夢の続きを
文字数 8,590文字
風が森の樹々を騒がせながら吹き抜ける。まるでラインアーサの心境を表すかの様だ。何故こんなに心がざわつくのだろう。
気が付くとラインアーサはその女性の肩を掴んでいた。
「……えっと、わたし…きゃ!」
鈴を転がす様な透き通った声。白くほっそりとした柔らかな感触と僅かに花の様な香りがし、ラインアーサはくらりとした。
「君の、名……」
名前を聞こうとして、思い留まる。自ら名乗っても居ないのに、突然女性に名前を聞くのは失礼だ。
「あの……あなたはここの警備の方、ですよね?」
どうやらマント姿のラインアーサを見て、王宮の警備隊と勘違いしたらしい。まあ。とりあえずそういう事にしておこう。
「あ、ああ…」
「ここに来たことは謝ります。でも、ただ景色を眺めていただけなんです。わたし、この場所が好きで……」
この場所が、好き? 何故?
先ほどから疑問ばかり浮かんでくる。ラインアーサはただただ目の前にいる女性を見つめていた。
「……眺めるだけなら、この国には他にもっと良い所があるはずだが」
楓樹 の都は標高が高い為、坂の多い街だ。眺めの良い所など街の至る所にある。
「この場所が好きなんです。夢の中に出てくる場所と似ていて……」
「……夢?」
夢という言葉にラインアーサの鼓動がいっそう跳ねた。まるであの夢の続きを見ているような錯覚に陥りそうだ。
「でも、王宮の敷地内という事はわかってます。勝手に入り込んですみません……もうここへは来ませんのでどうか…っ」
女性はラインアーサの手からするりと抜け出すとぺこりと頭を下げ、少し泣きそうな顔をした。その顔にどうしようもなく息が苦しくなる。
「……眺める程度なら、別に来ても構わない」
「え、でも…」
「厳密に言うと、そこの小川のこちら側からが王宮の敷地だ。小川までならば問題無い……」
咄嗟に嘘を付いた。
あからさまな嘘だったが、先程の泣きそうな顔を見たらつい自然と口走っていた。
「本当に、いいの?」
「たまになら」
「ありがとうございます! ……警備さん、最初は怖い人だと思ったけどいい人なのね!」
そう言って、女性は花が綻 ぶような───とても愛らしい笑顔を浮かべる。
「…っ!」
心の中で渦巻き始めた感情にラインアーサは戸惑っていた。 冷静になれ、と自らを叱咤しラインアーサは息を吐く。
この女性はあの少女ではない。あの日の状況と似た要素が重なったからといって、思い出と今起こっているただの偶然を混同させてはいけない───。
そう自分に言い聞かせた。
あの少女はとても幼かった。十一年たった今でも、まだ十四、五歳の少女だろう。目の前にいる女性はどう見ても十八、九歳で成人している様に見える。高めの身長にすらりとした手足。そこそこ露出のある服装に色気も少々。そんな馬鹿らしい考えまで浮かんでくる始末だ。ラインアーサは仄 かな期待を振り切ろうと、無理矢理話題を変えた。
「今日は祝祭 の初日だ。君は街に行かなかったのか?」
「あ、お店の準備があって……それにわたし、たぶんこの国の出身じゃないせいか、賑やかなのはあんまり得意じゃなくって」
「店…?」
まさか、この女性は
「そうなの、この祝祭 のおかげで今日からお客様の入 りが倍になるって…! だから準備が大変で、今ここに息抜きに来てたとこだったの」
「そうか、なら好きな時に此処へ息抜きに来るといい……」
以前ラインアーサがそうだった様に、この場所が疲れを癒すならば。
「ありがとう! でもこの国の王様って本当にお祭り好きなんですね。半年後には収穫祭 だってあるのに。賑やか過ぎると色々あるからちょっぴり心配になっちゃう……」
その言葉にはっとした。父、ライオネルをはじめ国民たちは賑やか事を好み、何かとお祭り騒ぎになる事が多い。その騒ぎに乗じて暗躍 する者も居るのは確かだ。ラインアーサは常日頃からそれを心配しライオネルに意見してきた。それを、他国出身の若い女性に指摘されるとは。
「……この国の警備は決して怠ってはいない」
この一言を返すのがやっとだった。
「あの! そんなつもりじゃないです……変に意見してしまってごめんなさい……」
「いや……自分もそう感じていたから」
辺りはすっかりと夜の空気に変わっていた。心地良かった風も冷たくなり肌寒い。
「あ! もうそろそろ開店時間!! 急いで戻らないとまた怒られちゃう。わたし、この森のすぐ表にある〝Fruto del amor〟っていう酒場 で働いてるの。警備さんも非番の時に来てくれると嬉しいな」
そう言うと女性は少し幼い表情でまた微笑んだ。そして、小さく会釈をすると森の中へと駆けて行ってしまった。そういえばこの森の表にはこの都で一番賑わっている酒場 があったはずだ。酒場 で働いていると聞いてラインアーサは何故か安堵した。少々露出の高い服装は店の給仕服だろうか等と思考をめぐらせる。
「……名前、聞いとけば良かったかな……。!! ああっ! そういえば!!」
ハリとの約束が頭からすっかりと抜け落ちていた事を思い出す。まさにその酒場 で落ち合う約束をしていたのだった───。
