情報収集という名の
文字数 12,654文字
報告書類を読み上げるハリの声が執務室に響く。しかし何処か上の空なラインアーサの耳には届いて来なかった。
「ライア。聞いてます? 今日一日、いえ。最近ずっとうわの空ですが。……それに、溜息が多いですね。まるで恋煩いでもしているかの様です」
「……」
「ライア…!」
「……え、ああ。悪い、はじめから頼むよ」
「全く。これで何度目だと思ってるんです?」
「ごめん」
今日一日このやり取りを何度か繰り返している。ラインアーサは日々公務に没頭し、例の想いを振り切ろうとしていた。だが、不意に気を抜くと考えてしまうのどうしてもスズランの事だった。
「公務とは言え、最近根を詰めすぎかと…。疲れが取れていないのならもう一度休暇を取りましょうか?」
「大丈夫だよ。この仕事を終えれば旧市街の視察へ出れるし、ジュリにもそう伝えてある」
「ですが、旧市街の件はそう無理してまで視察に行かなくても。最近は目立った報告もありませんし」
目立った報告がないことにラインアーサは一先ず安堵する。
あの日……。スズランが旧市街の粗暴者に絡まれていたのを思い返すだけで身の毛がよだち、焦りに似た怒りの様な感覚に苛 まれた。平和を誇るシュサイラスア大国の名に恥じぬよう奮励 するライオネルを支え、いずれはその国王と言う座を受け継ぐであろう覚悟は出来ている。スズランの事を抜きで考えるにしても、この愛する自国ではどんな小さないざこざも起こって欲しくないと願ってしまう。
ラインアーサは頬杖をつき、また小さく息を吐く。
「じゃあ今夜は息抜きに付き合えよ、ハリ。ちょうど週末だし」
「今夜、ですか…?」
「ん? もしかして都合が悪かったか? ハリに会わせたい人がいるんだけどな」
「少し用事がありまして。それはまたの機会に」
ハリ自身もまた日々の執務をこなし、抜かりのなさは誰よりも完璧と言っていい程だ。
「なら俺一人で久々に羽でも伸ばしてくるかな」
「……伸ばし過ぎは駄目ですよ? 貴方は直ぐに気が大きくなるというか、そもそも酒に弱いですからね」
「はは、そういうハリは隠れ酒豪だからな…」
「ライアが弱過ぎなだけです。自国ではこの程度普通ですから」
何気ない会話の中で上がったハリの言葉にラインアーサは心底驚いた。ハリが〝自国〟という言葉を使い、それを話題に出すのは初めての事だったからだ。
「っハリ、今……自国って! その自国ってルゥアンダ帝国の事だよな? もしかして、記憶…」
ラインアーサは思わず掛けていた椅子から立ち上がり、仕事机に手を着き身を乗り出した。その勢いで書類が床に散らばった。
「……いえ。今ふとそう思っただけです」
一瞬ハリが考え込む様な表情をしたが、指先を眉間に押し当てそう呟いた。記憶を無理に引き出すのは脳に負担を掛けるらしい。実際ハリも思い出そうと記憶を辿ると頭痛が起こる様で、ラインアーサも無理はして欲しくなかった。ならばやはり今日会わせたいと思う人物との接触は、ハリにそういった負担を強いる可能性があるため無理には会わせない方が良いのかもしれない。
「……そうか。やっぱり今日は俺一人でゆっくり息抜きしてくるよ」
ハリは落ち着いた動作で散らばった書類を拾い集めると仕事机に揃えて置きなおした。
「ライア。陛下やイリア様に心配をかける行為だけはくれぐれも…」
「ああ、もう分かってるって! 最近ハリはだんだんジュストベルに似てきたんじゃあないか? 説教っぽい所とか特に!」
「それは光栄ですね。この国においてジュストベル様は私の一番の師範 ですから」
そう言いながらハリが僅かに微笑んだ様に見えた。それもまた珍しい事だ。
───今日のハリはやけに表情豊かだった様に思えた。それに何時もより、会話も口数も多い様に感じるのは気の所為ではない筈だ。ハリの表情が豊かになるのは、当然ながらラインアーサにとってとても喜ばしい事だ。
「少しづつでもいい。ハリの記憶が戻るのなら俺は何だって…」
ラインアーサは記憶が無いままのハリに、自身の側近の仕事を強いてきたことがずっと気掛かりでならなかったのだ。何事も卒なくこなすハリにいつか恩返しが出来たらと思っている。
そんな面持ちで BAR・Fruto del amor の入り口の前でとある人物を待ち伏せした。週末で何時もよりも人の流れが多い。
だが、待てども待てども目的の人物は現れない。開店前から入店客をさりげなく観察していたつもりだが、考え事をしていて見逃しただろうか。確認の為仕方なく酒場 の中へ入る事にした。
「もうここに来るつもりは無かったんだけどな。やむを得ないか…」
一度決めた事を覆す様で気が進まないが、入り口の扉を開け石段を一段づつ降りてゆく。既に賑わい始めた週末の店内は活気があり、外との寒暖差にほっとする。この人々の活気が好きだ。民の暖かさが伝わってくる様な感じがラインアーサの心を弾ませる。しかし、今回は別の目的で此処へ来ている為気を引き締めた。楽しそうに酒や食事を楽しむ客を横目に店内を見渡すものの、やはり目的の人物は見当たらない。
同時にスズランの姿がない事に安堵したが、少し残念の様な複雑な気持ちになった。
「……居ない、か」
目的の人物とは、エリィの事である。ラインアーサが毎日通っていた頃は、彼女も常連の如く当たり前に姿を見かけたものだが。
「此処に居ないのなら別の店か? それとも…」
捜すのを諦め酒場 を出ようと出入り口に戻ろうした時、ちょうど華やかな女性達が三人程入店して来たのが目に入った。確か、エリィの知り合いだったと記憶している。案の定、女性たちはラインアーサを見つけるなり駆け寄ってくる。
「あらぁ! ライアじゃない! 久しぶりね。ここ暫く見なかったからもう会えないのかと思ってたのよ? ねぇねぇ。良かったら奥の席であたし達に付き合わない? また色んな国のお話をたくさん聞かせてくださいな!」
一際目立つ美貌の女性が、上目遣いと甘い声色でラインアーサに声をかけてくる。その他の二人にもあっという間に囲まれてしまった。悪いが今は女性達に構っている暇などない。
(確か彼女達の名前は…)
ラインアーサは少し首を傾げ考え込むと、すぐに申し入れを断る姿勢に出た。小さく息を吐きながらよそ行きの笑顔を貼り付け申し訳なさそうに告げる。
「ああ、久し振りだなティルダ。イベッテにルースも! 誘いは有難いけど、また今度にしてくれよ。今日はちょっと急ぎの用事があるんだ」
こんな時、女性の誘いを無下に断ってはいけないと知っている。取っておきの笑顔で対応するのだ。すると女性達は名を呼ばれただけでラインアーサの笑顔にうっとりと見惚れ、頬をそめた。
