胸騒ぎ
文字数 13,540文字
ラインアーサは広間に集まっている連絡隊の中にハリを見つけて駆け寄った。
「ハリ! 何か新しい情報は入ってるか? それと、何故父上が既に現地で動いてるんだ?」
「ライア、視察から戻っていたのですね。陛下は昨日、セラフィール様の元へとお出かけになったのですがそのまま戻られていなかった様で…」
「そうか、父上はお祖母様の見舞いにノルテへ出かけてたのか」
誘拐事件が起こったノルテ地区は、都の北側の山間部にある区域で小さな集落しかない。だが、シュサイラスア大国ではもっとも穏やかで平和な地区だ。
都市部より空気が良い為、先代国王の妃 セラフィールが別荘を構え療養している地でもある。内乱後に移り住んできた避難民たちにも密かに人気が高い。
「あんなにのどかなノルテで誘拐事件…? ジュリ、ノルテの警備体制はどうなんだ?」
自国の警備体制を疑う訳ではないがラインアーサは顔を顰めてジュリアンに尋ねる。
「確か……ノルテ地区は駐屯部隊が二交代制で警備してる筈だぜ」
「そうか。……ハリ、被害者はどんな人物か分かるか?」
「ええ。ただ今情報が入ってきたので。その情報によりますと、被害者は十代半ばの少女の様です」
少女が誘拐されたと知りラインアーサの表情はますます険しくなった。
ハリが報告書に目を通しながら続ける。
「何やら突然空間が歪み、その裂け目から現れた黒いマントフードの男に裂け目の中へと連れ去られた様です。……それも、親の目の前で」
それを聞いた瞬間、ラインアーサの頭の中は十一年前の忌々しいあの日へと逆戻りした。
「……ライア、どうかしましたか?」
「おいアーサ!? どうした? お前、顔色悪いけど大丈夫なのか?」
「…っ姉上!!」
ラインアーサは騒然とする王宮の広間からひとり飛び出すと矢の如く駆け出した。イリアーナの元へと急く。
後ろから何かを叫びながらハリとジュリアンが追って来ているのが分かったが足は止められなかった。何故なら似ていたのだ。何もかもが変わってしまった、あの日の出来事と。
リノ・フェンティスタ全土が闇に覆われてしまったあの日と……。
───十一年前のあの日は天気が良く、母子三人で王宮の中庭に植えられている大樹の木漏れ日の下でお茶を楽しんでいた。
父王 ライオネルは、隔月に一度の各国代表が集まる定例会議に出席しており王宮を留守にしていた……。
エテジアーナとイリアーナが手作りした焼き菓子や異国の珍しいお茶などを持ち寄る。大好きな家族と好物の菓子を楽しむ。それはラインアーサにとってお気に入りのひと時だった。
───しかしその瞬間はやはり突然に訪れた。
突如中庭に不穏な空気が漂い、空間を歪めながら現れたその〝真っ黒な裂け目〟はイリアーナを引き込んだのだ。エテジアーナとラインアーサの目の前で。
その日を境に、リノ・フェンティスタ各地では様々な事件や暴動が起きた。
事の発端は、ルゥアンダ帝国の皇帝・闍隍 が内乱を企てた事にある。ルゥアンダ帝国はマルティーン帝国と手を組み、他国を組み敷く為に様々な手を使った。
猛反発したオゥ鉱脈都市は壊滅に追い込まれた。
アザロア国は幼い姫を人質に取られ屈服。
イリアーナも中立を貫くシュサイラスア大国を従わせる為に誘拐されたのだ。
見兼ねた煌都パルフェの最高司祭とフリュイ公国の女公は、ルゥアンダ帝国を封印し闍隍 本人をも北の果ての大地へと封印するという措置 を取った。
現在も尚その北の大地には諸悪の根源が目覚める事が無い様にと、フリュイ公国の女公が〝人柱〟となり封印を続けているという。その封印は女公の硬い意志で半永久的に閉ざされており、この十一年の間解ける兆候は全くないのだと伝えられている。それ程迄に女公の力は高く、どの属性よりも強勢と言われている雷花の神気 を誰もが恐れた。
悪に手を染めた闇の皇帝が封印された事により、日々起きていた暴動などは徐々に収拾していった。
ルゥアンダ帝国と結託していたマルティーン帝国はあっさり中立の立場へと手のひらを返し、残された各国との講和条約を結び現在に至っている。その結果ルゥアンダ帝国は孤立し鎖国状態となり、他国との関わりを一切経ったのだ。
しかし、内乱が収集してもイリアーナの行方は一向に分からないままであった。その事がきっかけとなり、元々身体の強くないエテジアーナの病状は悪化。遂には無念のままにこの世を去ってしまった───。
「っ…またなのか? また家族が引き裂かれるなんて! 一体誰がこんな事を!!」
ラインアーサは焦る気持ちを抑えきれず、イリアーナの部屋へと着くなり扉も叩かず開け入った。
「姉上! 無事かっ!?」
突然大声をあげながら部屋に入ってきたラインアーサに対し、イリアーナが驚いた様子で此方を見やる。
「アーサ!? びっくりするじゃあない…。何かあったの? 何だか下も騒がしいから今使いをやろうとしていた所だったのよ?」
「姉上、よかった無事で…! 使いなんていいから、早くリーナを呼んで一人で居るのは避けてくれ! 俺、また姉上が攫われたら…っ」
するとイリアーナは更に戸惑った様にラインアーサの両肩にそっと手を置いた。
「どうしたの? アーサ、落ち着いて?」
そう言われて初めてラインアーサは少なからず冷静さを失っていた事に気が付いた。
後から追いついて来たハリとジュリアンも、ラインアーサの様子に驚いている。
「はぁ〜っ…やっと追いついた! アーサ、いきなりどうしたんだよ? 心配なのは分かるけど…」
「ジュリ、ハリ君も…。一体何があったの? アーサの様子もおかしいみたいだし」
「……」
イリアーナの質問に押し黙るとその場に重苦しい空気が漂う。だがその沈黙を破る様にハリが口を開いた。
「イリアーナ様。落ち着いて聞いてください…」
「っハリ、駄目だ! 姉上は…」
「いつかは耳に入ることです。でしたら今ここでお話した方が良いかと」
「でも…」
「アーサ、何があったの?」
ハリの言葉とイリアーナの不安げな眼差しを受け、ラインアーサは止むを得ずノルテ地区での一連の出来事をイリアーナに伝えた。イリアーナはやはり当時を思い出して気分が優れないのか、片手で口元を抑え俯きがちに肩を震わせていた。
「……ごめん、姉上。嫌なことを思い出させてしまって」
「イリア様。横になられた方が……」
呼ばれてすぐに駆け付けてくれたリーナが、心配そうにイリアーナの背に手を添えている。
「いいえ。わたしなら大丈夫よ、ありがとうリーナ。それよりも、その攫われてしまった子が気がかりでならないわ! あの時とは状況も違うだろうし、あまり参考にはならないかもしれないけど。……わたしの話を聞いてくれる?」
「姉上が、無理じゃ無いなら……」
イリアーナは、ぽつりぽつりと身に起きた当時の出来事を打ち明けた。
その内容が確かならば、ラインアーサが今まで密かに想定していた疑惑が一気に解明される。
空間を歪めながら現れる黒い裂け目。今までライオネルやジュストベルに尋ねてもはぐらかす様に躱されてきたが、〝黒い裂け目〟それこそルゥアンダ帝国の扱う魔術。空間移動の魔術に違いないのだ。
事件が起きた日と同日。他国に赴く為の主な移動手段である列車 の路線はマルティーン帝国の起こした津波により破壊され、使えない状態だった。その為、海を挟む他の大陸に移動する方法は殆ど無いに等しい。
しかしながらその裂け目に引き込まれたイリアーナは王宮の中庭から姿を消し、別の大陸にあるオゥ鉱脈都市で匿 われていたのだ。
裂け目が空間を捻じ曲げていたのは間違いない筈だ。
イリアーナは裂け目に引き込まれた先の空間に包まれた瞬間、酷い嫌悪感に苛まれ意識を失ったらしい。意識を取り戻してからも暫くは記憶が前後し、詳しいことは良く覚えていないとの事だった。
「じゃあ、姉上はその空間の先が何処へ繋がっていたのかは分からないって事か……」
「ええ、そうなのよ。大して役に立てなくて申し訳ないわ」
「そんな事ないよ、話してくれてありがとう。思い出したく無かっただろうに」