「遅いですよ。一体どこでどんな時間の潰し方してたんです? 後少しで帰る所でした…」
「本当、悪かったって! なんか奢るからそんな怒るなよ」
BAR Fruto del amorの扉の前でラインアーサとハリは小さな口論していた。
「適当に時間を潰しすぎですよ、全く。そうですね……では、この店で一番良い葡萄酒 でもいただきましょうか」
「はーい、なんでもどうぞ」
兎に角ハリの機嫌を直す為、ラインアーサは素直に返事を返した。
「そういえば、これ。必要かと思って持ってきましたけど」
ハリはラインアーサに髪紐 を手渡した。
「ん、助かる」
ラインアーサは正装用に綺麗に解かされていた髪を無造作にかきあげ、いつものように後ろで小さく結わえた。そうする事で少しは印象を変えられると思っているのだが、実のところその効果は半々だ。特に年配の者や長くこの国に住んでいる者など、分かる人には分かってしまうようだ。
BAR・Fruto del amor (バル・愛の果実)
石造りの壁にこぢんまりとした木製の扉を開くと、すぐに地下へ続く石の階段がある。石階段を降り切ると外からは想像出来ない位の広さに驚く。カウンターに二階席まであり、ほとんどの席が客で埋まり店内は大賑わいを見せている。人々の活気と熱気で店内と外の温度差はまるで違っていた。
「暑いな! すごい熱気だ」
ラインアーサはマントを脱いで手に持った。
「ですね。だいぶ賑わってる様で、何処か空席があると良いのですが」
賑わう店内を見渡すと、やはり満席状態の様だった。
二人が席を探していると、少しぶっきらぼうな口調の若い男性店員が声をかけて来た。
「いらっしゃい。お客さん二人? 今日は祝祭 の初日だったから混み合ってるんだ。あそこの狭い二人掛けしか空いてないけど、いい?」
「ああ。かまわないよ」
そもそも、祝祭 が開かれた理由の半分はラインアーサにあるため気分は複雑だ。密かに店の中を見渡したが、先程店の裏手で出逢った女性らしき人物は見つけられなかった。ラインアーサは麦酒、ハリは葡萄酒をそれぞれ注文し、この店自慢の料理を待つ。
常秋というこの国の特殊な気候は作物や果実の収穫に多大な恵みをもたらし、中でも数多く造られる酒はどれも絶品だ。
「とりあえず、乾杯だな!」
「……」
ラインアーサが明るく声を上げるも、ハリは伏し目がちで尚且つ無言のまま葡萄酒の入った杯をラインアーサの杯へと合わせた。
「ノリ悪っ! なんだよハリ、それ本当に一番良い葡萄酒なんだからな」
「ですが、こんな所であまり騒いだら目立つかと思いまして」
聞き耳を立てると周りの客たちは専ら、〝アーサ王子〟と〝イリア王女〟二人が同時に帰国と言った最新の話題で持ちきりだった。日中行われた馬車行進 の際に目が合っただとか、手を振ってもらったという女性客が興奮気味に騒いでいる。中には昨日、停車場で見かけたという者までいてハリは肝を冷やしていた。
「ライアはよくこんな中で飲めますね」
「こんなに賑わってるのに、大人しくしてる方が目立つと思うけど? 堂々としてた方が案外分からないもんだよ。あ、おにーさん、麦酒おかわりね!」
ハリはまたもや呆れて溜息をついた。
「全く、貴方という人は……」
それから二人は運ばれて来た料理と酒に舌鼓を打ちつつ、周りの客の話題に耳を傾けては色々な情報を頭に入れていった。大よその話を聞き纒 めると、この都の住民は本当に賑やか事が好きで基本的に根が明るいという事を再確認した。そんな坦々なる自国の平和な姿にラインアーサは嬉しくなった。愛する母国なのだ。不穏な雰囲気になどなって欲しくないと常々願っている。
「それよりもライア、飲みすぎは禁止です。と言うかそろそろ戻りませんか?」
ハリがラインアーサの腕ごと掴み空になった杯を覗き込む。そして、あからさまに嫌そうに顔を顰めた。
「何だよ。今日位はたくさん飲んだって構わないだろ?」
だいぶ酒が進み、ラインアーサもハリも周りの喧騒に溶け込んでいた。ラインアーサはハリの手を振りほどきながら反論する。イリアーナを捜し出し、無事に帰還すると言う大役を終えたのだ。今日くらい自分に少々の褒美をあげても罰は当たらない筈だ。
「いいえ、駄目です。これ以上飲みたいのでしたら帰って自室で飲んだら如何です?」
「えー? 自分の部屋でひとり酒なんて美味いわけないだろ! だいたいハリは付き合ってくれないじゃあないか」
「私はライアの情報収集という名のナンパ行為には付き合い切れませんからね」
薄らと顔が赤く染まっているラインアーサに対して、ハリは涼しげな顔をしている。鋭く文句をつけるハリにすかさず反発する。
「違うって! 俺のはナンパという名の情報収集だ! ……ん? と言うかあれはナンパじゃあないって!」
自分でもよくわからない言い訳をした。そこまで酔ったつもりはないが、段々と気が大きくなって来ているのは確かだ。ラインアーサに呆れた視線を送るとハリは思いきり深いため息を吐いた。
「はあ……。認めないつもりですか、全く。何でも良いですがとりあえず、あまり
