真夜中の逢瀬
文字数 11,005文字
「ああ、ライア。良い所に……今から呼びに行こうとしてたんです」
部屋に戻る途中、王宮の廊下でハリと出くわす。
「今日は何時もより帰りが早いですね。もう野暮用とやらは良いのですか?」
「ああ、もう用は済んだんだ。気を揉ませて悪かったな……」
何処か上の空なラインアーサにハリは密かに眉を潜めた。
「ライア、眠いのですか?」
「いや、全然!! で、どうした? 俺に何か用事?」
「……ええ。イリアーナ様がライアの事をお呼びしていまして。今日も帰りが遅いと伝えましたが、とりあえず談話室でお茶の用意をしてお待ちするとの事です」
「ありがとう、じゃあ姉上の所寄ってみるよ」
「………」
イリアーナの元へと急ぐラインアーサの背を、ハリは心許なげに眺めていた。
───イリアーナの自室へ向かい談話室の扉を軽く叩く。中から「どうぞ」と声がし、中へ入るとお茶の良い香りと甘い焼き菓子の香りが鼻先を擽 った。そういえば夕食を取り損ねた事を思い出し、空腹感が急激に目を覚ます。
「姉上、何かあった?」
「あらアーサ! 早かったのね。ハリ君が居ないかも、と言ってたからもう少しかかると思っていたのに……」
「ああ、ちょっと出かけてたんだ。丁度今戻った所だよ」
「なら、もう夕食は済んで入らないかしら? 久しぶりに木の実を使った焼き菓子を作ってみたの……」
焼き菓子はラインアーサの好物である。以前はよくイリアーナと母 エテジアーナが手作りをしては食べさせてくれた。いわゆる思い出の味なのだ。その上、丁度良く空腹だ。入らない訳が無い。
「俺、夕食まだなんだ!」
「じゃあたくさん食べてね、作りすぎちゃったの!」
はにかんで見せたイリアーナに対し、ラインアーサも笑を浮かべた。
「じゃあ全部食べる!」
「うふふ、その顔は幼い頃のままね」
「そうかな?」
ラインアーサは照れながら首を傾げた。
そうして好物の焼き菓子を頬張りながらお茶を飲んでいると、不意にイリアーナが話かけてきた。
「お父様もハリ君も……アーサの事を心配してるわ」
「……ん、ごめん」
「良い歳して夜な夜な出歩いているからよ?」
イリアーナもまた心配そうにラインアーサを見つめる。
「悪かったよ……もう用は済んだし、暫く大人しくしてるさ」
「違うの! それもあるけど、わたしが言いたいのは誰か居ないの? って事よ」
「へ? ……誰かって誰?」
「……だから! 誰かいい人よ」
「いい人なら俺の周りはいい人ばかりだけど? ハリも父上もコルトも、もちろん姉上も」
ラインアーサのとぼけた返答に、イリアーナは盛大に溜息をついた。
「もう…! そうじゃあなくって、好いている異性の事よ! 若しくは気になる異性は居ないの?」
「っ!! げほっ……何だよ突然!」
突然そんな話題を振られて、ラインアーサは焼き菓子を喉に詰まらせた。
「アーサって意外と天然だわ。ますます心配よ……」
「そ、そんな事姉上に心配されなくても大丈夫だよ。姉上こそ、ブラッド兄様とはどうなってるの? 二人はとっても仲が良さそうに見えたけど?」
「え!? あの、、ブラッドとは、その…」
ラインアーサが話題を切り返すと、イリアーナの顔がみるみる赤く染まってゆく。
「知ってるよ、昔からブラッド兄様と姉上が想い合ってる事。もちろん応援してる。───今、父上がオゥ鉱脈都市の再建の手続きをしてる。もしかしたら都市 でなく公国 として一から再建だって出来るかもしれない。そしたら姉上は公妃 だね」
ラインアーサはさらりと微笑み、イリアーナを困らせた。
「!!公妃 だなんて! からかわないでちょうだい、アーサ」
「からかってないよ。ブラッド兄様が無事に生きてたんだ、公 の称号を収得するのも時間の問題だよ」
「そ、そうかもしれないけど……わたし」
「兄様を本当の兄上って呼べる日が来るのも、もうすぐかな?」
「アーサったら! ……でも。アーサがわたしを迎えに来てくれたから状況が一気に変わったのよ。もちろん良い方へと…! わたしもブラッドも長い間地下で、ずっと潜む様に怯えながら生活してきたわ……」
辛い日々を思い返したのかイリアーナは辛そうに瞳を伏せた。この十一年間、沢山の苦労をしたのだろう。その分二人には幸せになってもらいたいのだ。
「俺はただ姉上を迎えに行っただけだよ。ほとんどは父上が力を尽くしてくれたんだ」
「そんな、お父様からはアーサがとても頑張ったって聞いたのよ! それに、どうやってわたしたちの居場所を探し当てたの?」
「まあ。色々と情報を集めたり、知り合いの占術師に占ってもらったり…。後はその情報を元に、現地に足を運んで確かめたよ。ハリも協力してくれたんだ」
「……そうだったのね。二人にはたくさん苦労を掛けてしまったわね。改めて心から感謝するわ。ありがとう、アーサ」
イリアーナは涙をそっと拭い、ラインアーサに優しく微笑んだ。
「どういたしまして…! だって俺、ずっと信じてたんだ。姉上は絶対に無事だってね! 姉上こそ、無事でいてくれて本当にありがとう。だからこそブラッド兄様と二人で幸せになって欲しい」
ラインアーサもつられて微笑み返す。
「アーサったら……わたしは貴方にも幸せになってもらいたいのよ? もう無理なんてしなくていいのだから、これからは自分の事も考えてね」
「分かったよ……姉上」
自分の事……。
ライオネルも同じ様な事をぼやいていた。早く身を固めろと言う事なのだろうが、ラインアーサの次なる目標はハリの家族を探す事であった。ラインアーサはハリが心から笑うのを見たことがない。この十一年間、かなりの時間を共に過ごしてきた筈なのに何処か掴めない性格。手ごたえの薄い反応。やはり内乱以前の記憶が無い事が関係しているのだろうか。だから、せめて記憶を取り戻す事が出来ればとは考えている。それまでは一旦、自分の事を後回しにしよう。そうラインアーサは決めていた。たとえ、気付いてしまった想いがその身を焦がし続けても。
ラインアーサは残った手作りの焼き菓子を一つづつ包んでもらい、自室へと持ち帰った。
「明日ハリにも分けてやろうかな、姉上の焼き菓子はやっぱり絶品だ」
すっかり夜も更けていたが、まだ眠る気になれなかったラインアーサは寝室の出窓に腰を掛け、蒸留酒の入った杯を傾けていた。月の光が照明を落とした部屋へ射し入り影を作る。強めの酒は一気に廻り体温を上昇させた。
「一人で飲むのは味気ないな……ああ、そういえば」
