対等
文字数 11,194文字
一段と強くなる雨が窓の硝子 を濡らす。止む気配はなく激しく降り続いている。
ラインアーサは一旦スズランをジーンに任せ、セィシェルの自室へ上がりこんだ。
二人きりで話し合う場が整う。
「全くひどい雨だな…。で、一体何だよ。俺に話ってのは。俺は別に逃げてなんかない! 逃げてんのは逆にあんたの方じゃあないのか?」
窓の外を確認しながら振り向き様に鋭い視線をよこすセィシェル。
一方ラインアーサは部屋の入り口の柱に少し凭 れかかり腕を組みながらその視線を受け流す。
「お前の言う通り、図星だ…。今までは自分に嘘をついて誤魔化して逃げて来たが、やめた。だからお前とも対等に向き合う事にする」
「はぁ? 対等!?」
「……セィシェルお前、俺の名前知ってる?」
「ぁあ? 何なんだよ。ライア……だろ? 前からずっとそうだろうが、違うのか?」
急な質問にセィシェルの不機嫌度が増す。
「ラインアーサだ……」
「あ? だから何だよ!?」
「───ラインアーサ・S・ローゼン。それが俺の本名」
途端にセィシェルの顔色が変わってゆくのが分かる。真名 を名乗れば流石に誰でもその意味に気がつくだろう。
「……は…? ローゼン…って、、じょ、冗談言うなよ……だって、そんな訳あるかよ!!」
「こんな時に冗談言うほど暇じゃあない。ライアという名は通称の様なものだ」
「ほ、本気で言ってるのか? あんた、いや…。本当に、アーサ王子…、なのか? ……急にそんな事言われて誰が信じるんだよ!」
「……それじゃあ、今まで通りの態度で構わないから聞いてくれ」
「…っ…だったら、何でスズなんだよ! それこそあんたの相手なんかいくらでも居る筈だろ?」
「……俺はスズランだけだ」
「あ、あんたが王子だって証拠はあるのかよ…」
急な話にセィシェルが食い下がる。
「別に信じてもらえないならそれでいい。俺は身分関係なく、ただ一人の男としてスズランに想いを伝えたい。それだけだ」
「一体、何なんだよ……何でこの国の王子なんかがこんな所にいるんだよ…っ! なっ? まさか親父はこの事知ってて…」
「ああ。マスターには初めから気づかれていたな」
「っ…!! 親父の奴、知ってたんなら一言教えてくれたって……じゃ、じゃあスズは?」
「スズランは知らない。マスターには俺が口止めしてたんだ、悪かったな」
ラインアーサは軽く頭を下げた。
「っやめろよ! 俺は……俺はあんたがこの国の王子だろうと何だろうと、関係ない! スズは絶っ対に渡さないからな…っ!」
「……ふ」
セィシェルの態度の変わらなさにラインアーサは苦笑した。いや、むしろ嬉しかった。今まで王族とわかった瞬間、手のひらを返すように態度を急変させ媚を売ってくる輩を何人も見てきたからだ。
「何笑ってる! それに何が対等だ、むしろ俺の方が不利じゃあねぇか」
「いや、俺の方不利なんだ。まだ身分を明かしてない上に嫌われる可能性がある」
「は? あんな風に見せ付けておいてくれて言う事かよ! ……苛つく!」
しかし、なおのこと噛み付いてくるセィシェルにラインアーサは思わずため息を吐いた。
「おい…! スズランは物じゃあないだろ。俺はスズランの気持ちを尊重する。本人が選んだ道なら何も言わずに受け入れる」
「へぇ、言ったな! あんたの正体を知ったらスズだって驚く。それに身分の差を気にするしうまくいくわけない…!」
「さっきも言ったが身分は関係ない。俺の母親も一般の街娘で孤児だった」
セィシェルが一瞬瞳を見開いた。
「……だ、だから何だよ!」
「だから俺にとって身分は障害じゃあない」
「そりゃあ、あんたには関係ないかもしれないけど俺たち一般の民にとってあんたら王族は雲の上の存在じゃあないか…」
雲の上の存在……。ラインアーサはその言葉に眉を顰めた。確かに王族ではあるが、その事を鼻にかけたりはしたくない。常々そう思っているからだ。
「無理強いはしない。その結果スズランがお前の方を向いたなら俺は身を引くつもりだ……」
「そんなの卑怯だ…! スズの気持ちはもう、ずっと前からあんたに向いてるじゃあないか!」
「お前と対等な位置に着くようにけじめはつける。それなら文句無いか?」
「そんなのどうやって、、」
「俺はスズランにひとつ嘘を吐いている…。それを身分とともに明かす」
「嘘を、吐いてる?」
「ああ、それだけで嫌われるかもしれない……」
ジュリアンの言う通り、もっと早めに誤解を解くべきだったとは思う。故意的ではないが警備員になりすまし、果ては素知らぬふりでスズランの相談に乗ったりした。知っていて騙していたのだから今更謝って許される事ではない。
「ふん。よくわからないけど早いとこスズにそれを伝えろよな! 王子さんよ。それと、王宮に連れて行ったりしたらそれこそ不平等だからな!」
「ああ、解った。だったらこの建物にいる限りはお前がスズランを守ってくれ…。今回みたいに抜け出したりしない様に全力で」
「そんな事あんたに言われるまでもない! スズを守るのはずっと昔から俺の役目だ!!」
セィシェルが憤慨だと言わんばかりに声を張り上げた。
「……そう、だよな。今までスズランを守ってきたのはお前だもんな…」
「あたりまえだ! あんたこそどうしてスズなんだよ…。まさかとは思うけど、あの時からずっと、なのか?」
「……そうだな。十一年前に初めて会ったあの日から、俺にとってずっと特別な存在なんだ…。たとえスズランが覚えてなくても、俺はあの笑顔に何度も救われた。こうやって今、再会できたんだ。俺は…」
「それって……やっぱりあんた、ロリコンってことじゃあねえか!」
「おい、何でそうなるんだよ!」
「だってそうだろ? あんた歳いくつだよ! スズとは結構離れてるじゃん」
「余計なお世話だ! 俺は断じて変態でもロリコンでもない!」
それこそ憤慨だとラインアーサも主張する。
「ふん、どうだか! 変態ロリコン王子め」
「お前なあ。その口の悪さ、どうにかした方がいいぞ!? どうしてそういう言い方しか出来ないんだ?」
「思ったことを口に出して何が悪いんだよ!!」
「別に悪くないが損するのはお前だ」
「何だよ、うるさいな。説教変態ロリコン王子!!」
「増やすなよ…!」
ラインアーサが呆れていると部屋の扉が叩かれ、スズランがちらりと顔を覗かせた。
「スズラン!」「スズ!!」
「あ、あの…。お話終わった?」
スズランが心配そうに様子を伺ってくる。
「待たせてごめんな。だいたいの話はついたよ」
「仕方ないな、あんたの言う通りにするよ…。俺もスズの気持ちを尊重するから」
「な、何のお話?」
「これからは俺もセィシェルも二人仲良くしよう…って話」
ラインアーサが皮肉を込め冗談めかすと、セィシェルは鼻に皺を寄せて舌を出した。
「っ…本当? わたし、二人が仲良くなってくれたらすごい嬉しい!!」
「……う、スズが嬉しいなら……しょうがねえ」
渋々そう言うセィシェルに向かってラインアーサも小さく舌を出してみせた。
もちろん、調度スズランには見えない角度でだ。
