微睡みの車窓
文字数 8,152文字
「─── アーサ、こちらへおいで」
優しげな……しかし何処か愁いを帯びた低音でそう囁いたのはこの国 、シュサイラスア大国の国王・ライオネル。
アーサと呼ばれた人物。
ライオネルが息子・ラインアーサを愛情を込めて呼ぶときの愛称だ。
しかしラインアーサの足は動かなかった。目の前の光景を現実として受け止められずにその場に立ち竦んでいた。
「……アーサ。母様の最期 をきちんと看取ってあげなさい」
いつもに増して優しい筈のライオネルの声に、どうしてか怯えてしまう。それでも精一杯声を絞り出した。
「……いやだ」
「アーサ…?」
「母様が死ぬなんて信じない! そんなこと、あるわけないっ‼︎」
ラインアーサはそう声を荒げると部屋を飛び出した。
扉を出てすぐのところで、父王の側近・コルトにぶつかった。
「アーサ殿下っ⁉︎ どちらへ…」
「どいてくれっ…!」
(───嘘だ…! 母様が死ぬ……死ん、だ…? そんなことあるわけない、だってついさっきまで、笑ってたじゃあないか……!!)
狼狽するコルトを押し退け、ラインアーサはまるで逃げる様に廊下を駆け抜けた。
突き付けられた現実から逃げたい……。ラインアーサはとにかくその場から離れたかった。
─── 母・エテジアーナの部屋から。
途中、自身の足元を取られて思い切り地面に倒れ込んだ。口の端が切れ、血の独特な味が口の中に広がる。それでも構わず、すぐさま起き上がると無我夢中で走った。
気がつけば、城壁の横手にある庭まで来ていた。いつも無意識にここへ来てしまう。此処はラインアーサのお気に入りの場所。
庭のすぐ脇には湧き水を水源とする小川を挟み、王宮を囲む様に小さな森が広がっている。中でも大きな樹の上に秘密基地の様な物を作り、何かある度にそこへ息抜きをしに来ていた。しかし今日はその秘密基地に行く気力もなく小川の畔に座り込み項垂 れる。
「……何やってるんだろ、俺」
小川のせせらぎや、いつもと変わらぬ小鳥の囀 りを聞いていると、昂ぶった気持ちと上がった息が徐々に落ち着いてきた。陽の光が小川の流れに反射し煌めく。
ラインアーサは眩しくてその光から目を逸らす。
エテジアーナは元々身体が強くなかった。しかしその身を追い立てる様に、各国で内乱が起こったのだ。一見平和なこの世界で、何が原因で内乱など起こったのか。まだ少年のラインアーサには到底理解できなかった。
目の前で姉のイリアーナが人質として攫 われ、エテジアーナはそのことが元で虚脱状態となり、病に伏してしまった。依然としてイリアーナは行方不明のままだ。
ラインアーサは自分の力のなさを悔やんでいた。だからこそ必ず父の力になり、この手で姉を探し出してみせるという想いを胸に刻込んだ。
決意した様に空を仰ぐ。そして誰にも気付かれぬ様、手の甲で目尻を拭い立ち上がる。
「部屋に戻らないと……」
いつまでも母に心配をかけてしまう。
その時、突如背後から子供の泣き声がきこえてきた。
「うえぇぇん! ぱぱぁ!! どこぉ?」
迷子だろうか?
おそらく外の森から王宮の敷地内に迷い込んだのだろう。声の方へ振り向くと三、四歳程の幼い少女が泣きながら彷徨っている。簡素だがよく見ると上等な服は異国の物だろうか。この辺りでは見かけない薄い千草色 の髪に、抜ける様な白い肌。涙に濡れたその顔立ちは、はっとするほど可憐で……率直に言ってしまえば、美少女だ。
恐らく先の内乱で、他国から中立のこの国へと疎開してきたのだろう。身なりから推測するに、なかなか身分の高い家の者の様だ。早く保護して親を捜索しなければ。今の自分に出来る事はそれ位しかない。
ラインアーサは少女に駆け寄り、屈み込んで目線を合わせてやった。
「……えっと、君……どうしたの?」
務めて明るく声を掛けたつもりだったのだが、少女に思い切り怯えた顔をされてしまい複雑だ。
「……お、おにぃちゃん、だれなの?」
しかし驚いたのか、少女の涙は引っ込んだ。こちらを見つめ返すその大きな双眸には涙が溜まり、夕陽に照らされて淡く虹色に煌めいている。
───とても綺麗で、思わず見惚 れていた。
穏やかな風が二人の間を吹き抜けて、ラインアーサの髪をふわりとさらう。
気がつくと、少女はまた泣き出しそうになっていた。
「あ……ああ! 君、迷子だろ?」
「……」
取り敢えず場を繋ぐ様にそう問うと不安げにこくりと頷かれた。
「……俺の名前は、ラインアーサ」
慌てて己の名を名乗る。
「……らい、あー?」
「違うっ…! ラ イ ア じゃあなくて、ラインアーサ!」
ラインアーサは、自分の名前が言いづらいのかと少々気が立ってしまった。そもそも、周りや実の父にさえ真名 ではなく愛称で呼ばれている事に日頃から若干の違和感を覚えていたのだ。
ラインアーサと真の名で呼ばれる事は滅多にない。
強めに言い直した声色に驚いたのか、少女の眉が八の字に下がる。瞳が再び潤み今にも涙が零れ落ちそうだ。
「っふぇぇ……」
(ま、まずい、これは泣く!)