「まあそうなの〜? 残念だわぁ。そういえばエリィも残念がっていたわよ! あの子だいぶ貴方にお熱だったでしょう? ライアが急に来なくなったものだから他の酒場 へ捜しに行ったりしてたんだから」
計らずともエリィの話題になり、ラインアーサはティルダに問いかけた。
「……ああ! 今ちょうどそのエリィを捜してるんだ。今日ティルダたちはエリィと一緒じゃあないのか?」
「あらまあぁ! せっかくライアの方から会いに来てくれたのに! なんかね、あの子ったらこの間そろそろ国に帰るとか言ってたのよね」
国に、帰る? 今帰られては非常に困る。
これは殆 ど直感なのだがエリィは他国の、それもルゥアンダ帝国の情報を持っているとラインアーサは踏んでいる。もしそれがどんなに些細な事だったとしても、ハリの為に成り得る情報は収集しておきたい。
「あの子、もしかしたら週明けあたりにこの国を発つかも知れないわよ。良かったら探してお別れの挨拶でもしてあげて?」
「そうなのか。じゃあここの他にエリィが行きそうな店、もし心当たりあるなら教えてくれると助かるんだが…」
「そうねぇ、ここからすぐ近くの果実茶が売りの軽食屋とかかしら。あ、南側にある崖の上の酒場 とかにも良く行くって言ってたわ!」
どちらもそこそこの人気店だ。ラインアーサも何度か足を運んだことがある為、場所は分かる。
「教えてくれてありがとう! 早速行ってみるよ。ティルダ、君たちに会えて良かった」
ラインアーサはティルダの手を取り、にっこりと微笑んだ。実際ここで彼女らに会わなかったら今日は諦めて帰っていたかもしれない。
「 いゃぁん、あたしもライアに会えて嬉しいわぁ! でも、悔しいけどあなた達ってお似合いよね。エリィと上手くいったらあたし達にも報告してほしいわ? うふふ」
ティルダは顔を紅潮させ、ラインアーサに熱い視線を送ってくる。何やら妙な勘違いをされている様だがそれを訂正している暇が惜しい。
「ああ、もう行くよ。じゃあ…」
ティルダ達に別れを告げると、強い視線を感じその方向に向き直る。其処にはいつから立っていたのか、スズランが呆 けた様な表情でラインアーサを見つめていた。
「っ…スズラン!!」
毎度の如くラインアーサの心臓が早鐘を打つ。
しかし、スズランの顔色が紙の様に真っ白だ。具合でも悪いのだろうか。純粋に心配になり一歩近づくと更に表情が曇ってしまい、それ以上足を進めるのを躊躇 した。やはりこの反応で好かれているとは到底思えない。嫌いな奴に声などかけられたら嫌だろうと、ラインアーサは喉まで出かかった言葉を飲み込む。
するとカウンターの方からセィシェルが飛び出して来てスズランの背後から彼女の肩を掴んだ。
「おい、スズ! まだ病み上がりの癖に表に出るなって言ったろ? 今日は裏で簡単な仕事を…っ!!」
「……」
そこでラインアーサの存在に気付いたセィシェルと目が合う。
「げ! んだよ、来てたのか変態野郎! もう来ないとか言ってた癖に…」
相変わらずあからさまな敵意を向けてくる。お馴染みの口の悪さだが、セィシェルの挑発に乗るのが一番の時間の無駄だ。ラインアーサは取り合わず、そのまま踵を返して出入り口に向かう。すると、意外にもスズランの声が追い掛けて来た。
「待って! ……ライア」
振り向かずに歩みを止めるラインアーサ。
「わたし、あの…っ」
スズランが何かを言おうとしているのが背中に伝わってくる。だが、それ以上の言葉がなかなか出て来ない。
「おい、また熱上がってんじゃあねーか! もうこんな奴いいから上で休めよ…」
セィシェルの言葉が気になり、肩越しにさりげなく振り向くとスズランが具合悪そうに屈みこんでいた。肩で息を吐きながらとても苦しそうにしている。
「うん、でも……わたし。ライアにちゃんと言わなきゃならない事が……あっ?」
最早身体が勝手に動いていた。咄嗟に駆け寄って屈み込み、スズランの額に掌 を翳 す。直に触れなくてもわかる程の高熱。
「おい! 何すんだよあんた!!」
そっとスズランの頬に触れる。そのまま症状を軽くする為、得意である癒しの風を施した。
「っん…!」
「ちょ、あんた。まじで何してんだよ! 早くスズから離れろって!」
セィシェルが割って入った為、完全ではないが多少也とも症状は改善されている筈だ。その証拠にスズランの顔色は先程よりもだいぶ良くなっている。あくまでも応急処置に過ぎない、後はゆっくり睡眠を取ることが一番だ。
「また、助けてくれたの…? どうして?」
ラインアーサは困っている人や苦しむ人が居れば見て見ぬ振りが出来ない性分だ。それが自身の想いを寄せている相手ならば尚更放っておける筈もない。
だが面と向かって礼などを言われるのは照れ臭くて昔から苦手だった。その為また突き放す様な言い方をしてしまう。
「……お前さ、ガキなんだから早く寝ろよ」
「うん…。そうするね」
それでも素直に頷くスズランの姿にラインアーサは狼狽した。
「っ…!」
「ライア……いつも助けてくれて、ありがとう…」
そう言いスズランはふわりと微笑んだ。
急激に顔が熱くなったのを感じたラインアーサはそれを誤魔化す様に立ち上がった。急いでスズランに背を向ける。そして逃げる様に出入り口へ向かい、一気に石段を駆け上ると酒場 の外へと飛び出た。ラインアーサの火照った頬を冷たい外気が容赦無く刺す。それでも赤面はなかなか治まらない。
「……うわ、かっこ悪」
ラインアーサは今自分がどんな顔をしているのか想像したくもなかった。おそらく耳まで赤く染まっているだろう。スズランが初めてあの笑顔を〝ライア〟に向けてくれたのだ。それだけで尋常じゃない程の幸福感がラインアーサを包み込んだ。
「っ…やばい、もの凄く嬉しい…!」
自然と緩む口元を片手で隠す。
熱に浮かされていたのか、やけに素直なスズランが可愛かった。以前から礼が言えなかった事をずっと気に病んでいたのだろうか、今日は素直に口にした。あのこちらまで嬉しくなる様な、花がほころぶ様な可憐な笑顔を伴って。それを思い出すとまた鼓動が煩くなる。スズランに会う度に想いが募ってゆく。
「俺はどうしたら…っ」
どうすればスズランへの想いを諦める事が出来るのか……。最早自分ではどうにも出来ないのだと思い知る。ラインアーサは足元に視線を落とし、その場に佇んでいた。
「何が、どうしたら……なの?」
突如頭の上から声を掛けられて顔を上げるとエリィが目の前に立っていた。
「っ…エリィ! 良かった、探してたんだ。君の事…!」
エリィの顔を見た瞬間、本来の目的を思い出し我に返る。