そう言うとハリは立ち上がり早々と帰って行ってしまった。
「なんだよ、ハリのやつ。俺の側近とか言ってた癖に先に帰ったな」
ラインアーサは確かに酒が進むと普段よりだいぶ気が大きくなる。しかし、ここは自国だ。他国を旅して情報を集めていた頃とは状況が違い、役目を果たした以上もう必要以上に情報収集する事もない。
「その位は弁えてるつもりなんだけど……まぁいいか。すいませーん! 麦酒もう一つ!」
「あ、はい!」
ラインアーサは開き直り、近くに居た若い女性の店員をつかまえて追加の注文をする。
「あと野菜たっぷりの卵のヤツも追加……って君……」
何気無く見上げた店員の顔を覗き込むと、その瞳と瞳が交わり合った。
───ほんの一瞬だったのに、長い時間見つめ合っていたような錯覚に陥った。
淡く虹色に煌めく瞳。
抜ける様な白い肌に赤い花びらを落とした唇。
薄い千草色 の髪を緩く編み、後ろで束ねている。すらりとした長い手足が露出の高い給仕服によく映える。可憐な顔立ちが印象的な───
間違いない、先程裏の森で出逢った女性がラインアーサのすぐ目の前に居た。
「あ、あの……お客さん…?」
鈴を転がした様な澄んだ声に呼ばれ、我に返る。
「君、さっき店の裏で…」
「??」
髪型が違うからなのかマントを脱いだからなのか……。先程〝警備隊員〟として出逢っているのだが、ラインアーサと同一人物だと言う事に気付いていない様子だ。それならば早々に名を名乗り、彼女の名を聞き出せば良い。情報収集ではないとなるとそれこそ個人的なナンパになるのだろうか? などと考えるもラインアーサは椅子から立ち上がり、笑顔で店員の女性に明るく声をかけた。
「俺の名前はライア! 君は? 良かったら君の仕事が終わった後一緒に…っぐあっ!?」
突然脇の辺りに衝撃が走る。身を屈めて脇をさすっていると頭の上から先ほどとは程遠い低い声が降ってきた。
「お客さん……注文は以上ですか?」
そこには入り口で席を案内した若い男性店員が立っていた。そして何故か拳を握っている。ラインアーサの脇腹を小突いたのは、その拳である事は間違いない。
「ちょっと、何するんだよおにーさん。今の結構痛かったんだけど?」
わざとらしく脇腹を擦りながら睨みつけると、その店員の後ろに隠される様にあの女性が立っていた。
「セィシェル…! わたし注文くらいちゃんと取れるよ? もう子供じゃないっていつも言ってるのに!」
「今日はもういい……スズはもう上がるか裏の片付けに回っとけ。また忙しい時に料理とか運んでもらうから」
「でもっ、少しくらい手伝わせて! 今日は特別忙しいんでしょ?」
「平気だって言ってるだろ!」
何やら二人で揉めているようだがラインアーサは注文の事などすっかり忘れていた。何故ならたった今聞こえてきた名前が、ラインアーサの頭の中を支配してしまったのだ。
スズと呼ばれる先程出逢った、この女性。
ラインアーサの幼い初恋相手の名と重なる。そして、思い切り脇腹を小突いて来たこの男性店員の名はセィシェル。遠い記憶が呼び起こされる───。
もはや間違いないだろう。ラインアーサは呆然と二人を見比べた。
「お客さん、注文の追加は構わないけどうちの店員に個人的に声をかけるのは……んん? あんた! まさか……ライアとかいう変態ロリコン男か!?」
「は? 変態ロリコン?!」
言われのない呼称にラインアーサは憤慨し顔を顰めた。
「セ、セィシェルの知り合いなの?」
「こんな奴、知り合いなもんか!!」
セィシェルはスズをラインアーサから隠す様に立つと、思い切り睨みつけてくる。ラインアーサも思わず睨み返す。
「……っ」
「何だよ……あんた。またスズにちょっかい出す気か? 余計な事したら今度こそただじゃあおかないからな」
「また? 余計な事、だと?」
「セィシェル…。何のこと?」
ラインアーサはスズに余計な事をしただなど微塵も思っていない。
「スズは気にしなくていい。あの時はまだ小さかったから覚えてないだろ? こいつのせいで大変だったんだ……それに前に教えただろ、変態でロリコンっぽい男がいるって話」
ほぼ聞こえているがセィシェルがそう耳打ちすると、スズの表情が一瞬強張った。途端にラインアーサを見る視線が怯えた物に変わる。その眼差しに、ラインアーサは頭をがつんと打ち付けられたような衝撃を受けた。今のはどう考えても嫌われたに違いない。
「っ…おいちょっと待て! 俺はロリコンでもなければ、変態でもない! 何を勝手な事…」
「どーだか! スズにあんな事をしておいて…。それにあんた四、五年前にうちの店でよく何人もの女に囲われてただろ。まるで女を侍らせるみたいにしてんの何度も目撃したしな」
四、五年前と言えば───。
確かにラインアーサはこの酒場 に何度も足を運んでいた。その時こそ本当に情報収集が目的で来ていたのだ。地方や他国出身だという女性とよく酒の席を共にした。国内に居ては掴めない、地方や他国からもたらされる有力な情報の為ならば女性と一夜を共にした日も数知れずあったのは認める。当時のラインアーサは行方不明の姉の居場所を探るためならば、どんな些細な情報でも手に入れようとしていたのだ。おそらくセィシェルはその時期の事を覚えていて言っているのだろう。