「なっ! おい! 大人気ないぞ!! あんたなんかとっととスズに嫌われればいいんだ!」
「えっ!? 二人とも仲良くするって……ちがうの?」
「ん? そうだよな、セィシェル」
ラインアーサは得意げに口角を持ち上げ、にっこりと笑顔を見せた。
「騙されてる……」
「え?」
「だから、スズはこいつの笑顔に騙されてるんだ!」
「そんな事ないよ! ライアは誰にでも親切だし、それにすごい優しいもの!!」
「っスズラン?」
突然のスズランの力説にくすぐったい気持ちになるも、すぐにセィシェルの鋭い視線と言葉が刺さる。
「誰にでも親切って何だよ、うさんくさ! 少なくとも俺には違うし!! とにかくさっきの話はわかったからあんたも約束守れよ? 抜けがけは無しだからな!!」
「ああ、わかってる。お前こそな」
ラインアーサも分かっているつもりだ。もうこれ以上スズランにも自分自身にも嘘は吐きたくない。少しでも早く真実を伝え、気持ちを知りたい……確かめたい。ラインアーサはスズランの瞳をじっと見つめた。
「ライア…? ……あ、ライアにお客さんが! 昨日の、ハリさんって方がいらしてるの! わたし呼びに来たんだった!」
「っ…何? ハリが!?」
「うん、雨がひどいから中に入って待ってもらってて! なんだか急ぎの用事があるみたいで…!」
「急ぎだって?」
ラインアーサはセィシェルの部屋を出ると下の居間へ続く階段を駆け下りる。居間へ行くとジーンがハリに珈琲を出している所だった。
「ハリ!! 俺がここに居るってよくわかったな!」
声をかけるとハリは静かに立ち上がり呆れた様子で首を傾げた。
「ライア、私を誰だと思ってるんです? 全く…!」
「悪かった。そんなに怒るなって! で。何かあったのか?」
ハリはそのままラインアーサの所へ来ると耳元で小さく呟いた。
「……イリアーナ様が今朝方倒られました。早急に王宮へ戻ってください」
「っ…!? 姉上が…?」
ハリが冗談を言う訳がなく、その表情から事態は思わしくないのだろうかと気がはやる。
「急いで戻りましょう、ライア」
「あ、ああ…。そうだな」
「マスター、珈琲ご馳走になりました。私達はこれにて失礼します」
「……悪いなマスター。いろいろ世話になった! スズランの事、頼む…!」
「いえ、そんな! またも貴方様にご迷惑を掛けてしまった事なんとお詫び申し上げれば良いのか……」
「ラ、ライア…! もう行っちゃうの?」
スズランも階段から下りてきて寂しそうな顔をしながらラインアーサの元に駆け寄ってくる。
「ん。ごめんスズラン。急ぎの用事があるんだ、話はまた別の日だ」
「うん…。お店にも、また来てくれる?」
「もちろん」
そうして見つめ合っていると続いて降りてきたセィシェルがしっしっと手を払う。
「俺的には別に一生来なくたっていいぜ」
「これ、セィシェル!! ……我々は何時でも貴方様のご来店お待ちしておりますので…!」
「ありがとうマスター! ……じゃあ、またな。スズラン」
別れ際、ふと視線を寄越すスズラン。軽く頭を撫でると寂し気だが、にこりと笑顔を見せてくれた。
雨だけが強く降り続ける中、後ろ髪引かれる思いでバルを後にする。何とか気持ちを切り替え、王宮へと移動しながらハリにイリアーナの様子を伺う。
「……ハリ。それで姉上の容体はどうなんだ? よほど悪いのか??」
「……まだ詳しくは私もわかりません。それにしてもライア。さらりと朝帰りなんですけど…。あのスズランと言う娘と一夜を共にしたのですか?」
「なっ!? 何言い出すんだよ!! ハリがスズランにヴァレンシアの店の場所を教えたんだろ? 丁寧にお前の護りの術までかけてあったし…!」
ハリの直接的な質問に狼狽えるラインアーサ。
「あの娘がどうしてもライアの居場所を知りたいと言うので致し方なく…」
「それにしたって、危ないだろ。そもそも未成年者は外出禁止令が出てる。今回は何もなかったから良かったものの……」
「……そんな風に狼狽えるなんてよほどなのですね」
「何がだよ…?」
「一時期あのバルに通い詰めたのも、最近ずっと上の空だったのも。全てあの娘が根源ですか?」
「根源って…。そんな言い方ないだろ」
ハリの棘のある物言いに対し流石にラインアーサも苛立ちを隠せない。
「……すみません、今日も少し頭痛が酷くてつい苛々としてしまいました」
「……」
「まぁ、ライアの女性への手の早さは今に始まった話では無いですし、私は気にしてませんので」
「さっきから何だよその言い方! それにスズランは違う。そんなんじゃあないんだ。昨日だって特に何も、ない…」
「何もない…。そうなんです?」
「ああ。すごく、大切なんだ…」
「……そうですか」
ハリが小さく息を吐く。
その後、しばらくの間沈黙が続くも両者とも黙って歩を進めた。
王宮へ着くなりラインアーサはイリアーナの部屋へと急いで向かった。
「──っ姉上!! 大丈夫か!?」
扉を叩き中の返事も待たず、すぐに談話室の中へと踏み入る。寝室の扉の前にリーナと王宮専属の薬師が立っているのが目に入った。
「リーナ! エルベルト先生! ……姉上はっ!?」
「アーサ様、御静かに願います。只今イリア様はおやすみ中でございますよ」
「今朝方、お気分が悪いと朝食時に倒られまして、ここ最近はずっと微熱もおありで……」
続いてリーナが寝室の扉を見つめたまま不安気に答えた。
「今フロラ医師が観ておられます。診察が終え次第説明致しますので落ち着いて、とりあえずお掛けになって下さいませ。アーサ様」
寝室の扉の前でおろおろと落ち着きなく歩き回るラインアーサに椅子を勧める薬師 のエルベルト。優しげな目元の年配男性だ。
フロラやエルベルトはラインアーサが幼い頃から専属で王宮に仕えている侍医であり、親しい間柄だ。
「……そう、なのか」
ラインアーサは長椅子 に腰掛け、深く息を吐いた。談話室は沈黙に包まれたがそこへ慌ただしく足音を立て、豪快に扉を開け入ってくる人物がいた。
「イリア!! 私のイリアは大丈夫なのかい!?」
「陛下…! お、お静かに。イリア様は只今おやすみになられてます……」
「あ、ああ…。そうだったか。これはすまないことをしたなエルベルト。今、イリアがどんな状況なのか教えておくれ?」
「ええ、もちろんです。どうぞ落ち着いてくださいませ陛下。もう少しでフロラ医師が診察から戻るのでお掛けになってお待ちを…」
「ああ、そうさせてもらうよ」
先ほどのラインアーサ同様宥められ、椅子を勧められるライオネル。同じく長椅子 の隣へと腰を下ろすとこちらに視線をよこす。その表情にはやはり疲れが見えた。
「アーサ…! 暫く顔を見なかったが元気だったかい?」
「……父上こそ、働き詰めで無理してない?」
お互い久々に顔を合わせる所為か、少々気恥ずかしい気がした。
「大丈夫だよ、ありがとう。それよりも今はイリアが心配だ……」
ラインアーサは息を長く吐きながらリーナに出されたお茶にたっぷりの砂糖を入れてかき回した。
「……俺、姉上に謝らないと…。最近心配ばっかかけてたから…」
