旧知の仲

文字数 10,744文字

 旧市街、夕凪(ゆうなぎ)の都───。
 そこには古く重厚感のある建物が立ち並ぶ。その一角にある、小さく古びた酒場(バル)のカウンター席にラインアーサは居た。
 狭い店内の照明は薄暗く、客もまばらだ。客層もあまり良いとは言えない。そんな雰囲気の中、一つの話題が盛り上がっていた。今年の収穫祭(リコルト・フェスト)が行われるか否かだ。
「───今年の収穫祭(リコルト・フェスト)は開催出来ないだろうな」
「いやいや今年は王子が帰国したんだろ? 無理にでも開くんじゃあないか!? 何たってこの国の王様は馬鹿の付くほどお祭好きなんだからな!」
「ぎゃっははは! そりゃ違えねぇ!!
 テーブルの席に着いている三人程のガラの悪い連中が品のない大声を出して盛り上がる。
「いやぁしかし今回の物騒な誘拐事件が解決しないと普通なら祭所じゃあない筈だがなぁ!」
「お祭りバカで親バカって専らの噂だもんなぁ、我らの国王様は! 今年は王子と王女が揃ってるんだ、盛大にやる方に賭けてもいいぜ!!
 ラインアーサはカウンター席で頬杖をつき、彼らの話に終始耳を傾けていた。
「あらあら、随分な言い様ねぇ。いいの?」
 カウンターの中から落ち着いた声の人物が話しかけてくる。
「言わせておけばいいよ。それに殆ど事実だしな」
 その人物の問いに、ラインアーサは自嘲的な笑みを浮かべる。
「……全く。もう此処へは顔を見せないと思っていたのに」
「俺もそのつもりだったんだけどな。でも、来るって分かってたんだろ?」
「そうね。全ては星々のお導きによるものよ…。今回はまた随分とお困りのご様子ね? ライア」
 ランプの灯りが妖しく灯る薄暗いカウンターの向こう側には、海の如く碧い虹彩を持った人物が居た。その瞳で(たしな)める様な視線を寄越したかと思えば、にこりと柔らかく微笑んだ。
「……困ってるって言うか、わからないんだよ。どうすればいいのか」
「あのね。それを困ってるって言うのよ? やれやれね」
「はは、かなわないな。ヴァレンシアには」
 短く息を吐くとまた小さく苦笑するラインアーサ。
 対するのはこの古い酒場(バル)の女主人、ヴァレンシアだ。波うつ青い髪を高い位置で結い上げ、華奢な硝子細工の髪飾りで纏めている。
 星を読む特技があり、報酬次第で気まぐれに客を占い生計を立てている。頼まれれば強力な(まじな)い等もかけると密かに噂されている旧市街では名の知れた人物だ。
「ふふ。ライアは全然変わらないわね」
「そうかな。この四年間、勢いに任せ過ぎたかとは思ってるけど」
「そんな顔しちゃって。貴方も落ち込むなんて事あるのね」
「別に落ち込んでなんか。でも、母の事はやっぱり衝撃を受けたよ……」
 あれからライオネルとはまともに話をする時間を取れていない。報告は済んだものの、何かと理由を付けては話し合いを避けられてしまっている。イリアーナも本格的に体調が優れないらしく、きちんとした見舞いもろくに出来ていなかった。
 国全体に未成年者個人での外出禁止令が出された事により、ライオネルの側近のコルトやハリもその対応で慌ただしく働き通しだ。
「いつまでも沈んでいたって仕方がないわ。きっと何か理由があるのよ、貴方に黙っていた理由がね」
「どんな理由があるって言うんだ! とても大切な事なのに……」
「知りたいのなら、今ここで占ってみる? 何かしら分かるかもしれないわよ?」
 暫しの沈黙の後、ラインアーサは首を横に振った。
「いや、父から話してくれるのを待つ。自分で確かめるよ」
「そうね、それがいいわ。だったらこんな所に来てまでお酒飲んでないで、早く帰ったらどうなの?」
「ん……そうしたいのは山々なんだけど、もう少し…」
「何よ。まだ何か…っていうかバレバレだけどね。恋煩いでしょう? 何、失恋かしら?」
 鋭い返しに危うく飲んでいた穀物酒を吹く所だった。図星を突かれたラインアーサは思わずそのままカウンターに突っ伏した。
「待ってくれ。俺ってそんなに分かりやすいのか?」
「まあ、とても分かりやすいわね。嘘を付くのも苦手でしょう? 貴方の性格なんて知り尽くしてるもの」
 ヴァレンシアが不敵に微笑む。
「う…。ますます嘘を付けないな」