「……こんばんは、久しぶりねライア。あたし、ご飯まだなのよね。良かったら一緒にどう?」
「ああ。付き合うよ」
即答するラインアーサにエリィが驚いた表情になる。
「あらぁ? てっきり断わられると思ったのにライアったらどうしちゃったの? 以前はあたしがどんなに誘っても上の空だったじゃあない。それに…! 急に来なくなってあたし、あれから毎晩貴方の事探したのよ?」
少し怒った様な口調で話すエリィ。ティルダが言っていた事はどうやら事実らしい。
「ああ、すまない。最近少し忙しかったから街には来てなかったんだよ…。それよりエリィ、君に確認したい事があるんだ」
ラインアーサは、エリィの星の様な色合いの瞳を見据えた。
「な、なによ。確認って」
「さっきティルダたちから聞いたんだ。エリィ、君が国に帰るかもしれないって…」
「…!!」
エリィは少し瞳を見開くと、ラインアーサから目を逸らし少し俯きがちに頷いた。
「本当なのか…?」
「ええ、そうよ。それが何? もしかしてあの子たちに何か言われたから来たっていうの?」
「いや、違うんだ。……急にこんな事を尋ねたら失礼かも知れないが、もしかしてエリィはルゥアンダ帝国の出身じゃあないかって思って」
ラインアーサの問いかけに、エリィは黙ったまま鋭い視線を寄越す。その表情が何を意味するのか、読み取るのは難しかった。行き交う人々で賑わう週末の大通り。歩みを止めているのはラインアーサとエリィだけだ。
「……」
「……違っていたなら謝るよ。突然変なこと訊いて悪かった。お詫びに今日は俺の奢りで…」
「……何故、分かったの? 貴方、何者?」
「!」
突如肯定され、思わず気持ちが逸 る。
「俺は…っ」
一瞬。真の名を名乗り身分を明かすか迷ったが、その答えを出すより早くエリィの声があがった。
「場所を変えましょうよ。こんなところで話す内容じゃあないでしょう?」
「そうだな。じゃあ」
「あたし、いい所知ってるのよ。ついて来て」
そう言うとエリィは早足で歩き出した。この方向だとおそらく南の崖の方だ。崖の上の酒場 へ向かっているのだろうか。
「待てよエリィ! 別の酒場 へ向かってるのか?」
「あたし、ご飯まだって言ったじゃあない。ライアが奢ってくれるんでしょう?」
「別に、それは構わないけど…」
確かにそうは言ったが、何処か腑に落ちないのは何故だろう。
───崖の上のバルへ着くと、エリィは混み合う店内を避け誰もいない戸外 に席を取った。戸外 の席はこのバルが崖の上という立地の為、楓樹の都の景色が一望出来る。言わば、恋人達の逢瀬に人気の場所だ。しかしながら陽が落ちて気温が下がり切ると、殆どの客が店内の窓際席で夜景を楽しむ。
「今日は一段と風が吹くわね」
「天気が悪いからな。エリィは寒くないのか?」
崖の上とあってか若干風が強い。夜間に備えて着込んでは来たものの、時折吹きつける強い風がラインアーサのマントをはためかせる。
「あたしはお酒と温かいお料理があれば平気よ」
ラインアーサよりもだいぶ薄着に見えるエリィ。流れる様な濃紺の髪が風にさらわれ、今にも闇夜に溶け消えてしまいそうだ。
「この時間だと外には誰もいないんだな。知らなかったよ」
「穴場でしょう? 内緒話には打って付けって訳よ。うふふ」
エリィが不敵に微笑む。
「……エリィ。君こそ一体何者なんだ?」
「……とりあえずはご飯よ! 冷める前に頂きましょう」
「そうだな…」
運ばれて来た料理に手をつけ始めたエリィに便乗し、ラインアーサも軽く食事を済ませた。その間、エリィは注文した料理や穀物の蒸留酒を次々と空けてゆく。以前から感じてはいたがエリィは良く食べ、良く呑む。そしてハリ同様、酒豪だ。どれだけ呑んでも顔色一つ変えない。
「この国はどのお酒も美味ねぇ」
「エリィ。そんなに呑んで平気なのか?」
「この位何でもないわ。丁度よく身体も暖まってきた所よ。ライアこそ、それで足りてるの?」
「……まあ、俺はこれでいいんだ」
ラインアーサはハリの忠告に従い、度数の低い果実酒を少しずつ胃に流し込んでいた。
一通り食事を終えると、エリィがグラスを片手に話を切り出してきた。
「───それで? 何故あたしがルゥアンダ帝国出身って分かったの?」
「……なんとなく、そう感じたんだ。雰囲気がルゥアンダ出身の知り合いに似てる気がしたし、それにその瞳の色。君の他に見た事がない」
エリィの瞳はとても珍しい夜の空に煌めく星の様な美しい色をしている。その色合いは滞在した事のある国々ではもちろん、今まで一度も見た事がなかった。
「何それ。それだけの理由で? あたしはよくマルティーン帝国出身と間違われる位、自分でもルゥアンダ人らしくない見た目だと思うのに。まあ実際、半分はマルティーン人の血が入ってるから当たり前なんだけどね」
「……俺は内乱で離れ離れになった家族を捜して各国を旅して来たんだ。マルティーン帝国にも滞在したことがあるが、エリィはやっぱりルゥアンダ人寄りだと思う」
そう指摘すると何処かエリィの表情が少し曇った様に感じたが、すぐにいつもの明るい調子に戻った。
「そう……で、あたしがルゥアンダ帝国出身だったらなんだって言うのよ?」
「エリィは国に帰るって言ったよな? ルゥアンダ帝国は内乱後から現在も鎖国状態の筈だ。どうやって入国するつもりなんだ? もし、方法があるなら俺にも教えてほしいんだ!」
誰もいない戸外 席にラインアーサの声が響いた。
「……何の為に? ……ていうか無理よ。ライア、だって貴方は魔術を使えないでしょ?」
「魔術…? 術のことか?」
魔術───。
聞いたことがない訳では無いが…。
「そうよ。この国では魔術って言い方には全く馴染みが無いみたいね」
「君は本当に何者なんだよ…。何の為にこの国に来たんだ?」
ラインアーサとエリィは互いを探り合うように視線を交じわらせた。
「それは教えられないわ。……と言いたい所だけどライアにだったら特別、教えてあげてもいいわよ」
エリィが意味深な眼差しを向けてくる。その意味が分からない訳ではない。
「……エリィ」
「なぁに?」
以前は情報を得る為ならば、どんな事でも構わず割り切って来た。例え気のない相手だろうが、一夜を共に明かして得た情報は数知れない。増してや今回はハリに関する事だ。だが、どうしてもその気になれない───。
「エリィ、そろそろ中へ入らないか? 本格的に冷えてきた」
「ふふ。相変わらず釣れないのねぇ…。やぁね、冗談に決まってるじゃあないの。わたしもライアと同じよ、人捜しでこの国に滞在していたの。これ以上は話せないけどね」
「!!」
人捜しで他国に来ている。
