風に馳せる想い
文字数 10,164文字
王宮へ戻ると応接間からジュリアンの明るい声が漏れ聞こえてくる。ラインアーサは扉を軽く叩いて応接間へ顔を覗かせた。
「ずいぶんと賑やかだな……何の話でそんなに盛り上がってるんだ?」
ラインアーサの声にその場に居た顔触れの視線が集まる。ジュリアンにリーナ、イリアーナが三人でお茶を楽しんでいる所の様だ。
「お、アーサ! もう戻ったのか? 俺はてっきりあのままスズランちゃんとお楽しみなのかと…」
「っな……一体何の話してるんだよ!!」
にやつくジュリアンにラインアーサは顔を顰めたが、イリアーナは関心と期待を込めた眼差しで見上げてくる。
「アーサ、本当なの? 好いている人が居るのならわたしにもちゃんと紹介して頂戴ね?」
「姉上まで…!」
やはりジュリアンをあのままにして置いてきたのは間違いだった。ラインアーサは後悔の溜息を漏らす。すると横から懐かしい声が聞こえ、そちらへ向き直ると可憐な女性が目に入った。
「アーサ様、お久しぶりです。この度、イリア様の正式な侍女としてお仕事を頂ける事になりました。今後ともよろしくお願いいたします」
「リーナ! こちらこそ、姉上の事を頼むよ」
腰を落として恭 しく頭を垂れるリーナ。
兄のジュリアンと良く似た容姿で、焦茶で癖のある髪と明るい緑の瞳。いつも笑顔が絶えない娘なのだが、目の前のリーナは少し元気の無い表情をしていた。幼い頃からラインアーサを兄の様に慕っており、七つの時にイリアーナ専属の侍女見習いとして宮中へ上がった。
イリアーナが行方不明になった時は、彼女もとても心を痛めていた。
「はい! こうしてまたイリア様に仕える日が来ればと、これまでおじい様に色々な術の使い方を指南 して頂きました。今後はイリア様の護衛だって任せてください!」
「それは頼もしいよ。いや、それにしても久しぶりだよな。見ない間リーナもだいぶ大人っぽくなったんだな! 最後に会ったのはリーナが十六の時だったかな」
「そ、そんなっ! アーサ様こそなんだかますます……その、逞 しくなったというか…」
「そうかな?」
リーナが頬を赤く染めて俯いた。その様子に何故かイリアーナが嬉しそうにお節介を焼く。
「あらあら、あなた達って案外お似合いじゃあないかしら?」
「イ、イリア様!? 何を仰るのです! あたしはそんなっ!!」
リーナはますます顔を赤く染めて焦り出す。そこへジュリアンが思い出したかの様に、可愛らしく包装された紙の袋を取り出した。
「あ! そうだ。リーナに土産があるんだった。開けて見ろよ」
「お土産?」
ジュリアンに袋を手渡され早速包装を解くと、小降りの鉢植えが出てくる。植えられている花は色とりどりの三色菫 だった。ジュリアンがリーナの印象に合わせて選んだ花だ。
「わあ……綺麗! ありがとう、お兄ちゃん」
「その花、アーサと選んだんだぜ」
何故か突然ジュリアンがそんな事を言い出す。実際には、ラインアーサは花選びをしていないのだが。
「え! アーサ様も選んでくれたんですか? 嬉しい! 大切にしますね!!」
訂正しようにも、リーナの笑顔が全開になってしまい出来なかった。
「どういうつもりだよ、ジュリ」
「いや? ただ俺も今のところ、リーナを任せられるのはお前しか居ないと思ってるんだが」
「突然何言って…」
「そっ、そうよ! お兄ちゃんの馬鹿!! 勝手な事言わないで! ……アーサ様、すみません。あたしお茶の追加の準備をして来るので失礼します」
リーナは恥ずかしそうに俯き、鉢植えを抱えたまま応接間から足早に出て行った。
その後、ラインアーサはイリアーナからの質問責めに遭っていた。スズランの事やリーナの事について散々尋ねられ、それを何とかぼかして答えているうちにどんどん時が過ぎて行った。
確かにリーナに対する愛情はある。しかし幼い頃から一緒に育った事もあり、もはや本当の妹の様に思っている。彼女が何か困っているのなら手助けするのはもちろん、いつだって力になってやりたい。
だがスズランは違う。想い浮かべるだけで全身が沸き立つ様な感覚に陥る。その姿を目の前にすると冷静な判断が出来ず余裕がなくなり、正直自分でも格好悪いと思う。
思い出しては胸が苦 しくなる。あれ以上嫌われたくなかった筈なのに、また無理矢理に口づけをしてしまった。しかし始めは抵抗を見せるものの、ラインアーサに対する怯えの様なものは感じられず次第に甘くとろけてゆくスズランの唇。
だから勘違いしそうになってしまう。そんな都合の良い自身の思考に呆れ、自己嫌悪に陥った。
寝室の出窓からあの森を見下ろす。
森の樹々がざわつくのは何故だろう。ラインアーサは森から目を逸らす様に垂れ絹 を降ろして固く瞳を綴 じた。
翌朝。
ジュリアンは王宮内の自宅に泊まったらしく、朝一番で挨拶しにやってきた。朝から羨ましい程無駄に元気の良いジュリアンとは正反対のラインアーサ。起き抜けの冴えない思考力のままライオネルの元に赴き、ジュリアンの助言も借りつつ〝旧市街の粗暴者達が及ぼす被害を懸念し、彼らを駆逐せざるを得ない〟とライオネルに報告した。
既に昨日ハリから大まかな報告は受けていたライオネル。微かに眉間に皺を寄せたのはより詳細な情報に思う所があってなのか。
「───未だ無法者が蔓延 って居ることは以前から定期的に報告を受け、分かってはいたものの…。最近はより頻繁になって来ている様だね」
「……父上。昨日も都の善良な民が被害に遭っている。俺は一度、旧市街に降りて実質的な被害がどの程度のものなのか調べに行くつもりだ」
ラインアーサが自身の思案を述べると、ライオネルは小さく肩を竦め諦めた様に小さく息を吐いた。
「……その際は一人で行動せず、ジュリ君にも同行してもらいなさい。どうせアーサは止めても聞かないのだろう?」
「大丈夫だよ、ハリだって居るんだし。だけど男三人で行動するのは妙に目立つと言うか…」