不意にある事が頭を過る。酒場 で毎日の様に会っていたあの人物。特徴を思い出してゆくと、ある一つの〝可能性〟に居ても立っても居られなくなった。しかし酒場 は既に閉店の時刻を迎えている。しかもあのバルにはもう行かないと決めたばかりだった……だが、どうしても会って確かめたい事がある。致し方ないので少し日を置いて店の前で待ち伏せすると言う妥協案に辿り着く。
そうして、漸く眠気が降りてきたラインアーサは大きく欠伸をしながら窓の外を眺めた。眼下には城壁の外側にある横庭とあの森が月明かりに照らされ真夜中の静けさを演出している。その景色を一通り眺め、溜息を吐いた。気を抜くとどうしても浮かべてしまう。
───スズランの事だ。
この森の先はバルの裏庭へと続いている。数刻前、そこでスズランに無理矢理口づけをした。そして初めて自身の気持ちに気が付いてしまった。だが気付いた所でスズラン本人には嫌われたままなのだ。
ラインアーサは自分の気持ちに蓋をする様に瞳を閉じようとした。しかしその瞬間、森の樹々が微かに揺れた様な気がした。
気のせいかも知れない。にも関わらず、ラインアーサの足は一人でに駆け出していた。素早くマントを羽織り王宮の横庭へと急ぐ。
庭に出ると、ひんやりと静まり返った夜半の空気が肌を刺しラインアーサは肩を窄めた。昼間とは違い小鳥の囀りはなく、代わりに虫の鳴き声と小川のせせらぎがその場に響く。やはり気のせいだったのだろう。こう冷えた空気に長くあたれば風邪を引いてしまう。
「はあ、、何やってんだ、俺……」
それでもラインアーサは複雑な気持ちでその場に立ち尽くし、美しく空に浮かぶ望月を眺めた。暫くそうしているとやはり背後に人の気配を感じ、勢い良く振り返る。
その先にはラインアーサが想い浮かべていた人物が小川の石橋の中央に佇み、同じ様に空を見上げていた。
「っ…スズラン?!」
彼女の事ばかり考えていたので、その幻覚でも見たのかと思った。しかし側に近づくにつれてスズランの持つ甘い香りが仄かに香り、幻では無いのだと判る。
「だれ…!? もしかして……警備、さん?」
「…! っ何故、こんな時間にここへ来た? 夜の森は冷え込む上に危険だ。早く戻った方が良い」
「……えっと。警備さん、どうしてわたしの名前知ってるの?」
咄嗟に警備隊らしく振る舞うもスズランは困惑気味にラインアーサを見つめ返す。しまった。初対面の時に名前を聞きそびれていたにも関わらず、先程ラインアーサは堂々と名前を呼んでしまったのだ。
「……先日、酒場 に出向いた時に名を知ったんだ。突然馴れ馴れしく呼んで悪かったな」
咄嗟にそれらしい理由を述べる。それに、嘘は付いていない。
「あ、ちがうの! びっくりしただけ…。それより、お店に来たなら声を掛けてくれれば良かったのに! 警備さんならたくさんおまけしたんだけどな」
どうやらスズランは今のラインアーサに全くと言っていい程警戒心を見せない様だ。いくら暗がりとはいえ〝ライア〟と〝警備員〟は同一人物なのだと分かっても良いはずなのだが。
口づけの時といい……疑う、という事を知らないのだろうか。それでも今はその純真な心を利用させてもらおう。今、正体を明かせば忽ち警戒されてしまうだろう。ラインアーサは気付かれぬ様さりげなく前髪を撫で付け目元を隠した。
「警備さんはあんまりお酒好きじゃない? うちのマスターの自慢はお酒だけじゃなくて、お料理もとっても美味しいって評判なの! よかったらまた来てね」
スズランはにこりと微笑むとラインアーサをじっと見つめた。その眼差しに堪えられず、つい目をそらしてしまう。
「あ、ああ、麦酒。あと卵料理がうまかったな……」
「そうなの! マスターが仕入れにこだわってるって言ってたもの」
酒場 の話をするスズランは嬉しそうだ。そんな姿を見ていたら自然と言葉が出てきた。
「スズランは、酒場 の仕事が好きなんだな……」
「うん! でも警備さんこそ、こんな遅くまでお疲れ様。それにこの森は警備さんが守ってくれてるんでしょ? だから、夜でもぜんぜん怖くなかったよ」
「……そうか」
実際この森や王宮周辺にはライオネルによる強い結界が張ってあり、比較的安全ではある。ラインアーサが警備を勤めている訳では無いが、その結界内で悪事を働けばすぐ様本物の警備隊がやってくるだろう。
「それにマスターは捨て子だったわたしの事を本当の娘のように育ててくれたの。だからたくさん働いて恩返ししなきゃ……」
そう言うとスズランは石橋の欄干 に腰を掛けた。
「……」
捨て子……。
結局スズランの父親は迎えに来なかったと言う事なのか?それとも、イリアーナやハリの様に何らかの事情があるのだろうか。後者だと思いたい。それもおおかた、内乱被害の所為だろう。
シュサイラスア国内だけでは無い。世界中 に内乱の被害者が溢れている。十一年の月日を経て、漸く以前の様な平和な暮らしに戻りつつあるが……。スズランもまたあの内乱のせいで苦しんでいる一人なのだ。その事を考えると、ラインアーサは自分は本当に何も出来ない無力な存在だと嫌でも捉えてしまう。
「……ごめんなさい。こんな話して……警備さん、まだお仕事中なのに」
「いや、いいんだ。そんな事より君は捨て子などでは無い……きっと、何か理由があって君の事を迎えに来られないだけなんだ。だからそんな風に自分の事を…」
そう信じたいのだ。でなければ、何の理由もなしに我が子の側から離れるなど考えられないのだから。
「そんな事言ってくれたの、警備さんが初めて……なんか、夢の人みたい」
「夢の人?」
「子供の頃からよく見る夢なの。……その夢の人がね、お利口さんにしてたらちゃんと迎えに来てくれるって。そして一緒にパパを探してくれるって言っておひさまみたいに笑う素敵な人……。おかしいよね、自分が傷つかないようにって今でもこんな夢を見るなんて。それに、ここがその夢に出て来る場所にすごく似てるから…」
そう告げる横顔が寂しげだ。
スズランがあの日の出来事を夢だと思っていたとは。当時はまだ幼かった為なのか。それでも夢という形であれ、あの日の出来事を覚えていてくれた事は純粋に嬉しい。
「っ…何もおかしい事はない! 俺がもしその夢の人物でも同じ事を言う。だから……自分の事を捨てられたなんて…」
「ありがとう! でもわたし今はぜんぜんさみしくないの。マスターもセィシェル…。も本当の家族みたいだし、警備さんだってやっぱりすごくいい人!」