「とにかくこいつは女好きの変態には違いないだろ! スズには絶対に近づかせない!」
「…っ!」
「……でもセィシェル、注文はどうするの?」
それでもまだラインアーサを客として扱おうと、スズが目線を合わせてきた。しかしそれも一瞬でそらされてしまう。
「……じゃあ、それ食べたら帰ってくれ」
セィシェルは乱暴にそう言い捨てると、スズの手を強引に引きながら店の奥へと戻っていく。ラインアーサは何も反論出来ず、ただ二人の後ろ姿を眺めていた。
「……」
「ねぇお兄さん。旅の人?」
唐突に背後から声を掛けられる。
声に振り向くと、先程までハリが座っていた席に随分と派手な印象の女性が着席し、勝手に料理を口に運んでいた。
「……それ、俺のなんだけど」
「温かいうちに食べないと勿体無いわ」
ラインアーサは短く息を吐き、その女性の隣に腰を下ろした。
「あの子ね、異国情緒溢れる容姿が男性客に凄く人気みたいね。いわゆるここの看板娘ってやつなのよ」
あの子とはスズの事を指すのだろう。頼みもしていないのに派手な女性は喋り続ける。
「……で。あの子に声をかけたり、個人的に誘う様な男が来ると必ずセィシェルってさっきの男の子が来て今の貴方みたいに厳しく注意されるってわけ。この酒場 では良く目にする光景みたいよ……ふふ」
「何がおかしい?」
その女性の含みのある笑みが無性にラインアーサを苛立たせた。
「…っだって、お兄さんの顔! ものすごぉく傷付いたって顔をしてるんだもの! あはっ」
終には吹き出す女性。吹き出す程そこまで酷い顔をしているのだろうか。
「はあ。それであのスズって子は……」
「あの子はスズランちゃんって言ってね、ここに住み込みで働いてるの。それから、セィシェルって子はこの酒場 のマスターの一人息子よ」
スゥ──スズ…。
どうやらスズとはラインアーサの〝アーサ〟と同じく愛称だった様だ。
「スズランか、綺麗な名だな。色々教えてくれてありがとう。俺はライアだ、えっと君は?」
「どういたしまして。あたしはエリィよ」
エリィは食台に肘をつき、首を傾げて意味深にラインアーサの瞳を覗き込む。その仕草と目線にはたっぷりの色気があり、ラインアーサもその意味が分からない訳ではない。
「……」
「ちょっとぉ、そんなにあの子の事が気になるの? あの子、まだお子さまじゃあないの」
「お子さま? 彼女は成人してないのか?」
「あの子まだ歳は十五なんですって! まぁ……確かに見た目は少し大人びてるわね、でも見てると中身はまだまだ可愛いのよ」
「十五!? そ、そうなのか…? 俺はてっきり十八、九位かと…」
ラインアーサは本日何度目かの衝撃を受けた。
「やぁね、お兄さん……せっかく誘ってるのにそんな風に上の空だと話にすらならないじゃあない。今日の所は諦めてあげる、またね」
そう言い残しエリィは去っていった。
その後勘定を済ませ酒場 を出るとやはり店内との温度差は激しく、ラインアーサはマントを羽織り暖をとった。
今日と言う一日の中で色々な事があり、起きた出来事を頭の中で整理するとラインアーサは大きく息を吐いた。
「はぁ。……今日はもう帰って寝よう」
「何かあったんです?」
その声に顔を上げると、そこにはハリが立っていた。
「ハリ!」
「遅いので迎えに。本当にナンパをなされて朝帰りなどされましたら陛下が心配しますので」
「俺はそんな事…」
言いかけたが、瞬時に先程の出来事が脳内を過ぎる。
「何やら捨てられた犬の様な顔をしてますけど、相手にされなかったとか?」
「……違う。別に、今日はそんな気分でもないからもう帰るとこだったけど?」
ハリは一瞬疑いの眼差しをラインアーサに向けたが、すぐ無表情になり前に向き直った。
「そうですか、では戻りましょう。それと、陛下がライアを探していました。今日はもう遅いので明日 の朝に陛下の執務室へ足をお運びください」
「そっか、対応させて悪かったな」
「いえ、これでも私は貴方の側近ですから」
「はは……お手柔らかにお願いするよ」
それから、王宮の自室へ戻り寝支度をするも寝付けずにいた。静寂の広がる寝室の広いベッドの上で何度も寝返りをうつ。
馬車行進 での疲れもあるものの、頭の中はやはり酒場 であった例の出来事が殆ど支配していた。自分でも気付いていなかった初恋と言う名の不思議な感情。どう言った偶然の采配か、その初恋相手に再会出来たのだが肝心の相手には嫌われてしまった様だ───。
あの怯えたような視線を向けられた瞬間、ひどく心がかき乱された。
「ああ、もう! ……なんなんだ」
ラインアーサは勢い良く起き上がると思い切り頭 を振ってもやもやとする思いを蹴散らす。とりあえず、〝変態〟と〝ロリコン〟の誤解は何としてでも解きたい。セィシェルと言うあの少年はスズランに好意があるのか? それとも兄のような立場から守っているのだろうか───?