それを知った瞬間、ラインアーサはイリアーナを捜索していた時の自身とエリィを重ねてしまった。しかも聞く限り、他言出来ない人捜しの様に感じられる。その事もまるでラインアーサ自身の時と似たような状況ではないか。イリアーナの捜索も他言出来なかった為とても難航したのだ。公表出来ない。即ち、その国にとっての重要人物だと言う可能性が高い。
「……そうだったのか。なら今更かもしれないが、何か俺が力になれそうな事があれば…」
「無いわ。この国での収穫はゼロよ。だから一旦国に戻ることにしたの。さあ、あたしは話したわよ? それで、ライアは何者なの? 唯の旅人って訳じゃあなさそうよね」
エリィからの問いに、ラインアーサは残りの果実酒を一気に煽ると気を引き締めた。
「ああ。俺も全てを話す事は出来ない。でも俺は生まれも育ちもこの国だ」
「そうみたいね。見た所ライアのその髪の色だって珍しいみたいだけど?」
「ん? ……あ、ああ。珍しいだろ…」
髪の色を指摘され小さく動揺する。実のところ、シュサイラスア大国でこの髪の色を持つのはラインアーサとイリアーナのみである。両親からの髪色が上手く混ざり合ったのか隔世遺伝の表れなのか、二人共ミルクに焦がし砂糖を垂らした様な風変りな茶色の髪だ。
だが公的な場に出る際には、正装としてやけに重たい飾り帽を被る事が殆どだ。おかげで遠目からしか自分の姿を見たことがない者からすれば、〝アーサ王子〟は単なる茶髪に見える筈なのだ───。
「あ、そういえば。この国の王子と王女も似た様な髪の色だったわよね…! あたし、ちょうどあのお祭り騒ぎの前日からこの国に滞在してるのよ」
「お祭り騒ぎ…。ああ…」
お祭り騒ぎとは、ラインアーサとイリアーナが帰国した際の祝祭 の事だ。まあ、文字通り祭りではあったが。
エリィはおもむろに立ち上がるとテーブルに手を着き身を乗り出してきた。そして、穴が空いてしまうのではと思う程にじっくりと顔を観察される。思いのほか互いの顔と顔とが近づきラインアーサは息を呑む。
「ふぅん」
「なんだよ…」
「……何でもないわ。ライアは何故ルゥアンダ帝国に興味があるの? 潜入でもするつもり? 」
エリィは何事もなかった様に椅子に座り直すとまた話を聞く体制に戻った。一瞬。身元が割れたのかと思ったが何も聞いて来ないのを見るとそうでもないのか。
ラインアーサは己の本名と身分を切り出す機会をすっかり失い、この話の流れから余計に言い出しにくくなっていた。
「いや。さっきも少し話に出したルゥアンダ帝国出身と思われる知り合いについてなんだが…。彼について色々調べたい事があるんだ」
「思われる? それってどういう事なの?」
「今日、本当は一緒に連れて来る予定だったんだが都合がつかなくてな。容姿から見てもおそらくルゥアンダ帝国出身だと思うんだが、彼は内乱以前の記憶がほとんど無いんだ」
「記憶が無いの…?」
「ああ。だから何かの手掛かりにとエリィに会わせてみたかったんだけど、あまり無理させても本人の負担になるし…」
「……そうね」
ハリが記憶を呼び起こそうとする際、いつも指先を眉間に押し当てていたのを思い出す。そして一旦その頭痛がおこると、どんなに高度な癒しの術を持ってしても和らげることは出来なかった。
「あ。ちなみに俺もある程度の術なら使えるつもりだけど、それでルゥアンダに入国出来るのか? 魔術って言うのと術がどう違うのかは分からないけどな」
「少し使える程度じゃあ駄目なのよ、とても高度で複雑な術式を組まないといけないんだから」
「ふーん。それで…?」
「って! 何よ、教えないわよ? まあでも、この国の民には絶対に無理じゃあないかしらね」
「……何故、そう言い切れるんだ?」
エリィの少々癪に障る言い方には思う所があったが、そうまで言い切る理由が気になる。ラインアーサは顔色を変えず冷静に回答を求めた。
「──そうね、この国。とても治安がいいし国民の気性も穏やかで明るくて活気もあるわ…。住みやすいし街も綺麗、流石は移民から一番人気の国ね。内乱後よく此処まで復興出来たものだわ。この国の王様はよっぽどの腕利きなのかしらね? ……どこぞの皇帝らとは大違いよ」
最後の方の言葉は小声な上、強く吹く風に掻き消されよく聞き取れなかったが身内を良く言われるのは悪い気がしなかった。
「ああ、国王は民が安心して生活出来る様にと尽くしてくれているからな」
「……でも、ひとつ言わせてもらうと平和過ぎるのよ。あんな内乱があってからまだ十一年しか経っていないのに…。平和呆けもいい所よ?」
以前も軽くだがスズランに指摘されたことがあった。しかも今回は的確かつ痛い所を突かれた。だが、ラインアーサもこのまま黙っている訳にはいかない。
「っ…しかし、民の平和を願いそれを叶える。それが王族の役目だろ!? 国王陛下は間違ってなんかいない!」
エリィの厳しい意見につい熱くなり声を荒げるラインアーサ。対しエリィは冷静に言葉を返してくる。
「そうね、間違ってなんかいないわ。でも、だからこの国は魔術が発展していない」
エリィは席を立つと街の夜景が一番美しく見える場所へと移動した。ラインアーサもそれを追い隣に立ち並ぶ。エリィは柵から少し身を乗り出し話を続けた。
「……内乱後のルゥアンダ帝国の内情は本当に最悪よ。この国みたいに一人で気軽に外なんか出歩けない、現在も国民は常に身の傍に危険を感じながら息を潜めて生活してる。国を正す統治者が不在なんだもの。民の心が荒んでゆくのも当たり前だわ……その癖、貴族達は国民を放ったらかしのまま派閥争いばかり…」
外からは知り得ないルゥアンダ帝国内の現状を聞かされ、ラインアーサは驚きを隠せないでいた。だがそれ以上に、エリィの悲壮感が漂う横顔を見て心苦しくなる。
「エリィ…」
「それに、鎖国なんて言ってるけどそんなの形だけよ。実際は列車 の停車場と港が全く機能してないだけで、空間移動の魔術さえ使えれば誰でも簡単に入国出来るわ」
「空間移動…!?」
確かにその様な手段が存在する事位は聞いた事がある。必要最低限ではあるが様々な高等術を身につけてきたラインアーサでさえ、シュサイラスア国内にその術を扱える者がいるとは一度も耳にした事が無かった。それ故、使い方も知り得ない。
「……エリィはそれを使えるのか?」
「当然よ。ルゥアンダ帝国はこの十年の間、様々な魔術の発展だけに力を入れてきたわ。身を守る魔術はもちろん、他人を傷つける魔術…。それに今はもっと恐ろしい魔術にまで手を出しているわ…! 空間移動の魔術なんて最早お手の物よ。ね? 平和主義のこの国の民に魔術なんて必要ないでしょう?」
