾なことを申しあげて大変恐縮ではございますが……アーサ様はスズランの事を好いていらっしゃるのですか…?」
唐突に己の確信を突かれ、瞬時に顔が上気した。恥ずかしさの余り思わず掌で口元を抑える。
「マスターには、そう……見えるのか?」
「いえ、あの。ええどう考えても。違うのですか?」
最早羞恥でユージーンの顔が見れない。
「う、見えるのか……それは本人も気付いているだろうか?」
「いえ、あの子はそう言った事には疎いのです…。私が男手一つで少々箱入りに育ててしまったせいか」
ユージーンが困り果てた様に苦笑する。
「マスター。でも俺は今すぐにスズランを…って訳じゃあないんだ! 今はただ守りたい。本当にそれだけで」
「わかりますよ。私は貴方様になら…。しかし、あの子は大事なお方から…、いや。この話はまたの機会に」
「…??」
ユージーンが深妙な面持ちでそう呟いた。
スズランの事について何か知っているのだろうか。それはそれでとても気に掛かるが、話を切り上げられてしまったため一先ず席を立った。
「アーサ様。まだ雨は上がっていない様なので、差し支えが無ければ是非こちらの傘をお使いください」
「何から何までありがとう、マスター。あ、それと俺がこの国の王子だって事はスズランたちにはこのまま黙っていてくれると助かる。その方が街の中では動きやすいんだ」
「……仰せの通りに」
そう頷いたユージーンから受け取った赤い傘は、どう考えても女性向けのものだった。
「この傘は…?」
「返却は不要ですがもし返されるならスズランに直接どうぞ」
ユージーンはそう言いつつ意味深に微笑んで見せる。その微笑みをどう受け取ってよいかわからず、ラインアーサは苦笑を返した。
ユージーンに別れを告げ、裏口から外に出る。早速傘を差しラインアーサは酒場 の建物全体に風の護りの結界を張った。意識を集中させ、複雑な術式を空に描き丁寧に結界を施してゆく。その途中、此処には弱々しいものの既に結界が張られていることに気が付いた。
「……以前誰かが張ったのか? まあ、用心の為に結界を重ねても問題ない筈だろう」
ラインアーサはそこまで強固な結界を張れる訳ではない。あくまでも防犯程度のものだ。ライオネルの様に魔術自体を封じる程の強力な結界を張るには、さらに複雑な術式と膨大な精神力を要する。それを常に、王宮全体に張っているライオネル。
ライオネルは常に、睡眠時間でさえも完全に気を休められずにいるという事だ。
「……父上、何故こんなに大事な事を隠してたんだ…! 母様の事。俺は知らない事ばかりじゃあないか!!」
黒く渦巻く気持ちを抑えきれず、つい声に出していた。
王宮へ戻ると真っ先にライオネルの元を訪ねた。しかし、側近のコルトからは不在だと言い渡されてしまう。次にイリアーナの元へ向かうも、姉は体調が優れないのだとリーナに門前払いを食らう。
「肝心なときに、なんだよ…! 二人とも」
つい苛々とした感情が態度と口に出てしまう。
「アーサ様? どうかなさいましたか…?」
「いや、なんでもないよ。姉上にはお大事にって伝えておいてくれ。また明日にでも見舞いにくるよ」
「畏まりました。……あの、アーサ様もあまりご無理をなさらないでくださいね? 少し顔色が優れないようですので……」
リーナが心配げにそうに声を掛けてくれた。
「ん。ああ、大丈夫だよ」
ラインアーサはそんなリーナを安心させようと笑って見せる。しかし……。
「アーサ様はいつもそう仰って無理をなさるので心配なんです!」
リーナが何時になく主張をする。
「もっと周りを頼ってくださいね? 兄だって何時もそう言っています。……それにあたしも、その、アーサ様の事心配ですから!」
リーナの必死な姿に尖った気持が和らぐ。
「ありがとう。二人にはもう十分助けられてるよ! 感謝してる。じゃあ今日はもう休む事にするよ。おやすみ」
「おやすみなさ…っあ、アーサ様!」