「まったく。四年もあれば多少人は変わるものよ? ライアったら本当素直なままなんだから」
「……素直か。もっと素直になってればよかったのかな」
 ───スズランを王宮で保護出来なかった事を、ジュリアンにはひどく責められた。何故素直にならないのだと。素直に今までの事も打ち明け、王宮で保護して堂々と守ってやればいいじゃあないか、と。自覚はしている。あと一歩が踏み出せない情けなさを。
 そんな状況でも幸いな事にラインアーサの張った結界、酒場(バル)の外にスズランは出ていない様で安堵する。
「本当に失恋? 貴方が振られるなんて俄かに信じられないわね」
「過去に俺を振った張本人が何言ってるんだよ」
「あら! 失礼ね。あの時はああするしか無かったじゃあないの。貴方にはやるべき事があって、そう仕向けたのは貴方の方でしょう?」
「そう、だけど。……今回は違うんだ!」
「何が違うの?」
 ヴァレンシアにじっと見つめられる。
「……純粋な相手に、どう接したらいいのか分からなくて、知らないうちにたくさん傷つけてしまったんだ。……嫌われてもしょうがない」
「はぁ…。私から見れば貴方だって十分純粋よ? 自分では気づいていないかも知れないけど」
 そう言ってにこりと微笑むヴァレンシア。
「俺が……純粋だって?」
「そうよ、民を思う純粋な心。争い事だって嫌いでしょう…?」
「違うよ。俺はただ、父の力になりたいと思ってるだけで…」
「困ってる人がいたら放っておけない癖に?」
「……」
  何もかも見透かす様な瞳にラインアーサは少し照れながらグラスを一気に煽って誤魔化す。
「もう…! そんなに一気に飲んで平気なの? 相変わらず弱いんでしょうに。程々にしたら?」
「いつまでも子供(ガキ)扱い? 俺だってあれから色々と成長したつもりなんだけどな」
 ラインアーサが少し不服そうにするとヴァレンシアは愉しそうに笑う。
「ふふ。ならどの位成長したのか見せて欲しいわね」
「からかうなよ」
「ふふーん。私は本気よ? じゃあ今ここで試しにキスでもする?」
「まったく。ヴァレンシアには本当敵わないよ…。冗談は抜きにして、はじめに依頼した事は忘れずに占って見て欲しいんだけどな」
「はいはい、わかってるわよ。この一連の事件の犯人像とその居場所だったわね? 本腰を入れて占うから少し時間を頂戴。何か分かり次第すぐ報告するわ」
 誘拐事件の解決への糸口を見付ける為に、ラインアーサは藁をも掴む思いだった。
「ありがとうヴァレンシア! 今回の報酬は…」
「別にいらないわ。昔の好でおまけしてあげる…。それとも、また昔みたいに一緒に夜を過ごしてくれるの?」
 ヴァレンシアと目が合う。
 澄んだ海の様な色の瞳が煌めく───。
 ヴァレンシアとは数年前。がむしゃらにイリアーナを捜している時に出会った。居場所を占ってもらったのをきっかけに、恋仲の様な曖昧な関係だったのは過去の事。
「ヴァレンシア……俺は」
「ぷぷぷ! それこそ冗談よ!! 本気にしちゃって、ライアもまだまだね。ああ可笑しい!」
「っ…そんなに笑う事ないだろ!?
「だってその顔…! あらぁ? まあ!! そんな純粋な貴方に、お客さんが見えてるわよ?」
「はぁ? 客って…」
「ほら窓の所、見て? あの可憐なお花みたいな子。どうやら貴方に用事があって来たみたいだけど?」
 ヴァレンシアに言われ振り向くと、信じられない光景を目の当たりにしラインアーサの瞳は限界まで見開かれた。
 窓の外にスズランが居る。
?! …っスズラン!? 何で、どうやって此処に!?
 おかしい。ラインアーサの張った結界からスズランが出た気配など一切感じなかった筈だが。
 窓の外から店内の様子を伺うスズランと目が合った。すると窓からぱっと身を離し慌てて踵を返す。
「あ、逃げたわ。早く追いかけないと」
「っな、ちょっと待ってくれ! どうしてスズランが……まさか、俺に会いに? いや…」
 突然の事に動揺を隠せない。
「ちょっと! あれこれ言ってないで早く追いかけなさい! 今すぐ行かないと見失っちゃうわよ!?
「あ……ああ。ごめんヴァレンシア! また来るから」
「ええ、早く行って捕まえて。捕まえたら今度は離しちゃ駄目よ?」