此方を見ながら自虐的に笑うエリィに、ラインアーサは意を決した。
「なあ、エリィ…! 一度ルゥアンダ帝国に帰るにしても、何かあったらいつでも言ってくれ。俺でよければ力になりたい」
「っなに……言ってるのよ。貴方には貴方のやるべき事があるんじゃあないの? だって貴方は…」
「困ってる時はお互い様だろ? 特に、人捜しをしているなら協力は惜しまないよ」
嘗 ての自分と同じ様な状況ならば、尚更見て見ぬ振りなど出来ない。ラインアーサは真剣な眼差しでエリィを見つめた。
「はあぁ…。あたしったらなんで貴方にこんな話しちゃったのかしら。これ帝国の極秘情報なのよ? 解ってるとは思うけど絶対に他言しないで頂戴」
「ああ、勿論。分かってるよ」
逃げる様にラインアーサから目を逸らすエリィ。最早この話の流れからして、恐らくエリィはラインアーサの正体に気付いているだろう。だが他言しないと約束した以上、ライオネルを頼ることは避けた方が良い。ならば個人的にエリィの人捜しに協力し、ルゥアンダ帝国の今後について相談に乗る事位なら出来る筈だ。
「はあ。何もかも放り出して、この国の住民になれたらどんなに幸せかしら…。この数日間、本当に毎日が楽しかったわ。でも、それももう終わりなの」
エリィが楓樹の都の夜景を眺めながら独り言の様に呟く。濃紺の髪が風に攫われる姿は、より儚さに拍車をかける。
「どうして? もう少しだけでもこの国に滞在する事は出来ないのか? 人捜しだって俺も手伝うし、何だって相談に乗る!」
「ライア。貴方って結構残酷だわ…! あたし、貴方の事結構本気だったのよ?」
───エリィの煌めく二つの星がラインアーサを捉えた。なんとも言えないその表情に応えたい気持はあるのだが……。
「エリィ、俺は……」
「言わないでよ…! 他国の、それも何の身分も持たない女にこんな事言われても困るわよね。それに…。帝国からだってとっくに呼び戻しがかかってるの。だから今夜にでもこの国を出るわ」
「今夜って…。そんなに急なのか? だったらもっと早く相談に乗っていればよかったな」
「貴方、本当に何処までお人好しなの? そんなだといつか痛い目に合うわよ? ……でもよかった。最後の日に貴方に会えて」
エリィが困った様な表情で微笑むので、ラインアーサはそれを晴らす様に笑顔を見せた。
「永遠の別れじゃあないんだ。いつかまた必ず会えるよ。あ、俺が空間移動の術を習得してエリィに会いに行こうか?」
「な、何の冗談よ!! そんな簡単に覚えられる様な魔術じゃあないのよ? あたしだって長年沢山の知識と経験を積んで、やっと使いこなせる様になったんだから…!」
エリィはまたラインアーサから目を逸らし、くるりと背を向けてしまった。
空間移動の術に関しては本腰を入れて調べる必要があると感じていた。王宮に戻ったらまずジュストベルを尋ねよう。あらゆる術に明るい彼ならば、何か知っている筈だ。
気が付けば結構な時間、この戸外 席に長居していた。これ以上冷たい風に当たっては、身体の芯から冷え切ってしまう。
「エリィ…。そろそろ戻らないか? 遅いし宿まで送るよ」
「先に帰って頂戴……」
エリィが背を向けたまま呟く。
「先に、って…。そういう訳にはいかない。ちゃんと宿の前まで送るって」
「本当にいいのよ、荷物なんてほとんど無いし。あたし、この景色とこの風をもう少しだけ味わってたいの…」
「……」
ラインアーサは何も言えずに、ただエリィの背を見つめていた。
「……一つだけ秘訣を教えてあげる。空間移動は、気配を感じる事が出来れば上手くいくの。その場所の気配や人の気配でもいいから、感じ取って強く念じるのが大事なの」
「そうか! じゃあもし俺が空間移動の術を習得したらエリィの気配を探ってみるよ。ありがとう、エリィ!」
移動術の要点を教えてくれた事に嬉しくなり、思わずエリィの正面に回り込みその手を取った。
「ちょっと!? っ…もう! 貴方ってそれ、わざとやってるの? 人の気も知らないで…!! けど、貴方のその笑顔…。ルゥアンダ帝国には昇らない太陽みたいだわ。……さあ、あたしはこのまま帝国に帰るからもう行って! さよなら。ライア」
「じゃあ。俺はさよならじゃあなくてまたな、って言っておくよ」
「馬鹿……」
ラインアーサはもう一度エリィに笑顔を見せると、戸外 席を後にした───。
「ライア。聞いてます? 今日一日、いえ。最近ずっとうわの空ですが。……それに、溜息が多いですね。まるで恋煩いでもしているかの様です」
「……」
「ライア…!」
「……え、ああ。悪い、はじめから頼むよ」
「全く。これで何度目だと思ってるんです?」
「ごめん」
今日一日このやり取りを何度か繰り返している。ラインアーサは日々公務に没頭し、例の想いを振り切ろうとしていた。だが、不意に気を抜くと考えてしまうのどうしてもスズランの事だった。
「公務とは言え、最近根を詰めすぎかと…。疲れが取れていないのならもう一度休暇を取りましょうか?」
「大丈夫だよ。この仕事を終えれば旧市街の視察へ出れるし、ジュリにもそう伝えてある」
「ですが、旧市街の件はそう無理してまで視察に行かなくても。最近は目立った報告もありませんし」
目立った報告がないことにラインアーサは一先ず安堵する。
あの日……。スズランが旧市街の粗暴者に絡まれていたのを思い返すだけで身の毛がよだち、焦りに似た怒りの様な感覚に
ラインアーサは頬杖をつき、また小さく息を吐く。
「じゃあ今夜は息抜きに付き合えよ、ハリ。ちょうど週末だし」
「今夜、ですか…?」
「ん? もしかして都合が悪かったか? ハリに会わせたい人がいるんだけどな」
「少し用事がありまして。それはまたの機会に」
ハリ自身もまた日々の執務をこなし、抜かりのなさは誰よりも完璧と言っていい程だ。
「なら俺一人で久々に羽でも伸ばしてくるかな」
「……伸ばし過ぎは駄目ですよ? 貴方は直ぐに気が大きくなるというか、そもそも酒に弱いですからね」
「はは、そういうハリは隠れ酒豪だからな…」
「ライアが弱過ぎなだけです。自国ではこの程度普通ですから」
何気ない会話の中で上がったハリの言葉にラインアーサは心底驚いた。ハリが〝自国〟という言葉を使い、それを話題に出すのは初めての事だったからだ。
「っハリ、今……自国って! その自国ってルゥアンダ帝国の事だよな? もしかして、記憶…」
ラインアーサは思わず掛けていた椅子から立ち上がり、仕事机に手を着き身を乗り出した。その勢いで書類が床に散らばった。
「……いえ。今ふとそう思っただけです」