酒場 で言われたことを思い返すと、段々と腹が立ってくる。記憶を辿ると、十一年前に出会った時既にかなり口生意気だった事が鮮明に思い出された。
「……相変わらず口が悪い…!」
さらりとした金色の髪と垂れた目元。琥珀 色の瞳がやけに挑戦的な視線をラインアーサに向けてくる。
「とにかく、変な誤解だけは解いてやる。見てろよあのガキ!」
ラインアーサは再び横になり瞳を閉じると、強引に夢の世界へとその身を投じた。
気が付くとラインアーサはその女性の肩を掴んでいた。
「……えっと、わたし…きゃ!」
鈴を転がす様な透き通った声。白くほっそりとした柔らかな感触と僅かに花の様な香りがし、ラインアーサはくらりとした。
「君の、名……」
名前を聞こうとして、思い留まる。自ら名乗っても居ないのに、突然女性に名前を聞くのは失礼だ。
「あの……あなたはここの警備の方、ですよね?」
どうやらマント姿のラインアーサを見て、王宮の警備隊と勘違いしたらしい。まあ。とりあえずそういう事にしておこう。
「あ、ああ…」
「ここに来たことは謝ります。でも、ただ景色を眺めていただけなんです。わたし、この場所が好きで……」
この場所が、好き? 何故?
先ほどから疑問ばかり浮かんでくる。ラインアーサはただただ目の前にいる女性を見つめていた。
「……眺めるだけなら、この国には他にもっと良い所があるはずだが」
「この場所が好きなんです。夢の中に出てくる場所と似ていて……」
「……夢?」
夢という言葉にラインアーサの鼓動がいっそう跳ねた。まるであの夢の続きを見ているような錯覚に陥りそうだ。
「でも、王宮の敷地内という事はわかってます。勝手に入り込んですみません……もうここへは来ませんのでどうか…っ」
女性はラインアーサの手からするりと抜け出すとぺこりと頭を下げ、少し泣きそうな顔をした。その顔にどうしようもなく息が苦しくなる。
「……眺める程度なら、別に来ても構わない」
「え、でも…」
「厳密に言うと、そこの小川のこちら側からが王宮の敷地だ。小川までならば問題無い……」
咄嗟に嘘を付いた。
あからさまな嘘だったが、先程の泣きそうな顔を見たらつい自然と口走っていた。
「本当に、いいの?」
「たまになら」
「ありがとうございます! ……警備さん、最初は怖い人だと思ったけどいい人なのね!」
そう言って、女性は花が
「…っ!」
心の中で渦巻き始めた感情にラインアーサは戸惑っていた。 冷静になれ、と自らを叱咤しラインアーサは息を吐く。
この女性はあの少女ではない。あの日の状況と似た要素が重なったからといって、思い出と今起こっているただの偶然を混同させてはいけない───。
そう自分に言い聞かせた。
あの少女はとても幼かった。十一年たった今でも、まだ十四、五歳の少女だろう。目の前にいる女性はどう見ても十八、九歳で成人している様に見える。高めの身長にすらりとした手足。そこそこ露出のある服装に色気も少々。そんな馬鹿らしい考えまで浮かんでくる始末だ。ラインアーサは
「今日は
「あ、お店の準備があって……それにわたし、たぶんこの国の出身じゃないせいか、賑やかなのはあんまり得意じゃなくって」
「店…?」
まさか、この女性は
そういった
店で働いているのだろうか? と無駄に詮索してしまいそうになる。しかし喋り出すと見た目以上の幼さに気が抜けた。「そうなの、この
「そうか、なら好きな時に此処へ息抜きに来るといい……」
以前ラインアーサがそうだった様に、この場所が疲れを癒すならば。
「ありがとう! でもこの国の王様って本当にお祭り好きなんですね。半年後には
その言葉にはっとした。父、ライオネルをはじめ国民たちは賑やか事を好み、何かとお祭り騒ぎになる事が多い。その騒ぎに乗じて
「……この国の警備は決して怠ってはいない」
この一言を返すのがやっとだった。
「あの! そんなつもりじゃないです……変に意見してしまってごめんなさい……」
「いや……自分もそう感じていたから」
辺りはすっかりと夜の空気に変わっていた。心地良かった風も冷たくなり肌寒い。
「あ! もうそろそろ開店時間!! 急いで戻らないとまた怒られちゃう。わたし、この森のすぐ表にある〝Fruto del amor〟っていう
そう言うと女性は少し幼い表情でまた微笑んだ。そして、小さく会釈をすると森の中へと駆けて行ってしまった。そういえばこの森の表にはこの都で一番賑わっている