挨拶を交わし踵を返しかけたところで、リーナから呼び止められる。
「ん? どうした、リーナ」
「いえ、すみませんっっ! あ、あの…。これ、この間のお礼です!!」
何故か慌てふためくリーナから手渡されたのは、一輪の三色菫で作られた押花の栞だった。
「綺麗だな。リーナが作ったのか?」
「はい! 以前選んでいただいた鉢植えのお花で作りました…。よ、よかったら使ってくださいっ!」
「俺、本当は礼をされる様な事してないんだけどな。でもありがとう、大事にするよ」
苦笑しながら栞を懐へ仕舞うと、ラインアーサはリーナの頭に優しく手を置いた。
「今度こそおやすみ」
「っおやすみなさいませ…、アーサ様!」
いつまでも恭しく頭を垂れるリーナに早く部屋へ戻るよう促し、ラインアーサも自室へと戻った。
今日は一日のうちに色々な事があった。
明日も忙しくなりそうだ……。
────スズラン。
結局王宮で保護することは出来なかったが、細心の注意を払って様子を見る事にしよう。
後は母の事だ。エテジアーナの能力を隠されていたのはとても衝撃だった。妹がいた事すら知らなかったのだ。
しかし今はそれよりも、早く事件を解決させなければと気持ばかりが急く。未成年の街娘がこれ以上被害にあっては民の不安が募るばかり。ラインアーサは何から手をつければ良いのかを必死に考えた。
「……民の安全が最優先だ」
様々な思いを飲み込むとラインアーサは深い溜息をつく。明日朝一でライオネルに報告も兼ねて相談をしよう。
「ハリとジュリには悪い事をしたな。それも謝らないと……」
ラインアーサは熱めの湯に浸かりながら一日の疲れを解した。けれどもやはり最後には、あのスズランの縋る様な眼差しを思い出す。締め付けられる胸の痛みを誤魔化す様に自虐的に笑ってみる。
「はは、初恋は実らない、か。よかったじゃあないか……ああも嫌われれば諦めがつく」
喉の奥が張り付く。それを更に誤魔化そうと頭を左右に激しく振り立ち上がった。
「失恋の痛手にはやっぱり酒かな…。いや、やめておこう」
床に就くと酒に頼らずとも急激に睡魔がやってきて、ラインアーサはそのまま朝まで泥の様に眠った。
⌘ 遷り変わる星霜 ⌘ 終
何時から、こんなにも心を占める様になったのだろう。いくら追い出そうとしても、頭の隅にはいつもスズランの存在があった。
王宮の横庭で再会した時からだろうか。いや───。
はじめて出逢ったあの日から、ラインアーサの心には何時だってスズランの笑顔があった。辛い状況に陥った時期も、諦めそうになった時も笑顔を忘れずに乗り切って来られたのはスズランとの出逢いがもたらしてくれた想いがあったからこそだ。
「くそっ! なんて土砂降りだ」
ラインアーサはスズランの気配を探り透視を試みるも、走りながらでは集中することが出来ず何も感じ取れない。それがまた焦りの原因となり不安を煽った。
「スズラン、頼むから無事でいてくれ!」
大雨の中を走り、漸く
頭からすっかりずぶ濡れになっている為か周りからの視線を浴びたが、ラインアーサはお構いなしに店奥のカウンターを目指す。入店した直後に店内をぐるりと見回したが、何処にもスズランの姿が見当たらない。
(スズラン! どこだ!? まさか既に……)
「マスターっ! スズランは、スズランは何処にいる!?」
カウンターに両手を着いてそう息巻くラインアーサにこの店のマスター、ユージーンが驚いた様子だが落ち着いた声で返答くれた。
「おや、貴方様は…! うちのスズランがどうかなさいましたか? その様に濡れていては風邪を…」
「マスター! 今日一日何も変わった事は起きてないか? スズランは無事なのか?」
「え、ええ。無事も何も今、裏で空き瓶の片付けを…」
「裏庭っ!?」
ユージーンがそう言い終えたか否か、ラインアーサは勝手にカウンター奥手の部屋へと入ってゆく。
「困りますよ、いくら貴方様でも! そちら私室になって…」