 慌ただしく勘定をカウンターに置くとラインアーサは酒場(バル)の出入口へ走った。
 店を飛び出し辺りを見渡す。薄暗く人影も殆どない狭い路地を、傘も差さずに走り去るスズランの後ろ姿が目に留まる。
 あの日から三日が経過した今も、雨は止むことなく降り続けている。この長雨の影響で、未成年者だけでなく民全体が外出を控え始めた。おかげで誘拐事件はパタリと収まったものの犯人から見返りを求める動きが起こる事はなく、これまでの被害者達の行方もまだ掴めていない。
「スズランっ! 待てよ!!
 すぐに後を追い、追いつくと逃れようと抵抗する腕を強引に掴みあげた。
「っ…あっ!!
「……スズラン!! 本当にスズランなのか? 何で逃げるんだ?」
 幻ではないかと疑う。
「っ…らい、あ…」
 スズランの声が耳に響く。
 少し掠れ気味だが、紛れもなく愛しくて想い焦がれて仕方のないスズランの声だ。
「っ…何故此処に? お前くらいの年頃の奴には外出禁止令が出てる事位、知ってる筈だろ? そうじゃあなくても旧市街は危険だって言うのに…!」
 走った為か苦しそうに肩で息をしているスズラン。
「はなし、て…っ」
「離してじゃあないだろ!? 夜の旧市街がどれだけ危険な場所か知らないのか? お前みたいな奴はすぐに……」
 以前。街でスズランが悪漢に絡まれていたのを思い返し、ラインアーサは僅かに身を震わせた。
「っごめんなさい、わたし……邪魔するつもりじゃなかったの……も、帰るからあの人の所、戻って」
 無理やり笑顔を作り、震える声で呟くスズラン。しかしその瞳からは次々と涙が溢れ出し、雨粒と一緒に頬を濡らす。無理に笑顔を見せようとするその姿にラインアーサの心は激しくかき乱された。
「泣いてるのか? なんでそんな顔するんだよ、何が……お前にそんな顔をさせるの?」
 スズランの頬にそっと触れ、涙をぬぐう。すると急に顔をそらされてしまった。
「…っ」
「やっぱり……俺のせい?」
「ち、違う…」
「本当に?」
「ちがうもん」
「嘘だ。なら顔見せて?」
「だめっ…見ないで! わたしに触らないでっ…お願い……」
 恥ずかしそうに瞳を逸らし、体ごと背けようとするスズラン。その様子に愛しさが湧き上がり、どうしようもない気持ちになる。
「…っスズラン」
 堪らずスズランを抱きしめていた。
 雨に濡れた所為で身体が冷え切っている。
「…っ!」
「……なあ、違ってたらごめん。スズラン、もしかして妬いてる?」
 抱きしめたまま小さく耳元で囁く。
「…っ」
 恐る恐る聞いたもののもちろん返答なない。淡い期待を寄せたばかりか、思わずそんな願望を口にしてしまい恥ずかしくなりスズランから身を離す。
「……そんな訳ないか」
「ち、違うの…! わたしっ…ライアに謝りたくて、ここに来たの」
「謝る? 何を…」
「わたし、あの日あなたにお店に来ないでって言った事……すごく、後悔してて。なんであんな事言っちゃったんだろうって。本当にごめんなさい…。だから、また前みたいにお店に来て欲しいの!」
 スズランの唐突な謝罪にやはり動揺する。
「どうして? ……俺の事、嫌いなんだろ?」
「ちがう…! わたしは…」
 全身ずぶ濡れのスズラン。髪もいつもの給仕服も汚れて、膝には血が滲んでいた。
「なっ? お前この雨の中どこ通って来たんだ? 怪我してるじゃあないか…!」
「来る途中転んじゃって。でもこの位、たいしたことないよ。へいき…」
「平気じゃあない! すごく血が出てる。傷が残ったらどうするんだよ!! ほら、見せろって」
 屈んでよく見ると小さな膝は擦り傷だらけだった。ここに辿り着くまで、一体何度転んだのだろう。
 即刻。丁寧に術をかけ、ゆっくりと傷を癒してゆく。
「ぁ、っん…!」
「どうだ? ……もう、痛くないか? たぶん痕は残らないと思うけど。他に痛い所は?」
「へ、平気……いつもありがとう。わたし、なんてお礼を言ったら…っあ!?
 ラインアーサは再びスズランを胸元へ抱き寄せた。
「礼なんかいらない」
「ライア!?
「会いに……来てくれて、ありがとう。すごく嬉しい……」
 あの日からこの想いを断ち切ろうと必死になっていた。だが、スズランの顔を目にした瞬間、それは到底無理なのだと実感してしまった。