イリアーナは静かに首を横に振ると、話を続けた。
「……あの時は何処か薄暗い空間に、何人か集められたわ。おそらくわたしの様に無理矢理連れて来られた人たちだと思うの。記憶は曖昧だけども、中にはまだ幼い子もいたのよ。……今回攫われた子も無事に見つかると良いのだけど」
今回の事件はおろか、当時イリアーナを攫った実行犯ですら未だに特定できていない。空間移動の魔術を使えるのだから、やはり今回もルゥアンダ帝国の企みなのだろうか。
「ハリ。ノルテの事件について、他に情報はないのか? 犯人側からの要求とか」
「───ああ。困ったことに今の所、何もないのだよ」
不意に背後から大きなため息が聞こえ、振り向くとすぐ後ろにライオネルが立っていた。
「父上っ!? いつからそこに?」
「たった今ノルテから戻ったところだよ。皆お揃いで話し合っていたのかい? 私も参加させてもらおうかな」
「陛下! 申し訳ございません、我々警備隊が居ながらしてこの様な事件を起こしてしまい……本当に弁解の余地もありません!!」
ジュリアンは即座にライオネルの前に跪き、忠誠の姿勢をとる。
「ジュリ君、顔を上げてくれ。私こそ現地に居たのにも関わらず、事件を未然に防ぐことが出来なかった…。国王として恥ずべき失態だよ」
そう言いながら苦笑するライオネルの表情には、やはりいつもよりも覇気がない。聞きたいことが山程あった筈なのだが、その疲れきった顔を見ると追及するのを躊躇してしまう。
「父上…! もっと遅くなるかと思ってたのに」
王宮のある楓樹の都とノルテ地区は結構な距離がある、ライオネルの帰還は予測よりも格段に早い様に感じた。
「……ああ。馬車を飛ばしてもらい、急いで帰って来たからね。イリア? そんなに不安そうな顔をしなくても私はもうお前を何処にもやらないよ……さあ、今日はもうお休み」
「はい、お父様……」
「父上! 俺はまだ姉上の事が心配で…っ」
「アーサも……心配ないよ。この王宮内では魔術は使えない。強い術式が組んであるからね」
「!」
ライオネルが今しがた魔術と口にしたのを、ラインアーサは聞き逃さなかった。
「今、なんて? ……魔術が使えないって…」
「アーサ、話の続きは私の部屋で。そろそろイリアを休ませてやらなくては」
「分かった…」
ライオネルはイリアーナを気遣い部屋の扉へと向かう。ラインアーサも後を追うが途中リーナへ声を掛け、イリアーナを一人にしない様傍についていて欲しいと頼み込んだ。
「ではイリア。何も心配せずゆっくり休むのだよ?」
ライオネルは安心させる様に笑顔を向けながらイリアーナの部屋から退室し、ラインアーサたちもその後に続いた。
ライオネルの部屋へと場所を移し今回の事件の詳細を聞いたが、ラインアーサは全く納得出来ずにいた。
「犯人の狙いが分からない! 十一年前のあの時みたいにまた内乱を起こすつもりなのか?」
「いや、今の段階では判断がつかない。今回攫われたのは一般の民なのだよ。前回はイリアも含め皆、王族の家族が人質として狙われたのだから」
「じゃあ一体何が狙いなんだ? しかも元々はシュサイラスアの住民じゃあなく、避難してきてノルテでやっと幸せに暮らしていた家族じゃあないか!」
攫われたのは十五歳になる村娘で、内乱後に他国から疎開してきた一家の者だった。父親との畑仕事時、突然に起きた出来事だった様だ。
「アーサ殿下、落ち着いてください」
ラインアーサは思わず立ち上がると、そのまま落ち着かずに部屋の中を歩き回りコルトに宥められた。
「……とにかく明日 からは街中にも警戒する様にと触れを流す。勿論、警備体制も一度見直す必要がある。コルト、早速だが手続きをお願いするよ」
「はっ、承知いたしました」
「父上! 俺も手伝うよ」
「陛下。勿論の事ですが、俺も微力ながら手伝いをさせていただきます! どうかこのジュリアンにもご指示を…!!」
「ありがとう二人とも。ではジュリ君。早速だがこの事件が落ち着くまでの間、新たに編成する警邏 の隊長としての任務を君にお願いしてもいいかい?」
「っ…勿論です! 一刻も早く、民が安心して暮らせる街を取り戻して見せます」
「ああ、頼むよ」
ジュリアンが背筋を伸ばしてライオネルに一礼をする。
「ジュリ、俺も手伝うからな」
「……では、私もライアを守る為にご一緒します」
先程まで黙って話の成り行きを静観していたハリが突然発言し、その場の注目を集めた。
「なんだよ、ハリ…! 守るだなんて。俺はそんなに頼りないか?」
「いえ、そう言った意味ではなく。事件の首謀者の真意が分からない限り、闇雲に動くのは危険ではないかと思いまして」
「危険ってなんだよ」
「……わざわざ一般の民を攫い、何の要求もして来ないのは妙です。今回も王族を狙うための牽制 や偽装の可能性も考えられます。だとしたら、王子である貴方が狙われるかもしれませんよ?」
ハリの述べた意見にライオネルがはっと息を飲み、ラインアーサを見据えた。
「だからって。……それでも俺は、街の人々が危険にさらされてるのを安全な場所から見ているなんて出来ない!」
「ええ…。そう言うと思っていました。ですので、私もご一緒します」
「ジュリ君、ハリ君、どうか頼むよ。きっと止めても無駄なのだろう? アーサ……」
「父上、俺は家族が引き離されてばらばらになるのをこれ以上見ていられない…! 自分自身の力の無さは分かってる。けど、何もしないでいるのは嫌なんだ」
ラインアーサはライオネルとしっかり目を合わせた。ライオネルが深く息を落とす。
「アーサ。お前が無茶をしたら何の意味も無いのだからね? イリアが戻りやっと家族が揃ったばかりなのだから、少しは父様を安心させて欲しいものだよ」
「無理はしないよ。それと父上。……さっきこの王宮内では魔術が使えない様にしてあるって言った?」
「そうだよ。私はずっと後悔をしていたのだ。初めからこの術を……この結界を施しておけばあの時イリアは攫われずに済んだのだから。それに今は王国全土にこの結界を施したい所だが、流石に私一人では難しいからね」
「結界…。そうか! 父上、じゃあやっぱりあの空間に裂け目を作り出すあれは魔術って事だよな? そしてそれはルゥアンダの空間移動の魔術で間違いない?」
「! ……そうだが、アーサ。何故その術の名を?」
険しい表情でライオネルに見詰められる。しかしラインアーサの望む回答が返って来たことにより、抱えていた憶測は確信へと変わっていた。やはりこの目で一度は目の当たりにした、あの空間の裂け目こそが空間移動の魔術なのだと。
「アーサ。くれぐれも言っておくが魔術に興味本位で関わっては…」
「わかってるよ、父上。ジュストベルにも忠告されてるしそんなつもりはないよ」
「そうか。ならば良いが……さて、今日はもうお開きにしよう。皆、明日からの役割に備えて休んでくれ」
ライオネルの一言で各々が部屋を後にし、ラインアーサも退室しようとした。しかしどうしても気になる事があり足を止める。
「父上、もう一つ気になる事があるんだけど…。いいかな」
「なんだい? アーサ」
ラインアーサはエテジアーナが持っていたとされる、古代リノ族の能力について尋ねようとライオネルに向き直る。しかしライオネルの表情に何時もより疲れが見えた為、日を改めようと思い直す。
「……やっぱり今度でいいかな。だいぶ疲れてるみたいだから今日はしっかり休んでよ。父上こそ何でも一人でこなすし、一体何時休んでるの? ちゃんと寝てる?」
「ははは、息子に心配されるのでは私もまだまだだなぁ。私ならちゃんと休んでるよ? 昨日も休暇をとって息抜きがてら母上の見舞いに行ったのだからね。だが同じ地に居ながら事件が起こるのを防げず…。不甲斐なさばかりが先立つよ」
「それは父上のせいじゃないよ。早く実行犯を突き止めないとならないのは確かだけど…。そういえば、お祖母様は元気だった? 俺も会いたかったな」
内乱以前はこの王宮で共に暮らしていた祖母・セラフィール。