「しかしアーサ。父様は心配なのだよ? ……ジュリ君、うちの向こう見ずで頑固者な息子をどうか頼んだよ」
「もちろんです! 承知致しました陛下!」
ライオネルの心配性はラインアーサがいくつになっても治らないだろう。イリアーナの捜索に国を出る時にも、長い時間をかけてライオネルを説得したものだ。定期的に連絡を入れること、年に数回は必ず顔を見せに帰国すること、その他にも幾つかの条件付きで成人と同時にラインアーサは国を出た。
思えば内乱後───。
ライオネルは妻 エテジアーナに先立たれ、娘のイリアーナは人質に囚われたまま行方不明という状況で国が傾かないよう国事を怠らず奮励 してきた。残された最愛の息子が危険な目に合わないか、気が気でない日々をこの四年間過ごして来たのだろう。その事についてはラインアーサも重々理解してはいるのだが。
「まったく! 父上は心配性が過ぎるよ…」
「そうか〜? 陛下は本当に良い父親だと思うぜ! 俺の親父なんて年に数度しか会えないからな」
午後一番で警備隊の訓練場へ戻るというジュリアンを見送る為、ラインアーサは王宮の門口まで出て来ていた。溜息と共にこぼした小さな愚痴を窘めるジュリアンの言葉に、ふと彼の父親の顔を思い浮かべた。
「グレィスは国境警備隊の隊長だもんな。なかなか帰って来られないのは国の為とは言え、気が咎めるよ」
「いいんだ。そんな親父だけど尊敬してる。でも俺はリーナや母さんを近くで守る為に、王宮警備隊に着きたいんだ! 仕えるのはもちろんお前だけどな、アーサ殿下」
真面目に語った事が気恥ずかしいのか語尾を茶化すジュリアン。
「ジュリ…。昨日はリーナやサリーと、家族水入らずで過ごせたみたいだな」
少々感傷的な雰囲気に浸ってそう返したのだが、少し先を歩いていたジュリアンはふと我に返った様にくるりとこちらを振り向いた。
「……ああ。何故かジュストじい様と母さんに俺の夜遊びがバレててさ、それはもう大目玉を食らったぜ! リーナにまで変な目で見られるし!! アーサ、まさかお前がバラしたんじゃないよな?」
ジュリアンが疑いの眼差しでこちらを見つめてくる。
「はあ!? 違うって! そんな事するわけないだろ。ジュリの自業自得だ。それにジュストベルの目は誤魔化せないからな」
「確かに。そうか、今後はもっと上手くやらないと駄目だな」
案外素直に引き下がったかと思うと、そう呟いたジュリアンに流石のラインアーサも呆れる。
「そう言えばさ、アーサ。お前さえよかったら……リーナとの事、本気で考えてみてくれよ。あいつ、お前の事を小さい頃からずっと慕ってるって言うかさ。兄としてもお前とそうなってくれたら嬉しいって言うか…」
ジュリアンが言わんとしている事は解る。ラインアーサ自身も、一時は同じことを考えた事があった。しかしいくら思い直そうとしても、やはりリーナには家族以上の感情が持てなかったのだ。
ラインアーサは国を出てからも、自分の求める条件に見合う女性を密かに探していた。身分や地位で人を差別することなく、人の上に立つという立場でも公平かつ冷静な判断が出来る女性。それを家族の様に思っているリーナに求めるのは何か違う気がする。必然的に自分よりも年上の女性に目を向けていたのだが、なかなか見つからないものだ。
「……」
「どうした? さっきから黙りこくって。ふふふ……やっぱりな!」
「な、何だよ…」
「わかってるさ、お前はあのスズランって子が気になるんだろ?」
唐突にスズランの名が出て来てラインアーサはあからさまに狼狽 えた。
「なっ、何言ってるんだよ! あんなのまだお子様じゃあないか! 昨日たまたま送ったってだけで全然そんなじゃあないからな?」
「またまた〜! お前がそんなにムキになる所見たことないぜ? なんで隠すんだよ、さては初恋か?」
ほぼ図星だが、黙っていた。ばれたらジュリアンに笑い飛ばされてしまう。
「いいから早く訓練場に帰れよジュリ…!」
「だってよ、まだ午後の号令まで時間が余ってるんだ。その辺ぶらつこうぜ!」
そう言いながらジュリアンは王宮の正門から横庭の方へと入って行ってしまった。
「おおー! 懐かしいな此処。良くお前とこの場所で遊んだよな 。森の樹の上に秘密基地とか作ったりしてさ。まだあんのか?」
「あるわけないだろ、何年経ってると思ってるんだよ……なあ、もう行かないか?」
「いいだろ、少しぐらい。せっかく思い出に浸ってるのに! ちょっとその樹のとこ行ってみようぜ」
「待てよ、ジュリ!」
ラインアーサは動揺を隠せないでいた。何時この場所にスズランが現れやしないかと気を揉んでしまう。ジュリアンが石橋を渡り容赦なく森に入って行くのでラインアーサも仕方なく跡を追った。太い幹 を付けた大きな樹の前で、ジュリアンは不意に足を止めた。
「たしかこの樹じゃなかったか?」
ジュリアンが木の幹に手を掛けた瞬間、記憶の中ではもっと幼かった自分たちの姿を思い返す。
「ああ、そうかも。登ってみるか!」
ラインアーサも思わず童心に返って、洞 や枝に手足を掛けて器用に樹を登り始めた。
「……やっぱり、何も残ってないか。この辺に吊り床をかけて寝転んだりしたよなぁ。ジュストじい様の厳しい授業を抜け出してさ」
「以外と悪ガキだったんだな、俺ら…」
ラインアーサもジュリアンも幼い頃を思い返し苦笑した。高い樹の上は地上よりも澄んだ風が吹く。心地の良い風はやはりラインアーサの心を癒す。
この澄み渡る風をスズランと一緒に感じることが出来たら、どんな気持ちになるだろうか。
───昨晩。
この森にスズランが来ているかもしれないという直感の様なものが微かながらも働いた。だが仮にそうだとしても、ラインアーサはどうしてもスズランに会いに行くことが出来なかった。スズランの顔を見れば、募る想いを自制しようとしてまた酷い言動を取ってしまうかもしれない。〝警備員〟としてのラインアーサには懐いてくれているのだから、自分の衝動を満たす為にこれ以上傷付けるのも、嫌われるのも望ましくはない。