そう言ってスズランはラインアーサの大好きな笑顔を浮かべた。〝ライア〟には決して見せてくれないあの笑顔を。ラインアーサは自分自身に軽く嫉妬をした。如何様にもし難い想いが、ちくちくと胸中で渦巻く。
「っ…」
「警備さん?」
それでも屈託なく接してくれるスズランとの会話が嬉しくてつい話し込んでしまったが、スズランが寒そうに身を縮め小さくくしゃみをした。そういえばスズランは寝間着に薄いローブを羽織っているだけの姿だ。
「そろそろ戻った方がいい。風邪なんて引かせたら君の家族に申し訳ない。特に、セィシェルと言う者はだいぶ君に過保護らしいからな」
「……う、ん」
スズランが少し浮かない顔をした。
「どうした? 何かあったのか?」
「……なんでもないの。今日はなかなか眠れなくてここに来たんだけど、警備さんに会えてよかった。わたしの他愛もない話、たくさん聞いてくれてありがとう。今度はちゃんと眠れそう」
ラインアーサも眠れなくて誘われる様にこの場所へ来ていた。此処を訪れた時間が同じだった事にまた少し嬉しくなった。
「それは良かった。帰ったら身体をよく暖めるといい」
「うん、ありがとう……ねえ、警備さん。最後にひとつだけ、聞いてもいい?」
スズランが少し緊張気味に真面目な声色で尋ねてくる。
「何だ?」
「……その、えっと……男の人って、好きじゃない人にでも、、唇に……簡単にキス、とか、できるのかなって…」
最後の方は小声で殆ど聞こえなかったが、あの口づけの事を気に病んでの発言だろう。ラインアーサは罪悪感を覚え、ざわつく心臓の辺りを押さえた。理由は分かっていたが聞き返さずにはいられなかった。
「な、何故そんな事を?」
「……だって、わたし…。男の人の気持ちって分からなくて。その、唇は……はじめてで、、あ! あの、ちがうの!! わたしじゃなくてっ……一般的にどうなのかな? って、気になるっていうか! とにかく、わたしのことじゃないのっ!!」
赤い果実の如く頬を染め、一所懸命に否定する姿が可笑しく、純粋に可愛い……。そうラインアーサは思った。
「くくっ! そんなにむきになって否定し無くても」
一度は堪えたラインアーサだがやはり噴き出してしまった。
「うう、そんなにおかしいかな……あれ? 警備さんって笑うとなんだか……」
何故かスズランはますます頬を赤らめた。
急いで顔を引き締める。身近なハリを手本に冷静な態度を貫こうと努力したが、どうもラインアーサには難しいようだ。それでも即座に無表情を張り付け咳払いをするとなるべく低い声を出してスズランに謝罪した。
「……いや、笑って悪かった。そうだな、一般的に、ね。基本は同じ、男も女も関係ない。状況にもよるだろうが、愛しいと思うから相手の唇を奪う。当たり前の事だ」
「……そう、なの?」
「少なくとも、俺はそうだよ…」
その答は自分自身の心にも染み渡る。
スズランは頷きながら小さく何かを呟いたが、ラインアーサの耳には届かなかった。
「ん? 今何か…」
「ううん……ありがとう。教えてくれて」
スズランが何を考えているのか、ラインアーサとの口づけをどう思ったのかが気になる。しかしその答えを聞く勇気はない。
「……スズラン。冷えるからこれを」
ラインアーサは羽織っていたマントを脱ぎ、スズランの頭からふわりと被せて纏わせた。
「わぁっ!? そんな事したら警備さんが風邪ひいちゃうよ! わたしなら平気なのに」
マントから顔を出しラインアーサを少し困った様な表情で見上げるスズラン。
「いいから……戻るまで着ててくれ」
「だって、これは…」
ラインアーサはその顔を真っ直ぐに見ることが出来ず、やはり瞳を逸らしてしまう。ラインアーサは上着の懐へ一つ忍ばせていたイリアーナの焼き菓子を思い出し、そしてそれをスズランへ手渡した。
「これを。戻ったらあたたかい飲み物と一緒に食べるといい。元気が出る」
「……これ、お菓子?」
「俺の姉の手作りだが、味は保証するよ」
「ありがとう! とってもおいしそう!!」
これ以上スズランと話していても、ますます想いは募るばかりだろう。もう誤魔化すことの出来ないくらいラインアーサの気持ちは大きくなりつつある。
ならばもう会わない方が良いのかもしれない。
「さあ、そろそろ戻るんだ。そのマントは返さなくていいから…」
「そんな……ちゃんとお洗濯して返すよ。だからまた、ここで会える?」
「いつも此処に居るとは限らない。今日は偶然居合わせただけだ」
スズランが橋の欄干から立ち上がり顔を覗き込んでくるが、ラインアーサはつい愛想のない言葉を返してしまう。その瞬間、スズランが少し泣きそうな表情を浮かべたのでラインアーサの心臓はどきり跳ねた。
「……いつでもいい。気長に待つ事にするよ」
「よかった……もう会えないのかと思った。わたし、警備さんともっとお話ししたいの。あ、警備さんが迷惑じゃなければだけど」
何処までも純真で無防備なスズラン。そんな事を言われて喜ばない男はいない。これは 〝警備員〟としてのラインアーサに多少は好意を持っていると捉えて良いのだろうか。
「……スズラン」
スズランと瞳が合う。一度、瞳を合わせてしまったらもう逸らすことは出来なかった。数刻前、口づけをした時の記憶が蘇る。柔らかだった唇の感触……。
スズランの甘い香りがラインアーサを突き動かす。
「? ……警備さん? あと、わたし。警備さんの名前、知りたいな」
しかし突然名前を聞かれ、ラインアーサは狼狽えた。
───本名を名乗るか、それとも〝ライア〟だと明かすべきか…? しかし……。
「……悪いが、警備隊の規則で名は教えられない」
咄嗟にそんなありもしない嘘をついた。
けれどラインアーサも、もう少しだけ素のままのスズランと話がしたい。だから、本当の名を明かす事は出来なかった。
「そうなの、残念。でも、また会えるなら……」
スズランは残念そうに俯くも、もう一度ラインアーサの顔を覗き込んできた。何も考えずその顔を見つめていると、やや強めに左腕を引かれる。突然の事に均衡 を失いかけてよろめく。
「わ…っ!?」
前のめりにふらついた瞬間、左の頬の辺りにあたたかな物が触れる。柔らかい感触……。
それがスズランの唇だと理解するまで数秒かかった。
「っ…!?」
ラインアーサが唖然として立ち尽くしていると、スズランが悪戯そうな表情を浮かべた。
「あ、あのね。これって親愛の印なんだって…! あいさつみたいな物だって教わったの。だから、おやすみなさい警備さん!」