内乱前から体調を崩すことが多くなり、養生の為環境の良いノルテ地区の別荘へと身を移したのでなかなか会えなくなってしまったのだ。幼い頃のラインアーサは、セラフィールに良く懐いていた。
「元気だったよ。アーサの活躍を伝えたらとても喜んでいた」
「俺は別に活躍なんかしてないって」
ラインアーサははにかみながら指で自身の耳飾りに軽く触れた。
「そうか。お前の耳飾りは母上から譲り受けた物だったな」
「そう、右の耳飾りを片方」
ラインアーサだけでなく、シュサイラスア大国の王族たちはローゼン家に伝わる紋章が入った茜色で円型の耳飾りを常に身につける慣わしがある。これは王族だけが身に付けられる代物だ。
ノルテ地区へと移ると決めたその日、セラフィールは耳飾りの一方をラインアーサへと譲り渡してくれた。
「───あの日は、アーサがあんまりにも落ち込んで拗ねてしまったからね」
「もう勘弁してよ。当時は俺だってまだまだ子供だったんだからな! でも、お祖母様から頂いたこの耳飾りはずっと大事にしてる。左耳にも同じものを作って、いつも身につけてるよ」
「そうだな。これからも大事にするといい。実は私の耳飾りもお祖父様から譲り受けた物なんだよ。片方は母様に……アナに贈ったがね」
ローゼン家のこの耳飾りは大切な人に贈るという古い伝統風習があり、それを身内ではない異性に贈る行為は求婚を意味する。ライオネルも求婚の際にエテジアーナへ贈ったのだろう。
自然と母の話題になったのでラインアーサは思い切って聞いてみることにした。
「父上、やっぱり気になるから聞くけど……母様 が古代リノ族の能力を持っていたって本当? その能力って一体どんな物なの…?」
ラインアーサは何故かその能力のことが気に掛かり、どうも落ち着かないのだ。それはまるで大切な何かを失念してしまったときの、気持ちの悪い感覚に似ていた。
「……何故、そんな事を気にするのかな? その能力の事を知ってどうするんだい? アーサ」
ライオネルの纏う雰囲気が一変した様に感じた。先程までの気軽な口調は変わらないものの、声の調子が若干低くなっている。さも、聞いて欲しくないといった気配に圧倒されてしまいそうだ。
思い返せば昨日、書庫にてイリアーナに同じ質問をした直後に様子がおかしくなったのも気になる。
「……もしかして父上も姉上も何か知ってるのか? 俺だけ知らないって事? 昔、俺がジュストベルの授業をサボった所為なんだったら今からでも…」
「アーサ。ジュストベルに尋ねても無駄だよ。その件については誰に聞いても、詳細は教えられない…。特にお前にはな」
「な…っ何だよそれ! 俺だけが知らないだなんて気持ちが悪いよ! 何でだよ父上。俺はただ古代リノ族の能力と古 の術の関係性について知りたいだけなんだ…!」
「古の術……だと?」
その言葉を耳にした途端にライオネルの眼光が更に鋭くなるが、ラインアーサも負けじと青玉 の双眸を見つめ返した。
「……そうだよ。俺は古の術を使えるようになりたいんだ。術の幅を広げてもっと父上や周りの力になりたい」
その為にもラインアーサは魔術とは別の移動術を身につけたいと思案していた。
それが古の術ならば古代リノ族の能力とも何か関係があると踏んだのだ。しかしどちらの情報も少なく何も掴めない。それどころか古代リノ族の話になると、イリアーナもライオネルも様子が一変する。明らかな態度の変化を訝 しむな、と言うほうが無理であろう。
「古の術に移動の術があるだろ? その術を知りたいんだ。俺にも扱えるなら何をしてでも覚えたい」
「……アーサ。確かに魔術とは別に移動の術は存在する。しかし、どんなに術を磨いてもお前には扱えないのだよ」
ライオネルはラインアーサから視線を外すと大きく息をつく。
「どうして? そんなのわからないだろっ…」
「どうしても、だ。さあ、もう部屋に戻りなさい。明日からは忙しくなるからね。私ももう休むよ」
この話はもう終いだと言いたげに、ライオネルはふいとラインアーサに背を向ける。
「父上っ! まだ話の途中だ。時間がある時で構わないからその移動術について教えてくれよ」
「……」
「父上!!」
必死に食い下がってみるも、ライオネルは無言のまま奥の続き間へと去って行ってしまった。
「っ…父上、一体何を隠してるんだよ。母様の事だって…」
ラインアーサは仕方なく自身の部屋へと戻り、唯ひたすら考えを巡らせた。
空間移動の魔術を使うにはその場所や人の気配を感じることが大切だとエリィは教えてくれた。
ラインアーサも実際、イリアーナを探す時には似たような事をしていた。気配を感じ取り、その土地や地域にいるか否かの大まかな目星をつけていたのだ。しかし、見知った人物の気配でさえ明確には感じ取る事が出来なかった。
「気配を感じる、か……」
これがなかなか難しい。
───何気なくラインアーサはスズランの事を考えた。
「あいつ……今、何してんだろ…って俺も相当諦めが悪いな。明日からは忙しくなるし、もう考えるのはやめよう」
そう決め込みラインアーサはベッドへと潜り込む。しかし瞳を閉じてみるが一向に睡魔がやってこない。それどころかスズランの顔が瞼 の裏にちらつき始める。まるで、すぐ近くにいるかの様に感じてしまう程とても明確で鮮明な気配だ。スズランの居るバルと王宮とは距離的にも目と鼻の先程しか離れていない。その為かより近くに感じるのかもしれない……。などと無理矢理自身を納得させる。
かなり遅い時間にも関わらず、スズランはまだ起きている様だった。
試しにイリアーナの気配も辿ってみる。既に眠っているらしく、穏やかな気振りしか感じられない。
再びスズランに意識を戻し探ると、やはり明らかに起きている気配が感じられラインアーサは思わず身体を跳ね起こした。
「な、なんだかおかしな気分だ…」
これでは、まるでスズランの生活を覗き見してしまっている様な感覚に苛まれる。たしか昨日、書庫で調べた時にちらりと項目を読んだ。その場に居ながら遠く離れた場所を見通せる、透視 術という古の術に似ている。
「違う! 俺は透視をしたいんじゃあないって」
ラインアーサは思い切り頭を左右に振って意識を他のことへと分散させた。無理矢理読書をしてみたり、窓を開け放って外の空気を吸い込み、なるべくスズランの事を考えないよう努めた。
「っ…何だよ、あいつ。早く寝ればいいのに」
そうしているうちにラインアーサ自身にも漸く眠気が降りてきて、いつの間にかベッドの上で掛け布も被らずにふて寝してしまったのだった。
そうして迎えた朝。
ラインアーサはこの上なく寝覚めが悪かった。
「……どうした? 何時にも増してひでぇ顔してるぞ、アーサ」
そうジュリアンに声をかけられたが、そう言った当人もだいぶ寝不足気味な顔をしていた。
「ん、ちょっと寝付きが悪かったからな。そう言うジュリこそあんまり本調子じゃあなさそうだけど?」
「俺も大して眠れなかったんだ。でも今回事件の警邏 隊隊長を任されたんだ、しっかり気を引き締めないとな!」
何時もは茶目っ気の多い態度のジュリアンだが、今日はとても気合いが入っている。昨晩は一晩中、真面目に警備の計画を練っていたのだろう。
それに比べ、自身が眠れなかった理由が不純すぎて申し訳ない気持ちになった。
そこで不意に隣に立つハリの顔を見ると、彼もまたあまり顔色が良いとは言えない様だ。
「ハリは大丈夫なのか? 顔色がいつもより悪いみたいだけど酷いなら王宮で待機してても…」
「いえ。少し頭痛がありますけど問題ないです。さあ、私たちもジュリアンさんに付いて行きましょう……」
「そうだな」
───ジュリアンに続き警備隊の訓練場へ到着する。そこで警邏隊へと選出された隊員達と合流し、一班三人体制でいくつかの班を結成した。
ラインアーサとハリの二人はジュリアンとは別の班となり、城下の街を見回る事となった。
その他の班はノルテ地区や旧市街を含む各地域を見回る手筈だ。
「ハリ、別に一緒じゃなくたって俺は大丈夫だけど。それよりもさっき頭痛って言ってたけどお前こそ平気なのか? なんなら、癒しの…」
「本当に大丈夫ですから…!」