ざわめく風に想いを馳せながら、ラインアーサは瞳を伏せる。
「うん? ……おい、誰か来たぜ」
「!!」
ジュリアンの声に、ラインアーサの心臓が跳ねた。この立入禁止区域の森に堂々と入って来る人物など決まっている。
「俺、ちょっと注意してやるよ。未来の王宮警備隊員をなめんなよっと!」
「おい待てよ、ジュリ…っ」
ラインアーサの制止も虚しく、ジュリアンは樹の幹から颯爽 と飛び降りて行ってしまった。
予想通り、酒場 の方面から歩いて来たのはスズランだった。スズランの姿を確認するなり、ラインアーサは心臓を強く掴まれた様な感覚に陥った。ジュリアンの様に飛び出して行けない自身へ苛立ちを覚えるも、スズランに気付かれぬよう樹の上で息を潜める。
「待てそこの曲者! この森を王宮の敷地と知って足を踏み入…ってあれ? 君、スズランちゃん!?」
「きゃあっ?! ……だ、誰?」
「……え、あっれ〜? もう忘れちゃった?? 俺ちょっと落ち込んじゃうな〜」
突然現れ、行く手を阻むジュリアンに驚いた様子のスズランの姿が眼下に見える。
「? ……あ、えっと、、警備隊の……ジュリアンさん?」
「良かった〜! 昨日会ったばかりなのにもう忘れられちゃったのかと思ったぜ! で、スズランちゃんは何故この森に?」
「……あの。この森の警備の方にこれを返しに来ました」
そう言うと、スズランは胸に抱えていた白い布を少し広げて見せた。
「これってマント?」
「はい…。先日わたしが寒くない様にって貸してくれたんです」
「え、待って。寒くない様にって、まさかだけどスズランちゃんは日が落ちてからの冷え込む時間帯にこの森に来たの? 此処の警備は抜かりない筈だけど、君みたいな可愛い女の子が一人で来るなんて危ないぜ? それにここは王宮の敷地内だからあまり…」
「あ、の……一応、ここの警備の方から許可をいただいてはいます。でも、ジュリアンさんがここの警備に変わったんですか?」
スズランが弱気ながらもジュリアンに質問を返す。
「いやぁ、それはもう少し先の話ね。俺は今は民兵の護衛警備だし、今から訓練場に戻る所さ」
「そうなんですか…」
昨日に続き何処か浮かない様子のスズラン。ジュリアンとスズランのやり取りを、固唾 を飲む様な気持ちで見守るラインアーサ。
「あれ…。でもこの森に警備隊って配属されてたっけかな? スズランちゃんその警備員の名前とかわかるかな。良かったら渡しといてあげるよ、そのマント」
「あ……名前、わからないんです。警備隊の規則で教えられないそうで。顔も夜で薄暗くてちゃんとは……あ! でも背が高くて、優しくて…」
「え? 警備隊にそんな規則無いけど? 現に俺はスズランちゃんに堂々と名乗ってるじゃん!」
「そういえば、そうですね! じゃあ、なんであの警備さんは名前…」
望ましくない話の流れにラインアーサは焦って居た。あの時咄嗟についた嘘がここで裏目に出てしまうなんて。狼狽えるラインアーサとは対照的に、ジュリアンは落ち着き払った様子でゆっくりと頷いた。
「……ははーん。わかったぜ! スズランちゃん。その警備員さ、俺のよーく知った奴だと思う」
「え! ほんとう? もし良かったらその人の名前、わたしに教えてください」
「ん〜……名前ねぇ」
ジュリアンが勿体つけながらちらりと視線をラインアーサに寄越してくる。
(ああジュリ……頼むから余計な事は言うなよ!)
こういう時、ジュリアンの勘の良さを恨めしく思う。ラインアーサはジュリアンに目配せをし頭を激しく左右に振った。これではジュリアンに肯定して見せたも同然なのだが〝警備員〟と〝ライア〟が同一人物だと今ここで明かされるよりはまだマシだと思ったのだ。
「名前は知ってるけど、あいつ恥ずかしがり屋だからなぁ……いや、でもスズランちゃんも知ってる奴だと思うよ?」
「え…! わたしも知ってる人? もしかして…」
(ジュリ……本当にやめてくれ!)
ラインアーサは必死にジュリアンを睨みつけるが、話の流れは完全に握られている。
「もちろん。この国に住む民なら皆知ってるさ! それに、誰でも一度は見かけた事があるんじゃあないかな?」
何故か得意げな言い切るジュリアン。暗に警備員の正体はこの国の王子だと言っているのか?
ラインアーサは国民に対してそれ程目立った行動は起こしていないつもりだが。収穫祭 などの祝祭 時に、王子として公式で人前に立つこともあるがそれは年に数回の筈だ。
「そんな、それじゃ心当たりないです……」
「そう? じゃあさ、そのマント確実に本人に手渡してやるよ! ちょうど今からそいつと顔を合わせる予定だしね」
「……でも。じゃあ、その警備さんは警備隊の人じゃないって事でしょうか?」
「まぁ、そうなるかな。いやー、あいつも中々忙しい奴でさ、俺も次はいつ会えるかわからないんだ」
「そう、なんですね。じゃあ、これ……お願いしてしまってもいいですか?」
スズランは諦めた様に小さく肩を落とすと、抱きしめていたマントをジュリアンに手渡した。
「もっちろん、まかせといて〜! 何なら伝言でも頼まれようか?」
「……そんな! 平気です。でも、わたし……もう一度、あの警備さんに会いたいっ…です」
スズランのその言葉にラインアーサの胸はますます締め付けられた。やはり昨晩会いに行けば良かっただろうか。
「そっかぁ! そのまま伝えとくよ」
ジュリアンがやけに機嫌良く頷いている。おそらくいつものあの下世話な表情を浮かべているに違いない。更に調子に乗ったらしく、スズランに次々と質問を投げかける。
「ところでさぁスズランちゃん。あの男の事はどう思ってるの? 昨日は送ってもらったみたいだけど」
「あ、あの男って……えっと。ライアの事ですか?」
(ジュリの奴!! 何故次から次へと余計な話をふるんだよ!)