「私もだよ…。国王である以前に父親として反省しないといけない事が山盛りだ。イリアにもお前にも苦労ばかりかけさせてしまっているからな」
この所落ち着いて話も出来なかった為、ここぞとばかりに話を続けるラインアーサ。
「そんな事、ないよ。でも父上…。こんな時に聞くのも変だけど、俺に何か色々隠し事があるだろ…?」
「アーサそれは…っ」
「俺。知らなかった…。母様に妹がいた事。それに、特別な力が使えるって事も……」
「っ…何処で、それを? ああ…、いや。いずれちゃんと伝えようと思っていた事なんだ…。しかしその好機を逃してばかりでね、本当に、、すまなかったよ、アーサ」
心底申し訳なさそうにするライオネルの顔を見ると、色々言いたかった不満が消え入ってしまう。ラインアーサはお茶を胃に流し込み、また息を吐いた。
「……いや、別に。今度時間が空いたらでいいんだ。俺にもちゃんと母様の事……教えて欲しい」
「そうだね…。約束しよう。今起きている事件を解決させ次第、必ずお前との話し合いの時間を作る事にするよ」
「ん、ありがとう。父上、あと。俺も事件解決後になりそうだけど父上に、、その、紹介……したい人がいるんだ」
ラインアーサが恥ずかし気にそう告げるとライオネルはとても嬉しそうに微笑んだ。
「そうか、それは楽しみだ! これまで以上に全力で事件の解決に力を入れよう! 早くアーサの心を射止めた素敵な女性に会いたいものだ」
「いや、そう言う訳じゃあ…。それにまだ紹介出来るかは分からないけど……」
「けれどアーサにそんな嬉しそうな顔をさせる女性だろう? 早く会ってみたいよ」
そう言うとライオネルはまたこりと微笑んだ。直ぐにでも事件を解決させ、ライオネルとイリアーナに安心してもらわなければと言う気持ちもある。
「そうだ…! 父上。事件の犯人だけど、もしかしたらマルティーン帝国の…」
ラインアーサが言いかけると同時に寝室の扉が開き、中から医術師のフロラが出てきた。
「イリアの様子は!?」
「っ先生、姉上は!?」
二人の声が重なる。
フロラは二人に向かい柔らかく微笑むと、静かな口調で話し始めた。
「陛下に殿下! まずは、おめでとう御座います」
「!?」
「フロラ、一体……どう言う事なんだい?」
ラインアーサも言葉の意図がわからず困惑する。しかしリーナが少し興奮気味に顔を赤らめた。
「フロラ先生! やはりイリア様は…」
「流石にリーナは薄々感じていたようだね…。イリア様は御懐妊なさっておいでですよ」
そう告げられライオネルは長椅子から勢いよく立ち上がった。
「……懐妊!? そ、それは本当なのか?」
「って事はブラッド兄様との…!!」
ラインアーサも立ち上がりイリアーナの恋人であるブラッドフォードの事を考えると自然と顔が綻ぶ。
「陛下、アーサ様。改めて、誠におめでとう御座います!!」
エルベルトもリーナもイリアーナの懐妊に喜びの声をあげ、談話室は祝い情緒に包まれた。だがフロラが咳ばらいをし、落ち着き払った口調で続ける。
「しかし暫くは絶対安静にして下さい。栄養のある食事が大事です。それとあまりご本人に心労をかけないようにして下さいね! それから…」
まだ説明中にも関わらず、ライオネルが突然抱きついてきた。
「っわあ!? なんだよ父上!」
「……すまないアーサ。とても、とても嬉しくて…!!」
「ん…。俺も嬉しい」
ライオネルの瞳に光る物が見え、ラインアーサの瞳も潤む。
「油断は出来ませんよ! イリア様の体力はかなり消耗されているご様子です。安定するまでは決して安心出来ません」
「そうですね、絶対安静。今はこれが一番です。食事の栄養面は私、エルベルトにお任せください」
「ありがとうエルベルト。よし、ではエテジアーナの時と同じく当分の間めいいっぱい安静にさせよう」
「母様と……同じく?」
ラインアーサはその言葉がどうしても気になり尋ねた。
「そうだよ。エテジアーナは身体が弱かったからね……それではすぐに準備を整えよう! オゥに連絡を取り、急いでブラッド君にも知らせなくては!! こうしてはいられない」
ライオネルは足早に部屋の外へと向かう。
「あ。父上、約束…!」
「ああ、忘れないよ! アーサこそ私に愛しい人を紹介すると約束しておくれ、必ずだよ?」
片目を閉じ悪戯っぽく微笑むとライオネルは来た時の様に慌ただしく談話室を後にした。
「ふふ。陛下のご様子、本当にエテジアーナ様の時を思い出します……」
「え…?」
フロラが瞳を閉じながらしみじみと語り出した。
「私はエテジアーナ様がアーサ様…。貴方様を身に宿された時の事を今でもはっきりと思い出せますよ」
「っ…俺を!?」
「ええ…。アーサ様の時はそれはとても心配されたのですよ?」
「心配って……なんで…」
「エテジアーナ様は元々お身体が弱かった上にイリア様の御出産の時に一度、母子共に危険な状態になった事があったのです。故に二人目は絶対に無理だろうとし判断し、断念していたんです」
「そんな事が……」
フロラが深く頷く。
「しかしアーサ様をご懐妊された時、エテジアーナ様はどうしても産みたいと仰いまして…。それからの陛下の過保護っぷりといったらそれはそれは大袈裟な物で…。あっ、いやアーサ様にこのような話してしまい申し訳ございません!」
「いいんだ、教えてくれてありがとうフロラ先生! 出産の時も先生が俺を取り上げてくれたって聞いてるよ」
「……え、ええ! アーサ様はとっても元気で立派な赤ん坊でしたよ…!!」
一瞬、何故かフロラが不自然に笑顔を見せた様に感じた。
「? 、、そっか! 俺、母様や父上。周りのみんなに感謝しないとな!!」
「そうですよ、アーサ様がお生まれになってこの王宮もだいぶ賑やかになったのですから!」
「んん? エルベルト先生、それはどう言う意味だ? 俺、そんなにうるさかったのか?」
「ふふ。賑やかなことは良いことですよ、アーサ様。ですが今はお静かに…。イリア様を起こしてしまいます」
「……そうだな、じゃあ姉上が起きたらまた改めて顔を出すよ。フロラ先生にエルベルト先生、姉上をよろしくお願いします! リーナもお茶ご馳走様」
ラインアーサは二人の侍医に頭を下げると静かにイリアーナの部屋を後にした。
自室に戻り一息つく。
イリアーナの容体が病では無いとわかり安堵の胸を撫で下ろす。最近悪い出来事が続いていたので、落ち着けば民にも良い知らせが出来る。
「その前にブラッド兄様との結婚発表や、婚儀もあるだろうし…。忙しくなりそうだな。ああ、でも姉上とブラッド兄様の子ならば可愛いだろうな!」
二人の幸せを切に願っていたラインアーサ。この出来事が自分の事の様に嬉しかった。
「まずは誘拐事件を解決させて早く姉上を安心させないと…!」
そう意気込んだものの、一旦ベッドに腰を下ろすと途端に眠気に襲われ大きな欠伸が出る。
「……ぁ、ふ…。そういえば俺、寝てないんだった……」
ラインアーサは睡魔に勝てずそのまま深い眠りに落ちていった。
────
───────
誰かが叫んでる……。
この声は
父 さま……?