一瞬ハリが考え込む様な表情をしたが、指先を眉間に押し当てそう呟いた。記憶を無理に引き出すのは脳に負担を掛けるらしい。実際ハリも思い出そうと記憶を辿ると頭痛が起こる様で、ラインアーサも無理はして欲しくなかった。ならばやはり今日会わせたいと思う人物との接触は、ハリにそういった負担を強いる可能性があるため無理には会わせない方が良いのかもしれない。
「……そうか。やっぱり今日は俺一人でゆっくり息抜きしてくるよ」
ハリは落ち着いた動作で散らばった書類を拾い集めると仕事机に揃えて置きなおした。
「ライア。陛下やイリア様に心配をかける行為だけはくれぐれも…」
「ああ、もう分かってるって! 最近ハリはだんだんジュストベルに似てきたんじゃあないか? 説教っぽい所とか特に!」
「それは光栄ですね。この国においてジュストベル様は私の一番の
そう言いながらハリが僅かに微笑んだ様に見えた。それもまた珍しい事だ。
───今日のハリはやけに表情豊かだった様に思えた。それに何時もより、会話も口数も多い様に感じるのは気の所為ではない筈だ。ハリの表情が豊かになるのは、当然ながらラインアーサにとってとても喜ばしい事だ。
「少しづつでもいい。ハリの記憶が戻るのなら俺は何だって…」
ラインアーサは記憶が無いままのハリに、自身の側近の仕事を強いてきたことがずっと気掛かりでならなかったのだ。何事も卒なくこなすハリにいつか恩返しが出来たらと思っている。
そんな面持ちで BAR・Fruto del amor の入り口の前でとある人物を待ち伏せした。週末で何時もよりも人の流れが多い。
だが、待てども待てども目的の人物は現れない。開店前から入店客をさりげなく観察していたつもりだが、考え事をしていて見逃しただろうか。確認の為仕方なく
「もうここに来るつもりは無かったんだけどな。やむを得ないか…」
一度決めた事を覆す様で気が進まないが、入り口の扉を開け石段を一段づつ降りてゆく。既に賑わい始めた週末の店内は活気があり、外との寒暖差にほっとする。この人々の活気が好きだ。民の暖かさが伝わってくる様な感じがラインアーサの心を弾ませる。しかし、今回は別の目的で此処へ来ている為気を引き締めた。楽しそうに酒や食事を楽しむ客を横目に店内を見渡すものの、やはり目的の人物は見当たらない。
同時にスズランの姿がない事に安堵したが、少し残念の様な複雑な気持ちになった。
「……居ない、か」
目的の人物とは、エリィの事である。ラインアーサが毎日通っていた頃は、彼女も常連の如く当たり前に姿を見かけたものだが。
「此処に居ないのなら別の店か? それとも…」
捜すのを諦め
「あらぁ! ライアじゃない! 久しぶりね。ここ暫く見なかったからもう会えないのかと思ってたのよ? ねぇねぇ。良かったら奥の席であたし達に付き合わない? また色んな国のお話をたくさん聞かせてくださいな!」
一際目立つ美貌の女性が、上目遣いと甘い声色でラインアーサに声をかけてくる。その他の二人にもあっという間に囲まれてしまった。悪いが今は女性達に構っている暇などない。
(確か彼女達の名前は…)
ラインアーサは少し首を傾げ考え込むと、すぐに申し入れを断る姿勢に出た。小さく息を吐きながらよそ行きの笑顔を貼り付け申し訳なさそうに告げる。
「ああ、久し振りだなティルダ。イベッテにルースも! 誘いは有難いけど、また今度にしてくれよ。今日はちょっと急ぎの用事があるんだ」
こんな時、女性の誘いを無下に断ってはいけないと知っている。取っておきの笑顔で対応するのだ。すると女性達は名を呼ばれただけでラインアーサの笑顔にうっとりと見惚れ、頬をそめた。
「まあそうなの〜? 残念だわぁ。そういえばエリィも残念がっていたわよ! あの子だいぶ貴方にお熱だったでしょう? ライアが急に来なくなったものだから他の
計らずともエリィの話題になり、ラインアーサはティルダに問いかけた。
「……ああ! 今ちょうどそのエリィを捜してるんだ。今日ティルダたちはエリィと一緒じゃあないのか?」
「あらまあぁ! せっかくライアの方から会いに来てくれたのに! なんかね、あの子ったらこの間そろそろ国に帰るとか言ってたのよね」
国に、帰る? 今帰られては非常に困る。
これは
「あの子、もしかしたら週明けあたりにこの国を発つかも知れないわよ。良かったら探してお別れの挨拶でもしてあげて?」
「そうなのか。じゃあここの他にエリィが行きそうな店、もし心当たりあるなら教えてくれると助かるんだが…」
「そうねぇ、ここからすぐ近くの果実茶が売りの軽食屋とかかしら。あ、南側にある崖の上の
どちらもそこそこの人気店だ。ラインアーサも何度か足を運んだことがある為、場所は分かる。
「教えてくれてありがとう! 早速行ってみるよ。ティルダ、君たちに会えて良かった」
ラインアーサはティルダの手を取り、にっこりと微笑んだ。実際ここで彼女らに会わなかったら今日は諦めて帰っていたかもしれない。
「 いゃぁん、あたしもライアに会えて嬉しいわぁ! でも、悔しいけどあなた達ってお似合いよね。エリィと上手くいったらあたし達にも報告してほしいわ? うふふ」
ティルダは顔を紅潮させ、ラインアーサに熱い視線を送ってくる。何やら妙な勘違いをされている様だがそれを訂正している暇が惜しい。
「ああ、もう行くよ。じゃあ…」
ティルダ達に別れを告げると、強い視線を感じその方向に向き直る。其処にはいつから立っていたのか、スズランが
「っ…スズラン!!」
毎度の如くラインアーサの心臓が早鐘を打つ。
しかし、スズランの顔色が紙の様に真っ白だ。具合でも悪いのだろうか。純粋に心配になり一歩近づくと更に表情が曇ってしまい、それ以上足を進めるのを
するとカウンターの方からセィシェルが飛び出して来てスズランの背後から彼女の肩を掴んだ。
「おい、スズ! まだ病み上がりの癖に表に出るなって言ったろ? 今日は裏で簡単な仕事を…っ!!」
「……」
そこでラインアーサの存在に気付いたセィシェルと目が合う。
「げ! んだよ、来てたのか変態野郎! もう来ないとか言ってた癖に…」
相変わらずあからさまな敵意を向けてくる。お馴染みの口の悪さだが、セィシェルの挑発に乗るのが一番の時間の無駄だ。ラインアーサは取り合わず、そのまま踵を返して出入り口に向かう。すると、意外にもスズランの声が追い掛けて来た。
「待って! ……ライア」
振り向かずに歩みを止めるラインアーサ。
「わたし、あの…っ」
スズランが何かを言おうとしているのが背中に伝わってくる。だが、それ以上の言葉がなかなか出て来ない。
「おい、また熱上がってんじゃあねーか! もうこんな奴いいから上で休めよ…」