「そうそう! 何だかずいぶんと親しげな仲に見えたからさ」
「なっ、親しげだなんてっ! 違います!! わたしは、その……からかわれてるだけで全然相手になんかされてないもの」
スズランが顔を真っ赤に染めて全否定する。
「……で、どう? 嫌い?」
なんという直接的な質問をするのだろうと思いつつも、ラインアーサはスズランの回答が気になって仕方がなかった。握っていた拳にますます力が入る。喉が乾き張り付く感じが気持ち悪い。
───すると、うつむいたままのスズランが小さく首を横に振った。
ラインアーサは瞳を見開いた。てっきり自身は嫌われていると思っていたのだから。
「……嫌われているのはわたしの方です。だっていつだって子供扱いされるし、わたしも怒ってばかりだから……ライアには呆れられてるんじゃないかな。それに、お礼を言わなくちゃ……二度も助けてもらったのにわたし、なんにも言えてなくて…」
「……ふぅん。じゃあそれも一緒に伝えとくよ」
伝えるも何も全て聞こえてしまっている。ラインアーサは複雑な気持ちを隠しきれず、こそりと溜め息を漏らした。
「でも。何でそんな事、聞くんですか?」
「何でかって? それはあいつが俺の大事な友人だから聞いとこうと思ってさ! 君みたいな可愛い子に嫌われてたら悲しいだろ?」
ジュリアンの少し茶目っ気のある言い方にスズランも気を許した様だ。
「ふふ、ジュリアンさんはとってもお友だち想いでいい人なんですね…!」
「まあね〜。ちなみにそのライアって奴だけど、君の事全然嫌ってなんかないよ。むしろ…っうわ!?」
物には限度と言うものがあるだろう……。
遂に耐えきれなくなり、ラインアーサは掌に風を集め小さな風玉を作り出しそれを思い切りジュリアンに向って投げ付けた。風玉は見事に命中し、ジュリアンは風の衝撃で後ろに吹き飛び尻餅をついた。
「だ、大丈夫ですか!? ジュリアンさん!」
目の前で突然転んだジュリアンに、スズランが驚いて駆け寄る。ジュリアンはラインアーサを見上げながら、へらりと舌を出して悪びれも無く笑った。
「ごめんごめん、大丈夫だよ。ちょっと足元をすくわれてね…」
「突然転ぶなんてびっくりです…!」
「ありがとう、大丈夫だよ」
スズランが手を差し伸べたがジュリアンは一人で何事もなかったかの様に立ち上がり、身なりを整えた。
「さーて。そろそろ時間切れかな? 俺は訓練場に戻らないといけないし、スズランちゃんも今日はもう戻るだろ?」
「あ、はい。もう戻ります……マント。どうかよろしくお願いします! それとジュリアンさん、いろいろ教えてくれてありがとうございます!」
「どういたしまして。あ、俺の事はジュリでいいぜ! またな、スズランちゃん」
ひらひらと手を振るジュリアンにスズランは深々とを頭を下げ、酒場 の方へと足早に戻って行った。
「さ~てと、俺もそろそろ本当に戻らないとな……わっ!」
「っ……一体どういうつもりだ? ジュリ」
ラインアーサは樹の枝から勢い良く飛び降りると、ジュリアンの目の前に立った。
「悪い悪い。つい調子に乗りすぎたっていうか……けど、お前こそどういう事だよ? 色々突っ込んでいいか?」
「ジュリに教える必要は無い…! 何勝手に話を進めてるんだよ、俺は…」
「まあまあ、ほら! でもよかったじゃん。お前あの子に嫌われてないみたいだぜ? っていうか何? 何で警備隊の振りなんてしたのかな〜?」
からかう様にニヤリとした表情のジュリアンを鋭く睨み返す。
厄介な相手に知られた。
「違う。あいつが勝手に勘違いしたんだ。俺が自分からそう名乗った訳じゃない」
「へぇ。アーサはもっと器用なんだと思ってたんだが、以外と不器用なんだな」
ジュリアンが思いがけず真面目な顔つきになる。
「お前自身はあの子と喧嘩ばっかりの癖に、警備員として接すれば素直になれるって訳か?」
「うるさい」
「───スズランちゃん、いい子だな! 特に笑顔が可憐でさ。お前が惚れるのもわかるぜ? んー、けどちょっと鈍いな。だって普通は気がつくだろ。いくら暗がりの森の中でもさ、どっちもお前なんだから」
ラインアーサもそれは感じていたが、スズランはやはり少し鈍感なのだろうか。
「スズランはただ純粋なんだよ…」
「うわそれ結構重症だぞ、お前! だったらもう何も考えずに全て打ち開ければいいじゃん。でないと後々言い出しづらくなるぜ?」
「分かってはいる……自分で何とかする。それでもしまた余計な事をしたらただじゃあ置かないからな、ジュリ!」
「はいはい。そんな怒らなくても良いじゃん。頭固いなぁ」
「ジュリが何も考えなさすぎなんだよ」
そう口では言いつつ、今後もスズランに打ち明けるつもりはない。この想いは諦めるつもりでいた。
しかしどうだろう。嫌われていないと知った瞬間、全身の細胞が歓喜で沸き立った。思いとは裏腹に感情は素直だ。
ラインアーサはどうすれば良いのかわからなくなっていた。何故こんなにもスズランに心惹かれるのだろう。いつからこんな気持ちを抱く様になったのか。
「あ、でもさ。俺が思うにスズランちゃんは警備員としてのお前よりも素のお前の方に好意があるっぽいな!」
「……適当なこと言うな」
どう考えても自分自身より警備員としてのラインアーサになついているではないか。
「俺の勘は当たるんだぜ! お前こそもっとスズランちゃんに優しくしてやれば? アーサはちっとも女心を理解してないな」
「ジュリに言われたくない」
「おいおい。百戦錬磨のジュリアン様のご意見だって言うのに、少しは信じろって!」
「ったく、自分で言うなよ…」
果たしてそれは自慢できる事なのか謎だが、ジュリアンの勘の良さは身を持って理解している。だからと言ってスズランがラインアーサを気にかけている様には到底思えなかった。