「悪い…。緊急事態なんだ。ここから上がらせてもらう!」
ユージーンの言葉はラインアーサの耳に届かなかった。奥の倉庫から裏庭へと上る階段を見つけるとラインアーサは駆け上がり勢い良く扉を開け放つ。そのまま裏庭に飛び出すと、依然として止みそうにない大粒の雨の中で必死に酒樽や酒瓶を片付けているスズランの姿があった。
「っ…スズラン!!」
すぐ様駆け寄り性急にその細い身体を抱きしめる。
「きゃ…っ!」
突然の事に驚いたスズランの手から空き瓶がするりと滑る。しかし落下直前で素早く瓶を受け止めそのままそっと地面に置くとラインアーサは改めてスズランを抱きしめた。荒い呼吸を整え声を絞り出す。
「……ょ か、、た…っ!」
「っ…なんで、どうして……ライアがいるの?」
甘く香る君影草。澄んだ声。華奢だが女性らしい身体、柔らかい髪。抱きしめながら全てを確かめラインアーサは漸く安堵した。
「……よかった、無事で…っ」
「っや、、離して…! 突然なんなの?」
「っ…スズラン、話がある。とりあえず早く中に入ろう」
ラインアーサはあくまでもスズランを腕に抱いたまま
「やだ! はなしてっ! わたしに触らないで!!」
「……は?」
スズランの言葉が棘の様に胸に突き刺さる。この言葉を理解するのに一瞬の時間を要した。が、すぐに自身が盛大に嫌われていると言う事実を思い出し、少しだけスズランの身体から離れた。それでもスズランの手首を掴むと目線を合わせ少しだけ微笑みかけた。
「…っ! お願い。その手を離して! わたし…っ」
「悪いけど嫌でも我慢してくれ。今この手を離す事は出来ない! 緊急事態なんだ、マスターとスズランに大事な話がある。頼むから俺と一緒に来てほしい……」
ラインアーサはスズランと瞳を合わせたまま丁寧に、ゆっくりとした口調で願い出た。
「緊急、事態…?」
「そう、緊急事態なんだ…」
こんな時だというのにスズランの不思議な色に煌めく瞳に魅入られ惚けてしまいそうだった。スズランもまた、ラインアーサから視線を逸らさないままでいる。
見つめあったまま暫しの沈黙が訪れた。その間も冷たい雨は二人の身体を容赦なく打ち付ける。
「スズ!!」
叫びの様な呼び声に沈黙が破られると、その場にセィシェルが現れラインアーサは我に返った。
「…!」
「……セィシェル」
二人の間に弾丸の如くセィシェルが割込んでくる。
「何してんだよ、スズ! 早くそいつから離れろ!! おい、あんた! スズからその手を離せっ!」
「っ…嫌だ。それは出来ない!!」
普段ならセィシェルとは張り合わずに躱す所なのだが、今はそんな余裕がなくつい声を荒げてしまった。
「っな!? 大体何なんだよあんた! 最近ずっと俺たちの周りをうろつきやがって…。はっきり言って目障りなんだよ! これ以上スズに手出ししようってんなら容赦しない」
「ちがうっ…俺はただスズランを守りたいだけだ!」
「はぁ?! 守る? 何から?? 俺だってお前みたいな男らからずっとスズを守って来たんだ! 怪我したくなかったら早く俺たちの前から消えろよ!!」
セィシェルが鋭い目つきをこちらに向けてくるが、ラインアーサも負けじと睨み返す。
「やめて……二人とも」
大雨の中、雨音に掻き消されそうなほど弱々しく震えたスズランの声にはっとした。ラインアーサは冷静さを保つ様に低い声を絞り出す。
「……とにかく今はお前にかまっている暇などない。俺はスズランとマスターに話があって来た。お前は店に戻ってくれ」
「はっ! こっちは話す事なんかないね! 今すぐ帰るのはあんたの方だ!!」
両者供一歩も引かず睨み合いが続く。
つい手に力を込めてしまいラインアーサに腕を掴まれていたスズランが痛みに顔を歪ませる。
「ライアっ、、腕……いたい! はなして…っ」
「わ、悪い! つい……大丈夫か?」
スズランの悲鳴にすぐ手の力を緩めたが、白く細い腕にはくっきりと指の痕が赤く着いてしまっていた。スズランの瞳から大粒の涙が溢れ落ちる。