ここで再び泣かれるのも厄介だ。
「ああ、もうライア! ライアでいいよ。だから泣かないで? ほら!」
ラインアーサはなるべく優しい声でそう言うと、にっこりと笑顔を作って見せた。正直、母の事が気掛かりできちんと笑えているかわからなかったが、目の前の幼い少女を安心させようと半ば必死だった。
すると少女は恐る恐る顔を上げて、ラインアーサの顔をそろりと覗き込んできた。
「……?」(?? なんだ…?)
「……らいあ、おにいちゃん、、わらったおかお、とってもかわいい……きらきらのおひさまみたい」
「はぁ? 可愛い?! お日様?」
唐突にそんな事を言われ狼狽えていると、少女はラインアーサの顔に小さな手を伸ばしてきた。
「あ! ここ、ち、でてるよ……いたい? スゥがなおしてあげるね。だから、ライアおにいちゃんも、なかないで……」
少女は覚束無い手つきでラインアーサの口の端に触れた。
「なっ……?!!?」(ななな、なんなんだ!? それに俺は泣いてなんか、ない…っ)
ラインアーサはさっき迄の取り乱した自分の姿を見透かされた気がして、一気に頬が熱くなった。
「ライアおにいちゃん、おめめあかいもん。おけががいたいから、ないてたの? あのね。スゥのパパがね、こうするとすぐになおるって……いつもしてくれるんだよ」
少女の小さな頭がラインアーサの顔に重なり小さな水音が耳に届く。
「っっ!!!?」
口の端に温かく小さな唇の感触。
ピリッと電撃の様な刺激が走った。
同時にふわりと花の様なとても良い香りがする。
その瞬間。
ラインアーサの思考は停止した。
────今、何を……?
考えの纏まらない頭で必死に考える。今しがた出会ったばかりの、しかもまだ幼い少女に、唇を……奪われたのだ。やけに気恥ずかしい気持ちを打ち消す様に、ラインアーサは左右に激しく頭を振った。
(今の電気みたいな衝撃はなんだ…? まさか……)
「……君、名前はスゥって言うのか?」
何とか気を持ち直して、そう尋ねる。
「うん! スゥだよ! どぉ? ライアおにいちゃん、スゥのおまじないでいたいのなおった?」
まっすぐ見つめてくる瞳は涙が晴れても尚、淡い虹色を湛えていてとても美しい。
「あ、ああ…! 本当にもうぜんぜん痛くないよ、ありがとうスゥ!」
口の端に指先で触れると、その傷は本当に癒えていた。
(この子……癒しの術を使えるのか?)
「どういたしまして! あ、あのね。スゥ、パパをさがしてるの…」
少女はとても不安げにさみしそうな顔でラインアーサにそう打ち明けた。どうやら父親とはぐれたらしい。
気が付けば、夕陽はすっかり落ちて辺りも薄暗くなってきていた。早急に探さないとすぐ夜になってしまう。
ラインアーサは目の前に困っている人がいると放っておくことが出来ない性格である。その所為か、どうしても自身のことを後回しにしてしまう所があるのだが───。
間もなく夜になる。
とりあえずこの少女。スゥを先に王宮で保護してから親を探し出すのが望ましいか。そう判断し、ラインアーサは少女に手を差し伸ばした。
「よし。おいで、スゥ! 俺がパパを探してあげるよ」
「ほんと? ありがとう、ライアおにいちゃん!」
そう言いラインアーサの手を取るとスゥは笑顔を見せた。
───それはこちらまで嬉しくなる様な。
大輪の花がほころぶ様な……そんな愛らしい笑顔だった。
ラインアーサの胸がドキリと跳ねた。また頬が熱くなるのを誤魔化す様にスゥの手を引きながら空を見上げた。
「すぐに暗くなるから急ごう!」
ラインアーサが王宮の方へ足を踏み出すと、先程まで穏やかだった風が急にざわつき森の樹々が揺れた。
「───スズ!? やっと見つけた!!」
突如、森の中からラインアーサより少し幼いが気の強そうな少年が現れ、こちらまで駆けてくる。途端にスゥの表情が硬くなった。
「……セィシェル…っ…やだ、いかない!」
「なに言ってるんだよ、こんな危ない所に来て! 親父だって心配してるんだ。早く帰るぞ」
目の前まで来るとスゥの手を強引に引き早足で歩き出した。
「やだっ! スゥ、ライアおにいちゃんとパパさがすんだもん、かえらない!」
スゥはラインアーサの身体にしがみつき必死に首を横に振った。先程折角見せてくれた愛らしい笑顔はすっかり曇ってしまっている。
「あの、この子は嫌がってるように見えるけど……君はこの子の兄さん、なのか?」