ジュリアンがまだ何か言いたげな表情を向けて来るが次の瞬間、遠くで鐘の音が鳴り響いた。街のほぼ中心部に建てられている時計塔が午後一番の時を告げたのだ。
「げ! もうそんな時間か!? 午後の号令かかっちまう! 悪い、アーサ。俺もう行くぜ」
「余計な事するからだ、お前なんて遅刻すればいい」
ラインアーサそう言い捨て、王宮へと踵を返そうとしたがジュリアンに呼び止められる。
「ちょっと待てって! ほらこれ。スズランちゃんから預かったマントとあと、旧市街に行く日取りが決まったら連絡しろよ? 俺だって一応お前のこと陛下に頼まれてるんだからな! ……じゃあ!!」
そう早口で言い終えるや否やラインアーサの腕にマントを押し付け、ジュリアンは脱兎の如く森を飛び出して行った。
「ジュリの奴……頼りになるのか、ならないのか。余計な事しやがって」
受け取ったマントを広げると、スズランから移ったのか僅かに甘い香りが広がりラインアーサの心を乱すには充分だった。しかしラインアーサはマントを羽織らずにたたみ直す。
「俺には俺のやるべき事が……か」
色恋にうつつを抜かしている訳にはいかないと自分に言い聞かせる。
それからラインアーサは公務に終われる日々を過ごし、敢えてこの森へ足を運ぶ事はしなかった。
「ずいぶんと賑やかだな……何の話でそんなに盛り上がってるんだ?」
ラインアーサの声にその場に居た顔触れの視線が集まる。ジュリアンにリーナ、イリアーナが三人でお茶を楽しんでいる所の様だ。
「お、アーサ! もう戻ったのか? 俺はてっきりあのままスズランちゃんとお楽しみなのかと…」
「っな……一体何の話してるんだよ!!」
にやつくジュリアンにラインアーサは顔を顰めたが、イリアーナは関心と期待を込めた眼差しで見上げてくる。
「アーサ、本当なの? 好いている人が居るのならわたしにもちゃんと紹介して頂戴ね?」
「姉上まで…!」
やはりジュリアンをあのままにして置いてきたのは間違いだった。ラインアーサは後悔の溜息を漏らす。すると横から懐かしい声が聞こえ、そちらへ向き直ると可憐な女性が目に入った。
「アーサ様、お久しぶりです。この度、イリア様の正式な侍女としてお仕事を頂ける事になりました。今後ともよろしくお願いいたします」
「リーナ! こちらこそ、姉上の事を頼むよ」
腰を落として
兄のジュリアンと良く似た容姿で、焦茶で癖のある髪と明るい緑の瞳。いつも笑顔が絶えない娘なのだが、目の前のリーナは少し元気の無い表情をしていた。幼い頃からラインアーサを兄の様に慕っており、七つの時にイリアーナ専属の侍女見習いとして宮中へ上がった。
イリアーナが行方不明になった時は、彼女もとても心を痛めていた。
「はい! こうしてまたイリア様に仕える日が来ればと、これまでおじい様に色々な術の使い方を
「それは頼もしいよ。いや、それにしても久しぶりだよな。見ない間リーナもだいぶ大人っぽくなったんだな! 最後に会ったのはリーナが十六の時だったかな」
「そ、そんなっ! アーサ様こそなんだかますます……その、
「そうかな?」
リーナが頬を赤く染めて俯いた。その様子に何故かイリアーナが嬉しそうにお節介を焼く。
「あらあら、あなた達って案外お似合いじゃあないかしら?」
「イ、イリア様!? 何を仰るのです! あたしはそんなっ!!」
リーナはますます顔を赤く染めて焦り出す。そこへジュリアンが思い出したかの様に、可愛らしく包装された紙の袋を取り出した。
「あ! そうだ。リーナに土産があるんだった。開けて見ろよ」
「お土産?」
ジュリアンに袋を手渡され早速包装を解くと、小降りの鉢植えが出てくる。植えられている花は色とりどりの
「わあ……綺麗! ありがとう、お兄ちゃん」
「その花、アーサと選んだんだぜ」
何故か突然ジュリアンがそんな事を言い出す。実際には、ラインアーサは花選びをしていないのだが。
「え! アーサ様も選んでくれたんですか? 嬉しい! 大切にしますね!!」
訂正しようにも、リーナの笑顔が全開になってしまい出来なかった。
「どういうつもりだよ、ジュリ」
「いや? ただ俺も今のところ、リーナを任せられるのはお前しか居ないと思ってるんだが」
「突然何言って…」
「そっ、そうよ! お兄ちゃんの馬鹿!! 勝手な事言わないで! ……アーサ様、すみません。あたしお茶の追加の準備をして来るので失礼します」
リーナは恥ずかしそうに俯き、鉢植えを抱えたまま応接間から足早に出て行った。
その後、ラインアーサはイリアーナからの質問責めに遭っていた。スズランの事やリーナの事について散々尋ねられ、それを何とかぼかして答えているうちにどんどん時が過ぎて行った。
確かにリーナに対する愛情はある。しかし幼い頃から一緒に育った事もあり、もはや本当の妹の様に思っている。彼女が何か困っているのなら手助けするのはもちろん、いつだって力になってやりたい。
だがスズランは違う。想い浮かべるだけで全身が沸き立つ様な感覚に陥る。その姿を目の前にすると冷静な判断が出来ず余裕がなくなり、正直自分でも格好悪いと思う。
思い出しては胸が
だから勘違いしそうになってしまう。そんな都合の良い自身の思考に呆れ、自己嫌悪に陥った。
寝室の出窓からあの森を見下ろす。
森の樹々がざわつくのは何故だろう。ラインアーサは森から目を逸らす様に
翌朝。
ジュリアンは王宮内の自宅に泊まったらしく、朝一番で挨拶しにやってきた。朝から羨ましい程無駄に元気の良いジュリアンとは正反対のラインアーサ。起き抜けの冴えない思考力のままライオネルの元に赴き、ジュリアンの助言も借りつつ〝旧市街の粗暴者達が及ぼす被害を懸念し、彼らを駆逐せざるを得ない〟とライオネルに報告した。
既に昨日ハリから大まかな報告は受けていたライオネル。微かに眉間に皺を寄せたのはより詳細な情報に思う所があってなのか。