そう言うなり、スズランは全速力で森の中へと走り去ってしまった。ラインアーサのマントを引きずりそうになりながら───。完全に不意打ちだった。
ラインアーサは予想していなかった突然の出来事にその場へ屈み込んだ。
「……っなんだよ、今の…?」
そのままの状態から動けず石橋の上で暫く項垂れていた。
親愛の印、挨拶。恐らくセィシェルあたりがスズランに教え込んだに違いない。ではセィシェルの彼女に対する想いは親愛の情なのだろうか。ラインアーサに対する異常な迄の敵対心は……あの瞳は。
「あれは親愛の情なんかじゃあない……恋愛感情だろうが…!」
先程のラインアーサに対するスズランの行動は、純粋に挨拶替わりとしてのものだろう。しかし理由はどうであれ、スズランから口づけをされたのは二度目になる。
〝おまじない〟と称して口元に唇を寄せてきた幼いスズラン。思い返すとあの時、スズランは何らかの〝癒しの術〟を使ったのだ。幼い当時の頃から既にラインアーサの傷と痛みを、しかも一瞬で治すことのできる術を使えた筈だ。
「……雷花の神気 」
そう呟いてから、ふと疑問が浮かぶ。
幼いスズランが使った術は電気のような刺激を伴う物だったと記憶していた。その〝力〟が使える者はリノ・フェンティスタでもごく一部に限られている。だが高度な術を多用し、扱う者には到底見えないスズラン。潜在的に強い力を持っていても、術を行使する為には知識や技術を磨く必要がある。
ラインアーサも例外では無く、幼い頃から専門の指南役に様々な知識を教授されてきた。術の力を管理するには一般的に教育機関へ通うのが通例だが、大体が王族や術を活かした職に就く者が利用する場合が殆どだ。
スズランはそれを受けていないが為に上手く術を扱えないのだろう。
「彼女は、雷花の国から来たんだろうか……」
雷花の国。───フリュイ公国……。
結局ラインアーサは床に就いてからも熟睡出来ずに考えてしまうのはスズランの事ばかりだった。
───部屋に差し込む朝の光の眩しさで、不意に目を覚ます。
「……ん、もう朝なのか?」
いつの間にか眠っていたらしいが、全くそんな気がしない。それどころか酷い頭痛と倦怠感に襲われる。どうやら体調を崩したらしい。おもむろにベッドから起き上がり身支度を整えたが、余りの気怠さに顔を顰める。そもそもあまり朝は強くない体質だ。その時、出し抜けに自室の扉が叩かれた。ハリが来たのだろうと返事をするも、入って来た人物の姿にラインアーサは瞳を見開いた。
「……ジュストべル!」
ジュストベルはシュサイラスア大国の重臣 でありラインアーサの教育係だ。物腰柔らかな雰囲気を纏う老人だが、卒なく着こなした衣類や身だしなみから彼の人物の厳格さが見て取れる。
「お早うございます。ラインアーサ様」
にっこりと微笑むその人物に対して、ラインアーサはばつの悪い笑顔を浮かべた。
「お早う……久しぶりだな!」
「大変お久しゅうございますが、お変わりございません様で。さておき……貴方様には今一度、私 の再教育が必要かと」
「久々にだって言うのに何の冗談だよ……」
比較的周りに甘やかされて育ったラインアーサだが、ジュストベルにはなかなか厳しく指導を受け鍛え上げられた。成人と同時にイリアーナの捜査許可を得る為、ラインアーサ自身も望んだ事だったが。
「冗談などではありませんぞ? 貴方様は相変わらず向こう見ずな所が直っていない様で。何度申したら非公式で街を散策するのをお辞め頂けるのです。陛下のお気持ちを少しは考えた事はございますか?」
ハリよりも的確かつ説教っぽいジュストベルの小言は毎回ラインアーサを尻込みさせる。
「考えてはいるよ……でも俺だって別に闇雲に街を散策してる訳じゃあない。父上も知らない情報が色々と得られるんだ」
「それは民兵の護衛隊が行うべき職務です。貴方様には貴方様のなさるべき事がある筈……特に、各地から舞い込んで来る縁談申入れの書簡は溜まってゆく一方ですぞ? そろそろ落ち着かれても宜しいのでは」
「……縁談の件は父上と姉上にも言われたばかりなんだ。もう暫くは勘弁してくれよ」
実際に国としてはとても安定しているシュサイラスア大国。その王位継承者であるラインアーサには、未だに決まった相手所か婚約者すらいないのだ。
シュサイラスアはこの世界で一番の平和を誇り、他国から流れてくる者も多い人気の国だ。その国の継ぎ目の王子が未だ正妃は愚か側室も決まってないとなれば、各地の令嬢または他国の姫などから寄せられる縁談の申請は途切れる事を知らない。
「何を呑気 に仰っているのです。陛下が貴方様の御歳の頃には、既にイリアーナ様がお産まれになっておりましたぞ」
「父上は父上だろ? そんな事より、ジュリとリーナは元気なのか?」
もうその話はお終いと言わんばかりにラインアーサは話題を変えた。ジュストベルが大きく溜息をつく。
「私の孫めが元気かどうかなど、ご自分の目でお確かめくださいませ……しかしその前に、今の貴方様に必要なのは睡眠かと。お見かけしたところ体調がだいぶ優れない様ですが?」
「は? ……睡眠!? 俺、今起きたばかりなんだけど…?」
「存じております」
確かに頭痛は先程よりも酷くなり、身体の倦怠感に身を任せても良いのなら正直寝て居たい所だが、実際はそうもいかない。本日の公務をこなさなくてはならない。
「このくらい。自分ですぐに治せるよ」
「全く。本当に、分かられておりませんな」
ジュストベルはもう一つ大きな溜息をつくと、ラインアーサの頭上に指で複雑な図式を描いた。陣から溢れ出る光がラインアーサの身体の異常を癒してゆく。先ほどまでの倦怠感は軽くなり、頭痛も軽減されている。
「……この様に治癒は簡単ですが、貴方様の睡眠不足までは解消出来ませんぞ?」
「ジュストベル……何で…」
何故寝不足とわかるのか、疑問に思い声を上げかけたが。
「御目元の隈 が酷い事になっております。本日の公務は明日へずらし、今日は一日お休みくだされ。既にハリ殿がそう手続きを行っている筈です」
そういえば帰国してから調度半月程経った。ラインアーサもハリも溜まっていた公務や執務をこなし、疲れが出たのだろうか。ハリもまた今日は休みを取ったらしい。
「そんな事言ったって…! そういう訳にはいかないだろ」
「眠れないと言うのなら、一瞬で眠れる術でもかけて差し上げましょうか?」
「いや、いいよ……遠慮しておく!」
不敵に微笑むジュストベルに、ラインアーサもぎこちない笑みを返し即答した。