二人を見比べる。さらりとした金色の髪と垂れた目元に少し生意気な印象を受ける。あまり似ていないと思いながらもそう疑問を投げかけた。
「は? 何だあんた。誰だよ、スズから離れろ! それに、関係のない奴に教える義理はないね」
少年の口の悪さにラインアーサは苛立ちを覚えた。しかしスゥをまた怖がらせたはくなかったので何とか流す。
「しかも此処は王宮の敷地内で勝手に侵入しちゃあいけないはずだぜ! 俺たちも早く此処から去らないと……ってあんたまさか、人攫 いか? 上手いこと言ってスズを攫おうとしてたんじゃ…」
だがこの言い草には流石に耐え切れず、完全に頭に血が上ってしまった。ラインアーサは少年を睨み付け、低い声で凄んだ。
「……お前、黙って聞いていれば。勝手にこっちを人攫い扱いか? 王宮の敷地内? そんな事は知っている」
「な、なんだよっ」
「───俺は…」
ラインアーサはセィシェルに自身の真名 を告げようとしていた。この少年が愚かでなければその意味を理解できた筈であろうが、スゥの消え入る様な声にその行為は引き留められてしまった。
「っごめんなさい、セィシェル……スゥ、ちゃんとかえる。だからライアおにいちゃんとけんかしちゃやだ…!」
「ふん……。おいあんた! ライアとか言ったな? まぁ人攫いにしちゃあ若すぎるし何者か知らないけど、勝手なことするなよ! スズは俺の家で引き取った子だ! ちゃんと親父もいるんだからな! ほら行くぞ、スズ」
相も変わらず偉そうな口調で話すセィシェルに苛々しながらも、スゥ……スズに視線を移す。
「……でも、セィシェルのパパはスゥのパパじゃないもん…! スゥのパパは、スゥがおりこうにしてたらおむかえにくるもん!」
涙を湛えながら必死に頑張るスズに心が痛んだ。
「もういい加減に諦めろよ! おまえの父親はおまえをおいて行ったんだぞ!! おまえは捨てられ…」
「っ…いい加減にするのはお前の方だろう」
ラインアーサはセィシェルの言葉を遮ると、スズの目の前に膝をついて視線を落とした。スズは俯き、必死に声を押し殺していた。ラインアーサはそんなスズの姿を目にすると息が苦しくなった。
「っ…ぱぱ、おむかえくるっていったもん……でも、ほんとうはスゥ、おいていかれたの? ママは、パパは……スゥのこといらないの?」
スズの綺麗な瞳からは次々と大粒の涙がこぼれ落ちる。せっかく涙が止まったのに……。
ラインアーサは思わずスズを抱きしめた。また、ふわりと花のような香りがする。
「……っそんな事ないよ! パパはきっとスゥのこと迎えに来てくれるって! スゥがお利口にしてたら迎えなんてすぐだ」
もう一度あの笑顔が見たくて、ラインアーサはスズを懸命に励ました。
「おい、勝手なこと言うなよ! そんな無責任なことを言って、もし来なかったら傷つくのはスズなんだぞ」
セィシェルが再び息巻いて声を上げた。どうやらその口振りからすると、スズがこれ以上傷付かない様に敢えて口を悪くしている様に思えた。だからと言って「お前は捨てられた」と言い聞かせることには賛同出来ない。
「スゥ……お利口にするなら泣いちゃ駄目だ。スゥがちゃんとお家に居なきゃ、パパが迎えに来てもわからなくなっちゃうだろ?」
ラインアーサはあやす様にスズの背中を優しく叩き、そう諭す。しゃくり上げながら、スズが縋 る様な瞳で見つめてくる。
「……ここにきたら、ライアお兄ちゃんに、またあえる…? いっしょに……パパを、さがして、くれる?」
「うん、毎日ここで待ってるよ。……ほら、涙が止まるおまじない…」
そう告げて、ラインアーサはスズの瞼 に口づけをした。
横でセィシェルが何か喚 いているが聞こえない。スズがまたあの笑顔を見せてくれたことで、ラインアーサの胸は一杯になった。
───
──────
「……ラ…ア! …ライア!!」
───やけに身体が揺れる。
規則的な音と揺れがラインアーサを微睡 みの世界へと誘 い閉じ込めようとする。
「ライア!! そろそろ起きてください」
しかし、今度は耳元で大声を上げられ流石に現実の世界へ引き戻された。ぼやけた目をこすり、周囲を確認すると呆れ顔を浮かべた人物が視界に入ってくる。
「そろそろ起きてください、間もなく国境ですよ」
まったく。と小さく溜息が聞こえてきて少々申し訳ない気持ちになる。
「……ん、悪い。すっかり寝てたみたいだ」