「───未だ無法者が
「……父上。昨日も都の善良な民が被害に遭っている。俺は一度、旧市街に降りて実質的な被害がどの程度のものなのか調べに行くつもりだ」
ラインアーサが自身の思案を述べると、ライオネルは小さく肩を竦め諦めた様に小さく息を吐いた。
「……その際は一人で行動せず、ジュリ君にも同行してもらいなさい。どうせアーサは止めても聞かないのだろう?」
「大丈夫だよ、ハリだって居るんだし。だけど男三人で行動するのは妙に目立つと言うか…」
「しかしアーサ。父様は心配なのだよ? ……ジュリ君、うちの向こう見ずで頑固者な息子をどうか頼んだよ」
「もちろんです! 承知致しました陛下!」
ライオネルの心配性はラインアーサがいくつになっても治らないだろう。イリアーナの捜索に国を出る時にも、長い時間をかけてライオネルを説得したものだ。定期的に連絡を入れること、年に数回は必ず顔を見せに帰国すること、その他にも幾つかの条件付きで成人と同時にラインアーサは国を出た。
思えば内乱後───。
ライオネルは妻 エテジアーナに先立たれ、娘のイリアーナは人質に囚われたまま行方不明という状況で国が傾かないよう国事を怠らず
「まったく! 父上は心配性が過ぎるよ…」
「そうか〜? 陛下は本当に良い父親だと思うぜ! 俺の親父なんて年に数度しか会えないからな」
午後一番で警備隊の訓練場へ戻るというジュリアンを見送る為、ラインアーサは王宮の門口まで出て来ていた。溜息と共にこぼした小さな愚痴を窘めるジュリアンの言葉に、ふと彼の父親の顔を思い浮かべた。
「グレィスは国境警備隊の隊長だもんな。なかなか帰って来られないのは国の為とは言え、気が咎めるよ」
「いいんだ。そんな親父だけど尊敬してる。でも俺はリーナや母さんを近くで守る為に、王宮警備隊に着きたいんだ! 仕えるのはもちろんお前だけどな、アーサ殿下」
真面目に語った事が気恥ずかしいのか語尾を茶化すジュリアン。
「ジュリ…。昨日はリーナやサリーと、家族水入らずで過ごせたみたいだな」
少々感傷的な雰囲気に浸ってそう返したのだが、少し先を歩いていたジュリアンはふと我に返った様にくるりとこちらを振り向いた。
「……ああ。何故かジュストじい様と母さんに俺の夜遊びがバレててさ、それはもう大目玉を食らったぜ! リーナにまで変な目で見られるし!! アーサ、まさかお前がバラしたんじゃないよな?」
ジュリアンが疑いの眼差しでこちらを見つめてくる。
「はあ!? 違うって! そんな事するわけないだろ。ジュリの自業自得だ。それにジュストベルの目は誤魔化せないからな」
「確かに。そうか、今後はもっと上手くやらないと駄目だな」
案外素直に引き下がったかと思うと、そう呟いたジュリアンに流石のラインアーサも呆れる。
「そう言えばさ、アーサ。お前さえよかったら……リーナとの事、本気で考えてみてくれよ。あいつ、お前の事を小さい頃からずっと慕ってるって言うかさ。兄としてもお前とそうなってくれたら嬉しいって言うか…」
ジュリアンが言わんとしている事は解る。ラインアーサ自身も、一時は同じことを考えた事があった。しかしいくら思い直そうとしても、やはりリーナには家族以上の感情が持てなかったのだ。
ラインアーサは国を出てからも、自分の求める条件に見合う女性を密かに探していた。身分や地位で人を差別することなく、人の上に立つという立場でも公平かつ冷静な判断が出来る女性。それを家族の様に思っているリーナに求めるのは何か違う気がする。必然的に自分よりも年上の女性に目を向けていたのだが、なかなか見つからないものだ。
「……」
「どうした? さっきから黙りこくって。ふふふ……やっぱりな!」
「な、何だよ…」
「わかってるさ、お前はあのスズランって子が気になるんだろ?」
唐突にスズランの名が出て来てラインアーサはあからさまに
「なっ、何言ってるんだよ! あんなのまだお子様じゃあないか! 昨日たまたま送ったってだけで全然そんなじゃあないからな?」
「またまた〜! お前がそんなにムキになる所見たことないぜ? なんで隠すんだよ、さては初恋か?」
ほぼ図星だが、黙っていた。ばれたらジュリアンに笑い飛ばされてしまう。
「いいから早く訓練場に帰れよジュリ…!」
「だってよ、まだ午後の号令まで時間が余ってるんだ。その辺ぶらつこうぜ!」
そう言いながらジュリアンは王宮の正門から横庭の方へと入って行ってしまった。
「おおー! 懐かしいな此処。良くお前とこの場所で遊んだよな 。森の樹の上に秘密基地とか作ったりしてさ。まだあんのか?」
「あるわけないだろ、何年経ってると思ってるんだよ……なあ、もう行かないか?」
「いいだろ、少しぐらい。せっかく思い出に浸ってるのに! ちょっとその樹のとこ行ってみようぜ」
「待てよ、ジュリ!」
ラインアーサは動揺を隠せないでいた。何時この場所にスズランが現れやしないかと気を揉んでしまう。ジュリアンが石橋を渡り容赦なく森に入って行くのでラインアーサも仕方なく跡を追った。太い
「たしかこの樹じゃなかったか?」
ジュリアンが木の幹に手を掛けた瞬間、記憶の中ではもっと幼かった自分たちの姿を思い返す。
「ああ、そうかも。登ってみるか!」
ラインアーサも思わず童心に返って、
「……やっぱり、何も残ってないか。この辺に吊り床をかけて寝転んだりしたよなぁ。ジュストじい様の厳しい授業を抜け出してさ」
「以外と悪ガキだったんだな、俺ら…」
ラインアーサもジュリアンも幼い頃を思い返し苦笑した。高い樹の上は地上よりも澄んだ風が吹く。心地の良い風はやはりラインアーサの心を癒す。
この澄み渡る風をスズランと一緒に感じることが出来たら、どんな気持ちになるだろうか。
───昨晩。