「本当に、ハリ殿の方がよほど王子らしい行動をなさります。ラインアーサ様には見習って欲しいものです」
結局ジュストベルはラインアーサを説教しにだけ来たのか、その他にもあれこれと小言を吐き出し終えると部屋から出て行った。
「相変わらずジュストベルは手厳しいな……」
ラインアーサは部屋着に着替えると、大人しく寝室へと戻った。ハリが休みを取るのも珍しい事だが、今のラインアーサにとっては有難かったので素直に眠るとこにした。ベッドに潜り込むと急激な睡魔に襲われる。兎に角今は公務やハリの事を考えるのは諦め、素直に眠気に身を委ねる。
「……明日は、警備隊の視察に、行って。ジュリに会おう……そのあと…は」
色々考えるも、上手く纏まる筈もなく。
ラインアーサはそのまま深い眠りに落ちていった。
そうして目を覚ましたのは、既に陽が沈み始めた頃だった。
⌘ 旅の終着 ⌘ 終
部屋に戻る途中、王宮の廊下でハリと出くわす。
「今日は何時もより帰りが早いですね。もう野暮用とやらは良いのですか?」
「ああ、もう用は済んだんだ。気を揉ませて悪かったな……」
何処か上の空なラインアーサにハリは密かに眉を潜めた。
「ライア、眠いのですか?」
「いや、全然!! で、どうした? 俺に何か用事?」
「……ええ。イリアーナ様がライアの事をお呼びしていまして。今日も帰りが遅いと伝えましたが、とりあえず談話室でお茶の用意をしてお待ちするとの事です」
「ありがとう、じゃあ姉上の所寄ってみるよ」
「………」
イリアーナの元へと急ぐラインアーサの背を、ハリは心許なげに眺めていた。
───イリアーナの自室へ向かい談話室の扉を軽く叩く。中から「どうぞ」と声がし、中へ入るとお茶の良い香りと甘い焼き菓子の香りが鼻先を
「姉上、何かあった?」
「あらアーサ! 早かったのね。ハリ君が居ないかも、と言ってたからもう少しかかると思っていたのに……」
「ああ、ちょっと出かけてたんだ。丁度今戻った所だよ」
「なら、もう夕食は済んで入らないかしら? 久しぶりに木の実を使った焼き菓子を作ってみたの……」
焼き菓子はラインアーサの好物である。以前はよくイリアーナと母 エテジアーナが手作りをしては食べさせてくれた。いわゆる思い出の味なのだ。その上、丁度良く空腹だ。入らない訳が無い。
「俺、夕食まだなんだ!」
「じゃあたくさん食べてね、作りすぎちゃったの!」
はにかんで見せたイリアーナに対し、ラインアーサも笑を浮かべた。
「じゃあ全部食べる!」
「うふふ、その顔は幼い頃のままね」
「そうかな?」
ラインアーサは照れながら首を傾げた。
そうして好物の焼き菓子を頬張りながらお茶を飲んでいると、不意にイリアーナが話かけてきた。
「お父様もハリ君も……アーサの事を心配してるわ」
「……ん、ごめん」
「良い歳して夜な夜な出歩いているからよ?」
イリアーナもまた心配そうにラインアーサを見つめる。
「悪かったよ……もう用は済んだし、暫く大人しくしてるさ」
「違うの! それもあるけど、わたしが言いたいのは誰か居ないの? って事よ」
「へ? ……誰かって誰?」
「……だから! 誰かいい人よ」
「いい人なら俺の周りはいい人ばかりだけど? ハリも父上もコルトも、もちろん姉上も」
ラインアーサのとぼけた返答に、イリアーナは盛大に溜息をついた。
「もう…! そうじゃあなくって、好いている異性の事よ! 若しくは気になる異性は居ないの?」
「っ!! げほっ……何だよ突然!」
突然そんな話題を振られて、ラインアーサは焼き菓子を喉に詰まらせた。
「アーサって意外と天然だわ。ますます心配よ……」
「そ、そんな事姉上に心配されなくても大丈夫だよ。姉上こそ、ブラッド兄様とはどうなってるの? 二人はとっても仲が良さそうに見えたけど?」
「え!? あの、、ブラッドとは、その…」
ラインアーサが話題を切り返すと、イリアーナの顔がみるみる赤く染まってゆく。
「知ってるよ、昔からブラッド兄様と姉上が想い合ってる事。もちろん応援してる。───今、父上がオゥ鉱脈都市の再建の手続きをしてる。もしかしたら
ラインアーサはさらりと微笑み、イリアーナを困らせた。
「!!
「からかってないよ。ブラッド兄様が無事に生きてたんだ、
「そ、そうかもしれないけど……わたし」
「兄様を本当の兄上って呼べる日が来るのも、もうすぐかな?」
「アーサったら! ……でも。アーサがわたしを迎えに来てくれたから状況が一気に変わったのよ。もちろん良い方へと…! わたしもブラッドも長い間地下で、ずっと潜む様に怯えながら生活してきたわ……」
辛い日々を思い返したのかイリアーナは辛そうに瞳を伏せた。この十一年間、沢山の苦労をしたのだろう。その分二人には幸せになってもらいたいのだ。
「俺はただ姉上を迎えに行っただけだよ。ほとんどは父上が力を尽くしてくれたんだ」
「そんな、お父様からはアーサがとても頑張ったって聞いたのよ! それに、どうやってわたしたちの居場所を探し当てたの?」
「まあ。色々と情報を集めたり、知り合いの占術師に占ってもらったり…。後はその情報を元に、現地に足を運んで確かめたよ。ハリも協力してくれたんだ」
「……そうだったのね。二人にはたくさん苦労を掛けてしまったわね。改めて心から感謝するわ。ありがとう、アーサ」
イリアーナは涙をそっと拭い、ラインアーサに優しく微笑んだ。
「どういたしまして…! だって俺、ずっと信じてたんだ。姉上は絶対に無事だってね! 姉上こそ、無事でいてくれて本当にありがとう。だからこそブラッド兄様と二人で幸せになって欲しい」
ラインアーサもつられて微笑み返す。
「アーサったら……わたしは貴方にも幸せになってもらいたいのよ? もう無理なんてしなくていいのだから、これからは自分の事も考えてね」
「分かったよ……姉上」
自分の事……。
ライオネルも同じ様な事をぼやいていた。早く身を固めろと言う事なのだろうが、ラインアーサの次なる目標はハリの家族を探す事であった。ラインアーサはハリが心から笑うのを見たことがない。この十一年間、かなりの時間を共に過ごしてきた筈なのに何処か掴めない性格。手ごたえの薄い反応。やはり内乱以前の記憶が無い事が関係しているのだろうか。だから、せめて記憶を取り戻す事が出来ればとは考えている。それまでは一旦、自分の事を後回しにしよう。そうラインアーサは決めていた。たとえ、気付いてしまった想いがその身を焦がし続けても。