「ライアっ! ……わたし、わたしね」
「…?」
 スズランが何か言いたげに言葉を巡らせている。その間にも雨足は強まり二人の身を容赦無く冷やしてゆく。
「や、やっぱり、なんでもない…」 
「……まずいな。雨が強くなって来た、移動しよう。スズラン、立てるか?」
 ずぶ濡れの二人。今更だが持ってきていた傘を開き、スズランをその下へ招き入れる。
「……え、これわたしの傘!? なんでライアが持ってるの?」
「この間マスターが貸してくれたんだ。なかなか返せなくて悪かったな」
「そうだったんだ、びっくりした」
「……少し歩くけど平気か?」
「え? ええっと、どこかに行くの? わたしそろそろお店に戻らないと…」
「今から城下街に戻るには時間が遅いし雨も強くて危険だ……この先に宿があるから取り敢えずそこへ行く」
 このすぐ先に国が経営する老舗の宿が建っている。その宿の最上階にはラインアーサが自由に使える部屋が密かに設けられていた。とにかく一旦そこで着替えなどを済ませたい。
「い、いい。わたし一人で帰れるからライアはさっきの人の所に戻って…。デートの邪魔して、ごめんなさい……」
 そう言ったスズランの表情が曇るのを見て、ラインアーサは強く反論した。
「何言ってるんだよ! 未成年者には外出禁止令が出てるって言っただろ? そうじゃあなくてもこんな遅い時間に女性を一人で帰すわけ無いし…。そう言えばそもそもスズランはどうやってここまで来たんだよ? あの酒場(バル)の場所だって、なんでお前が知って…」
 思わず咎める様な口調で一気に捲し立てた。
 びくりと怯えて肩を竦ませたスズランを見て後悔する。
「っ…ごめん。突然大きな声を出して…」
「あの、さっきのお店の場所は……ハリさんって方がうちのお店に来て教えてくれました」
「ハリが!?
 想定外の所で出てきたハリの名に軽く混乱する。
「ライアは…。旧市街の酒場(バル)に通ってるから、もううちのお店には来ない…って言われて……。でもわたし、どうしてもライアに謝りたくて。それで無理を言って場所を教えてもらったの」
「そう、なのか」
 ハリが何を思ってスズランにこの場所を教えたのか、全く意図が分からない。だが、ハリは護りの術が得意だ。恐らくスズランにはその術が掛けられている。同時に護りの術は気配を消す効果もある。
 スズランが結界から出た事に気付けなかったのはその為か。しかしそのお陰で無事にここまで辿り着けたという事になる。
「でもよかった…。ちゃんとライアに会えてこの間の事を謝れたし、ハリさんって方にお礼をしなきゃ……じゃあわたしは帰るね」
「だから何言って…」 
「突然来てごめんなさい。ライアはすぐに戻らないと恋人さんに誤解されちゃうよね…」
 再度無理して笑顔を見せるスズラン。
「ああもう! なんでそうなるんだよ。さっきから誤解しているのはスズランの方だ。あの人は……ヴァレンシアは恋人じゃあないよ。ああ見えても俺よりずっと歳上だし、一児の母なんだ」
 ヴァレンシアは一度は結婚している。しかし現在その相手とは離縁し、女手一つで育児に奮闘中だ。
「っ…え、えええ!? 全然そんな風に見えないよ…? だって二人はとってもお似合いに見えたし、すごく親密そうだったし…。それに、それにわたしの邪魔がなければライアとあの人っ…キスしそうだったもん…っ」
 確かに以前はそんな間柄だった事もあった。それ故か、やはり傍目にはそう見えてしまうのだろうか。
 今にも泣き出しそうなスズランと目が合い、ラインアーサは今度こそ淡い期待を確信に変えた。
「スズラン…。お前やっぱり妬いてるだろ」
「…っ」
「ほら、行こう。あそこの高架橋をくぐればすぐだから。とにかく着替えだけでもしないと、また風邪をひいてしまう」
 顔を真っ赤に染めて俯くスズランの手をしっかりと握ると傘を片手に歩き出す。
「ま、まって! ライア。わたし…」
「もっとこっちにおいで? でないと雨に当たる」
 スズランを傘の下へと引き寄せる。どう控えめに見ても妬いている様子のスズランに、今まで悩んでいた事がまるで嘘の様に心が軽くなった。
 だがあくまで冷静を装う。気を抜くとうっかり口元が緩んでしまいそうだ。