「っ…いたいよ、、」
「痛くするつもりじゃあっ…わ、悪かった! 泣かないでくれ!」
ラインアーサは痛みを軽減しようと即座に癒しの風を施した。赤味は消え去り、痛みも殆どなくなった筈だ。しかしスズランの涙は止まるどころか増して溢れ出した。どうしたら良いのかわからず慌ててスズランの顔を覗き込む。だが、そうすると露骨に顔を背けられてしまう。
「っ…ふ、、…っうう」
「ああ、もう。本当悪かったよ! お願いだ、泣かないで……」
おろおろと狼狽えるラインアーサの横でセィシェルのあからさまな溜息が聞こえてくる。
「はぁぁ…。何が守りたいだ。あんたが一番スズを傷つけてるじゃあねえか…!!」
「俺が、スズランを傷つけている…? どうしてそうなるんだよ…」
「また自覚なしかよ? 俺は…。絶対に認めたくないけど、だけど…っスズが好きなのは俺じゃあなくてあんたなんだよ…! なのにあんたはっ…」
「やめて…っ!」
スズランが懸命に首を振りながらセィシェルに向かって叫んだ。ラインアーサは突然の話の流れについてゆけず、再度質問を投げかける。
「…? っ…今なんて……」
するとセィシェルが苛立ちを露わに半ば怒鳴る様な口調で繰り返した。
「だからっっ! まだわかんないのかよ…! スズはあんたが好きなんだ!!」
「?! …っなに、言って……そんな訳、ないだろ」
にわかに信じられないラインアーサは確認する様にスズランに視線を戻すが、本人は俯いたままでどんな表情をしているのか窺い知ることが出来ない。
「……勝手な事を言わないで…っ! わたし、あなたの事なんて好きじゃないっ!!」
「っ!」
やはり予想通りの返答だ。そんな事わざわざ言われなくても知っている。しかしそこにセィシェルが反論した。
「どうだかな。お前、最近毎日溜息ついてばっかじゃねーか! こいつの事好きなんだろ? その位お前を見てれば分かる……」
「っちがう! 好きじゃない!」
スズランはセィシェルの発言を頑なに否定する。
「違わないだろ! ……だったら、なんで最近笑わなくなった? スズが好きなのはこいつだろ…っ俺の気持ちは迷惑なんだろ!? でも……それでも構わない! 俺はお前が好きなんだ!! だからっっ」
セィシェルが何を言っているのか理解できない。スズランは先程から何度もラインアーサの事は好きではないと宣言していると言うのに。
「───待ってくれ、話がよく見えない。それに今は緊急事態って言っただろう! とりあえず店の中に入って話を聞いて…」
「……帰って…!」
土砂降りの中でスズランが小さく呟いた。漸くこちらを向いたその瞳は、雨で濡れているのか涙で濡れているのか判らなかったがとても苦しげな表情だった。
「スズラ…」
「帰ってよ! あなたに出すお酒は一滴もないの! もう、店に来ないでくださいっ…」
スズランのその言葉に心臓がずしりと重くなる。
やはりラインアーサの想いは一方通行。
「おいスズ、いいのかよ……」
ラインアーサは意を決してスズランの瞳を見据えるとにこりと微笑んだ。そして耳元に口を寄せ優しく囁く。
「分かった…。じゃあ本当に今日で最後にするから」
ラインアーサは片手でスズランの頬を優しく包み込む様に触れ、瞼にそっと唇を落とした。
「涙が、止まるおまじない……」
「…っ」
最後にもう一度あの笑顔が見たくて幼い頃の様に 〝おまじない〟と称した。だがやはりスズランは笑顔を見せず、呆けた様に言葉を失ったままこちらを見つめ返している。同様にセィシェルも茫然とその様子を眺めていた。
「……おい! セィシェル。頼みがある」
「なっ、なんだよ!」
「スズランを早く店の中に連れて行ってくれ。そしてマスターを呼んで来てほしい」
ラインアーサはスズランの手を引いてセィシェルに軽く頭を下げる。