ラインアーサは目の前の人物。
───ハリに謝罪しながら、凭 れていた座席から身を起こして大きく伸びをした。
より落ち着き払った雰囲気を纏うハリ。
深い榛摺 色の髪に、切れ長で闇夜の様な漆黒の瞳がより彼を落ち着いた雰囲気にさせている。歳はラインアーサより三つ上で何時も冷静に物事を判断するハリだが、余り表情に色がないのは彼が孤児であるせいだろうか。
十一年前───。
内乱が収束しても尚混乱が続く中、酷く負傷して旧市街の路傍 に倒れていたのがハリだ。それをラインアーサが発見し手当てをし、王宮にて保護をした。以来ラインアーサの側近としての役割を果たしてくれている。
「魘 されてましたよ、少し」
「ああ……夢をみてた。たまに見るんだ、母上が死んだ日の夢」
ラインアーサは車窓を眺めながら呟いた。
広大な大地を、二人を乗せた列車 が颯爽と走り抜けてゆく。
「……ちょうど、その頃ですね。私がライアと出会ったのも」
「あの時俺は十二だったから、もう十一年経ってるんだな。でも、やっとだ。やっと願いが叶う」
ラインアーサは瑠璃色 の瞳を細め、屈託のない笑顔をハリに見せた。誰に対しても明るく心優しい性格に、人好きのする整った容姿は周囲を男女関係なく惹きつける。そう評されることの多いラインアーサから受ける印象は、ハリと真逆と言っても良いかもしれない。焦がし砂糖を垂らした様な色合いで、少し癖のあるその髪を後ろで小さく結わえている。
「陛下の喜ぶ顔がたのしみですね」
「そうだな! 父上の事だから大騒ぎして国を挙げてのお祭り騒ぎになるかもな」
「確かに……陛下ならあり得ますね。しかし、今回の旅は流石に草臥 れました」
そう言うとハリはラインアーサの隣に座りお茶の用意を始めた。
ラインアーサは冗談のつもりだったが、父の性格をあっさり肯定されてしまい苦笑する。
「はは。まあでもおかげで無事に大成を遂げられそうだ。ハリ、お前には感謝してもし切れないよ。ありがとう」
「いえ。この五年間ライアが健闘した結果ですから、私は何も……」
「なんだよ、本当にそう思ってるんだから素直に喜べって! まあ、あとはお前の家族が見つかれば俺はもっと嬉しいんだけどな。せめて記憶だけでも戻れば……」
ハリは内乱以前の記憶が曖昧だ。自分の名と双子の姉がいた事は辛うじて覚えているらしいが家族が何処にいるか、自分が何処から来たのかさえ覚えていない。いわゆる記憶喪失なのだ。
ハリの容姿からすると、北の果ての地に君臨しているルゥアンダ帝国の人種に特徴が一致する。しかしながらルゥアンダ帝国は内乱後、今現在も鎖国状態が続いており詳細な調査は出来ないままでいた。
「……私は別に。生涯シュイラスアに身を置いても構いませんよ。私こそ、陛下とライアに恩儀を尽くすまでです」
抑揚 の無い声でそう話すハリの顔は無表情に近い。
「……」
ラインアーサは親指の先を顎にあて、少し首を傾げた。そして一片の隙もなく、真面目過ぎる態度を崩さないハリの背中を思い切り叩いた。淡々とお茶を飲んでいたハリが盛大に噴き出す。
「っな!? 何するんですか!! 貴方は時折意味のわからない事をしますよね」
少し怒った様な口調でハリは一旦お茶の入ったカップを窓際の台に置き、零して汚してしまった場所を掃除しだす。
「いや、だってお前があんまり元気ないから眠いのかと思って」
ラインアーサは小さく口角を上げにやりと笑う。
「眠いのは貴方の方でしょう? 先程まで寝ていたじゃあないですか」
「まあ、そうだけど。ハリはさ、もっと感情を表に出してもいいと思うよ。溜め込みすぎると疲れるって」
「……はあ、それは誰かさんのおかげで余計疲れるという事です?」
ハリの鋭い目線がラインアーサに突き刺さるが、それを難なく躱し軽い調子で続けた。
「それはそうと、ハリだって家族が見つかれば会いたいって思うだろ?」
「……まあ。それはそうですね」
そう答えたハリにラインアーサは満足して頷いた。
「さてと。じゃあ俺、ちょっと隣の様子を見てくるよ」
ラインアーサは席を立ち個室の扉に手をかけたが、ふと思い出したことを呟いた。
「そういえばさ、さっき見てた夢の話しなんだけど。母上が死んだ日に俺、一人の小さな女の子と出会ったんだ」
「それがどうかしましたか?」
ハリは無表情のままラインアーサを見上げる。