ラインアーサは残った手作りの焼き菓子を一つづつ包んでもらい、自室へと持ち帰った。
「明日ハリにも分けてやろうかな、姉上の焼き菓子はやっぱり絶品だ」
すっかり夜も更けていたが、まだ眠る気になれなかったラインアーサは寝室の出窓に腰を掛け、蒸留酒の入った杯を傾けていた。月の光が照明を落とした部屋へ射し入り影を作る。強めの酒は一気に廻り体温を上昇させた。
「一人で飲むのは味気ないな……ああ、そういえば」
不意にある事が頭を過る。
そうして、漸く眠気が降りてきたラインアーサは大きく欠伸をしながら窓の外を眺めた。眼下には城壁の外側にある横庭とあの森が月明かりに照らされ真夜中の静けさを演出している。その景色を一通り眺め、溜息を吐いた。気を抜くとどうしても浮かべてしまう。
───スズランの事だ。
この森の先はバルの裏庭へと続いている。数刻前、そこでスズランに無理矢理口づけをした。そして初めて自身の気持ちに気が付いてしまった。だが気付いた所でスズラン本人には嫌われたままなのだ。
ラインアーサは自分の気持ちに蓋をする様に瞳を閉じようとした。しかしその瞬間、森の樹々が微かに揺れた様な気がした。
気のせいかも知れない。にも関わらず、ラインアーサの足は一人でに駆け出していた。素早くマントを羽織り王宮の横庭へと急ぐ。
庭に出ると、ひんやりと静まり返った夜半の空気が肌を刺しラインアーサは肩を窄めた。昼間とは違い小鳥の囀りはなく、代わりに虫の鳴き声と小川のせせらぎがその場に響く。やはり気のせいだったのだろう。こう冷えた空気に長くあたれば風邪を引いてしまう。
「はあ、、何やってんだ、俺……」
それでもラインアーサは複雑な気持ちでその場に立ち尽くし、美しく空に浮かぶ望月を眺めた。暫くそうしているとやはり背後に人の気配を感じ、勢い良く振り返る。
その先にはラインアーサが想い浮かべていた人物が小川の石橋の中央に佇み、同じ様に空を見上げていた。
「っ…スズラン?!」
彼女の事ばかり考えていたので、その幻覚でも見たのかと思った。しかし側に近づくにつれてスズランの持つ甘い香りが仄かに香り、幻では無いのだと判る。
「だれ…!? もしかして……警備、さん?」
「…! っ何故、こんな時間にここへ来た? 夜の森は冷え込む上に危険だ。早く戻った方が良い」
「……えっと。警備さん、どうしてわたしの名前知ってるの?」
咄嗟に警備隊らしく振る舞うもスズランは困惑気味にラインアーサを見つめ返す。しまった。初対面の時に名前を聞きそびれていたにも関わらず、先程ラインアーサは堂々と名前を呼んでしまったのだ。
「……先日、
咄嗟にそれらしい理由を述べる。それに、嘘は付いていない。
「あ、ちがうの! びっくりしただけ…。それより、お店に来たなら声を掛けてくれれば良かったのに! 警備さんならたくさんおまけしたんだけどな」
どうやらスズランは今のラインアーサに全くと言っていい程警戒心を見せない様だ。いくら暗がりとはいえ〝ライア〟と〝警備員〟は同一人物なのだと分かっても良いはずなのだが。
口づけの時といい……疑う、という事を知らないのだろうか。それでも今はその純真な心を利用させてもらおう。今、正体を明かせば忽ち警戒されてしまうだろう。ラインアーサは気付かれぬ様さりげなく前髪を撫で付け目元を隠した。
「警備さんはあんまりお酒好きじゃない? うちのマスターの自慢はお酒だけじゃなくて、お料理もとっても美味しいって評判なの! よかったらまた来てね」
スズランはにこりと微笑むとラインアーサをじっと見つめた。その眼差しに堪えられず、つい目をそらしてしまう。
「あ、ああ、麦酒。あと卵料理がうまかったな……」
「そうなの! マスターが仕入れにこだわってるって言ってたもの」
「スズランは、
「うん! でも警備さんこそ、こんな遅くまでお疲れ様。それにこの森は警備さんが守ってくれてるんでしょ? だから、夜でもぜんぜん怖くなかったよ」
「……そうか」
実際この森や王宮周辺にはライオネルによる強い結界が張ってあり、比較的安全ではある。ラインアーサが警備を勤めている訳では無いが、その結界内で悪事を働けばすぐ様本物の警備隊がやってくるだろう。
「それにマスターは捨て子だったわたしの事を本当の娘のように育ててくれたの。だからたくさん働いて恩返ししなきゃ……」
そう言うとスズランは石橋の
「……」
捨て子……。
結局スズランの父親は迎えに来なかったと言う事なのか?それとも、イリアーナやハリの様に何らかの事情があるのだろうか。後者だと思いたい。それもおおかた、内乱被害の所為だろう。
シュサイラスア国内だけでは無い。
「……ごめんなさい。こんな話して……警備さん、まだお仕事中なのに」
「いや、いいんだ。そんな事より君は捨て子などでは無い……きっと、何か理由があって君の事を迎えに来られないだけなんだ。だからそんな風に自分の事を…」
そう信じたいのだ。でなければ、何の理由もなしに我が子の側から離れるなど考えられないのだから。
「そんな事言ってくれたの、警備さんが初めて……なんか、夢の人みたい」
「夢の人?」
「子供の頃からよく見る夢なの。……その夢の人がね、お利口さんにしてたらちゃんと迎えに来てくれるって。そして一緒にパパを探してくれるって言っておひさまみたいに笑う素敵な人……。おかしいよね、自分が傷つかないようにって今でもこんな夢を見るなんて。それに、ここがその夢に出て来る場所にすごく似てるから…」
そう告げる横顔が寂しげだ。
スズランがあの日の出来事を夢だと思っていたとは。当時はまだ幼かった為なのか。それでも夢という形であれ、あの日の出来事を覚えていてくれた事は純粋に嬉しい。
「っ…何もおかしい事はない! 俺がもしその夢の人物でも同じ事を言う。だから……自分の事を捨てられたなんて…」
「ありがとう! でもわたし今はぜんぜんさみしくないの。マスターもセィシェル…。も本当の家族みたいだし、警備さんだってやっぱりすごくいい人!」
そう言ってスズランはラインアーサの大好きな笑顔を浮かべた。〝ライア〟には決して見せてくれないあの笑顔を。ラインアーサは自分自身に軽く嫉妬をした。如何様にもし難い想いが、ちくちくと胸中で渦巻く。
「っ…」
「警備さん?」
それでも屈託なく接してくれるスズランとの会話が嬉しくてつい話し込んでしまったが、スズランが寒そうに身を縮め小さくくしゃみをした。そういえばスズランは寝間着に薄いローブを羽織っているだけの姿だ。