「何なんだいきなり! 言われなくてもそうするし! それと親父となに話そうってんだよ……親父だって店があるから、連れてくるなんて…」
「───セィシェル。この方の言う通りにしておくれ……」
「親父!?」
声がした方へ振り向くと、
「セィシェル。スズを部屋で休ませたらカウンターはお前が入れ」
「は? 俺が!? 無理だって!」
「厨房はレフに任せて来た。ソニャにも少し場を離れると言ってあるから大丈夫だ……」
ユージーンが何時になく落ち着いた口調と真剣な眼差しでセィシェルを諭す。その様子にセィシェルは諦めたかの様に小さく息を吐いた。
「……わかったよ。親父がそこまで言うならよっぽどなんだな? 俺はとにかくスズを部屋に連れてく。ほら、スズ行くぞ!」
セィシェルがスズランのもう片方の手を引いて歩き出した。ラインアーサと軽く繋いでいた方の手が自然とほどける。
「…あ……!」
瞬間、スズランが縋る様な視線でこちらを見上げたのでラインアーサはその手を追う様に腕を伸ばす。しかし途中で諦め、引っ込みのつかない手を力一杯握りしめた。
セィシェルに連れられてスズランが
「ありがとう。マスター」
「おやめください…! 貴方様が私めに頭を下げるなど!!」
ユージーンは慌てて傘をラインアーサに渡すと、その場に片膝を着いて跪いた。今更傘をさしても手遅れな程、ラインアーサの服とマントは雨水を含みずしりと重い。
まるでラインアーサの今の胸中の様だが、そうも言っていられない。
「マスターこそやめてくれ!! それよりもマスターは俺の事知ってるのか…!?」
ラインアーサは傘を手にユージーンに詰寄る。しかし、ユージーンはその姿勢のまま続けた。
「アーサ様…。我が子の数々のご無礼、誠に申し訳ございません。セィシェルもスズランも、これまで貴方様にとんでもなく失礼な言動を…」
「いや、本当に違うんだマスター。こっちが何も言ってなかったんだ…。だから二人は全然悪くない。お願いだから顔を上げて欲しい」
そもそもラインアーサは地位を利用し、権力を振りかざすのを好まない。それでもユージーンは中々顔を上げようとしなかった。
「……じゃあ、着替えを貸してくれないか? あと、マスターに大事な話がある。聞いてほしい」
「仰せの通りに…」
結局ラインアーサも
ユージーンの待つ客間に移動すると、すっかりと濡れてしまった服を乾かしてもらいながらひとつひとつ話の詳細を伝える。今現在シュサイラスア国内で起きている事件について───。
そして、首謀者の意図はまだ把握できてないが被害者の少女達が何故か未成年の孤児である事。それも内乱後にこの国へ移住してきた者ばかりが狙われていると言う事実を告げる。話を進めるごとにユージーンの顔ばせが蒼白になってゆく。スズランがその条件全てに当て嵌まることは、やはり彼には言わずとも明白な事だ。
「マスター。この事件が解決するまで、スズランを一人にしないで欲しい。それとこの建物の外に出ても駄目だ。出来れば裏庭にも出てほしくない。事件は早期に解決する様、国をあげて調査するから……」
「話は分かりました。スズランには言って聞かせましょう。セィシェルにもなるべく一緒に行動する様にと伝えます」
本当は王宮で保護したい所なのだが……。
ああもスズランに嫌われてしまい気の重いラインアーサはなかなか切り出せずにいた。
「……もし、スズランさえ気にならないのであれば、王宮で保護と言う手も…」
「その必要は全くないね!」
ラインアーサの説明を遮る様に、セィシェルが客間に入って来た。
「ああ、セィシェル…! スズの様子はどうだい?」
「あー。とりあえず雨にたくさん当たったから着替えをさせて、寒くない様にしてやった。あと少し寝ろって言ってきた。ここ最近ずっと寝不足だったみてえだし」
セィシェルがじろりと視線をこちらへ寄越す。まるでラインアーサの所為だと言わんばかりに。
「そうか……」
ユージーンが安堵し、短く息を吐く。