この森にスズランが来ているかもしれないという直感の様なものが微かながらも働いた。だが仮にそうだとしても、ラインアーサはどうしてもスズランに会いに行くことが出来なかった。スズランの顔を見れば、募る想いを自制しようとしてまた酷い言動を取ってしまうかもしれない。〝警備員〟としてのラインアーサには懐いてくれているのだから、自分の衝動を満たす為にこれ以上傷付けるのも、嫌われるのも望ましくはない。
ざわめく風に想いを馳せながら、ラインアーサは瞳を伏せる。
「うん? ……おい、誰か来たぜ」
「!!」
ジュリアンの声に、ラインアーサの心臓が跳ねた。この立入禁止区域の森に堂々と入って来る人物など決まっている。
「俺、ちょっと注意してやるよ。未来の王宮警備隊員をなめんなよっと!」
「おい待てよ、ジュリ…っ」
ラインアーサの制止も虚しく、ジュリアンは樹の幹から
予想通り、
「待てそこの曲者! この森を王宮の敷地と知って足を踏み入…ってあれ? 君、スズランちゃん!?」
「きゃあっ?! ……だ、誰?」
「……え、あっれ〜? もう忘れちゃった?? 俺ちょっと落ち込んじゃうな〜」
突然現れ、行く手を阻むジュリアンに驚いた様子のスズランの姿が眼下に見える。
「? ……あ、えっと、、警備隊の……ジュリアンさん?」
「良かった〜! 昨日会ったばかりなのにもう忘れられちゃったのかと思ったぜ! で、スズランちゃんは何故この森に?」
「……あの。この森の警備の方にこれを返しに来ました」
そう言うと、スズランは胸に抱えていた白い布を少し広げて見せた。
「これってマント?」
「はい…。先日わたしが寒くない様にって貸してくれたんです」
「え、待って。寒くない様にって、まさかだけどスズランちゃんは日が落ちてからの冷え込む時間帯にこの森に来たの? 此処の警備は抜かりない筈だけど、君みたいな可愛い女の子が一人で来るなんて危ないぜ? それにここは王宮の敷地内だからあまり…」
「あ、の……一応、ここの警備の方から許可をいただいてはいます。でも、ジュリアンさんがここの警備に変わったんですか?」
スズランが弱気ながらもジュリアンに質問を返す。
「いやぁ、それはもう少し先の話ね。俺は今は民兵の護衛警備だし、今から訓練場に戻る所さ」
「そうなんですか…」
昨日に続き何処か浮かない様子のスズラン。ジュリアンとスズランのやり取りを、
「あれ…。でもこの森に警備隊って配属されてたっけかな? スズランちゃんその警備員の名前とかわかるかな。良かったら渡しといてあげるよ、そのマント」
「あ……名前、わからないんです。警備隊の規則で教えられないそうで。顔も夜で薄暗くてちゃんとは……あ! でも背が高くて、優しくて…」
「え? 警備隊にそんな規則無いけど? 現に俺はスズランちゃんに堂々と名乗ってるじゃん!」
「そういえば、そうですね! じゃあ、なんであの警備さんは名前…」
望ましくない話の流れにラインアーサは焦って居た。あの時咄嗟についた嘘がここで裏目に出てしまうなんて。狼狽えるラインアーサとは対照的に、ジュリアンは落ち着き払った様子でゆっくりと頷いた。
「……ははーん。わかったぜ! スズランちゃん。その警備員さ、俺のよーく知った奴だと思う」
「え! ほんとう? もし良かったらその人の名前、わたしに教えてください」
「ん〜……名前ねぇ」
ジュリアンが勿体つけながらちらりと視線をラインアーサに寄越してくる。
(ああジュリ……頼むから余計な事は言うなよ!)
こういう時、ジュリアンの勘の良さを恨めしく思う。ラインアーサはジュリアンに目配せをし頭を激しく左右に振った。これではジュリアンに肯定して見せたも同然なのだが〝警備員〟と〝ライア〟が同一人物だと今ここで明かされるよりはまだマシだと思ったのだ。
「名前は知ってるけど、あいつ恥ずかしがり屋だからなぁ……いや、でもスズランちゃんも知ってる奴だと思うよ?」
「え…! わたしも知ってる人? もしかして…」
(ジュリ……本当にやめてくれ!)
ラインアーサは必死にジュリアンを睨みつけるが、話の流れは完全に握られている。
「もちろん。この国に住む民なら皆知ってるさ! それに、誰でも一度は見かけた事があるんじゃあないかな?」
何故か得意げな言い切るジュリアン。暗に警備員の正体はこの国の王子だと言っているのか?
ラインアーサは国民に対してそれ程目立った行動は起こしていないつもりだが。
「そんな、それじゃ心当たりないです……」
「そう? じゃあさ、そのマント確実に本人に手渡してやるよ! ちょうど今からそいつと顔を合わせる予定だしね」
「……でも。じゃあ、その警備さんは警備隊の人じゃないって事でしょうか?」
「まぁ、そうなるかな。いやー、あいつも中々忙しい奴でさ、俺も次はいつ会えるかわからないんだ」
「そう、なんですね。じゃあ、これ……お願いしてしまってもいいですか?」
スズランは諦めた様に小さく肩を落とすと、抱きしめていたマントをジュリアンに手渡した。
「もっちろん、まかせといて〜! 何なら伝言でも頼まれようか?」
「……そんな! 平気です。でも、わたし……もう一度、あの警備さんに会いたいっ…です」
スズランのその言葉にラインアーサの胸はますます締め付けられた。やはり昨晩会いに行けば良かっただろうか。
「そっかぁ! そのまま伝えとくよ」
ジュリアンがやけに機嫌良く頷いている。おそらくいつものあの下世話な表情を浮かべているに違いない。更に調子に乗ったらしく、スズランに次々と質問を投げかける。
「ところでさぁスズランちゃん。あの男の事はどう思ってるの? 昨日は送ってもらったみたいだけど」
「あ、あの男って……えっと。ライアの事ですか?」
(ジュリの奴!! 何故次から次へと余計な話をふるんだよ!)