「あの日、俺は母上の死を受け入れることが出来なくて一人で落ち込んでたんだけど。その子のおかげで前に進む事が出来たんだよ。……とても大切な物を貰ったから」
「何を、です?」
「───笑顔。その子は俺に笑顔の大切さと、〝ライア〟って言う呼び名をくれたんだ……気に入ってる。だから非公式の時には大抵そう名乗る事にしてるんだ」
今でも〝それ〟を思い出すとラインアーサの心は温かくなる様に感じた。
「……意外ですね。ライアは歳上好みなのだとばかり。初恋の相手は歳下の女の子でしたか」
「おい! どうしてそうなるんだ? 俺はただ、お前の感情の起伏が薄いから笑顔の大切さを教えようと……何だよ初恋って…」
「顔、赤いですよ」
「赤くないって!」
そう茶化されて、一気に顔が熱くなる。ラインアーサは少し乱暴に扉を開けて通路に出ると、荒々しく個室を出て行った。
「先程のお返しですよ」
密やかにそう呟くハリの口元は僅かに緩んでいた。
「まったく! ハリのやつ、今日はやけに饒舌 だな」
ラインアーサは通路の窓を開けると、勢い良く入ってくる少し冷たい風を思い切り吸い込んだ。
───初恋。
そう思ったことなど一度もなかったが、意識してみると案外そうなのかもしれないとも思った。
線路を走る列車 の規則的な音と不規則な揺れ。ラインアーサは飛んでゆく景色を眺めがら、心を落ち着かせた。そして、通路の最奥にある〝特別室 〟の扉を軽く叩く。
扉がほんの少し開き、中から強靭 な体つきをした護衛が現れる。ラインアーサは小声でその男に声をかけた。
「ご苦労様。少し中に入れてもらってもいい?」
「ええ。勿論です。どうぞ、お入りください」
男は一礼し、ラインアーサを中へと招き入れた。
───
──────
優しげな……しかし何処か愁いを帯びた低音でそう囁いたのはこの国 、シュサイラスア大国の国王・ライオネル。
アーサと呼ばれた人物。
ライオネルが息子・ラインアーサを愛情を込めて呼ぶときの愛称だ。
しかしラインアーサの足は動かなかった。目の前の光景を現実として受け止められずにその場に立ち竦んでいた。
「……アーサ。母様の
いつもに増して優しい筈のライオネルの声に、どうしてか怯えてしまう。それでも精一杯声を絞り出した。
「……いやだ」
「アーサ…?」
「母様が死ぬなんて信じない! そんなこと、あるわけないっ‼︎」
ラインアーサはそう声を荒げると部屋を飛び出した。
扉を出てすぐのところで、父王の側近・コルトにぶつかった。
「アーサ殿下っ⁉︎ どちらへ…」
「どいてくれっ…!」
(───嘘だ…! 母様が死ぬ……死ん、だ…? そんなことあるわけない、だってついさっきまで、笑ってたじゃあないか……!!)
狼狽するコルトを押し退け、ラインアーサはまるで逃げる様に廊下を駆け抜けた。
突き付けられた現実から逃げたい……。ラインアーサはとにかくその場から離れたかった。
─── 母・エテジアーナの部屋から。
途中、自身の足元を取られて思い切り地面に倒れ込んだ。口の端が切れ、血の独特な味が口の中に広がる。それでも構わず、すぐさま起き上がると無我夢中で走った。
気がつけば、城壁の横手にある庭まで来ていた。いつも無意識にここへ来てしまう。此処はラインアーサのお気に入りの場所。
庭のすぐ脇には湧き水を水源とする小川を挟み、王宮を囲む様に小さな森が広がっている。中でも大きな樹の上に秘密基地の様な物を作り、何かある度にそこへ息抜きをしに来ていた。しかし今日はその秘密基地に行く気力もなく小川の畔に座り込み
「……何やってるんだろ、俺」
小川のせせらぎや、いつもと変わらぬ小鳥の
ラインアーサは眩しくてその光から目を逸らす。
エテジアーナは元々身体が強くなかった。しかしその身を追い立てる様に、各国で内乱が起こったのだ。一見平和なこの世界で、何が原因で内乱など起こったのか。まだ少年のラインアーサには到底理解できなかった。
目の前で姉のイリアーナが人質として
ラインアーサは自分の力のなさを悔やんでいた。だからこそ必ず父の力になり、この手で姉を探し出してみせるという想いを胸に刻込んだ。
決意した様に空を仰ぐ。そして誰にも気付かれぬ様、手の甲で目尻を拭い立ち上がる。
「部屋に戻らないと……」
いつまでも母に心配をかけてしまう。
その時、突如背後から子供の泣き声がきこえてきた。
「うえぇぇん! ぱぱぁ!! どこぉ?」
迷子だろうか?