「で、さっきの話だけど。わざわざ王宮で保護とか意味わかんねぇし! スズは俺が守るからな!!」
先ほどよりも挑戦的な視線をぶつけてくるセィシェルを受け流し、正面に向き直って話を進める。
「では、マスター。今言った要点だけは守って貰えれば…」
「へっ! あんた王宮の関係者だかなんだか知らないけど、こんな物騒な事件早いとこ解決して欲しいもんだぜ!!」
そう吐き捨てるとセィシェルは客間を出て行った。
「……度々の無礼、申し訳ございません。あれも幼い頃、内乱がまだ落ち着かない頃に母親を亡くしまして……多少気が短いと言うか」
ユージーンが困り気味に苦笑する。やはりこの親子も内乱による多大な被害を受けているのだ。その事実に複雑な気持ちになる。
「マスターが謝らなくても良いよ。それより気になってたんだけど…。マスターは何時から俺の正体に気づいていたんだ?」
「初めからでございます」
「最初から?! な、何で判ったんだ?」
変装に自信がある訳ではないラインアーサだが、初めから判っていたと言われてしまうと流石に動揺を隠せない。
「いえ、私が例外なだけでございます。他の人々は貴方様がアーサ様である事には全く気付かれてはいないでしょう」
「…?」
ユージーンの口振りにますます困惑する。
「……貴方様は、お母上のエテジアーナ様と良く似ていらっしゃる」
更に突然母の名を口にされ、ラインアーサは眼を見開いた。
「母様……いや、母を知っているのか?」
「ええ…。私たちは身分は違えど幼馴染みの様な間柄でした故。それに私は曾て、宮廷料理師の仕入担当として王宮に仕えておりましたので」
「そうだったのか!」
そう言われれば納得が行く。エテジアーナを知っているならば王子だと悟られても仕方がない程、ラインアーサの顔立ちはエテジアーナによく似ている。
二人が幼馴染ならば何か知っているかもしれない。───不意にそう思い立ち、ラインアーサは半ば諦め半分に質問を投げかけた。
「……マスター。突然話を変えて悪いんだけど、母が持っていた特殊な力について…。何か知っていたら教えてほしい」
「…っ!!」
途端にユージーンの表情が凍り付いた。
「その様子だと何か知ってるんだよな? どんな些細な事でも構わないから俺に教えてくれないか?」
この話題をイリアーナやライオネルに尋ねても必ずはぐらかされてしまう。ユージーンがその能力の事を知っているのであれば、どんな小さな情報であれ得ておきたい。
「……あの、忌まわしい能力の事。でしょうか?」
「え…?」
今程まで落ち着いた雰囲気だったユージーンの声色から、僅かに怒りの様な気配が発せられる。普段見ない厳しい表情のユージーン。
「あの忌まわしい力があったが為にアナ…、エテジアーナ様はお体を壊してしまわれたのです」
「忌まわしい能力って、古代リノ族の力の事か?」
「古代リノ族の力? ……あれがそう呼ばれる力なのかは存じませんが、元々他人の為ならばご自分の身を顧みないほど献身的な気質のエテジアーナ様には、絶対にあって欲しくなかった能力なのは確かです」
何処かで似た様な言葉を──自分の場合はもっと辛辣な物言いだが──聞いたことのあるラインアーサはどきりとした。
「どんな、力なんだ…?」
「貴方様がご存知ない、と言う事はアーサ様にもイリア様にもその能力は遺伝しなかったと言う事ですね」
「……多分」
「それは良かった…。あの能力はエテジアーナ様の実の妹でも持ち得なかったのですから」
「んん? 待ってくれ。母に妹が居るのか!? 俺……知らなかった!!」
「え、ええ。マリアーナという名でして、残念ながら彼女は内乱の暴動時に亡くなっているのですが……」
「……そう、だったのか」
ユージーンがふと、寂しげな表情を浮かべた様に見えた。