 列車(トラン)の高架橋をくぐり抜けるとすぐに宿にたどり着く。
「少し此処で待ってて」
 入ってすぐの広間の長椅子(カウチ)にスズランを座らせる。国営の宿は簡素ではあるが格式のある佇まいだ。古いが上品かつ清楚な内装で訪れる人々を気持ち良く迎えてくれる。ラインアーサは受付の傍らに控えていた年配女性の客室係に小さく尋ねた。
「ジル。上、使える?」
「勿論でございます。ライア様」
 ジルと呼ばれたその女性は穏やかな笑みを浮かべながら応える。
「じゃあ、頼むよ。おいでスズラン」
「ではご案内いたします。こちらへ」
 先導するジルとそれに続くラインアーサの後を、スズランが不安そうについてくる。
「ライア……ここって?」
「心配ないよ」
 ジルに案内され、各階層へ移動するための大きな鉄製の籠に乗る。すると籠は一気に上昇し、宿の最上階に着くとともに小気味の良いベルの音を鳴らした。そうして最上階の、更に一番奥の部屋へ通される。
「どうぞごゆっくりと。何かございましたらいつでも御呼びくださいませ」
「ありがとう。じゃあ早速だけど着替えるから、濡れた衣類の洗濯を頼めるかな?」
「畏まりました、早急に」
「スズラン。奥の部屋でこの外衣(ガウン)に着替えてくれ。今着てる衣服は洗ってもらうからこの(とう)の籠に」
「あ、あの……まって!」
「大丈夫だよすぐに乾くから。それに身体も冷えてる、このままじゃあ駄目だろ」
「う、うん」
 躊躇するスズランに外衣(ガウン)を手渡し、少々強引に奥部屋へと押し込む。とにかく疲れきって冷えた身体を温めて、ゆっくり休ませてやりたかった。
 ラインアーサも簡素な服に着替え、雨で濡れた服をジルへと渡す。
「じゃあ二人分頼むよ。そうだな、出来ればあと──…」
 一通り用件を言いつけると、早々にジルを部屋から退出させた。
「……スズラン? どうした。そんな部屋の隅じゃなあくこっちにおいで?」
 気が付くとスズランは部屋の隅で困った様な顔をしていたが、声を掛けるとおずおずとラインアーサの方へ近づいてきた。
「……ここって、あなたのお家なの?」
「違うよ。たまに利用する宿なんだけど、俺も来るのは久々かな」
 慣れない場所でがちがちに緊張しているスズランがとても可愛らしく、思わず笑みがこぼれてしまう。
「……そ、そうなの?」
「ああ。ほら、風呂に湯を張ってもらっておいたから先に温まっておいで」
「え…! お風呂? わたし別にいい! この外衣(ガウン)だけでとてもあったかいし、服が乾いたらすぐに帰るからっ…」
「でも疲れてるだろ? ……何なら俺が背中、流してやろうか?」
 ラインアーサはスズランの手を引き、浴室の前まで促がすとからかう様に笑って見せた。
「なっ…冗談言わないで! だ、大丈夫です、ひとりで入れますっ!!
 スズランは少し頬を膨らませ、真っ赤になりながら浴室に入って行った。
「ふ……扱いやすい奴…」
 そう小さく苦笑すると、ラインアーサは機嫌良くお茶の用意を始める。緊張や疲れを解く効果のある香草の茶葉を選んだ。
 ───しかし、結構な時間が経ってもスズランが浴室から出てこない。
「おい、スズラン? どうかしたのか??
 浴室の扉を軽く叩き声を掛けるも、中からの反応は無い。
「……入るぞ? いいか?」
 意を決して浴室に入ると浴槽の中でスズランがぐったりとしていた。長湯で逆上せたのだろうか。
「ああ、もう! もっと早く声をかければよかったな」
 ラインアーサは急いでスズランを浴槽から抱き上げ、火照った身体を素早く外衣(ガウン)で包みベッドへ運ぶ。その際、極力身体を見ない様に務めた。そうしなければ理性を保っている自信がない。とにかく無心になって介抱する。窓を開け、部屋に風を通す。