ラインアーサはハリの額に触れようと手を伸ばすも、直前で強く振り払われてしまった。
「!!」
「……すみません。本当に大丈夫なのでご心配なく」
「そうか? ならいいけど……」
いつもと少し様子の違ったハリを心配するも、本人はあくまでも普段通りに振る舞うつもりらしい。だが、少しでも辛そうな素振りが見えれば多少無理にでも休ませるつもりだ。
そうして早朝から城下の街を隈なく見回っているのだが、その街の様子は至って平穏そのものだった。むしろ良い事な筈だが何処か腑に落ちず、不安な気持ちを拭えない。
「───すごく、平和ですね」
ラインアーサが所属する班の班長、エミリオが小さく呟いた。
「そうだな、既に父上がノルテでの事件とそれに伴う注意事項を発表した筈なんだが……」
やはり先日エリィに指摘された通り、シュサイラスアの民は平穏な生活に慣れきってしまったのか。然して危機感を感じている様子がなく感じた。
「それでも通常時よりは女性や子どもの姿は少ないかと思いますが」
ハリが冷静に街の様子を眺めて分析する。
「確かにそうですね……」
「言われてみればそうかもしれないな。この時間帯ならもう少し人が集まっていてもおかしくないな」
確かに、普段なら広場の噴水や果実店の周辺には子どもたちや親子連れが多く見られる。だが、今日はそれ程その姿を見かけない。しかしそれを除けば至極平穏であり、街並みと人々の営みは変わらず緩やかに時間が流れていった。
───街の時計台が夕暮れを告げる鐘を空に響かせる。夕刻に一旦集合することになっている為、ラインアーサたちも所定の場所へ足を運ぶ。
普段と特に変わった様子は見られないため報告もすぐに済むだろう。恐らく、ジュリアンやその他の班も似た様な結果に違いないのだろうと思っていたのだが……。
集合場所に着くと、先に到着していた隊員たちの様子がおかしい。隊員たちはどうにも落ち着かず、そのうちの何人かは酷く項垂れている。俯く隊員の中にはジュリアンも含まれていた。ラインアーサを始め、ハリとエミリオもジュリアンのもとに駆け寄る。それでもジュリアンは顔を上げようとしなかった。
「ジュリ! 何があった?」
「ジュリアン先輩!!」
彼らの様子からして、何かあったのは間違いない。
「おい、ジュリ!」
するとジュリアンは悔しさと怒りが入り混じった声色で、弱々しく呟いた。
「……すまない、アーサ。俺は、陛下に合わせる顔がない…」
「何があったんだよ」
「……本当にあっと言う間だった。俺たちの目の前でやられた…」
「っ!? やられたって、まさか…!」
「そんな! 先輩達の目の前で?」
「俺たちは何一つ出来やしなかった…っ」
ラインアーサもエミリオも信じたくはなかったが目の前のジュリアンの様子からして、それは事実なのだろう。
「……被害者は?」
「旧市街にある飲食店の従業員で、住込みで働いていた少女だ。年齢は十七で内乱による孤児らしい」
「……?」
ラインアーサは被害者の詳細を聞いて何処か違和感を覚えた。
「また内乱の被害者か……しかも今度は孤児を狙うなんて何がしたいんだ!」
聞けば、昨日に続き今日も旧市街は城下の街と同じく平穏な一日だった様だ。それでも気を抜かずに旧市街を見て回ったが、何処にも異変は見当たらず逆に違和感を覚える程だったらしい。しかし通り掛かったある飲食店の前にて入り口を一人で掃き掃除をする女性従業員を見掛けた。注意を呼びかける為ジュリアンたちが近づいた瞬間の出来事だった。ものの数秒で、突然出来た空間の歪みに引き込まれていったという。
飲食店の主に確認を取り、既に王宮には報告済みだというがジュリアンはますます項垂れてしまっている。
その他の地域はやはり何時もと変わらず異変は見られない、との報告だったが、まだスール地区に行った班が戻ってきていない。
「とにかくジュリ。スール行きの班が戻り次第、王宮へ戻ろう」
「ああ……」
何とか意気を入れ直しジュリアンが立ち上がる。
丁度そのとき、スール地区担当の班長 アマランタが血相を変え、足早にジュリアンの元へと向かって来た。
そしてラインアーサたちの前に片膝を着くなり頭を下げた。
「殿下、隊長…! 申し訳ございません! このアマランタ、不覚を取りましたっ…。つい今しがた我々の目の前で少女が攫われてしまい…!」
アマランタの報告にその場に居た全員が耳を疑ったであろう。ラインアーサはもう一度事実を確認する。
「っ…アマランタ……本当なのか?」
ジュリアンもラインアーサと同じ心境なのだろう、隣で瞳を見開いている。アマランタに状況を確認すると、被害者は果樹園を営む父子家庭の少女。歳は十五で内乱後にシュサイラスアに移り住んだ民である。
昨日 から立て続けに狙われているのは、何故か未成年の少女ばかりだ。
犯人像を考察していると、突然ジュリアンがラインアーサの両肩を掴み俯きながら謝罪を述べた。
「アーサ、本当にすまない。陛下が俺の事を今回の事件の警邏隊隊長に任命して下さったってのにっ! 一日で二人も被害者を…っ。俺はどう責任を取れば…」
「……なんだよ、そんな言い方お前らしくもない。今は責任を取ることよりも、一刻も早く一緒に打開策を考えよう。そっちの方が大事だろ?」
「ああ。そうだよな…!」
「しかし。犯人は何故未成年の少女ばかり狙うんだ? それも、内乱後にこの国へ移住してきた者ばかり…」
ラインアーサはそこまで言うと、ある事に思い当たりはっと息を飲んだ。追い打ちをかける様にジュリアンが顔を上げ口を開く。
「……なあアーサ。俺、思ったんだけど。これってスズランちゃんにも当て嵌まるんじゃあないか?」
ジュリアンが閃いたと言わんばかりに顔を覗き込んでくる。ラインアーサは今まさに思っていた事を指摘され、思わず狼狽した。
「あの子まだ未成年だろ? しかもあの容姿から見て、確実に他国からの移民だろうし。違うか?」
先ほどラインアーサが感じた違和感はこれだ。違和感が確信に変わり全身から血の気が引いてゆく。
犯人の狙いはまだ不明瞭だが未成年の少女、尚且つ他国から移り住んだ民を意図的に狙って攫っている様に感じる。
「ジュリ、俺……」
「……しょうがないな、行けよ。報告と後の事は俺達に任せろ。ほんと落ち込んでる暇なんかないな!」
ジュリアンは漸く両肩から手を離すと、今度はラインアーサの背中を軽く押した。
「っ…悪い、頼むよジュリ」
ジュリアンに頭を下げバルの方へと走り出そうとしたが、視界の隅にハリの姿を捉え思わず足を止めた。
「ライア…。こんな時にどちらへ?」
「……ハリ」
事件の詳細を報告書にまとめ終えたハリが、不思議そうな顔をこちらへ向けている。
ハリにはスズランの事を一切話していない。
自身の恋心さえ否定していた。それ故ハリに相談するなど気恥ずかしく、これまで話題にすら出さなかった。
「アーサ、スズランちゃんの事話してないのか?」
「……言ってない」
「何でだよ! じゃあ俺が説明しとくからさ、アーサはスズランちゃんのとこに急げよ!」
「あ、ああ。でもまた適当に余計な事まで…」
「何言ってんだよ! 緊急なんだぞ?」
会話を聞いていたハリが怪訝そうな視線を送ってくる。
「…? 何の話です? こんな時に」
「まあ、あれだ。アーサの想い人も狙われるかもなんだ! 行かせてやってくれ」
「お、おい! ジュリっ!! 想い人とか言うなよ、知り合いだ……ちょっとした」
ジュリアンの言葉に過剰反応してしまい、それは逆にハリの興味を引いたらしい。ハリと目線がぶつかる。
「ライア、想い人なんていたのです…?」
「……違う、いない」
ラインアーサは首を横に振って見せた。
「嘘をつくな。好きなんだろう? いい加減認めて素直になれって! お前のこんなに青ざめた顔見た事ないぜ? それに、スズランちゃんが攫われてもいいのかよ!?」
スズランがあの空間の裂け目に囚われてゆくのを想像し、ラインアーサはぐっと拳に力を込めた。
「そんなの……駄目だ。そんな事絶対させない!」