「……あの能力は人が当たり前に抱く痛み、悲しみ、苦しみや恐怖や不安など、〝負の感情〟に繋がる〝全ての穢れ〟を吸い取り、ぬぐい去ってしまうのです…。エテジアーナ様は困っている者を放っておけない方でしたから、その能力を惜しみなく発揮し身分や地位を問わず沢山の人々を救っておられました……」
「凄い! そんな術、聞いた事が無い…。だけど、何故それが忌まわしい能力なんだ?」
そんな力を持っていたならば、自身もきっとエテジアーナと同様に街の人々を救う為に使うだろうとラインアーサは思った。
「私はエテジアーナ様以外にこの能力を持つ者を知りません。そしてこの能力は多用すれば術者の身体に吸い取った負の力が蓄積する性質のものでした。では、エテジアーナ様の身に降り積もったその負の力は誰が拭い去ってくれるのか?」
ユージーンが苦虫を噛み潰した様な表情で話を続ける。
「……エテジアーナ様はそれに気付いた周りが、必死に止めるのも聞かず力を使い続けた。そうしてお身体を弱らせてしまわれたのです」
「っ…力を、使い過ぎて…?」
ラインアーサは絶句した。
今まで知り得なかった事実に衝撃を受け、考えが上手く纏まらない。そんなラインアーサの心中を察してか、ユージーンもそれ以上は何も口に出さず俯いていた。
暫くの間、重苦しい空気がその場を包んだが、やっとのことで声を絞り出す。
「……マスター、色々とありがとう。俺はそろそろ、お暇するよ」
するとユージーンはいつもの穏やかな表情に立ち戻り弾かれた様にこちらを向いた。
「いえ…! こちらこそわざわざご
「本当にいいって! マスターが煎れてくれた珈琲、美味かったし」
ラインアーサはそう言いながら平時の様に笑って見せる。するとユージーンは先程とはまた違った真剣な面持ちでこちらに詰め寄った。
「……アーサ様」
「? どうしたんだ? マスター。そんなにかしこまって」
まだエテジアーナの事について何かあるのかと聞き構える。
「不躾なことを申しあげて大変恐縮ではございますが……アーサ様はスズランの事を好いていらっしゃるのですか…?」
唐突に己の確信を突かれ、瞬時に顔が上気した。恥ずかしさの余り思わず掌で口元を抑える。
「マスターには、そう……見えるのか?」
「いえ、あの。ええどう考えても。違うのですか?」
最早羞恥でユージーンの顔が見れない。
「う、見えるのか……それは本人も気付いているだろうか?」
「いえ、あの子はそう言った事には疎いのです…。私が男手一つで少々箱入りに育ててしまったせいか」
ユージーンが困り果てた様に苦笑する。
「マスター。でも俺は今すぐにスズランを…って訳じゃあないんだ! 今はただ守りたい。本当にそれだけで」
「わかりますよ。私は貴方様になら…。しかし、あの子は大事なお方から…、いや。この話はまたの機会に」
「…??」
ユージーンが深妙な面持ちでそう呟いた。
スズランの事について何か知っているのだろうか。それはそれでとても気に掛かるが、話を切り上げられてしまったため一先ず席を立った。
「アーサ様。まだ雨は上がっていない様なので、差し支えが無ければ是非こちらの傘をお使いください」
「何から何までありがとう、マスター。あ、それと俺がこの国の王子だって事はスズランたちにはこのまま黙っていてくれると助かる。その方が街の中では動きやすいんだ」
「……仰せの通りに」
そう頷いたユージーンから受け取った赤い傘は、どう考えても女性向けのものだった。
「この傘は…?」
「返却は不要ですがもし返されるならスズランに直接どうぞ」
ユージーンはそう言いつつ意味深に微笑んで見せる。その微笑みをどう受け取ってよいかわからず、ラインアーサは苦笑を返した。
ユージーンに別れを告げ、裏口から外に出る。早速傘を差しラインアーサは
「……以前誰かが張ったのか? まあ、用心の為に結界を重ねても問題ない筈だろう」
ラインアーサはそこまで強固な結界を張れる訳ではない。あくまでも防犯程度のものだ。ライオネルの様に魔術自体を封じる程の強力な結界を張るには、さらに複雑な術式と膨大な精神力を要する。それを常に、王宮全体に張っているライオネル。