おそらく外の森から王宮の敷地内に迷い込んだのだろう。声の方へ振り向くと三、四歳程の幼い少女が泣きながら彷徨っている。簡素だがよく見ると上等な服は異国の物だろうか。この辺りでは見かけない薄い
恐らく先の内乱で、他国から中立のこの国へと疎開してきたのだろう。身なりから推測するに、なかなか身分の高い家の者の様だ。早く保護して親を捜索しなければ。今の自分に出来る事はそれ位しかない。
ラインアーサは少女に駆け寄り、屈み込んで目線を合わせてやった。
「……えっと、君……どうしたの?」
務めて明るく声を掛けたつもりだったのだが、少女に思い切り怯えた顔をされてしまい複雑だ。
「……お、おにぃちゃん、だれなの?」
しかし驚いたのか、少女の涙は引っ込んだ。こちらを見つめ返すその大きな双眸には涙が溜まり、夕陽に照らされて淡く虹色に煌めいている。
───とても綺麗で、思わず
穏やかな風が二人の間を吹き抜けて、ラインアーサの髪をふわりとさらう。
気がつくと、少女はまた泣き出しそうになっていた。
「あ……ああ! 君、迷子だろ?」
「……」
取り敢えず場を繋ぐ様にそう問うと不安げにこくりと頷かれた。
「……俺の名前は、ラインアーサ」
慌てて己の名を名乗る。
「……らい、あー?」
「違うっ…! ラ イ ア じゃあなくて、ラインアーサ!」
ラインアーサは、自分の名前が言いづらいのかと少々気が立ってしまった。そもそも、周りや実の父にさえ
ラインアーサと真の名で呼ばれる事は滅多にない。
強めに言い直した声色に驚いたのか、少女の眉が八の字に下がる。瞳が再び潤み今にも涙が零れ落ちそうだ。
「っふぇぇ……」
(ま、まずい、これは泣く!)
ここで再び泣かれるのも厄介だ。
「ああ、もうライア! ライアでいいよ。だから泣かないで? ほら!」
ラインアーサはなるべく優しい声でそう言うと、にっこりと笑顔を作って見せた。正直、母の事が気掛かりできちんと笑えているかわからなかったが、目の前の幼い少女を安心させようと半ば必死だった。
すると少女は恐る恐る顔を上げて、ラインアーサの顔をそろりと覗き込んできた。
「……?」(?? なんだ…?)
「……らいあ、おにいちゃん、、わらったおかお、とってもかわいい……きらきらのおひさまみたい」
「はぁ? 可愛い?! お日様?」
唐突にそんな事を言われ狼狽えていると、少女はラインアーサの顔に小さな手を伸ばしてきた。
「あ! ここ、ち、でてるよ……いたい? スゥがなおしてあげるね。だから、ライアおにいちゃんも、なかないで……」
少女は覚束無い手つきでラインアーサの口の端に触れた。
「なっ……?!!?」(ななな、なんなんだ!? それに俺は泣いてなんか、ない…っ)
ラインアーサはさっき迄の取り乱した自分の姿を見透かされた気がして、一気に頬が熱くなった。
「ライアおにいちゃん、おめめあかいもん。おけががいたいから、ないてたの? あのね。スゥのパパがね、こうするとすぐになおるって……いつもしてくれるんだよ」
少女の小さな頭がラインアーサの顔に重なり小さな水音が耳に届く。
「っっ!!!?」
口の端に温かく小さな唇の感触。
ピリッと電撃の様な刺激が走った。
同時にふわりと花の様なとても良い香りがする。
その瞬間。
ラインアーサの思考は停止した。
────今、何を……?
考えの纏まらない頭で必死に考える。今しがた出会ったばかりの、しかもまだ幼い少女に、唇を……奪われたのだ。やけに気恥ずかしい気持ちを打ち消す様に、ラインアーサは左右に激しく頭を振った。
(今の電気みたいな衝撃はなんだ…? まさか……)
「……君、名前はスゥって言うのか?」
何とか気を持ち直して、そう尋ねる。
「うん! スゥだよ! どぉ? ライアおにいちゃん、スゥのおまじないでいたいのなおった?」
まっすぐ見つめてくる瞳は涙が晴れても尚、淡い虹色を湛えていてとても美しい。
「あ、ああ…! 本当にもうぜんぜん痛くないよ、ありがとうスゥ!」
口の端に指先で触れると、その傷は本当に癒えていた。
(この子……癒しの術を使えるのか?)