そんなに慌ててどうしたの?
母 さまも、そんなにかなしい顔しないで、、
だいじょうぶだからね……。
───
──────
「……ん……あれ? ……俺今寝てたのか? …ッ! 痛…!! またか…、最近やけに刺青が痛むな」
突発的な二の腕の痛みが起きがけの思考をはっきりとさせてゆく。ラインアーサの左の二の腕に刻まれている刺青。以前から時たまその部分がちくちくと痛む時があるのだ。幼い頃に煌都パルフェにて施した刺青だとライオネルから聞かされてはいたがその詳しい理由までは知らされていなかった。ただ刺青を人前に晒さぬようにとだけ言われている為、普段は隠している。
「んん…。もう痛みは引いたか。最近多いんだよな。父上はお守り的な物とか言ってたけど本当に効果あるのか? この刺青」
ラインアーサは大きく欠伸をしながら頭を掻く様にかき混ぜた。
「んー、、なんかおかしな夢を見たような気がするけど……」
何気なく窓の外を見ると既に陽は落ち、薄暗かったが雨は止んでいる様子だ。
スズランはどうしてるだろう……。朝は慌ただしく王宮へ戻ってきた為、悪い事をしたなと少々気がかりだ。そのまま出窓に腰を下ろし眼下に広がる森を眺めると、森の樹々が妙に騒ついている。まさか……。
「っ…あいつ、また抜け出したのか…!?」
ラインアーサは弾かれた様に部屋を飛び出すと逸散 に横庭の森へと走った。
急いで横庭に出ると雨上がりの空気がラインアーサの身を包んだ。肌を擽る様に優しい風が吹く。
「スズラン!? いるのか?」
思わず叫んでいた。しかし横庭に人影はない。それでも森の樹々が騒めくのでラインアーサは石橋を渡り森に足を踏み入れた。すると薄暗い森の中の小道にうずくまる様に屈んでいる人影があった。
「スズラン…っ」
屈み込み肩を震わせている。泣いているのだろうか。ラインアーサはそっと近付き膝を着いて屈み込むとスズランを背中から抱きしめた。
「……スズラン。泣いてるのか? いつからここにいたんだ…? こんなに冷えて」
スズランは一瞬身を硬くさせたが直ぐに言葉を発した。
「……警備、、さん……」
この後に及んでその名で呼ばれるとは思っていなかったが驚きながらも返事を返す。
「!! ……あ、ああ。駄目だろスズラン。また店を抜け出したのか? ……今一人になったら危ないんだ。いくら此処が安全だとしても、もう一人でこの森へ来ては駄目だ」
「っ…!」
「……店に戻ろう。送るから」
「いい、です。一人で戻れます…」
「どうした…?」
スズランの態度がいつになく余所余所しく感じた。警備員としてのラインアーサには懐いてくれていた筈のスズラン。だが、その態度に心臓がちくりと痛む。
正体を明かすなら今しかない。そう決意した。
というよりも既にスズランも気が付いている筈だ。しかし……。
「警備さん…。警備さんは、アーサ王子……なの?」
「っ!?」
スズランからの質問に一瞬狼狽えてしまった。
「……やっぱり、、そう、なんですね…。今まで気がつかずとは言え数々のご無礼、本当にごめんなさい…!! もう、この森にも来ません」
「…っ! スズラン!!」
「離して、くださいっ!」
腕の中からスズランがするりとすり抜ける。
「待てよ! こっち向けって!! 俺の話を聞いてほしい…!!」
思わずスズランの手首を強く掴む。
「いや…! お願い離して!! ……わたし、今は何も考えられない…。ごめんなさいっ!」
「スズラン…!!」
顔所か瞳すら合わせようともしないスズランに気持ちが焦り、苛立って無理やりにでもこちらを向かせたくなる。だがその時……。
セイシェルと交わした言葉が脳裏に浮かんだ。
〝スズランの意思を尊重する〟
〝無理強いはしない〟
セイシェルと対等な立場になるとそう公言したばかりだ。力ずくでスズランを自分の方へと向かせても意味はない。
「お願いします…っはなして……わたし、どうしたらいいかわからない…。だってあなたは…」
「っ…分かった。手は離すから、俺の話…。聞いてくれ……ずっと、黙っていてすまなかった。本当はもっと早く言うべきだったんだ。今更謝っても許されないだろうけど……唯、俺はこれからもずっとスズランの事を守りたいんだ! 嫌ってもくれても構わない、俺はお前の事が…」
「っ…!!」
最後まで言い終える前にスズランに手を払われてしまった。その瞬間、息が止まる。心臓が押し潰される様に痛む。案の定嫌われたのだと、頭では理解出来るのに心が軋んで苦しい。不意にこちらを見上げたスズランの瞳は涙で光っていた。
「っ…スズラン……」
「わたし、もう戻らないと…っ! 失礼いたします…」
「…っ!!」
そう告げて、スズランは酒場 の方へと逃げる様に駆けて行ってしまう。それでも心配で様子を伺う様に後を追った。スズランが無事に部屋へ入ったのを確認すると、安堵と悲愴感が同時にラインアーサを襲う。先ほどよりも更に痛む心臓の上で拳を強く握り締めた。スズランを守る役目は自分ではないのだと思い知らされる。
「……馬鹿だな、俺。また泣かせて…。今度こそ完全に嫌われた。結局、傷つけてばかりで……でも、それでも、、この気持ちは……諦めたくない」
自身でもこの往生際の悪さに驚く程だ。セィシェルの前であんな見栄を張らなければ良かった。やはり身を引くなんて出来る訳がないのだ。
ひと時でも気持ちが通じ合えた気がしていい気になっていた。あの幸福感を忘れる事が出来ない。
初めてこんなにも誰かを好きになった。
初めて嫉妬や独占欲という感情が芽生えた。
守りたい。悲しませたくない。
嫌われたくない。
側にいたい。側で微笑みかけてほしい。
誰にも渡したくない。
本当は……独り占めしてしまいたい。
自身の想いがどんどん貪欲になっていくのが分かった。分かっているのに貪欲に欲した罰だろうか。ずっと誤魔化してきたがそんな身勝手な想いははた迷惑だろう。スズランは物ではないのだ。
「スズラン……」
スズランには笑顔が似合う。
あの子の笑顔を曇らせたくはない。
それだけは守らなくては。この手でスズランを守れなくても笑顔だけは守りたい。
ラインアーサはその場に立ち尽くし、暫くの間スズランの部屋の窓を見上げていた。
ラインアーサは一旦スズランをジーンに任せ、セィシェルの自室へ上がりこんだ。
二人きりで話し合う場が整う。
「全くひどい雨だな…。で、一体何だよ。俺に話ってのは。俺は別に逃げてなんかない! 逃げてんのは逆にあんたの方じゃあないのか?」
窓の外を確認しながら振り向き様に鋭い視線をよこすセィシェル。
一方ラインアーサは部屋の入り口の柱に少し
「お前の言う通り、図星だ…。今までは自分に嘘をついて誤魔化して逃げて来たが、やめた。だからお前とも対等に向き合う事にする」