「そろそろ戻った方がいい。風邪なんて引かせたら君の家族に申し訳ない。特に、セィシェルと言う者はだいぶ君に過保護らしいからな」
「……う、ん」
スズランが少し浮かない顔をした。
「どうした? 何かあったのか?」
「……なんでもないの。今日はなかなか眠れなくてここに来たんだけど、警備さんに会えてよかった。わたしの他愛もない話、たくさん聞いてくれてありがとう。今度はちゃんと眠れそう」
ラインアーサも眠れなくて誘われる様にこの場所へ来ていた。此処を訪れた時間が同じだった事にまた少し嬉しくなった。
「それは良かった。帰ったら身体をよく暖めるといい」
「うん、ありがとう……ねえ、警備さん。最後にひとつだけ、聞いてもいい?」
スズランが少し緊張気味に真面目な声色で尋ねてくる。
「何だ?」
「……その、えっと……男の人って、好きじゃない人にでも、、唇に……簡単にキス、とか、できるのかなって…」
最後の方は小声で殆ど聞こえなかったが、あの口づけの事を気に病んでの発言だろう。ラインアーサは罪悪感を覚え、ざわつく心臓の辺りを押さえた。理由は分かっていたが聞き返さずにはいられなかった。
「な、何故そんな事を?」
「……だって、わたし…。男の人の気持ちって分からなくて。その、唇は……はじめてで、、あ! あの、ちがうの!! わたしじゃなくてっ……一般的にどうなのかな? って、気になるっていうか! とにかく、わたしのことじゃないのっ!!」
赤い果実の如く頬を染め、一所懸命に否定する姿が可笑しく、純粋に可愛い……。そうラインアーサは思った。
「くくっ! そんなにむきになって否定し無くても」
一度は堪えたラインアーサだがやはり噴き出してしまった。
「うう、そんなにおかしいかな……あれ? 警備さんって笑うとなんだか……」
何故かスズランはますます頬を赤らめた。
急いで顔を引き締める。身近なハリを手本に冷静な態度を貫こうと努力したが、どうもラインアーサには難しいようだ。それでも即座に無表情を張り付け咳払いをするとなるべく低い声を出してスズランに謝罪した。
「……いや、笑って悪かった。そうだな、一般的に、ね。基本は同じ、男も女も関係ない。状況にもよるだろうが、愛しいと思うから相手の唇を奪う。当たり前の事だ」
「……そう、なの?」
「少なくとも、俺はそうだよ…」
その答は自分自身の心にも染み渡る。
スズランは頷きながら小さく何かを呟いたが、ラインアーサの耳には届かなかった。
「ん? 今何か…」
「ううん……ありがとう。教えてくれて」
スズランが何を考えているのか、ラインアーサとの口づけをどう思ったのかが気になる。しかしその答えを聞く勇気はない。
「……スズラン。冷えるからこれを」
ラインアーサは羽織っていたマントを脱ぎ、スズランの頭からふわりと被せて纏わせた。
「わぁっ!? そんな事したら警備さんが風邪ひいちゃうよ! わたしなら平気なのに」
マントから顔を出しラインアーサを少し困った様な表情で見上げるスズラン。
「いいから……戻るまで着ててくれ」
「だって、これは…」
ラインアーサはその顔を真っ直ぐに見ることが出来ず、やはり瞳を逸らしてしまう。ラインアーサは上着の懐へ一つ忍ばせていたイリアーナの焼き菓子を思い出し、そしてそれをスズランへ手渡した。
「これを。戻ったらあたたかい飲み物と一緒に食べるといい。元気が出る」
「……これ、お菓子?」
「俺の姉の手作りだが、味は保証するよ」
「ありがとう! とってもおいしそう!!」
これ以上スズランと話していても、ますます想いは募るばかりだろう。もう誤魔化すことの出来ないくらいラインアーサの気持ちは大きくなりつつある。
ならばもう会わない方が良いのかもしれない。
「さあ、そろそろ戻るんだ。そのマントは返さなくていいから…」
「そんな……ちゃんとお洗濯して返すよ。だからまた、ここで会える?」
「いつも此処に居るとは限らない。今日は偶然居合わせただけだ」
スズランが橋の欄干から立ち上がり顔を覗き込んでくるが、ラインアーサはつい愛想のない言葉を返してしまう。その瞬間、スズランが少し泣きそうな表情を浮かべたのでラインアーサの心臓はどきり跳ねた。
「……いつでもいい。気長に待つ事にするよ」
「よかった……もう会えないのかと思った。わたし、警備さんともっとお話ししたいの。あ、警備さんが迷惑じゃなければだけど」
何処までも純真で無防備なスズラン。そんな事を言われて喜ばない男はいない。これは 〝警備員〟としてのラインアーサに多少は好意を持っていると捉えて良いのだろうか。
「……スズラン」
スズランと瞳が合う。一度、瞳を合わせてしまったらもう逸らすことは出来なかった。数刻前、口づけをした時の記憶が蘇る。柔らかだった唇の感触……。
スズランの甘い香りがラインアーサを突き動かす。
「? ……警備さん? あと、わたし。警備さんの名前、知りたいな」
しかし突然名前を聞かれ、ラインアーサは狼狽えた。
───本名を名乗るか、それとも〝ライア〟だと明かすべきか…? しかし……。
「……悪いが、警備隊の規則で名は教えられない」
咄嗟にそんなありもしない嘘をついた。
けれどラインアーサも、もう少しだけ素のままのスズランと話がしたい。だから、本当の名を明かす事は出来なかった。
「そうなの、残念。でも、また会えるなら……」
スズランは残念そうに俯くも、もう一度ラインアーサの顔を覗き込んできた。何も考えずその顔を見つめていると、やや強めに左腕を引かれる。突然の事に
「わ…っ!?」
前のめりにふらついた瞬間、左の頬の辺りにあたたかな物が触れる。柔らかい感触……。
それがスズランの唇だと理解するまで数秒かかった。
「っ…!?」
ラインアーサが唖然として立ち尽くしていると、スズランが悪戯そうな表情を浮かべた。
「あ、あのね。これって親愛の印なんだって…! あいさつみたいな物だって教わったの。だから、おやすみなさい警備さん!」
そう言うなり、スズランは全速力で森の中へと走り去ってしまった。ラインアーサのマントを引きずりそうになりながら───。完全に不意打ちだった。
ラインアーサは予想していなかった突然の出来事にその場へ屈み込んだ。
「……っなんだよ、今の…?」
そのままの状態から動けず石橋の上で暫く項垂れていた。