「だったら、ここは俺とハリに任せて早くスズランちゃんのとこ行けって」
ジュリアンが何故こんなにもラインアーサの色恋沙汰に世話を焼くのか分からなかったが、スズランの事が気に掛かるのは事実だ。スズランの身の安全が危ういのであれば、今すぐにでも駆けつけて守ってやりたいというのが本音だった。
「早く行って王宮で保護すればいい」
「……そうだな、今のところはそれが一番安全かもしれない。ハリ、ジュリ。ごめん俺行くよ」
「……」
何故か刺す様に感じるハリの視線を受け流し、ラインアーサはこの場所を後にした。走り出た瞬間、鼻の頭に冷たい水滴が落ちてくる。
「雨か……」
雨はぽつり ぽつりと緩やかに地面に跡をつけていたが、あっという間に本降りになった。まるで行く手を阻 む様な激しい雨足にも怯まず、ラインアーサはひたすら酒場 へと疾走 した。
「ハリ! 何か新しい情報は入ってるか? それと、何故父上が既に現地で動いてるんだ?」
「ライア、視察から戻っていたのですね。陛下は昨日、セラフィール様の元へとお出かけになったのですがそのまま戻られていなかった様で…」
「そうか、父上はお祖母様の見舞いにノルテへ出かけてたのか」
誘拐事件が起こったノルテ地区は、都の北側の山間部にある区域で小さな集落しかない。だが、シュサイラスア大国ではもっとも穏やかで平和な地区だ。
都市部より空気が良い為、先代国王の妃 セラフィールが別荘を構え療養している地でもある。内乱後に移り住んできた避難民たちにも密かに人気が高い。
「あんなにのどかなノルテで誘拐事件…? ジュリ、ノルテの警備体制はどうなんだ?」
自国の警備体制を疑う訳ではないがラインアーサは顔を顰めてジュリアンに尋ねる。
「確か……ノルテ地区は駐屯部隊が二交代制で警備してる筈だぜ」
「そうか。……ハリ、被害者はどんな人物か分かるか?」
「ええ。ただ今情報が入ってきたので。その情報によりますと、被害者は十代半ばの少女の様です」
少女が誘拐されたと知りラインアーサの表情はますます険しくなった。
ハリが報告書に目を通しながら続ける。
「何やら突然空間が歪み、その裂け目から現れた黒いマントフードの男に裂け目の中へと連れ去られた様です。……それも、親の目の前で」
それを聞いた瞬間、ラインアーサの頭の中は十一年前の忌々しいあの日へと逆戻りした。
「……ライア、どうかしましたか?」
「おいアーサ!? どうした? お前、顔色悪いけど大丈夫なのか?」
「…っ姉上!!」
ラインアーサは騒然とする王宮の広間からひとり飛び出すと矢の如く駆け出した。イリアーナの元へと急く。
後ろから何かを叫びながらハリとジュリアンが追って来ているのが分かったが足は止められなかった。何故なら似ていたのだ。何もかもが変わってしまった、あの日の出来事と。
リノ・フェンティスタ全土が闇に覆われてしまったあの日と……。
───十一年前のあの日は天気が良く、母子三人で王宮の中庭に植えられている大樹の木漏れ日の下でお茶を楽しんでいた。
父王 ライオネルは、隔月に一度の各国代表が集まる定例会議に出席しており王宮を留守にしていた……。
エテジアーナとイリアーナが手作りした焼き菓子や異国の珍しいお茶などを持ち寄る。大好きな家族と好物の菓子を楽しむ。それはラインアーサにとってお気に入りのひと時だった。
───しかしその瞬間はやはり突然に訪れた。
突如中庭に不穏な空気が漂い、空間を歪めながら現れたその〝真っ黒な裂け目〟はイリアーナを引き込んだのだ。エテジアーナとラインアーサの目の前で。
その日を境に、リノ・フェンティスタ各地では様々な事件や暴動が起きた。
事の発端は、ルゥアンダ帝国の皇帝・
猛反発したオゥ鉱脈都市は壊滅に追い込まれた。
アザロア国は幼い姫を人質に取られ屈服。
イリアーナも中立を貫くシュサイラスア大国を従わせる為に誘拐されたのだ。
見兼ねた煌都パルフェの最高司祭とフリュイ公国の女公は、ルゥアンダ帝国を封印し
現在も尚その北の大地には諸悪の根源が目覚める事が無い様にと、フリュイ公国の女公が〝人柱〟となり封印を続けているという。その封印は女公の硬い意志で半永久的に閉ざされており、この十一年の間解ける兆候は全くないのだと伝えられている。それ程迄に女公の力は高く、どの属性よりも強勢と言われている
悪に手を染めた闇の皇帝が封印された事により、日々起きていた暴動などは徐々に収拾していった。
ルゥアンダ帝国と結託していたマルティーン帝国はあっさり中立の立場へと手のひらを返し、残された各国との講和条約を結び現在に至っている。その結果ルゥアンダ帝国は孤立し鎖国状態となり、他国との関わりを一切経ったのだ。
しかし、内乱が収集してもイリアーナの行方は一向に分からないままであった。その事がきっかけとなり、元々身体の強くないエテジアーナの病状は悪化。遂には無念のままにこの世を去ってしまった───。
「っ…またなのか? また家族が引き裂かれるなんて! 一体誰がこんな事を!!」
ラインアーサは焦る気持ちを抑えきれず、イリアーナの部屋へと着くなり扉も叩かず開け入った。
「姉上! 無事かっ!?」
突然大声をあげながら部屋に入ってきたラインアーサに対し、イリアーナが驚いた様子で此方を見やる。
「アーサ!? びっくりするじゃあない…。何かあったの? 何だか下も騒がしいから今使いをやろうとしていた所だったのよ?」
「姉上、よかった無事で…! 使いなんていいから、早くリーナを呼んで一人で居るのは避けてくれ! 俺、また姉上が攫われたら…っ」
するとイリアーナは更に戸惑った様にラインアーサの両肩にそっと手を置いた。
「どうしたの? アーサ、落ち着いて?」
そう言われて初めてラインアーサは少なからず冷静さを失っていた事に気が付いた。
後から追いついて来たハリとジュリアンも、ラインアーサの様子に驚いている。
「はぁ〜っ…やっと追いついた! アーサ、いきなりどうしたんだよ? 心配なのは分かるけど…」
「ジュリ、ハリ君も…。一体何があったの? アーサの様子もおかしいみたいだし」
「……」
イリアーナの質問に押し黙るとその場に重苦しい空気が漂う。だがその沈黙を破る様にハリが口を開いた。
「イリアーナ様。落ち着いて聞いてください…」
「っハリ、駄目だ! 姉上は…」
「いつかは耳に入ることです。でしたら今ここでお話した方が良いかと」
「でも…」
「アーサ、何があったの?」
ハリの言葉とイリアーナの不安げな眼差しを受け、ラインアーサは止むを得ずノルテ地区での一連の出来事をイリアーナに伝えた。イリアーナはやはり当時を思い出して気分が優れないのか、片手で口元を抑え俯きがちに肩を震わせていた。
「……ごめん、姉上。嫌なことを思い出させてしまって」
「イリア様。横になられた方が……」
呼ばれてすぐに駆け付けてくれたリーナが、心配そうにイリアーナの背に手を添えている。
「いいえ。わたしなら大丈夫よ、ありがとうリーナ。それよりも、その攫われてしまった子が気がかりでならないわ! あの時とは状況も違うだろうし、あまり参考にはならないかもしれないけど。……わたしの話を聞いてくれる?」
「姉上が、無理じゃ無いなら……」
イリアーナは、ぽつりぽつりと身に起きた当時の出来事を打ち明けた。
その内容が確かならば、ラインアーサが今まで密かに想定していた疑惑が一気に解明される。
空間を歪めながら現れる黒い裂け目。今までライオネルやジュストベルに尋ねてもはぐらかす様に躱されてきたが、〝黒い裂け目〟それこそルゥアンダ帝国の扱う魔術。空間移動の魔術に違いないのだ。
事件が起きた日と同日。他国に赴く為の主な移動手段である
しかしながらその裂け目に引き込まれたイリアーナは王宮の中庭から姿を消し、別の大陸にあるオゥ鉱脈都市で
裂け目が空間を捻じ曲げていたのは間違いない筈だ。
イリアーナは裂け目に引き込まれた先の空間に包まれた瞬間、酷い嫌悪感に苛まれ意識を失ったらしい。意識を取り戻してからも暫くは記憶が前後し、詳しいことは良く覚えていないとの事だった。