 そのまま暫くするとスズランの意識が回復した。
「……ん、わたし。お風呂…?」
「大丈夫か? 風呂で逆上せたみたいだな…。ほら、水飲める?」
「……お水、飲む…」
 水の入ったカップを手渡すとスズランは少し身体を起こしごくごくと喉を鳴らして殆どの水を一気に飲み干した。その様子を眺めているだけでも邪な考えばかりがちらつく。ラインアーサはその考えを吹き飛ばす様に頭を左右に激しく振った。
「…? ライアがベッドまで運んでくれたの? …っあ」
 起き上がろうとするがまだ状態は全快ではなくベッドに肘をつくスズラン。その姿は弱々しくも妙に色気を伴い目のやり場に困る。
「こら。急に立ち上がろうとするな。立ちくらみを起こすから暫く横になってろよ! ったく相変わらずお子様だな」
 ラインアーサはそれを意地悪な口調で誤魔化す。するとスズランは悲しげに眉を下げた。
「ごめんなさい。わたし、いつもライアに迷惑ばっかり…」
「へ? いや、俺は……別に迷惑だなんて、思ってない、けど…」
「っ…だって! また助けてくれたもん」
「この間も言っただろ? 俺はお前を守りたい。それだけで…って、何言ってんだ。俺こそごめん」
 自分でも何を言ってるのか分からなくなり、何故か謝ってしまう。 スズランの火照って赤い頬が更に赤く染まった。
「ありがとう…。ライア」
「大した事ない。他に頭痛とかはないか? 何処か痛かったら治してやるから遠慮なく言えよ?」
「……も、だいじょうぶ…っ」
「そうか。でもその様子だと今日は泊まって行った方が良さそうだな」
「と、泊まるの?」
 泊まると聞いて不安そうなスズランを安心させようと、冗談めかして笑って見せる。
「お前に無理させたら俺がマスターに怒られる」
「っでも!」
「明日、ちゃんと朝一で酒場(バル)まで送るよ。さあ、スズランはこのままベッド使えばいい」
「ラ、ライアは?」
 見上げてくる瞳は薄らと潤み、頬は赤く息もまだ少し上がっていて絶妙な色気を放つ。
「っ…俺は奥の部屋の長椅子(カウチ)で寝るから心配要らない。じゃあ、俺も湯を浴びてくるからお前はいい子で先に寝てろよな!」
 ラインアーサは早口でそう言い残し、浴室へと足早に駆け込んだ。
「──っなんだよ、あの顔! 何処がお子様だ…っ」
 湯を浴びると言ったものの、ラインアーサは頭から水を被って冷静になろうと努めた。
「……あんな顔しないでくれよ」
 ラインアーサは揺らぐ理性を必死に立て直そうとした。そして今度は湯船の熱い湯に浸かり、気持ちを切り替える。
 湯から上がり簡素な上着を纏って浴室から出ると、スズランはベッドの上にちょこんと座っていた。
「スズラン…! なんで寝てないんだよ! それに湯冷めするだろ?」
「ライア…」
「どうした?」
「何だかよく分からないけど怖いの。わたし、黙ってお店出てきちゃったし、それに旧市街に来たのも初めてで…」
 見知らぬ場所に来て不安なのだろう。うつむき、小さく震えるスズランの肩に毛布を羽織わせる。ラインアーサはベッドの側にある椅子に腰を掛けるとスズランに質問を投げかけた。
「スズランは何でそうまでして俺の所に来たの?」
「っだって。わたし、ライアに嫌われたくなくて…」
「どうして?」
「え…?」
「その嫌われたくないって、どういう意味?」
「わ、わからないの。でも、わたし。ライアに嫌われたらすごく悲しいの…!」
 気が付けばスズランの瞳からはぽろぽろと涙がこぼれ落ちていた。
「な! 何で泣くんだよ…!!
「わかんないっ、わかんないよ…!」