「どういたしまして! あ、あのね。スゥ、パパをさがしてるの…」
少女はとても不安げにさみしそうな顔でラインアーサにそう打ち明けた。どうやら父親とはぐれたらしい。
気が付けば、夕陽はすっかり落ちて辺りも薄暗くなってきていた。早急に探さないとすぐ夜になってしまう。
ラインアーサは目の前に困っている人がいると放っておくことが出来ない性格である。その所為か、どうしても自身のことを後回しにしてしまう所があるのだが───。
間もなく夜になる。
とりあえずこの少女。スゥを先に王宮で保護してから親を探し出すのが望ましいか。そう判断し、ラインアーサは少女に手を差し伸ばした。
「よし。おいで、スゥ! 俺がパパを探してあげるよ」
「ほんと? ありがとう、ライアおにいちゃん!」
そう言いラインアーサの手を取るとスゥは笑顔を見せた。
───それはこちらまで嬉しくなる様な。
大輪の花がほころぶ様な……そんな愛らしい笑顔だった。
ラインアーサの胸がドキリと跳ねた。また頬が熱くなるのを誤魔化す様にスゥの手を引きながら空を見上げた。
「すぐに暗くなるから急ごう!」
ラインアーサが王宮の方へ足を踏み出すと、先程まで穏やかだった風が急にざわつき森の樹々が揺れた。
「───スズ!? やっと見つけた!!」
突如、森の中からラインアーサより少し幼いが気の強そうな少年が現れ、こちらまで駆けてくる。途端にスゥの表情が硬くなった。
「……セィシェル…っ…やだ、いかない!」
「なに言ってるんだよ、こんな危ない所に来て! 親父だって心配してるんだ。早く帰るぞ」
目の前まで来るとスゥの手を強引に引き早足で歩き出した。
「やだっ! スゥ、ライアおにいちゃんとパパさがすんだもん、かえらない!」
スゥはラインアーサの身体にしがみつき必死に首を横に振った。先程折角見せてくれた愛らしい笑顔はすっかり曇ってしまっている。
「あの、この子は嫌がってるように見えるけど……君はこの子の兄さん、なのか?」
二人を見比べる。さらりとした金色の髪と垂れた目元に少し生意気な印象を受ける。あまり似ていないと思いながらもそう疑問を投げかけた。
「は? 何だあんた。誰だよ、スズから離れろ! それに、関係のない奴に教える義理はないね」
少年の口の悪さにラインアーサは苛立ちを覚えた。しかしスゥをまた怖がらせたはくなかったので何とか流す。
「しかも此処は王宮の敷地内で勝手に侵入しちゃあいけないはずだぜ! 俺たちも早く此処から去らないと……ってあんたまさか、
だがこの言い草には流石に耐え切れず、完全に頭に血が上ってしまった。ラインアーサは少年を睨み付け、低い声で凄んだ。
「……お前、黙って聞いていれば。勝手にこっちを人攫い扱いか? 王宮の敷地内? そんな事は知っている」
「な、なんだよっ」
「───俺は…」
ラインアーサはセィシェルに自身の
「っごめんなさい、セィシェル……スゥ、ちゃんとかえる。だからライアおにいちゃんとけんかしちゃやだ…!」
「ふん……。おいあんた! ライアとか言ったな? まぁ人攫いにしちゃあ若すぎるし何者か知らないけど、勝手なことするなよ! スズは俺の家で引き取った子だ! ちゃんと親父もいるんだからな! ほら行くぞ、スズ」
相も変わらず偉そうな口調で話すセィシェルに苛々しながらも、スゥ……スズに視線を移す。
「……でも、セィシェルのパパはスゥのパパじゃないもん…! スゥのパパは、スゥがおりこうにしてたらおむかえにくるもん!」
涙を湛えながら必死に頑張るスズに心が痛んだ。
「もういい加減に諦めろよ! おまえの父親はおまえをおいて行ったんだぞ!! おまえは捨てられ…」
「っ…いい加減にするのはお前の方だろう」
ラインアーサはセィシェルの言葉を遮ると、スズの目の前に膝をついて視線を落とした。スズは俯き、必死に声を押し殺していた。ラインアーサはそんなスズの姿を目にすると息が苦しくなった。
「っ…ぱぱ、おむかえくるっていったもん……でも、ほんとうはスゥ、おいていかれたの? ママは、パパは……スゥのこといらないの?」
スズの綺麗な瞳からは次々と大粒の涙がこぼれ落ちる。せっかく涙が止まったのに……。
ラインアーサは思わずスズを抱きしめた。また、ふわりと花のような香りがする。
「……っそんな事ないよ! パパはきっとスゥのこと迎えに来てくれるって! スゥがお利口にしてたら迎えなんてすぐだ」
もう一度あの笑顔が見たくて、ラインアーサはスズを懸命に励ました。
「おい、勝手なこと言うなよ! そんな無責任なことを言って、もし来なかったら傷つくのはスズなんだぞ」
セィシェルが再び息巻いて声を上げた。どうやらその口振りからすると、スズがこれ以上傷付かない様に敢えて口を悪くしている様に思えた。だからと言って「お前は捨てられた」と言い聞かせることには賛同出来ない。
「スゥ……お利口にするなら泣いちゃ駄目だ。スゥがちゃんとお家に居なきゃ、パパが迎えに来てもわからなくなっちゃうだろ?」
ラインアーサはあやす様にスズの背中を優しく叩き、そう諭す。しゃくり上げながら、スズが
「……ここにきたら、ライアお兄ちゃんに、またあえる…? いっしょに……パパを、さがして、くれる?」
「うん、毎日ここで待ってるよ。……ほら、涙が止まるおまじない…」
そう告げて、ラインアーサはスズの
横でセィシェルが何か
───