「じゃあ、姉上はその空間の先が何処へ繋がっていたのかは分からないって事か……」
「ええ、そうなのよ。大して役に立てなくて申し訳ないわ」
「そんな事ないよ、話してくれてありがとう。思い出したく無かっただろうに」
イリアーナは静かに首を横に振ると、話を続けた。
「……あの時は何処か薄暗い空間に、何人か集められたわ。おそらくわたしの様に無理矢理連れて来られた人たちだと思うの。記憶は曖昧だけども、中にはまだ幼い子もいたのよ。……今回攫われた子も無事に見つかると良いのだけど」
今回の事件はおろか、当時イリアーナを攫った実行犯ですら未だに特定できていない。空間移動の魔術を使えるのだから、やはり今回もルゥアンダ帝国の企みなのだろうか。
「ハリ。ノルテの事件について、他に情報はないのか? 犯人側からの要求とか」
「───ああ。困ったことに今の所、何もないのだよ」
不意に背後から大きなため息が聞こえ、振り向くとすぐ後ろにライオネルが立っていた。
「父上っ!? いつからそこに?」
「たった今ノルテから戻ったところだよ。皆お揃いで話し合っていたのかい? 私も参加させてもらおうかな」
「陛下! 申し訳ございません、我々警備隊が居ながらしてこの様な事件を起こしてしまい……本当に弁解の余地もありません!!」
ジュリアンは即座にライオネルの前に跪き、忠誠の姿勢をとる。
「ジュリ君、顔を上げてくれ。私こそ現地に居たのにも関わらず、事件を未然に防ぐことが出来なかった…。国王として恥ずべき失態だよ」
そう言いながら苦笑するライオネルの表情には、やはりいつもよりも覇気がない。聞きたいことが山程あった筈なのだが、その疲れきった顔を見ると追及するのを躊躇してしまう。
「父上…! もっと遅くなるかと思ってたのに」
王宮のある楓樹の都とノルテ地区は結構な距離がある、ライオネルの帰還は予測よりも格段に早い様に感じた。
「……ああ。馬車を飛ばしてもらい、急いで帰って来たからね。イリア? そんなに不安そうな顔をしなくても私はもうお前を何処にもやらないよ……さあ、今日はもうお休み」
「はい、お父様……」
「父上! 俺はまだ姉上の事が心配で…っ」
「アーサも……心配ないよ。この王宮内では魔術は使えない。強い術式が組んであるからね」
「!」
ライオネルが今しがた魔術と口にしたのを、ラインアーサは聞き逃さなかった。
「今、なんて? ……魔術が使えないって…」
「アーサ、話の続きは私の部屋で。そろそろイリアを休ませてやらなくては」
「分かった…」
ライオネルはイリアーナを気遣い部屋の扉へと向かう。ラインアーサも後を追うが途中リーナへ声を掛け、イリアーナを一人にしない様傍についていて欲しいと頼み込んだ。
「ではイリア。何も心配せずゆっくり休むのだよ?」
ライオネルは安心させる様に笑顔を向けながらイリアーナの部屋から退室し、ラインアーサたちもその後に続いた。
ライオネルの部屋へと場所を移し今回の事件の詳細を聞いたが、ラインアーサは全く納得出来ずにいた。
「犯人の狙いが分からない! 十一年前のあの時みたいにまた内乱を起こすつもりなのか?」
「いや、今の段階では判断がつかない。今回攫われたのは一般の民なのだよ。前回はイリアも含め皆、王族の家族が人質として狙われたのだから」
「じゃあ一体何が狙いなんだ? しかも元々はシュサイラスアの住民じゃあなく、避難してきてノルテでやっと幸せに暮らしていた家族じゃあないか!」
攫われたのは十五歳になる村娘で、内乱後に他国から疎開してきた一家の者だった。父親との畑仕事時、突然に起きた出来事だった様だ。
「アーサ殿下、落ち着いてください」
ラインアーサは思わず立ち上がると、そのまま落ち着かずに部屋の中を歩き回りコルトに宥められた。
「……とにかく
「はっ、承知いたしました」
「父上! 俺も手伝うよ」
「陛下。勿論の事ですが、俺も微力ながら手伝いをさせていただきます! どうかこのジュリアンにもご指示を…!!」
「ありがとう二人とも。ではジュリ君。早速だがこの事件が落ち着くまでの間、新たに編成する
「っ…勿論です! 一刻も早く、民が安心して暮らせる街を取り戻して見せます」
「ああ、頼むよ」
ジュリアンが背筋を伸ばしてライオネルに一礼をする。
「ジュリ、俺も手伝うからな」
「……では、私もライアを守る為にご一緒します」
先程まで黙って話の成り行きを静観していたハリが突然発言し、その場の注目を集めた。
「なんだよ、ハリ…! 守るだなんて。俺はそんなに頼りないか?」
「いえ、そう言った意味ではなく。事件の首謀者の真意が分からない限り、闇雲に動くのは危険ではないかと思いまして」
「危険ってなんだよ」
「……わざわざ一般の民を攫い、何の要求もして来ないのは妙です。今回も王族を狙うための
ハリの述べた意見にライオネルがはっと息を飲み、ラインアーサを見据えた。
「だからって。……それでも俺は、街の人々が危険にさらされてるのを安全な場所から見ているなんて出来ない!」
「ええ…。そう言うと思っていました。ですので、私もご一緒します」
「ジュリ君、ハリ君、どうか頼むよ。きっと止めても無駄なのだろう? アーサ……」
「父上、俺は家族が引き離されてばらばらになるのをこれ以上見ていられない…! 自分自身の力の無さは分かってる。けど、何もしないでいるのは嫌なんだ」
ラインアーサはライオネルとしっかり目を合わせた。ライオネルが深く息を落とす。
「アーサ。お前が無茶をしたら何の意味も無いのだからね? イリアが戻りやっと家族が揃ったばかりなのだから、少しは父様を安心させて欲しいものだよ」
「無理はしないよ。それと父上。……さっきこの王宮内では魔術が使えない様にしてあるって言った?」
「そうだよ。私はずっと後悔をしていたのだ。初めからこの術を……この結界を施しておけばあの時イリアは攫われずに済んだのだから。それに今は王国全土にこの結界を施したい所だが、流石に私一人では難しいからね」
「結界…。そうか! 父上、じゃあやっぱりあの空間に裂け目を作り出すあれは魔術って事だよな? そしてそれはルゥアンダの空間移動の魔術で間違いない?」
「! ……そうだが、アーサ。何故その術の名を?」
険しい表情でライオネルに見詰められる。しかしラインアーサの望む回答が返って来たことにより、抱えていた憶測は確信へと変わっていた。やはりこの目で一度は目の当たりにした、あの空間の裂け目こそが空間移動の魔術なのだと。
「アーサ。くれぐれも言っておくが魔術に興味本位で関わっては…」
「わかってるよ、父上。ジュストベルにも忠告されてるしそんなつもりはないよ」
「そうか。ならば良いが……さて、今日はもうお開きにしよう。皆、明日からの役割に備えて休んでくれ」
ライオネルの一言で各々が部屋を後にし、ラインアーサも退室しようとした。しかしどうしても気になる事があり足を止める。
「父上、もう一つ気になる事があるんだけど…。いいかな」
「なんだい? アーサ」
ラインアーサはエテジアーナが持っていたとされる、古代リノ族の能力について尋ねようとライオネルに向き直る。しかしライオネルの表情に何時もより疲れが見えた為、日を改めようと思い直す。
「……やっぱり今度でいいかな。だいぶ疲れてるみたいだから今日はしっかり休んでよ。父上こそ何でも一人でこなすし、一体何時休んでるの? ちゃんと寝てる?」
「ははは、息子に心配されるのでは私もまだまだだなぁ。私ならちゃんと休んでるよ? 昨日も休暇をとって息抜きがてら母上の見舞いに行ったのだからね。だが同じ地に居ながら事件が起こるのを防げず…。不甲斐なさばかりが先立つよ」
「それは父上のせいじゃないよ。早く実行犯を突き止めないとならないのは確かだけど…。そういえば、お祖母様は元気だった? 俺も会いたかったな」
内乱以前はこの王宮で共に暮らしていた祖母・セラフィール。
内乱前から体調を崩すことが多くなり、養生の為環境の良いノルテ地区の別荘へと身を移したのでなかなか会えなくなってしまったのだ。幼い頃のラインアーサは、セラフィールに良く懐いていた。