 涙を零す姿に慌てて椅子から立ち上がるとベッドの側面に屈み、俯くスズランの顔を覗き込んだ。
「ああ……泣かないでくれ。そ、そうだ! 腹が減ったんじゃあないのか? 今お茶を淹れてやるから待ってろ」
「……お茶? そういえばわたし、お昼から何も食べてない…」
「なら尚更何か食べないとな」
 その拍子にスズランのお腹の虫が大きく鳴いた。
「っ!! ご、ごめんなさい!! ……はずかしいっ」
「っふは! 気にするなよ……くくくっ」
「いやぁーー! ライアの馬鹿ぁ!!
 泣いていたのも忘れて怒る姿が面白くて堪えきれず吹き出すと、更に膨れるスズラン。表情がくるくると変わるので目が離せなくなる。
 ジルに焼き菓子を注文し、ラインアーサは香草の茶葉を丁寧に淹れ直した。それを美味しそうに飲み、黙々と焼き菓子を頬張る姿が何とも可愛い。つられてラインアーサも焼き菓子を一つ摘まんだ。口の中に甘い味が広がり、疲れが和らいでゆく気がした。
「おいしかった……です。ごちそうさまです」
「ん。さあ、そろそろ眠らないと。明日は朝早に宿を出るから」
「うん。それでね、あの。わたしならもう平気だからライアがベッドを使ってね?」
「は? 何言ってるんだよ。俺は奥の部屋で寝るし、スズランがベッドを使えよ」
「でもこんなに広いベッドに一人で寝るなんて何だか落ち着かなくて。わたしの方が小さいんだし、長椅子(カウチ)で十分だよ」
「駄目だ。長椅子(カウチ)だと疲れが取れないだろ? それに毛布もないから風邪を引く。大人しくここで寝てくれって」
「だめ! それじゃあライアが風邪引いちゃう」
「俺は平気なんだよ…!」
「わたしだって大丈夫だもん!」
 スズランは意外にも頑固だった。
「なんだよ…。心配して言ってるのに」
「しんぱい、してくれるの?」
「…っ! お前に何かあったら、マスターやセィシェルの奴に何を言われるか分からないからな!」
 上目遣いのスズランと瞳が合ってしまい、照れた顔を誤魔化す為また少し意地悪な口調になった。
「そうなの? あ、だったらこのベッドとっても広いから、二人で一緒に眠ればいいと思うんだけど…」
「っ…は?! お、お前何言ってるか自分で分かってるのか? それこそ何かあったらどうするつもりだよ!」
「? 何かって、何…?」
「ああ、もう!!
 真面目に聞き返して来るスズランのあどけない表情に、ラインアーサは頭を抱える。

 そうしてラインアーサの長い長い夜が始まった。

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登場人物紹介

ラインアーサ・S・ローゼン

(ライア)

本編物語の主人公。

シュサイラスア王国の王子。
王子と言う立場を隠し、お忍びで城下の街をぶらつくのが大好き。

スズラン

本編物語のヒロイン。

酒場の看板娘。

セィシェル

酒場のマスター、ユージーンの一人息子。スズランに寄り付く人物はゆるさない。

ハリ

ラインアーサの側近。

記憶喪失で二重人格。

ジュリアン

ラインアーサの幼馴染。

民兵警備隊の副隊長。

妹大好きなシスコン。

エリィ

謎の美女。

ラインアーサに懐いている。

イリアーナ

ラインアーサの姉。

ずっと行方不明だったがラインアーサが居場所を捜し、漸く帰国する事ができた。

リーナ

ジュリアンの妹。

ラインアーサに淡い想いを抱いている。

ユージーン

酒場のマスター。

ライオネル

シュサイラスア大国の国王。

ラインアーサの父。

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