「……名前、聞いとけば良かったかな……。!! ああっ! そういえば!!」
ハリとの約束が頭からすっかりと抜け落ちていた事を思い出す。まさにその
「遅いですよ。一体どこでどんな時間の潰し方してたんです? 後少しで帰る所でした…」
「本当、悪かったって! なんか奢るからそんな怒るなよ」
BAR Fruto del amorの扉の前でラインアーサとハリは小さな口論していた。
「適当に時間を潰しすぎですよ、全く。そうですね……では、この店で一番良い
「はーい、なんでもどうぞ」
兎に角ハリの機嫌を直す為、ラインアーサは素直に返事を返した。
「そういえば、これ。必要かと思って持ってきましたけど」
ハリはラインアーサに
「ん、助かる」
ラインアーサは正装用に綺麗に解かされていた髪を無造作にかきあげ、いつものように後ろで小さく結わえた。そうする事で少しは印象を変えられると思っているのだが、実のところその効果は半々だ。特に年配の者や長くこの国に住んでいる者など、分かる人には分かってしまうようだ。
BAR・Fruto del amor (バル・愛の果実)
石造りの壁にこぢんまりとした木製の扉を開くと、すぐに地下へ続く石の階段がある。石階段を降り切ると外からは想像出来ない位の広さに驚く。カウンターに二階席まであり、ほとんどの席が客で埋まり店内は大賑わいを見せている。人々の活気と熱気で店内と外の温度差はまるで違っていた。
「暑いな! すごい熱気だ」
ラインアーサはマントを脱いで手に持った。
「ですね。だいぶ賑わってる様で、何処か空席があると良いのですが」
賑わう店内を見渡すと、やはり満席状態の様だった。
二人が席を探していると、少しぶっきらぼうな口調の若い男性店員が声をかけて来た。
「いらっしゃい。お客さん二人? 今日は
「ああ。かまわないよ」
そもそも、
常秋というこの国の特殊な気候は作物や果実の収穫に多大な恵みをもたらし、中でも数多く造られる酒はどれも絶品だ。
「とりあえず、乾杯だな!」
「……」
ラインアーサが明るく声を上げるも、ハリは伏し目がちで尚且つ無言のまま葡萄酒の入った杯をラインアーサの杯へと合わせた。
「ノリ悪っ! なんだよハリ、それ本当に一番良い葡萄酒なんだからな」
「ですが、こんな所であまり騒いだら目立つかと思いまして」
聞き耳を立てると周りの客たちは専ら、〝アーサ王子〟と〝イリア王女〟二人が同時に帰国と言った最新の話題で持ちきりだった。日中行われた
「ライアはよくこんな中で飲めますね」
「こんなに賑わってるのに、大人しくしてる方が目立つと思うけど? 堂々としてた方が案外分からないもんだよ。あ、おにーさん、麦酒おかわりね!」
ハリはまたもや呆れて溜息をついた。
「全く、貴方という人は……」
それから二人は運ばれて来た料理と酒に舌鼓を打ちつつ、周りの客の話題に耳を傾けては色々な情報を頭に入れていった。大よその話を聞き
「それよりもライア、飲みすぎは禁止です。と言うかそろそろ戻りませんか?」
ハリがラインアーサの腕ごと掴み空になった杯を覗き込む。そして、あからさまに嫌そうに顔を顰めた。
「何だよ。今日位はたくさん飲んだって構わないだろ?」
だいぶ酒が進み、ラインアーサもハリも周りの喧騒に溶け込んでいた。ラインアーサはハリの手を振りほどきながら反論する。イリアーナを捜し出し、無事に帰還すると言う大役を終えたのだ。今日くらい自分に少々の褒美をあげても罰は当たらない筈だ。
「いいえ、駄目です。これ以上飲みたいのでしたら帰って自室で飲んだら如何です?」
「えー? 自分の部屋でひとり酒なんて美味いわけないだろ! だいたいハリは付き合ってくれないじゃあないか」
「私はライアの情報収集という名のナンパ行為には付き合い切れませんからね」
薄らと顔が赤く染まっているラインアーサに対して、ハリは涼しげな顔をしている。鋭く文句をつけるハリにすかさず反発する。
「違うって! 俺のはナンパという名の情報収集だ! ……ん? と言うかあれはナンパじゃあないって!」
自分でもよくわからない言い訳をした。そこまで酔ったつもりはないが、段々と気が大きくなって来ているのは確かだ。ラインアーサに呆れた視線を送るとハリは思いきり深いため息を吐いた。
「はあ……。認めないつもりですか、全く。何でも良いですがとりあえず、あまり
ご無理
はなされないように」そう言うとハリは立ち上がり早々と帰って行ってしまった。