「元気だったよ。アーサの活躍を伝えたらとても喜んでいた」
「俺は別に活躍なんかしてないって」
ラインアーサははにかみながら指で自身の耳飾りに軽く触れた。
「そうか。お前の耳飾りは母上から譲り受けた物だったな」
「そう、右の耳飾りを片方」
ラインアーサだけでなく、シュサイラスア大国の王族たちはローゼン家に伝わる紋章が入った茜色で円型の耳飾りを常に身につける慣わしがある。これは王族だけが身に付けられる代物だ。
ノルテ地区へと移ると決めたその日、セラフィールは耳飾りの一方をラインアーサへと譲り渡してくれた。
「───あの日は、アーサがあんまりにも落ち込んで拗ねてしまったからね」
「もう勘弁してよ。当時は俺だってまだまだ子供だったんだからな! でも、お祖母様から頂いたこの耳飾りはずっと大事にしてる。左耳にも同じものを作って、いつも身につけてるよ」
「そうだな。これからも大事にするといい。実は私の耳飾りもお祖父様から譲り受けた物なんだよ。片方は母様に……アナに贈ったがね」
ローゼン家のこの耳飾りは大切な人に贈るという古い伝統風習があり、それを身内ではない異性に贈る行為は求婚を意味する。ライオネルも求婚の際にエテジアーナへ贈ったのだろう。
自然と母の話題になったのでラインアーサは思い切って聞いてみることにした。
「父上、やっぱり気になるから聞くけど……
ラインアーサは何故かその能力のことが気に掛かり、どうも落ち着かないのだ。それはまるで大切な何かを失念してしまったときの、気持ちの悪い感覚に似ていた。
「……何故、そんな事を気にするのかな? その能力の事を知ってどうするんだい? アーサ」
ライオネルの纏う雰囲気が一変した様に感じた。先程までの気軽な口調は変わらないものの、声の調子が若干低くなっている。さも、聞いて欲しくないといった気配に圧倒されてしまいそうだ。
思い返せば昨日、書庫にてイリアーナに同じ質問をした直後に様子がおかしくなったのも気になる。
「……もしかして父上も姉上も何か知ってるのか? 俺だけ知らないって事? 昔、俺がジュストベルの授業をサボった所為なんだったら今からでも…」
「アーサ。ジュストベルに尋ねても無駄だよ。その件については誰に聞いても、詳細は教えられない…。特にお前にはな」
「な…っ何だよそれ! 俺だけが知らないだなんて気持ちが悪いよ! 何でだよ父上。俺はただ古代リノ族の能力と
「古の術……だと?」
その言葉を耳にした途端にライオネルの眼光が更に鋭くなるが、ラインアーサも負けじと
「……そうだよ。俺は古の術を使えるようになりたいんだ。術の幅を広げてもっと父上や周りの力になりたい」
その為にもラインアーサは魔術とは別の移動術を身につけたいと思案していた。
それが古の術ならば古代リノ族の能力とも何か関係があると踏んだのだ。しかしどちらの情報も少なく何も掴めない。それどころか古代リノ族の話になると、イリアーナもライオネルも様子が一変する。明らかな態度の変化を
「古の術に移動の術があるだろ? その術を知りたいんだ。俺にも扱えるなら何をしてでも覚えたい」
「……アーサ。確かに魔術とは別に移動の術は存在する。しかし、どんなに術を磨いてもお前には扱えないのだよ」
ライオネルはラインアーサから視線を外すと大きく息をつく。
「どうして? そんなのわからないだろっ…」
「どうしても、だ。さあ、もう部屋に戻りなさい。明日からは忙しくなるからね。私ももう休むよ」
この話はもう終いだと言いたげに、ライオネルはふいとラインアーサに背を向ける。
「父上っ! まだ話の途中だ。時間がある時で構わないからその移動術について教えてくれよ」
「……」
「父上!!」
必死に食い下がってみるも、ライオネルは無言のまま奥の続き間へと去って行ってしまった。
「っ…父上、一体何を隠してるんだよ。母様の事だって…」
ラインアーサは仕方なく自身の部屋へと戻り、唯ひたすら考えを巡らせた。
空間移動の魔術を使うにはその場所や人の気配を感じることが大切だとエリィは教えてくれた。
ラインアーサも実際、イリアーナを探す時には似たような事をしていた。気配を感じ取り、その土地や地域にいるか否かの大まかな目星をつけていたのだ。しかし、見知った人物の気配でさえ明確には感じ取る事が出来なかった。
「気配を感じる、か……」
これがなかなか難しい。
───何気なくラインアーサはスズランの事を考えた。
「あいつ……今、何してんだろ…って俺も相当諦めが悪いな。明日からは忙しくなるし、もう考えるのはやめよう」
そう決め込みラインアーサはベッドへと潜り込む。しかし瞳を閉じてみるが一向に睡魔がやってこない。それどころかスズランの顔が
かなり遅い時間にも関わらず、スズランはまだ起きている様だった。
試しにイリアーナの気配も辿ってみる。既に眠っているらしく、穏やかな気振りしか感じられない。
再びスズランに意識を戻し探ると、やはり明らかに起きている気配が感じられラインアーサは思わず身体を跳ね起こした。
「な、なんだかおかしな気分だ…」
これでは、まるでスズランの生活を覗き見してしまっている様な感覚に苛まれる。たしか昨日、書庫で調べた時にちらりと項目を読んだ。その場に居ながら遠く離れた場所を見通せる、
「違う! 俺は透視をしたいんじゃあないって」
ラインアーサは思い切り頭を左右に振って意識を他のことへと分散させた。無理矢理読書をしてみたり、窓を開け放って外の空気を吸い込み、なるべくスズランの事を考えないよう努めた。
「っ…何だよ、あいつ。早く寝ればいいのに」
そうしているうちにラインアーサ自身にも漸く眠気が降りてきて、いつの間にかベッドの上で掛け布も被らずにふて寝してしまったのだった。
そうして迎えた朝。
ラインアーサはこの上なく寝覚めが悪かった。
「……どうした? 何時にも増してひでぇ顔してるぞ、アーサ」
そうジュリアンに声をかけられたが、そう言った当人もだいぶ寝不足気味な顔をしていた。
「ん、ちょっと寝付きが悪かったからな。そう言うジュリこそあんまり本調子じゃあなさそうだけど?」
「俺も大して眠れなかったんだ。でも今回事件の
何時もは茶目っ気の多い態度のジュリアンだが、今日はとても気合いが入っている。昨晩は一晩中、真面目に警備の計画を練っていたのだろう。
それに比べ、自身が眠れなかった理由が不純すぎて申し訳ない気持ちになった。
そこで不意に隣に立つハリの顔を見ると、彼もまたあまり顔色が良いとは言えない様だ。
「ハリは大丈夫なのか? 顔色がいつもより悪いみたいだけど酷いなら王宮で待機してても…」
「いえ。少し頭痛がありますけど問題ないです。さあ、私たちもジュリアンさんに付いて行きましょう……」
「そうだな」
───ジュリアンに続き警備隊の訓練場へ到着する。そこで警邏隊へと選出された隊員達と合流し、一班三人体制でいくつかの班を結成した。
ラインアーサとハリの二人はジュリアンとは別の班となり、城下の街を見回る事となった。
その他の班はノルテ地区や旧市街を含む各地域を見回る手筈だ。
「ハリ、別に一緒じゃなくたって俺は大丈夫だけど。それよりもさっき頭痛って言ってたけどお前こそ平気なのか? なんなら、癒しの…」
「本当に大丈夫ですから…!」
ラインアーサはハリの額に触れようと手を伸ばすも、直前で強く振り払われてしまった。
「!!」
「……すみません。本当に大丈夫なのでご心配なく」
「そうか? ならいいけど……」
いつもと少し様子の違ったハリを心配するも、本人はあくまでも普段通りに振る舞うつもりらしい。だが、少しでも辛そうな素振りが見えれば多少無理にでも休ませるつもりだ。
そうして早朝から城下の街を隈なく見回っているのだが、その街の様子は至って平穏そのものだった。むしろ良い事な筈だが何処か腑に落ちず、不安な気持ちを拭えない。
「───すごく、平和ですね」