「そうそう! 何だかずいぶんと親しげな仲に見えたからさ」
「なっ、親しげだなんてっ! 違います!! わたしは、その……からかわれてるだけで全然相手になんかされてないもの」
スズランが顔を真っ赤に染めて全否定する。
「……で、どう? 嫌い?」
なんという直接的な質問をするのだろうと思いつつも、ラインアーサはスズランの回答が気になって仕方がなかった。握っていた拳にますます力が入る。喉が乾き張り付く感じが気持ち悪い。
───すると、うつむいたままのスズランが小さく首を横に振った。
ラインアーサは瞳を見開いた。てっきり自身は嫌われていると思っていたのだから。
「……嫌われているのはわたしの方です。だっていつだって子供扱いされるし、わたしも怒ってばかりだから……ライアには呆れられてるんじゃないかな。それに、お礼を言わなくちゃ……二度も助けてもらったのにわたし、なんにも言えてなくて…」
「……ふぅん。じゃあそれも一緒に伝えとくよ」
伝えるも何も全て聞こえてしまっている。ラインアーサは複雑な気持ちを隠しきれず、こそりと溜め息を漏らした。
「でも。何でそんな事、聞くんですか?」
「何でかって? それはあいつが俺の大事な友人だから聞いとこうと思ってさ! 君みたいな可愛い子に嫌われてたら悲しいだろ?」
ジュリアンの少し茶目っ気のある言い方にスズランも気を許した様だ。
「ふふ、ジュリアンさんはとってもお友だち想いでいい人なんですね…!」
「まあね〜。ちなみにそのライアって奴だけど、君の事全然嫌ってなんかないよ。むしろ…っうわ!?」
物には限度と言うものがあるだろう……。
遂に耐えきれなくなり、ラインアーサは掌に風を集め小さな風玉を作り出しそれを思い切りジュリアンに向って投げ付けた。風玉は見事に命中し、ジュリアンは風の衝撃で後ろに吹き飛び尻餅をついた。
「だ、大丈夫ですか!? ジュリアンさん!」
目の前で突然転んだジュリアンに、スズランが驚いて駆け寄る。ジュリアンはラインアーサを見上げながら、へらりと舌を出して悪びれも無く笑った。
「ごめんごめん、大丈夫だよ。ちょっと足元をすくわれてね…」
「突然転ぶなんてびっくりです…!」
「ありがとう、大丈夫だよ」
スズランが手を差し伸べたがジュリアンは一人で何事もなかったかの様に立ち上がり、身なりを整えた。
「さーて。そろそろ時間切れかな? 俺は訓練場に戻らないといけないし、スズランちゃんも今日はもう戻るだろ?」
「あ、はい。もう戻ります……マント。どうかよろしくお願いします! それとジュリアンさん、いろいろ教えてくれてありがとうございます!」
「どういたしまして。あ、俺の事はジュリでいいぜ! またな、スズランちゃん」
ひらひらと手を振るジュリアンにスズランは深々とを頭を下げ、
「さ~てと、俺もそろそろ本当に戻らないとな……わっ!」
「っ……一体どういうつもりだ? ジュリ」
ラインアーサは樹の枝から勢い良く飛び降りると、ジュリアンの目の前に立った。
「悪い悪い。つい調子に乗りすぎたっていうか……けど、お前こそどういう事だよ? 色々突っ込んでいいか?」
「ジュリに教える必要は無い…! 何勝手に話を進めてるんだよ、俺は…」
「まあまあ、ほら! でもよかったじゃん。お前あの子に嫌われてないみたいだぜ? っていうか何? 何で警備隊の振りなんてしたのかな〜?」
からかう様にニヤリとした表情のジュリアンを鋭く睨み返す。
厄介な相手に知られた。
「違う。あいつが勝手に勘違いしたんだ。俺が自分からそう名乗った訳じゃない」
「へぇ。アーサはもっと器用なんだと思ってたんだが、以外と不器用なんだな」
ジュリアンが思いがけず真面目な顔つきになる。
「お前自身はあの子と喧嘩ばっかりの癖に、警備員として接すれば素直になれるって訳か?」
「うるさい」
「───スズランちゃん、いい子だな! 特に笑顔が可憐でさ。お前が惚れるのもわかるぜ? んー、けどちょっと鈍いな。だって普通は気がつくだろ。いくら暗がりの森の中でもさ、どっちもお前なんだから」
ラインアーサもそれは感じていたが、スズランはやはり少し鈍感なのだろうか。
「スズランはただ純粋なんだよ…」
「うわそれ結構重症だぞ、お前! だったらもう何も考えずに全て打ち開ければいいじゃん。でないと後々言い出しづらくなるぜ?」
「分かってはいる……自分で何とかする。それでもしまた余計な事をしたらただじゃあ置かないからな、ジュリ!」
「はいはい。そんな怒らなくても良いじゃん。頭固いなぁ」
「ジュリが何も考えなさすぎなんだよ」
そう口では言いつつ、今後もスズランに打ち明けるつもりはない。この想いは諦めるつもりでいた。
しかしどうだろう。嫌われていないと知った瞬間、全身の細胞が歓喜で沸き立った。思いとは裏腹に感情は素直だ。
ラインアーサはどうすれば良いのかわからなくなっていた。何故こんなにもスズランに心惹かれるのだろう。いつからこんな気持ちを抱く様になったのか。
「あ、でもさ。俺が思うにスズランちゃんは警備員としてのお前よりも素のお前の方に好意があるっぽいな!」
「……適当なこと言うな」
どう考えても自分自身より警備員としてのラインアーサになついているではないか。
「俺の勘は当たるんだぜ! お前こそもっとスズランちゃんに優しくしてやれば? アーサはちっとも女心を理解してないな」
「ジュリに言われたくない」
「おいおい。百戦錬磨のジュリアン様のご意見だって言うのに、少しは信じろって!」
「ったく、自分で言うなよ…」
果たしてそれは自慢できる事なのか謎だが、ジュリアンの勘の良さは身を持って理解している。だからと言ってスズランがラインアーサを気にかけている様には到底思えなかった。
ジュリアンがまだ何か言いたげな表情を向けて来るが次の瞬間、遠くで鐘の音が鳴り響いた。街のほぼ中心部に建てられている時計塔が午後一番の時を告げたのだ。
「げ! もうそんな時間か!? 午後の号令かかっちまう! 悪い、アーサ。俺もう行くぜ」
「余計な事するからだ、お前なんて遅刻すればいい」
ラインアーサそう言い捨て、王宮へと踵を返そうとしたがジュリアンに呼び止められる。
「ちょっと待てって! ほらこれ。スズランちゃんから預かったマントとあと、旧市街に行く日取りが決まったら連絡しろよ? 俺だって一応お前のこと陛下に頼まれてるんだからな! ……じゃあ!!」
そう早口で言い終えるや否やラインアーサの腕にマントを押し付け、ジュリアンは脱兎の如く森を飛び出して行った。
「ジュリの奴……頼りになるのか、ならないのか。余計な事しやがって」
受け取ったマントを広げると、スズランから移ったのか僅かに甘い香りが広がりラインアーサの心を乱すには充分だった。しかしラインアーサはマントを羽織らずにたたみ直す。
「俺には俺のやるべき事が……か」
色恋にうつつを抜かしている訳にはいかないと自分に言い聞かせる。
それからラインアーサは公務に終われる日々を過ごし、敢えてこの森へ足を運ぶ事はしなかった。