「はぁ? 対等!?」
「……セィシェルお前、俺の名前知ってる?」
「ぁあ? 何なんだよ。ライア……だろ? 前からずっとそうだろうが、違うのか?」
急な質問にセィシェルの不機嫌度が増す。
「ラインアーサだ……」
「あ? だから何だよ!?」
「───ラインアーサ・S・ローゼン。それが俺の本名」
途端にセィシェルの顔色が変わってゆくのが分かる。
「……は…? ローゼン…って、、じょ、冗談言うなよ……だって、そんな訳あるかよ!!」
「こんな時に冗談言うほど暇じゃあない。ライアという名は通称の様なものだ」
「ほ、本気で言ってるのか? あんた、いや…。本当に、アーサ王子…、なのか? ……急にそんな事言われて誰が信じるんだよ!」
「……それじゃあ、今まで通りの態度で構わないから聞いてくれ」
「…っ…だったら、何でスズなんだよ! それこそあんたの相手なんかいくらでも居る筈だろ?」
「……俺はスズランだけだ」
「あ、あんたが王子だって証拠はあるのかよ…」
急な話にセィシェルが食い下がる。
「別に信じてもらえないならそれでいい。俺は身分関係なく、ただ一人の男としてスズランに想いを伝えたい。それだけだ」
「一体、何なんだよ……何でこの国の王子なんかがこんな所にいるんだよ…っ! なっ? まさか親父はこの事知ってて…」
「ああ。マスターには初めから気づかれていたな」
「っ…!! 親父の奴、知ってたんなら一言教えてくれたって……じゃ、じゃあスズは?」
「スズランは知らない。マスターには俺が口止めしてたんだ、悪かったな」
ラインアーサは軽く頭を下げた。
「っやめろよ! 俺は……俺はあんたがこの国の王子だろうと何だろうと、関係ない! スズは絶っ対に渡さないからな…っ!」
「……ふ」
セィシェルの態度の変わらなさにラインアーサは苦笑した。いや、むしろ嬉しかった。今まで王族とわかった瞬間、手のひらを返すように態度を急変させ媚を売ってくる輩を何人も見てきたからだ。
「何笑ってる! それに何が対等だ、むしろ俺の方が不利じゃあねぇか」
「いや、俺の方不利なんだ。まだ身分を明かしてない上に嫌われる可能性がある」
「は? あんな風に見せ付けておいてくれて言う事かよ! ……苛つく!」
しかし、なおのこと噛み付いてくるセィシェルにラインアーサは思わずため息を吐いた。
「おい…! スズランは物じゃあないだろ。俺はスズランの気持ちを尊重する。本人が選んだ道なら何も言わずに受け入れる」
「へぇ、言ったな! あんたの正体を知ったらスズだって驚く。それに身分の差を気にするしうまくいくわけない…!」
「さっきも言ったが身分は関係ない。俺の母親も一般の街娘で孤児だった」
セィシェルが一瞬瞳を見開いた。
「……だ、だから何だよ!」
「だから俺にとって身分は障害じゃあない」
「そりゃあ、あんたには関係ないかもしれないけど俺たち一般の民にとってあんたら王族は雲の上の存在じゃあないか…」
雲の上の存在……。ラインアーサはその言葉に眉を顰めた。確かに王族ではあるが、その事を鼻にかけたりはしたくない。常々そう思っているからだ。
「無理強いはしない。その結果スズランがお前の方を向いたなら俺は身を引くつもりだ……」
「そんなの卑怯だ…! スズの気持ちはもう、ずっと前からあんたに向いてるじゃあないか!」
「お前と対等な位置に着くようにけじめはつける。それなら文句無いか?」
「そんなのどうやって、、」
「俺はスズランにひとつ嘘を吐いている…。それを身分とともに明かす」
「嘘を、吐いてる?」
「ああ、それだけで嫌われるかもしれない……」
ジュリアンの言う通り、もっと早めに誤解を解くべきだったとは思う。故意的ではないが警備員になりすまし、果ては素知らぬふりでスズランの相談に乗ったりした。知っていて騙していたのだから今更謝って許される事ではない。
「ふん。よくわからないけど早いとこスズにそれを伝えろよな! 王子さんよ。それと、王宮に連れて行ったりしたらそれこそ不平等だからな!」
「ああ、解った。だったらこの建物にいる限りはお前がスズランを守ってくれ…。今回みたいに抜け出したりしない様に全力で」
「そんな事あんたに言われるまでもない! スズを守るのはずっと昔から俺の役目だ!!」
セィシェルが憤慨だと言わんばかりに声を張り上げた。
「……そう、だよな。今までスズランを守ってきたのはお前だもんな…」
「あたりまえだ! あんたこそどうしてスズなんだよ…。まさかとは思うけど、あの時からずっと、なのか?」
「……そうだな。十一年前に初めて会ったあの日から、俺にとってずっと特別な存在なんだ…。たとえスズランが覚えてなくても、俺はあの笑顔に何度も救われた。こうやって今、再会できたんだ。俺は…」
「それって……やっぱりあんた、ロリコンってことじゃあねえか!」
「おい、何でそうなるんだよ!」
「だってそうだろ? あんた歳いくつだよ! スズとは結構離れてるじゃん」
「余計なお世話だ! 俺は断じて変態でもロリコンでもない!」
それこそ憤慨だとラインアーサも主張する。
「ふん、どうだか! 変態ロリコン王子め」
「お前なあ。その口の悪さ、どうにかした方がいいぞ!? どうしてそういう言い方しか出来ないんだ?」
「思ったことを口に出して何が悪いんだよ!!」
「別に悪くないが損するのはお前だ」
「何だよ、うるさいな。説教変態ロリコン王子!!」
「増やすなよ…!」
ラインアーサが呆れていると部屋の扉が叩かれ、スズランがちらりと顔を覗かせた。
「スズラン!」「スズ!!」
「あ、あの…。お話終わった?」
スズランが心配そうに様子を伺ってくる。
「待たせてごめんな。だいたいの話はついたよ」
「仕方ないな、あんたの言う通りにするよ…。俺もスズの気持ちを尊重するから」
「な、何のお話?」
「これからは俺もセィシェルも二人仲良くしよう…って話」
ラインアーサが皮肉を込め冗談めかすと、セィシェルは鼻に皺を寄せて舌を出した。
「っ…本当? わたし、二人が仲良くなってくれたらすごい嬉しい!!」
「……う、スズが嬉しいなら……しょうがねえ」
渋々そう言うセィシェルに向かってラインアーサも小さく舌を出してみせた。
もちろん、調度スズランには見えない角度でだ。
「なっ! おい! 大人気ないぞ!! あんたなんかとっととスズに嫌われればいいんだ!」
「えっ!? 二人とも仲良くするって……ちがうの?」
「ん? そうだよな、セィシェル」
ラインアーサは得意げに口角を持ち上げ、にっこりと笑顔を見せた。
「騙されてる……」
「え?」
「だから、スズはこいつの笑顔に騙されてるんだ!」
「そんな事ないよ! ライアは誰にでも親切だし、それにすごい優しいもの!!」