親愛の印、挨拶。恐らくセィシェルあたりがスズランに教え込んだに違いない。ではセィシェルの彼女に対する想いは親愛の情なのだろうか。ラインアーサに対する異常な迄の敵対心は……あの瞳は。
「あれは親愛の情なんかじゃあない……恋愛感情だろうが…!」
先程のラインアーサに対するスズランの行動は、純粋に挨拶替わりとしてのものだろう。しかし理由はどうであれ、スズランから口づけをされたのは二度目になる。
〝おまじない〟と称して口元に唇を寄せてきた幼いスズラン。思い返すとあの時、スズランは何らかの〝癒しの術〟を使ったのだ。幼い当時の頃から既にラインアーサの傷と痛みを、しかも一瞬で治すことのできる術を使えた筈だ。
「……
そう呟いてから、ふと疑問が浮かぶ。
幼いスズランが使った術は電気のような刺激を伴う物だったと記憶していた。その〝力〟が使える者はリノ・フェンティスタでもごく一部に限られている。だが高度な術を多用し、扱う者には到底見えないスズラン。潜在的に強い力を持っていても、術を行使する為には知識や技術を磨く必要がある。
ラインアーサも例外では無く、幼い頃から専門の指南役に様々な知識を教授されてきた。術の力を管理するには一般的に教育機関へ通うのが通例だが、大体が王族や術を活かした職に就く者が利用する場合が殆どだ。
スズランはそれを受けていないが為に上手く術を扱えないのだろう。
「彼女は、雷花の国から来たんだろうか……」
雷花の国。───フリュイ公国……。
結局ラインアーサは床に就いてからも熟睡出来ずに考えてしまうのはスズランの事ばかりだった。
───部屋に差し込む朝の光の眩しさで、不意に目を覚ます。
「……ん、もう朝なのか?」
いつの間にか眠っていたらしいが、全くそんな気がしない。それどころか酷い頭痛と倦怠感に襲われる。どうやら体調を崩したらしい。おもむろにベッドから起き上がり身支度を整えたが、余りの気怠さに顔を顰める。そもそもあまり朝は強くない体質だ。その時、出し抜けに自室の扉が叩かれた。ハリが来たのだろうと返事をするも、入って来た人物の姿にラインアーサは瞳を見開いた。
「……ジュストべル!」
ジュストベルはシュサイラスア大国の
「お早うございます。ラインアーサ様」
にっこりと微笑むその人物に対して、ラインアーサはばつの悪い笑顔を浮かべた。
「お早う……久しぶりだな!」
「大変お久しゅうございますが、お変わりございません様で。さておき……貴方様には今一度、
「久々にだって言うのに何の冗談だよ……」
比較的周りに甘やかされて育ったラインアーサだが、ジュストベルにはなかなか厳しく指導を受け鍛え上げられた。成人と同時にイリアーナの捜査許可を得る為、ラインアーサ自身も望んだ事だったが。
「冗談などではありませんぞ? 貴方様は相変わらず向こう見ずな所が直っていない様で。何度申したら非公式で街を散策するのをお辞め頂けるのです。陛下のお気持ちを少しは考えた事はございますか?」
ハリよりも的確かつ説教っぽいジュストベルの小言は毎回ラインアーサを尻込みさせる。
「考えてはいるよ……でも俺だって別に闇雲に街を散策してる訳じゃあない。父上も知らない情報が色々と得られるんだ」
「それは民兵の護衛隊が行うべき職務です。貴方様には貴方様のなさるべき事がある筈……特に、各地から舞い込んで来る縁談申入れの書簡は溜まってゆく一方ですぞ? そろそろ落ち着かれても宜しいのでは」
「……縁談の件は父上と姉上にも言われたばかりなんだ。もう暫くは勘弁してくれよ」
実際に国としてはとても安定しているシュサイラスア大国。その王位継承者であるラインアーサには、未だに決まった相手所か婚約者すらいないのだ。
シュサイラスアはこの世界で一番の平和を誇り、他国から流れてくる者も多い人気の国だ。その国の継ぎ目の王子が未だ正妃は愚か側室も決まってないとなれば、各地の令嬢または他国の姫などから寄せられる縁談の申請は途切れる事を知らない。
「何を
「父上は父上だろ? そんな事より、ジュリとリーナは元気なのか?」
もうその話はお終いと言わんばかりにラインアーサは話題を変えた。ジュストベルが大きく溜息をつく。
「私の孫めが元気かどうかなど、ご自分の目でお確かめくださいませ……しかしその前に、今の貴方様に必要なのは睡眠かと。お見かけしたところ体調がだいぶ優れない様ですが?」
「は? ……睡眠!? 俺、今起きたばかりなんだけど…?」
「存じております」
確かに頭痛は先程よりも酷くなり、身体の倦怠感に身を任せても良いのなら正直寝て居たい所だが、実際はそうもいかない。本日の公務をこなさなくてはならない。
「このくらい。自分ですぐに治せるよ」
「全く。本当に、分かられておりませんな」
ジュストベルはもう一つ大きな溜息をつくと、ラインアーサの頭上に指で複雑な図式を描いた。陣から溢れ出る光がラインアーサの身体の異常を癒してゆく。先ほどまでの倦怠感は軽くなり、頭痛も軽減されている。
「……この様に治癒は簡単ですが、貴方様の睡眠不足までは解消出来ませんぞ?」
「ジュストベル……何で…」
何故寝不足とわかるのか、疑問に思い声を上げかけたが。
「御目元の
そういえば帰国してから調度半月程経った。ラインアーサもハリも溜まっていた公務や執務をこなし、疲れが出たのだろうか。ハリもまた今日は休みを取ったらしい。
「そんな事言ったって…! そういう訳にはいかないだろ」
「眠れないと言うのなら、一瞬で眠れる術でもかけて差し上げましょうか?」
「いや、いいよ……遠慮しておく!」
不敵に微笑むジュストベルに、ラインアーサもぎこちない笑みを返し即答した。
「本当に、ハリ殿の方がよほど王子らしい行動をなさります。ラインアーサ様には見習って欲しいものです」
結局ジュストベルはラインアーサを説教しにだけ来たのか、その他にもあれこれと小言を吐き出し終えると部屋から出て行った。
「相変わらずジュストベルは手厳しいな……」
ラインアーサは部屋着に着替えると、大人しく寝室へと戻った。ハリが休みを取るのも珍しい事だが、今のラインアーサにとっては有難かったので素直に眠るとこにした。ベッドに潜り込むと急激な睡魔に襲われる。兎に角今は公務やハリの事を考えるのは諦め、素直に眠気に身を委ねる。
「……明日は、警備隊の視察に、行って。ジュリに会おう……そのあと…は」
色々考えるも、上手く纏まる筈もなく。
ラインアーサはそのまま深い眠りに落ちていった。
そうして目を覚ましたのは、既に陽が沈み始めた頃だった。
⌘ 旅の終着 ⌘ 終