「なんだよ、ハリのやつ。俺の側近とか言ってた癖に先に帰ったな」
ラインアーサは確かに酒が進むと普段よりだいぶ気が大きくなる。しかし、ここは自国だ。他国を旅して情報を集めていた頃とは状況が違い、役目を果たした以上もう必要以上に情報収集する事もない。
「その位は弁えてるつもりなんだけど……まぁいいか。すいませーん! 麦酒もう一つ!」
「あ、はい!」
ラインアーサは開き直り、近くに居た若い女性の店員をつかまえて追加の注文をする。
「あと野菜たっぷりの卵のヤツも追加……って君……」
何気無く見上げた店員の顔を覗き込むと、その瞳と瞳が交わり合った。
───ほんの一瞬だったのに、長い時間見つめ合っていたような錯覚に陥った。
淡く虹色に煌めく瞳。
抜ける様な白い肌に赤い花びらを落とした唇。
薄い
間違いない、先程裏の森で出逢った女性がラインアーサのすぐ目の前に居た。
「あ、あの……お客さん…?」
鈴を転がした様な澄んだ声に呼ばれ、我に返る。
「君、さっき店の裏で…」
「??」
髪型が違うからなのかマントを脱いだからなのか……。先程〝警備隊員〟として出逢っているのだが、ラインアーサと同一人物だと言う事に気付いていない様子だ。それならば早々に名を名乗り、彼女の名を聞き出せば良い。情報収集ではないとなるとそれこそ個人的なナンパになるのだろうか? などと考えるもラインアーサは椅子から立ち上がり、笑顔で店員の女性に明るく声をかけた。
「俺の名前はライア! 君は? 良かったら君の仕事が終わった後一緒に…っぐあっ!?」
突然脇の辺りに衝撃が走る。身を屈めて脇をさすっていると頭の上から先ほどとは程遠い低い声が降ってきた。
「お客さん……注文は以上ですか?」
そこには入り口で席を案内した若い男性店員が立っていた。そして何故か拳を握っている。ラインアーサの脇腹を小突いたのは、その拳である事は間違いない。
「ちょっと、何するんだよおにーさん。今の結構痛かったんだけど?」
わざとらしく脇腹を擦りながら睨みつけると、その店員の後ろに隠される様にあの女性が立っていた。
「セィシェル…! わたし注文くらいちゃんと取れるよ? もう子供じゃないっていつも言ってるのに!」
「今日はもういい……スズはもう上がるか裏の片付けに回っとけ。また忙しい時に料理とか運んでもらうから」
「でもっ、少しくらい手伝わせて! 今日は特別忙しいんでしょ?」
「平気だって言ってるだろ!」
何やら二人で揉めているようだがラインアーサは注文の事などすっかり忘れていた。何故ならたった今聞こえてきた名前が、ラインアーサの頭の中を支配してしまったのだ。
スズと呼ばれる先程出逢った、この女性。
ラインアーサの幼い初恋相手の名と重なる。そして、思い切り脇腹を小突いて来たこの男性店員の名はセィシェル。遠い記憶が呼び起こされる───。
もはや間違いないだろう。ラインアーサは呆然と二人を見比べた。
「お客さん、注文の追加は構わないけどうちの店員に個人的に声をかけるのは……んん? あんた! まさか……ライアとかいう変態ロリコン男か!?」
「は? 変態ロリコン?!」
言われのない呼称にラインアーサは憤慨し顔を顰めた。
「セ、セィシェルの知り合いなの?」
「こんな奴、知り合いなもんか!!」
セィシェルはスズをラインアーサから隠す様に立つと、思い切り睨みつけてくる。ラインアーサも思わず睨み返す。
「……っ」
「何だよ……あんた。またスズにちょっかい出す気か? 余計な事したら今度こそただじゃあおかないからな」
「また? 余計な事、だと?」
「セィシェル…。何のこと?」
ラインアーサはスズに余計な事をしただなど微塵も思っていない。
「スズは気にしなくていい。あの時はまだ小さかったから覚えてないだろ? こいつのせいで大変だったんだ……それに前に教えただろ、変態でロリコンっぽい男がいるって話」
ほぼ聞こえているがセィシェルがそう耳打ちすると、スズの表情が一瞬強張った。途端にラインアーサを見る視線が怯えた物に変わる。その眼差しに、ラインアーサは頭をがつんと打ち付けられたような衝撃を受けた。今のはどう考えても嫌われたに違いない。
「っ…おいちょっと待て! 俺はロリコンでもなければ、変態でもない! 何を勝手な事…」
「どーだか! スズにあんな事をしておいて…。それにあんた四、五年前にうちの店でよく何人もの女に囲われてただろ。まるで女を侍らせるみたいにしてんの何度も目撃したしな」