「っスズラン?」
突然のスズランの力説にくすぐったい気持ちになるも、すぐにセィシェルの鋭い視線と言葉が刺さる。
「誰にでも親切って何だよ、うさんくさ! 少なくとも俺には違うし!! とにかくさっきの話はわかったからあんたも約束守れよ? 抜けがけは無しだからな!!」
「ああ、わかってる。お前こそな」
ラインアーサも分かっているつもりだ。もうこれ以上スズランにも自分自身にも嘘は吐きたくない。少しでも早く真実を伝え、気持ちを知りたい……確かめたい。ラインアーサはスズランの瞳をじっと見つめた。
「ライア…? ……あ、ライアにお客さんが! 昨日の、ハリさんって方がいらしてるの! わたし呼びに来たんだった!」
「っ…何? ハリが!?」
「うん、雨がひどいから中に入って待ってもらってて! なんだか急ぎの用事があるみたいで…!」
「急ぎだって?」
ラインアーサはセィシェルの部屋を出ると下の居間へ続く階段を駆け下りる。居間へ行くとジーンがハリに珈琲を出している所だった。
「ハリ!! 俺がここに居るってよくわかったな!」
声をかけるとハリは静かに立ち上がり呆れた様子で首を傾げた。
「ライア、私を誰だと思ってるんです? 全く…!」
「悪かった。そんなに怒るなって! で。何かあったのか?」
ハリはそのままラインアーサの所へ来ると耳元で小さく呟いた。
「……イリアーナ様が今朝方倒られました。早急に王宮へ戻ってください」
「っ…!? 姉上が…?」
ハリが冗談を言う訳がなく、その表情から事態は思わしくないのだろうかと気がはやる。
「急いで戻りましょう、ライア」
「あ、ああ…。そうだな」
「マスター、珈琲ご馳走になりました。私達はこれにて失礼します」
「……悪いなマスター。いろいろ世話になった! スズランの事、頼む…!」
「いえ、そんな! またも貴方様にご迷惑を掛けてしまった事なんとお詫び申し上げれば良いのか……」
「ラ、ライア…! もう行っちゃうの?」
スズランも階段から下りてきて寂しそうな顔をしながらラインアーサの元に駆け寄ってくる。
「ん。ごめんスズラン。急ぎの用事があるんだ、話はまた別の日だ」
「うん…。お店にも、また来てくれる?」
「もちろん」
そうして見つめ合っていると続いて降りてきたセィシェルがしっしっと手を払う。
「俺的には別に一生来なくたっていいぜ」
「これ、セィシェル!! ……我々は何時でも貴方様のご来店お待ちしておりますので…!」
「ありがとうマスター! ……じゃあ、またな。スズラン」
別れ際、ふと視線を寄越すスズラン。軽く頭を撫でると寂し気だが、にこりと笑顔を見せてくれた。
雨だけが強く降り続ける中、後ろ髪引かれる思いでバルを後にする。何とか気持ちを切り替え、王宮へと移動しながらハリにイリアーナの様子を伺う。
「……ハリ。それで姉上の容体はどうなんだ? よほど悪いのか??」
「……まだ詳しくは私もわかりません。それにしてもライア。さらりと朝帰りなんですけど…。あのスズランと言う娘と一夜を共にしたのですか?」
「なっ!? 何言い出すんだよ!! ハリがスズランにヴァレンシアの店の場所を教えたんだろ? 丁寧にお前の護りの術までかけてあったし…!」
ハリの直接的な質問に狼狽えるラインアーサ。
「あの娘がどうしてもライアの居場所を知りたいと言うので致し方なく…」
「それにしたって、危ないだろ。そもそも未成年者は外出禁止令が出てる。今回は何もなかったから良かったものの……」
「……そんな風に狼狽えるなんてよほどなのですね」
「何がだよ…?」
「一時期あのバルに通い詰めたのも、最近ずっと上の空だったのも。全てあの娘が根源ですか?」
「根源って…。そんな言い方ないだろ」
ハリの棘のある物言いに対し流石にラインアーサも苛立ちを隠せない。
「……すみません、今日も少し頭痛が酷くてつい苛々としてしまいました」
「……」
「まぁ、ライアの女性への手の早さは今に始まった話では無いですし、私は気にしてませんので」
「さっきから何だよその言い方! それにスズランは違う。そんなんじゃあないんだ。昨日だって特に何も、ない…」
「何もない…。そうなんです?」
「ああ。すごく、大切なんだ…」
「……そうですか」
ハリが小さく息を吐く。
その後、しばらくの間沈黙が続くも両者とも黙って歩を進めた。
王宮へ着くなりラインアーサはイリアーナの部屋へと急いで向かった。
「──っ姉上!! 大丈夫か!?」
扉を叩き中の返事も待たず、すぐに談話室の中へと踏み入る。寝室の扉の前にリーナと王宮専属の薬師が立っているのが目に入った。
「リーナ! エルベルト先生! ……姉上はっ!?」
「アーサ様、御静かに願います。只今イリア様はおやすみ中でございますよ」
「今朝方、お気分が悪いと朝食時に倒られまして、ここ最近はずっと微熱もおありで……」
続いてリーナが寝室の扉を見つめたまま不安気に答えた。
「今フロラ医師が観ておられます。診察が終え次第説明致しますので落ち着いて、とりあえずお掛けになって下さいませ。アーサ様」
寝室の扉の前でおろおろと落ち着きなく歩き回るラインアーサに椅子を勧める
フロラやエルベルトはラインアーサが幼い頃から専属で王宮に仕えている侍医であり、親しい間柄だ。
「……そう、なのか」
ラインアーサは
「イリア!! 私のイリアは大丈夫なのかい!?」
「陛下…! お、お静かに。イリア様は只今おやすみになられてます……」
「あ、ああ…。そうだったか。これはすまないことをしたなエルベルト。今、イリアがどんな状況なのか教えておくれ?」
「ええ、もちろんです。どうぞ落ち着いてくださいませ陛下。もう少しでフロラ医師が診察から戻るのでお掛けになってお待ちを…」
「ああ、そうさせてもらうよ」
先ほどのラインアーサ同様宥められ、椅子を勧められるライオネル。同じく
「アーサ…! 暫く顔を見なかったが元気だったかい?」
「……父上こそ、働き詰めで無理してない?」
お互い久々に顔を合わせる所為か、少々気恥ずかしい気がした。
「大丈夫だよ、ありがとう。それよりも今はイリアが心配だ……」
ラインアーサは息を長く吐きながらリーナに出されたお茶にたっぷりの砂糖を入れてかき回した。
「……俺、姉上に謝らないと…。最近心配ばっかかけてたから…」
「私もだよ…。国王である以前に父親として反省しないといけない事が山盛りだ。イリアにもお前にも苦労ばかりかけさせてしまっているからな」
この所落ち着いて話も出来なかった為、ここぞとばかりに話を続けるラインアーサ。
「そんな事、ないよ。でも父上…。こんな時に聞くのも変だけど、俺に何か色々隠し事があるだろ…?」