セィシェルの言葉が気になり、肩越しにさりげなく振り向くとスズランが具合悪そうに屈みこんでいた。肩で息を吐きながらとても苦しそうにしている。
「うん、でも……わたし。ライアにちゃんと言わなきゃならない事が……あっ?」
最早身体が勝手に動いていた。咄嗟に駆け寄って屈み込み、スズランの額に
「おい! 何すんだよあんた!!」
そっとスズランの頬に触れる。そのまま症状を軽くする為、得意である癒しの風を施した。
「っん…!」
「ちょ、あんた。まじで何してんだよ! 早くスズから離れろって!」
セィシェルが割って入った為、完全ではないが多少也とも症状は改善されている筈だ。その証拠にスズランの顔色は先程よりもだいぶ良くなっている。あくまでも応急処置に過ぎない、後はゆっくり睡眠を取ることが一番だ。
「また、助けてくれたの…? どうして?」
ラインアーサは困っている人や苦しむ人が居れば見て見ぬ振りが出来ない性分だ。それが自身の想いを寄せている相手ならば尚更放っておける筈もない。
だが面と向かって礼などを言われるのは照れ臭くて昔から苦手だった。その為また突き放す様な言い方をしてしまう。
「……お前さ、ガキなんだから早く寝ろよ」
「うん…。そうするね」
それでも素直に頷くスズランの姿にラインアーサは狼狽した。
「っ…!」
「ライア……いつも助けてくれて、ありがとう…」
そう言いスズランはふわりと微笑んだ。
急激に顔が熱くなったのを感じたラインアーサはそれを誤魔化す様に立ち上がった。急いでスズランに背を向ける。そして逃げる様に出入り口へ向かい、一気に石段を駆け上ると
「……うわ、かっこ悪」
ラインアーサは今自分がどんな顔をしているのか想像したくもなかった。おそらく耳まで赤く染まっているだろう。スズランが初めてあの笑顔を〝ライア〟に向けてくれたのだ。それだけで尋常じゃない程の幸福感がラインアーサを包み込んだ。
「っ…やばい、もの凄く嬉しい…!」
自然と緩む口元を片手で隠す。
熱に浮かされていたのか、やけに素直なスズランが可愛かった。以前から礼が言えなかった事をずっと気に病んでいたのだろうか、今日は素直に口にした。あのこちらまで嬉しくなる様な、花がほころぶ様な可憐な笑顔を伴って。それを思い出すとまた鼓動が煩くなる。スズランに会う度に想いが募ってゆく。
「俺はどうしたら…っ」
どうすればスズランへの想いを諦める事が出来るのか……。最早自分ではどうにも出来ないのだと思い知る。ラインアーサは足元に視線を落とし、その場に佇んでいた。
「何が、どうしたら……なの?」
突如頭の上から声を掛けられて顔を上げるとエリィが目の前に立っていた。
「っ…エリィ! 良かった、探してたんだ。君の事…!」
エリィの顔を見た瞬間、本来の目的を思い出し我に返る。
「……こんばんは、久しぶりねライア。あたし、ご飯まだなのよね。良かったら一緒にどう?」
「ああ。付き合うよ」
即答するラインアーサにエリィが驚いた表情になる。
「あらぁ? てっきり断わられると思ったのにライアったらどうしちゃったの? 以前はあたしがどんなに誘っても上の空だったじゃあない。それに…! 急に来なくなってあたし、あれから毎晩貴方の事探したのよ?」
少し怒った様な口調で話すエリィ。ティルダが言っていた事はどうやら事実らしい。
「ああ、すまない。最近少し忙しかったから街には来てなかったんだよ…。それよりエリィ、君に確認したい事があるんだ」
ラインアーサは、エリィの星の様な色合いの瞳を見据えた。
「な、なによ。確認って」
「さっきティルダたちから聞いたんだ。エリィ、君が国に帰るかもしれないって…」
「…!!」
エリィは少し瞳を見開くと、ラインアーサから目を逸らし少し俯きがちに頷いた。
「本当なのか…?」
「ええ、そうよ。それが何? もしかしてあの子たちに何か言われたから来たっていうの?」
「いや、違うんだ。……急にこんな事を尋ねたら失礼かも知れないが、もしかしてエリィはルゥアンダ帝国の出身じゃあないかって思って」
ラインアーサの問いかけに、エリィは黙ったまま鋭い視線を寄越す。その表情が何を意味するのか、読み取るのは難しかった。行き交う人々で賑わう週末の大通り。歩みを止めているのはラインアーサとエリィだけだ。
「……」
「……違っていたなら謝るよ。突然変なこと訊いて悪かった。お詫びに今日は俺の奢りで…」
「……何故、分かったの? 貴方、何者?」
「!」
突如肯定され、思わず気持ちが
「俺は…っ」
一瞬。真の名を名乗り身分を明かすか迷ったが、その答えを出すより早くエリィの声があがった。
「場所を変えましょうよ。こんなところで話す内容じゃあないでしょう?」
「そうだな。じゃあ」
「あたし、いい所知ってるのよ。ついて来て」
そう言うとエリィは早足で歩き出した。この方向だとおそらく南の崖の方だ。崖の上の
「待てよエリィ! 別の
「あたし、ご飯まだって言ったじゃあない。ライアが奢ってくれるんでしょう?」
「別に、それは構わないけど…」
確かにそうは言ったが、何処か腑に落ちないのは何故だろう。
───崖の上のバルへ着くと、エリィは混み合う店内を避け誰もいない
「今日は一段と風が吹くわね」
「天気が悪いからな。エリィは寒くないのか?」
崖の上とあってか若干風が強い。夜間に備えて着込んでは来たものの、時折吹きつける強い風がラインアーサのマントをはためかせる。
「あたしはお酒と温かいお料理があれば平気よ」
ラインアーサよりもだいぶ薄着に見えるエリィ。流れる様な濃紺の髪が風にさらわれ、今にも闇夜に溶け消えてしまいそうだ。
「この時間だと外には誰もいないんだな。知らなかったよ」
「穴場でしょう? 内緒話には打って付けって訳よ。うふふ」
エリィが不敵に微笑む。
「……エリィ。君こそ一体何者なんだ?」
「……とりあえずはご飯よ! 冷める前に頂きましょう」
「そうだな…」
運ばれて来た料理に手をつけ始めたエリィに便乗し、ラインアーサも軽く食事を済ませた。その間、エリィは注文した料理や穀物の蒸留酒を次々と空けてゆく。以前から感じてはいたがエリィは良く食べ、良く呑む。そしてハリ同様、酒豪だ。どれだけ呑んでも顔色一つ変えない。
「この国はどのお酒も美味ねぇ」
「エリィ。そんなに呑んで平気なのか?」
「この位何でもないわ。丁度よく身体も暖まってきた所よ。ライアこそ、それで足りてるの?」
「……まあ、俺はこれでいいんだ」
ラインアーサはハリの忠告に従い、度数の低い果実酒を少しずつ胃に流し込んでいた。