四、五年前と言えば───。
確かにラインアーサはこの
「とにかくこいつは女好きの変態には違いないだろ! スズには絶対に近づかせない!」
「…っ!」
「……でもセィシェル、注文はどうするの?」
それでもまだラインアーサを客として扱おうと、スズが目線を合わせてきた。しかしそれも一瞬でそらされてしまう。
「……じゃあ、それ食べたら帰ってくれ」
セィシェルは乱暴にそう言い捨てると、スズの手を強引に引きながら店の奥へと戻っていく。ラインアーサは何も反論出来ず、ただ二人の後ろ姿を眺めていた。
「……」
「ねぇお兄さん。旅の人?」
唐突に背後から声を掛けられる。
声に振り向くと、先程までハリが座っていた席に随分と派手な印象の女性が着席し、勝手に料理を口に運んでいた。
「……それ、俺のなんだけど」
「温かいうちに食べないと勿体無いわ」
ラインアーサは短く息を吐き、その女性の隣に腰を下ろした。
「あの子ね、異国情緒溢れる容姿が男性客に凄く人気みたいね。いわゆるここの看板娘ってやつなのよ」
あの子とはスズの事を指すのだろう。頼みもしていないのに派手な女性は喋り続ける。
「……で。あの子に声をかけたり、個人的に誘う様な男が来ると必ずセィシェルってさっきの男の子が来て今の貴方みたいに厳しく注意されるってわけ。この
「何がおかしい?」
その女性の含みのある笑みが無性にラインアーサを苛立たせた。
「…っだって、お兄さんの顔! ものすごぉく傷付いたって顔をしてるんだもの! あはっ」
終には吹き出す女性。吹き出す程そこまで酷い顔をしているのだろうか。
「はあ。それであのスズって子は……」
「あの子はスズランちゃんって言ってね、ここに住み込みで働いてるの。それから、セィシェルって子はこの
スゥ──スズ…。
どうやらスズとはラインアーサの〝アーサ〟と同じく愛称だった様だ。
「スズランか、綺麗な名だな。色々教えてくれてありがとう。俺はライアだ、えっと君は?」
「どういたしまして。あたしはエリィよ」
エリィは食台に肘をつき、首を傾げて意味深にラインアーサの瞳を覗き込む。その仕草と目線にはたっぷりの色気があり、ラインアーサもその意味が分からない訳ではない。
「……」
「ちょっとぉ、そんなにあの子の事が気になるの? あの子、まだお子さまじゃあないの」
「お子さま? 彼女は成人してないのか?」
「あの子まだ歳は十五なんですって! まぁ……確かに見た目は少し大人びてるわね、でも見てると中身はまだまだ可愛いのよ」
「十五!? そ、そうなのか…? 俺はてっきり十八、九位かと…」
ラインアーサは本日何度目かの衝撃を受けた。
「やぁね、お兄さん……せっかく誘ってるのにそんな風に上の空だと話にすらならないじゃあない。今日の所は諦めてあげる、またね」
そう言い残しエリィは去っていった。
その後勘定を済ませ
今日と言う一日の中で色々な事があり、起きた出来事を頭の中で整理するとラインアーサは大きく息を吐いた。
「はぁ。……今日はもう帰って寝よう」
「何かあったんです?」
その声に顔を上げると、そこにはハリが立っていた。
「ハリ!」
「遅いので迎えに。本当にナンパをなされて朝帰りなどされましたら陛下が心配しますので」
「俺はそんな事…」
言いかけたが、瞬時に先程の出来事が脳内を過ぎる。
「何やら捨てられた犬の様な顔をしてますけど、相手にされなかったとか?」
「……違う。別に、今日はそんな気分でもないからもう帰るとこだったけど?」
ハリは一瞬疑いの眼差しをラインアーサに向けたが、すぐ無表情になり前に向き直った。
「そうですか、では戻りましょう。それと、陛下がライアを探していました。今日はもう遅いので
「そっか、対応させて悪かったな」
「いえ、これでも私は貴方の側近ですから」
「はは……お手柔らかにお願いするよ」
それから、王宮の自室へ戻り寝支度をするも寝付けずにいた。静寂の広がる寝室の広いベッドの上で何度も寝返りをうつ。
あの怯えたような視線を向けられた瞬間、ひどく心がかき乱された。
「ああ、もう! ……なんなんだ」
ラインアーサは勢い良く起き上がると思い切り
「……相変わらず口が悪い…!」
さらりとした金色の髪と垂れた目元。
「とにかく、変な誤解だけは解いてやる。見てろよあのガキ!」
ラインアーサは再び横になり瞳を閉じると、強引に夢の世界へとその身を投じた。