「アーサそれは…っ」
「俺。知らなかった…。母様に妹がいた事。それに、特別な力が使えるって事も……」
「っ…何処で、それを? ああ…、いや。いずれちゃんと伝えようと思っていた事なんだ…。しかしその好機を逃してばかりでね、本当に、、すまなかったよ、アーサ」
心底申し訳なさそうにするライオネルの顔を見ると、色々言いたかった不満が消え入ってしまう。ラインアーサはお茶を胃に流し込み、また息を吐いた。
「……いや、別に。今度時間が空いたらでいいんだ。俺にもちゃんと母様の事……教えて欲しい」
「そうだね…。約束しよう。今起きている事件を解決させ次第、必ずお前との話し合いの時間を作る事にするよ」
「ん、ありがとう。父上、あと。俺も事件解決後になりそうだけど父上に、、その、紹介……したい人がいるんだ」
ラインアーサが恥ずかし気にそう告げるとライオネルはとても嬉しそうに微笑んだ。
「そうか、それは楽しみだ! これまで以上に全力で事件の解決に力を入れよう! 早くアーサの心を射止めた素敵な女性に会いたいものだ」
「いや、そう言う訳じゃあ…。それにまだ紹介出来るかは分からないけど……」
「けれどアーサにそんな嬉しそうな顔をさせる女性だろう? 早く会ってみたいよ」
そう言うとライオネルはまたこりと微笑んだ。直ぐにでも事件を解決させ、ライオネルとイリアーナに安心してもらわなければと言う気持ちもある。
「そうだ…! 父上。事件の犯人だけど、もしかしたらマルティーン帝国の…」
ラインアーサが言いかけると同時に寝室の扉が開き、中から医術師のフロラが出てきた。
「イリアの様子は!?」
「っ先生、姉上は!?」
二人の声が重なる。
フロラは二人に向かい柔らかく微笑むと、静かな口調で話し始めた。
「陛下に殿下! まずは、おめでとう御座います」
「!?」
「フロラ、一体……どう言う事なんだい?」
ラインアーサも言葉の意図がわからず困惑する。しかしリーナが少し興奮気味に顔を赤らめた。
「フロラ先生! やはりイリア様は…」
「流石にリーナは薄々感じていたようだね…。イリア様は御懐妊なさっておいでですよ」
そう告げられライオネルは長椅子から勢いよく立ち上がった。
「……懐妊!? そ、それは本当なのか?」
「って事はブラッド兄様との…!!」
ラインアーサも立ち上がりイリアーナの恋人であるブラッドフォードの事を考えると自然と顔が綻ぶ。
「陛下、アーサ様。改めて、誠におめでとう御座います!!」
エルベルトもリーナもイリアーナの懐妊に喜びの声をあげ、談話室は祝い情緒に包まれた。だがフロラが咳ばらいをし、落ち着き払った口調で続ける。
「しかし暫くは絶対安静にして下さい。栄養のある食事が大事です。それとあまりご本人に心労をかけないようにして下さいね! それから…」
まだ説明中にも関わらず、ライオネルが突然抱きついてきた。
「っわあ!? なんだよ父上!」
「……すまないアーサ。とても、とても嬉しくて…!!」
「ん…。俺も嬉しい」
ライオネルの瞳に光る物が見え、ラインアーサの瞳も潤む。
「油断は出来ませんよ! イリア様の体力はかなり消耗されているご様子です。安定するまでは決して安心出来ません」
「そうですね、絶対安静。今はこれが一番です。食事の栄養面は私、エルベルトにお任せください」
「ありがとうエルベルト。よし、ではエテジアーナの時と同じく当分の間めいいっぱい安静にさせよう」
「母様と……同じく?」
ラインアーサはその言葉がどうしても気になり尋ねた。
「そうだよ。エテジアーナは身体が弱かったからね……それではすぐに準備を整えよう! オゥに連絡を取り、急いでブラッド君にも知らせなくては!! こうしてはいられない」
ライオネルは足早に部屋の外へと向かう。
「あ。父上、約束…!」
「ああ、忘れないよ! アーサこそ私に愛しい人を紹介すると約束しておくれ、必ずだよ?」
片目を閉じ悪戯っぽく微笑むとライオネルは来た時の様に慌ただしく談話室を後にした。
「ふふ。陛下のご様子、本当にエテジアーナ様の時を思い出します……」
「え…?」
フロラが瞳を閉じながらしみじみと語り出した。
「私はエテジアーナ様がアーサ様…。貴方様を身に宿された時の事を今でもはっきりと思い出せますよ」
「っ…俺を!?」
「ええ…。アーサ様の時はそれはとても心配されたのですよ?」
「心配って……なんで…」
「エテジアーナ様は元々お身体が弱かった上にイリア様の御出産の時に一度、母子共に危険な状態になった事があったのです。故に二人目は絶対に無理だろうとし判断し、断念していたんです」
「そんな事が……」
フロラが深く頷く。
「しかしアーサ様をご懐妊された時、エテジアーナ様はどうしても産みたいと仰いまして…。それからの陛下の過保護っぷりといったらそれはそれは大袈裟な物で…。あっ、いやアーサ様にこのような話してしまい申し訳ございません!」
「いいんだ、教えてくれてありがとうフロラ先生! 出産の時も先生が俺を取り上げてくれたって聞いてるよ」
「……え、ええ! アーサ様はとっても元気で立派な赤ん坊でしたよ…!!」
一瞬、何故かフロラが不自然に笑顔を見せた様に感じた。
「? 、、そっか! 俺、母様や父上。周りのみんなに感謝しないとな!!」
「そうですよ、アーサ様がお生まれになってこの王宮もだいぶ賑やかになったのですから!」
「んん? エルベルト先生、それはどう言う意味だ? 俺、そんなにうるさかったのか?」
「ふふ。賑やかなことは良いことですよ、アーサ様。ですが今はお静かに…。イリア様を起こしてしまいます」
「……そうだな、じゃあ姉上が起きたらまた改めて顔を出すよ。フロラ先生にエルベルト先生、姉上をよろしくお願いします! リーナもお茶ご馳走様」
ラインアーサは二人の侍医に頭を下げると静かにイリアーナの部屋を後にした。
自室に戻り一息つく。
イリアーナの容体が病では無いとわかり安堵の胸を撫で下ろす。最近悪い出来事が続いていたので、落ち着けば民にも良い知らせが出来る。
「その前にブラッド兄様との結婚発表や、婚儀もあるだろうし…。忙しくなりそうだな。ああ、でも姉上とブラッド兄様の子ならば可愛いだろうな!」
二人の幸せを切に願っていたラインアーサ。この出来事が自分の事の様に嬉しかった。
「まずは誘拐事件を解決させて早く姉上を安心させないと…!」
そう意気込んだものの、一旦ベッドに腰を下ろすと途端に眠気に襲われ大きな欠伸が出る。
「……ぁ、ふ…。そういえば俺、寝てないんだった……」
ラインアーサは睡魔に勝てずそのまま深い眠りに落ちていった。
────
───────
誰かが叫んでる……。
この声は
そんなに慌ててどうしたの?