──────
「……ラ…ア! …ライア!!」
───やけに身体が揺れる。
規則的な音と揺れがラインアーサを
「ライア!! そろそろ起きてください」
しかし、今度は耳元で大声を上げられ流石に現実の世界へ引き戻された。ぼやけた目をこすり、周囲を確認すると呆れ顔を浮かべた人物が視界に入ってくる。
「そろそろ起きてください、間もなく国境ですよ」
まったく。と小さく溜息が聞こえてきて少々申し訳ない気持ちになる。
「……ん、悪い。すっかり寝てたみたいだ」
ラインアーサは目の前の人物。
───ハリに謝罪しながら、
より落ち着き払った雰囲気を纏うハリ。
深い
十一年前───。
内乱が収束しても尚混乱が続く中、酷く負傷して旧市街の
「
「ああ……夢をみてた。たまに見るんだ、母上が死んだ日の夢」
ラインアーサは車窓を眺めながら呟いた。
広大な大地を、二人を乗せた
「……ちょうど、その頃ですね。私がライアと出会ったのも」
「あの時俺は十二だったから、もう十一年経ってるんだな。でも、やっとだ。やっと願いが叶う」
ラインアーサは
「陛下の喜ぶ顔がたのしみですね」
「そうだな! 父上の事だから大騒ぎして国を挙げてのお祭り騒ぎになるかもな」
「確かに……陛下ならあり得ますね。しかし、今回の旅は流石に
そう言うとハリはラインアーサの隣に座りお茶の用意を始めた。
ラインアーサは冗談のつもりだったが、父の性格をあっさり肯定されてしまい苦笑する。
「はは。まあでもおかげで無事に大成を遂げられそうだ。ハリ、お前には感謝してもし切れないよ。ありがとう」
「いえ。この五年間ライアが健闘した結果ですから、私は何も……」
「なんだよ、本当にそう思ってるんだから素直に喜べって! まあ、あとはお前の家族が見つかれば俺はもっと嬉しいんだけどな。せめて記憶だけでも戻れば……」
ハリは内乱以前の記憶が曖昧だ。自分の名と双子の姉がいた事は辛うじて覚えているらしいが家族が何処にいるか、自分が何処から来たのかさえ覚えていない。いわゆる記憶喪失なのだ。
ハリの容姿からすると、北の果ての地に君臨しているルゥアンダ帝国の人種に特徴が一致する。しかしながらルゥアンダ帝国は内乱後、今現在も鎖国状態が続いており詳細な調査は出来ないままでいた。
「……私は別に。生涯シュイラスアに身を置いても構いませんよ。私こそ、陛下とライアに恩儀を尽くすまでです」
「……」
ラインアーサは親指の先を顎にあて、少し首を傾げた。そして一片の隙もなく、真面目過ぎる態度を崩さないハリの背中を思い切り叩いた。淡々とお茶を飲んでいたハリが盛大に噴き出す。
「っな!? 何するんですか!! 貴方は時折意味のわからない事をしますよね」
少し怒った様な口調でハリは一旦お茶の入ったカップを窓際の台に置き、零して汚してしまった場所を掃除しだす。
「いや、だってお前があんまり元気ないから眠いのかと思って」
ラインアーサは小さく口角を上げにやりと笑う。
「眠いのは貴方の方でしょう? 先程まで寝ていたじゃあないですか」
「まあ、そうだけど。ハリはさ、もっと感情を表に出してもいいと思うよ。溜め込みすぎると疲れるって」
「……はあ、それは誰かさんのおかげで余計疲れるという事です?」
ハリの鋭い目線がラインアーサに突き刺さるが、それを難なく躱し軽い調子で続けた。
「それはそうと、ハリだって家族が見つかれば会いたいって思うだろ?」
「……まあ。それはそうですね」
そう答えたハリにラインアーサは満足して頷いた。
「さてと。じゃあ俺、ちょっと隣の様子を見てくるよ」
ラインアーサは席を立ち個室の扉に手をかけたが、ふと思い出したことを呟いた。
「そういえばさ、さっき見てた夢の話しなんだけど。母上が死んだ日に俺、一人の小さな女の子と出会ったんだ」
「それがどうかしましたか?」
ハリは無表情のままラインアーサを見上げる。
「あの日、俺は母上の死を受け入れることが出来なくて一人で落ち込んでたんだけど。その子のおかげで前に進む事が出来たんだよ。……とても大切な物を貰ったから」
「何を、です?」
「───笑顔。その子は俺に笑顔の大切さと、〝ライア〟って言う呼び名をくれたんだ……気に入ってる。だから非公式の時には大抵そう名乗る事にしてるんだ」
今でも〝それ〟を思い出すとラインアーサの心は温かくなる様に感じた。
「……意外ですね。ライアは歳上好みなのだとばかり。初恋の相手は歳下の女の子でしたか」
「おい! どうしてそうなるんだ? 俺はただ、お前の感情の起伏が薄いから笑顔の大切さを教えようと……何だよ初恋って…」
「顔、赤いですよ」
「赤くないって!」
そう茶化されて、一気に顔が熱くなる。ラインアーサは少し乱暴に扉を開けて通路に出ると、荒々しく個室を出て行った。
「先程のお返しですよ」
密やかにそう呟くハリの口元は僅かに緩んでいた。
「まったく! ハリのやつ、今日はやけに
ラインアーサは通路の窓を開けると、勢い良く入ってくる少し冷たい風を思い切り吸い込んだ。
───初恋。
そう思ったことなど一度もなかったが、意識してみると案外そうなのかもしれないとも思った。
線路を走る
扉がほんの少し開き、中から
「ご苦労様。少し中に入れてもらってもいい?」
「ええ。勿論です。どうぞ、お入りください」
男は一礼し、ラインアーサを中へと招き入れた。
───
──────