ラインアーサが所属する班の班長、エミリオが小さく呟いた。
「そうだな、既に父上がノルテでの事件とそれに伴う注意事項を発表した筈なんだが……」
やはり先日エリィに指摘された通り、シュサイラスアの民は平穏な生活に慣れきってしまったのか。然して危機感を感じている様子がなく感じた。
「それでも通常時よりは女性や子どもの姿は少ないかと思いますが」
ハリが冷静に街の様子を眺めて分析する。
「確かにそうですね……」
「言われてみればそうかもしれないな。この時間帯ならもう少し人が集まっていてもおかしくないな」
確かに、普段なら広場の噴水や果実店の周辺には子どもたちや親子連れが多く見られる。だが、今日はそれ程その姿を見かけない。しかしそれを除けば至極平穏であり、街並みと人々の営みは変わらず緩やかに時間が流れていった。
───街の時計台が夕暮れを告げる鐘を空に響かせる。夕刻に一旦集合することになっている為、ラインアーサたちも所定の場所へ足を運ぶ。
普段と特に変わった様子は見られないため報告もすぐに済むだろう。恐らく、ジュリアンやその他の班も似た様な結果に違いないのだろうと思っていたのだが……。
集合場所に着くと、先に到着していた隊員たちの様子がおかしい。隊員たちはどうにも落ち着かず、そのうちの何人かは酷く項垂れている。俯く隊員の中にはジュリアンも含まれていた。ラインアーサを始め、ハリとエミリオもジュリアンのもとに駆け寄る。それでもジュリアンは顔を上げようとしなかった。
「ジュリ! 何があった?」
「ジュリアン先輩!!」
彼らの様子からして、何かあったのは間違いない。
「おい、ジュリ!」
するとジュリアンは悔しさと怒りが入り混じった声色で、弱々しく呟いた。
「……すまない、アーサ。俺は、陛下に合わせる顔がない…」
「何があったんだよ」
「……本当にあっと言う間だった。俺たちの目の前でやられた…」
「っ!? やられたって、まさか…!」
「そんな! 先輩達の目の前で?」
「俺たちは何一つ出来やしなかった…っ」
ラインアーサもエミリオも信じたくはなかったが目の前のジュリアンの様子からして、それは事実なのだろう。
「……被害者は?」
「旧市街にある飲食店の従業員で、住込みで働いていた少女だ。年齢は十七で内乱による孤児らしい」
「……?」
ラインアーサは被害者の詳細を聞いて何処か違和感を覚えた。
「また内乱の被害者か……しかも今度は孤児を狙うなんて何がしたいんだ!」
聞けば、昨日に続き今日も旧市街は城下の街と同じく平穏な一日だった様だ。それでも気を抜かずに旧市街を見て回ったが、何処にも異変は見当たらず逆に違和感を覚える程だったらしい。しかし通り掛かったある飲食店の前にて入り口を一人で掃き掃除をする女性従業員を見掛けた。注意を呼びかける為ジュリアンたちが近づいた瞬間の出来事だった。ものの数秒で、突然出来た空間の歪みに引き込まれていったという。
飲食店の主に確認を取り、既に王宮には報告済みだというがジュリアンはますます項垂れてしまっている。
その他の地域はやはり何時もと変わらず異変は見られない、との報告だったが、まだスール地区に行った班が戻ってきていない。
「とにかくジュリ。スール行きの班が戻り次第、王宮へ戻ろう」
「ああ……」
何とか意気を入れ直しジュリアンが立ち上がる。
丁度そのとき、スール地区担当の班長 アマランタが血相を変え、足早にジュリアンの元へと向かって来た。
そしてラインアーサたちの前に片膝を着くなり頭を下げた。
「殿下、隊長…! 申し訳ございません! このアマランタ、不覚を取りましたっ…。つい今しがた我々の目の前で少女が攫われてしまい…!」
アマランタの報告にその場に居た全員が耳を疑ったであろう。ラインアーサはもう一度事実を確認する。
「っ…アマランタ……本当なのか?」
ジュリアンもラインアーサと同じ心境なのだろう、隣で瞳を見開いている。アマランタに状況を確認すると、被害者は果樹園を営む父子家庭の少女。歳は十五で内乱後にシュサイラスアに移り住んだ民である。
犯人像を考察していると、突然ジュリアンがラインアーサの両肩を掴み俯きながら謝罪を述べた。
「アーサ、本当にすまない。陛下が俺の事を今回の事件の警邏隊隊長に任命して下さったってのにっ! 一日で二人も被害者を…っ。俺はどう責任を取れば…」
「……なんだよ、そんな言い方お前らしくもない。今は責任を取ることよりも、一刻も早く一緒に打開策を考えよう。そっちの方が大事だろ?」
「ああ。そうだよな…!」
「しかし。犯人は何故未成年の少女ばかり狙うんだ? それも、内乱後にこの国へ移住してきた者ばかり…」
ラインアーサはそこまで言うと、ある事に思い当たりはっと息を飲んだ。追い打ちをかける様にジュリアンが顔を上げ口を開く。
「……なあアーサ。俺、思ったんだけど。これってスズランちゃんにも当て嵌まるんじゃあないか?」
ジュリアンが閃いたと言わんばかりに顔を覗き込んでくる。ラインアーサは今まさに思っていた事を指摘され、思わず狼狽した。
「あの子まだ未成年だろ? しかもあの容姿から見て、確実に他国からの移民だろうし。違うか?」
先ほどラインアーサが感じた違和感はこれだ。違和感が確信に変わり全身から血の気が引いてゆく。
犯人の狙いはまだ不明瞭だが未成年の少女、尚且つ他国から移り住んだ民を意図的に狙って攫っている様に感じる。
「ジュリ、俺……」
「……しょうがないな、行けよ。報告と後の事は俺達に任せろ。ほんと落ち込んでる暇なんかないな!」
ジュリアンは漸く両肩から手を離すと、今度はラインアーサの背中を軽く押した。
「っ…悪い、頼むよジュリ」
ジュリアンに頭を下げバルの方へと走り出そうとしたが、視界の隅にハリの姿を捉え思わず足を止めた。
「ライア…。こんな時にどちらへ?」
「……ハリ」
事件の詳細を報告書にまとめ終えたハリが、不思議そうな顔をこちらへ向けている。
ハリにはスズランの事を一切話していない。
自身の恋心さえ否定していた。それ故ハリに相談するなど気恥ずかしく、これまで話題にすら出さなかった。
「アーサ、スズランちゃんの事話してないのか?」
「……言ってない」
「何でだよ! じゃあ俺が説明しとくからさ、アーサはスズランちゃんのとこに急げよ!」
「あ、ああ。でもまた適当に余計な事まで…」
「何言ってんだよ! 緊急なんだぞ?」
会話を聞いていたハリが怪訝そうな視線を送ってくる。
「…? 何の話です? こんな時に」
「まあ、あれだ。アーサの想い人も狙われるかもなんだ! 行かせてやってくれ」
「お、おい! ジュリっ!! 想い人とか言うなよ、知り合いだ……ちょっとした」
ジュリアンの言葉に過剰反応してしまい、それは逆にハリの興味を引いたらしい。ハリと目線がぶつかる。
「ライア、想い人なんていたのです…?」
「……違う、いない」
ラインアーサは首を横に振って見せた。
「嘘をつくな。好きなんだろう? いい加減認めて素直になれって! お前のこんなに青ざめた顔見た事ないぜ? それに、スズランちゃんが攫われてもいいのかよ!?」
スズランがあの空間の裂け目に囚われてゆくのを想像し、ラインアーサはぐっと拳に力を込めた。
「そんなの……駄目だ。そんな事絶対させない!」
「だったら、ここは俺とハリに任せて早くスズランちゃんのとこ行けって」
ジュリアンが何故こんなにもラインアーサの色恋沙汰に世話を焼くのか分からなかったが、スズランの事が気に掛かるのは事実だ。スズランの身の安全が危ういのであれば、今すぐにでも駆けつけて守ってやりたいというのが本音だった。
「早く行って王宮で保護すればいい」
「……そうだな、今のところはそれが一番安全かもしれない。ハリ、ジュリ。ごめん俺行くよ」
「……」
何故か刺す様に感じるハリの視線を受け流し、ラインアーサはこの場所を後にした。走り出た瞬間、鼻の頭に冷たい水滴が落ちてくる。
「雨か……」
雨はぽつり ぽつりと緩やかに地面に跡をつけていたが、あっという間に本降りになった。まるで行く手を