ライオネルは常に、睡眠時間でさえも完全に気を休められずにいるという事だ。
「……父上、何故こんなに大事な事を隠してたんだ…! 母様の事。俺は知らない事ばかりじゃあないか!!」
黒く渦巻く気持ちを抑えきれず、つい声に出していた。
王宮へ戻ると真っ先にライオネルの元を訪ねた。しかし、側近のコルトからは不在だと言い渡されてしまう。次にイリアーナの元へ向かうも、姉は体調が優れないのだとリーナに門前払いを食らう。
「肝心なときに、なんだよ…! 二人とも」
つい苛々とした感情が態度と口に出てしまう。
「アーサ様? どうかなさいましたか…?」
「いや、なんでもないよ。姉上にはお大事にって伝えておいてくれ。また明日にでも見舞いにくるよ」
「畏まりました。……あの、アーサ様もあまりご無理をなさらないでくださいね? 少し顔色が優れないようですので……」
リーナが心配げにそうに声を掛けてくれた。
「ん。ああ、大丈夫だよ」
ラインアーサはそんなリーナを安心させようと笑って見せる。しかし……。
「アーサ様はいつもそう仰って無理をなさるので心配なんです!」
リーナが何時になく主張をする。
「もっと周りを頼ってくださいね? 兄だって何時もそう言っています。……それにあたしも、その、アーサ様の事心配ですから!」
リーナの必死な姿に尖った気持が和らぐ。
「ありがとう。二人にはもう十分助けられてるよ! 感謝してる。じゃあ今日はもう休む事にするよ。おやすみ」
「おやすみなさ…っあ、アーサ様!」
挨拶を交わし踵を返しかけたところで、リーナから呼び止められる。
「ん? どうした、リーナ」
「いえ、すみませんっっ! あ、あの…。これ、この間のお礼です!!」
何故か慌てふためくリーナから手渡されたのは、一輪の三色菫で作られた押花の栞だった。
「綺麗だな。リーナが作ったのか?」
「はい! 以前選んでいただいた鉢植えのお花で作りました…。よ、よかったら使ってくださいっ!」
「俺、本当は礼をされる様な事してないんだけどな。でもありがとう、大事にするよ」
苦笑しながら栞を懐へ仕舞うと、ラインアーサはリーナの頭に優しく手を置いた。
「今度こそおやすみ」
「っおやすみなさいませ…、アーサ様!」
いつまでも恭しく頭を垂れるリーナに早く部屋へ戻るよう促し、ラインアーサも自室へと戻った。
今日は一日のうちに色々な事があった。
明日も忙しくなりそうだ……。
────スズラン。
結局王宮で保護することは出来なかったが、細心の注意を払って様子を見る事にしよう。
後は母の事だ。エテジアーナの能力を隠されていたのはとても衝撃だった。妹がいた事すら知らなかったのだ。
しかし今はそれよりも、早く事件を解決させなければと気持ばかりが急く。未成年の街娘がこれ以上被害にあっては民の不安が募るばかり。ラインアーサは何から手をつければ良いのかを必死に考えた。
「……民の安全が最優先だ」
様々な思いを飲み込むとラインアーサは深い溜息をつく。明日朝一でライオネルに報告も兼ねて相談をしよう。
「ハリとジュリには悪い事をしたな。それも謝らないと……」
ラインアーサは熱めの湯に浸かりながら一日の疲れを解した。けれどもやはり最後には、あのスズランの縋る様な眼差しを思い出す。締め付けられる胸の痛みを誤魔化す様に自虐的に笑ってみる。
「はは、初恋は実らない、か。よかったじゃあないか……ああも嫌われれば諦めがつく」
喉の奥が張り付く。それを更に誤魔化そうと頭を左右に激しく振り立ち上がった。
「失恋の痛手にはやっぱり酒かな…。いや、やめておこう」
床に就くと酒に頼らずとも急激に睡魔がやってきて、ラインアーサはそのまま朝まで泥の様に眠った。
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