だいじょうぶだからね……。
───
──────
「……ん……あれ? ……俺今寝てたのか? …ッ! 痛…!! またか…、最近やけに刺青が痛むな」
突発的な二の腕の痛みが起きがけの思考をはっきりとさせてゆく。ラインアーサの左の二の腕に刻まれている刺青。以前から時たまその部分がちくちくと痛む時があるのだ。幼い頃に煌都パルフェにて施した刺青だとライオネルから聞かされてはいたがその詳しい理由までは知らされていなかった。ただ刺青を人前に晒さぬようにとだけ言われている為、普段は隠している。
「んん…。もう痛みは引いたか。最近多いんだよな。父上はお守り的な物とか言ってたけど本当に効果あるのか? この刺青」
ラインアーサは大きく欠伸をしながら頭を掻く様にかき混ぜた。
「んー、、なんかおかしな夢を見たような気がするけど……」
何気なく窓の外を見ると既に陽は落ち、薄暗かったが雨は止んでいる様子だ。
スズランはどうしてるだろう……。朝は慌ただしく王宮へ戻ってきた為、悪い事をしたなと少々気がかりだ。そのまま出窓に腰を下ろし眼下に広がる森を眺めると、森の樹々が妙に騒ついている。まさか……。
「っ…あいつ、また抜け出したのか…!?」
ラインアーサは弾かれた様に部屋を飛び出すと
急いで横庭に出ると雨上がりの空気がラインアーサの身を包んだ。肌を擽る様に優しい風が吹く。
「スズラン!? いるのか?」
思わず叫んでいた。しかし横庭に人影はない。それでも森の樹々が騒めくのでラインアーサは石橋を渡り森に足を踏み入れた。すると薄暗い森の中の小道にうずくまる様に屈んでいる人影があった。
「スズラン…っ」
屈み込み肩を震わせている。泣いているのだろうか。ラインアーサはそっと近付き膝を着いて屈み込むとスズランを背中から抱きしめた。
「……スズラン。泣いてるのか? いつからここにいたんだ…? こんなに冷えて」
スズランは一瞬身を硬くさせたが直ぐに言葉を発した。
「……警備、、さん……」
この後に及んでその名で呼ばれるとは思っていなかったが驚きながらも返事を返す。
「!! ……あ、ああ。駄目だろスズラン。また店を抜け出したのか? ……今一人になったら危ないんだ。いくら此処が安全だとしても、もう一人でこの森へ来ては駄目だ」
「っ…!」
「……店に戻ろう。送るから」
「いい、です。一人で戻れます…」
「どうした…?」
スズランの態度がいつになく余所余所しく感じた。警備員としてのラインアーサには懐いてくれていた筈のスズラン。だが、その態度に心臓がちくりと痛む。
正体を明かすなら今しかない。そう決意した。
というよりも既にスズランも気が付いている筈だ。しかし……。
「警備さん…。警備さんは、アーサ王子……なの?」
「っ!?」
スズランからの質問に一瞬狼狽えてしまった。
「……やっぱり、、そう、なんですね…。今まで気がつかずとは言え数々のご無礼、本当にごめんなさい…!! もう、この森にも来ません」
「…っ! スズラン!!」
「離して、くださいっ!」
腕の中からスズランがするりとすり抜ける。
「待てよ! こっち向けって!! 俺の話を聞いてほしい…!!」
思わずスズランの手首を強く掴む。
「いや…! お願い離して!! ……わたし、今は何も考えられない…。ごめんなさいっ!」
「スズラン…!!」
顔所か瞳すら合わせようともしないスズランに気持ちが焦り、苛立って無理やりにでもこちらを向かせたくなる。だがその時……。
セイシェルと交わした言葉が脳裏に浮かんだ。
〝スズランの意思を尊重する〟
〝無理強いはしない〟
セイシェルと対等な立場になるとそう公言したばかりだ。力ずくでスズランを自分の方へと向かせても意味はない。
「お願いします…っはなして……わたし、どうしたらいいかわからない…。だってあなたは…」
「っ…分かった。手は離すから、俺の話…。聞いてくれ……ずっと、黙っていてすまなかった。本当はもっと早く言うべきだったんだ。今更謝っても許されないだろうけど……唯、俺はこれからもずっとスズランの事を守りたいんだ! 嫌ってもくれても構わない、俺はお前の事が…」
「っ…!!」
最後まで言い終える前にスズランに手を払われてしまった。その瞬間、息が止まる。心臓が押し潰される様に痛む。案の定嫌われたのだと、頭では理解出来るのに心が軋んで苦しい。不意にこちらを見上げたスズランの瞳は涙で光っていた。
「っ…スズラン……」
「わたし、もう戻らないと…っ! 失礼いたします…」
「…っ!!」
そう告げて、スズランは
「……馬鹿だな、俺。また泣かせて…。今度こそ完全に嫌われた。結局、傷つけてばかりで……でも、それでも、、この気持ちは……諦めたくない」
自身でもこの往生際の悪さに驚く程だ。セィシェルの前であんな見栄を張らなければ良かった。やはり身を引くなんて出来る訳がないのだ。
ひと時でも気持ちが通じ合えた気がしていい気になっていた。あの幸福感を忘れる事が出来ない。
初めてこんなにも誰かを好きになった。
初めて嫉妬や独占欲という感情が芽生えた。
守りたい。悲しませたくない。
嫌われたくない。
側にいたい。側で微笑みかけてほしい。
誰にも渡したくない。
本当は……独り占めしてしまいたい。
自身の想いがどんどん貪欲になっていくのが分かった。分かっているのに貪欲に欲した罰だろうか。ずっと誤魔化してきたがそんな身勝手な想いははた迷惑だろう。スズランは物ではないのだ。
「スズラン……」
スズランには笑顔が似合う。
あの子の笑顔を曇らせたくはない。
それだけは守らなくては。この手でスズランを守れなくても笑顔だけは守りたい。
ラインアーサはその場に立ち尽くし、暫くの間スズランの部屋の窓を見上げていた。