一通り食事を終えると、エリィがグラスを片手に話を切り出してきた。
「───それで? 何故あたしがルゥアンダ帝国出身って分かったの?」
「……なんとなく、そう感じたんだ。雰囲気がルゥアンダ出身の知り合いに似てる気がしたし、それにその瞳の色。君の他に見た事がない」
エリィの瞳はとても珍しい夜の空に煌めく星の様な美しい色をしている。その色合いは滞在した事のある国々ではもちろん、今まで一度も見た事がなかった。
「何それ。それだけの理由で? あたしはよくマルティーン帝国出身と間違われる位、自分でもルゥアンダ人らしくない見た目だと思うのに。まあ実際、半分はマルティーン人の血が入ってるから当たり前なんだけどね」
「……俺は内乱で離れ離れになった家族を捜して各国を旅して来たんだ。マルティーン帝国にも滞在したことがあるが、エリィはやっぱりルゥアンダ人寄りだと思う」
そう指摘すると何処かエリィの表情が少し曇った様に感じたが、すぐにいつもの明るい調子に戻った。
「そう……で、あたしがルゥアンダ帝国出身だったらなんだって言うのよ?」
「エリィは国に帰るって言ったよな? ルゥアンダ帝国は内乱後から現在も鎖国状態の筈だ。どうやって入国するつもりなんだ? もし、方法があるなら俺にも教えてほしいんだ!」
誰もいない
「……何の為に? ……ていうか無理よ。ライア、だって貴方は魔術を使えないでしょ?」
「魔術…? 術のことか?」
魔術───。
聞いたことがない訳では無いが…。
「そうよ。この国では魔術って言い方には全く馴染みが無いみたいね」
「君は本当に何者なんだよ…。何の為にこの国に来たんだ?」
ラインアーサとエリィは互いを探り合うように視線を交じわらせた。
「それは教えられないわ。……と言いたい所だけどライアにだったら特別、教えてあげてもいいわよ」
エリィが意味深な眼差しを向けてくる。その意味が分からない訳ではない。
「……エリィ」
「なぁに?」
以前は情報を得る為ならば、どんな事でも構わず割り切って来た。例え気のない相手だろうが、一夜を共に明かして得た情報は数知れない。増してや今回はハリに関する事だ。だが、どうしてもその気になれない───。
「エリィ、そろそろ中へ入らないか? 本格的に冷えてきた」
「ふふ。相変わらず釣れないのねぇ…。やぁね、冗談に決まってるじゃあないの。わたしもライアと同じよ、人捜しでこの国に滞在していたの。これ以上は話せないけどね」
「!!」
人捜しで他国に来ている。
それを知った瞬間、ラインアーサはイリアーナを捜索していた時の自身とエリィを重ねてしまった。しかも聞く限り、他言出来ない人捜しの様に感じられる。その事もまるでラインアーサ自身の時と似たような状況ではないか。イリアーナの捜索も他言出来なかった為とても難航したのだ。公表出来ない。即ち、その国にとっての重要人物だと言う可能性が高い。
「……そうだったのか。なら今更かもしれないが、何か俺が力になれそうな事があれば…」
「無いわ。この国での収穫はゼロよ。だから一旦国に戻ることにしたの。さあ、あたしは話したわよ? それで、ライアは何者なの? 唯の旅人って訳じゃあなさそうよね」
エリィからの問いに、ラインアーサは残りの果実酒を一気に煽ると気を引き締めた。
「ああ。俺も全てを話す事は出来ない。でも俺は生まれも育ちもこの国だ」
「そうみたいね。見た所ライアのその髪の色だって珍しいみたいだけど?」
「ん? ……あ、ああ。珍しいだろ…」
髪の色を指摘され小さく動揺する。実のところ、シュサイラスア大国でこの髪の色を持つのはラインアーサとイリアーナのみである。両親からの髪色が上手く混ざり合ったのか隔世遺伝の表れなのか、二人共ミルクに焦がし砂糖を垂らした様な風変りな茶色の髪だ。
だが公的な場に出る際には、正装としてやけに重たい飾り帽を被る事が殆どだ。おかげで遠目からしか自分の姿を見たことがない者からすれば、〝アーサ王子〟は単なる茶髪に見える筈なのだ───。
「あ、そういえば。この国の王子と王女も似た様な髪の色だったわよね…! あたし、ちょうどあのお祭り騒ぎの前日からこの国に滞在してるのよ」
「お祭り騒ぎ…。ああ…」
お祭り騒ぎとは、ラインアーサとイリアーナが帰国した際の
エリィはおもむろに立ち上がるとテーブルに手を着き身を乗り出してきた。そして、穴が空いてしまうのではと思う程にじっくりと顔を観察される。思いのほか互いの顔と顔とが近づきラインアーサは息を呑む。
「ふぅん」
「なんだよ…」
「……何でもないわ。ライアは何故ルゥアンダ帝国に興味があるの? 潜入でもするつもり? 」
エリィは何事もなかった様に椅子に座り直すとまた話を聞く体制に戻った。一瞬。身元が割れたのかと思ったが何も聞いて来ないのを見るとそうでもないのか。
ラインアーサは己の本名と身分を切り出す機会をすっかり失い、この話の流れから余計に言い出しにくくなっていた。
「いや。さっきも少し話に出したルゥアンダ帝国出身と思われる知り合いについてなんだが…。彼について色々調べたい事があるんだ」
「思われる? それってどういう事なの?」
「今日、本当は一緒に連れて来る予定だったんだが都合がつかなくてな。容姿から見てもおそらくルゥアンダ帝国出身だと思うんだが、彼は内乱以前の記憶がほとんど無いんだ」
「記憶が無いの…?」
「ああ。だから何かの手掛かりにとエリィに会わせてみたかったんだけど、あまり無理させても本人の負担になるし…」
「……そうね」
ハリが記憶を呼び起こそうとする際、いつも指先を眉間に押し当てていたのを思い出す。そして一旦その頭痛がおこると、どんなに高度な癒しの術を持ってしても和らげることは出来なかった。
「あ。ちなみに俺もある程度の術なら使えるつもりだけど、それでルゥアンダに入国出来るのか? 魔術って言うのと術がどう違うのかは分からないけどな」
「少し使える程度じゃあ駄目なのよ、とても高度で複雑な術式を組まないといけないんだから」
「ふーん。それで…?」
「って! 何よ、教えないわよ? まあでも、この国の民には絶対に無理じゃあないかしらね」
「……何故、そう言い切れるんだ?」
エリィの少々癪に障る言い方には思う所があったが、そうまで言い切る理由が気になる。ラインアーサは顔色を変えず冷静に回答を求めた。
「──そうね、この国。とても治安がいいし国民の気性も穏やかで明るくて活気もあるわ…。住みやすいし街も綺麗、流石は移民から一番人気の国ね。内乱後よく此処まで復興出来たものだわ。この国の王様はよっぽどの腕利きなのかしらね? ……どこぞの皇帝らとは大違いよ」
最後の方の言葉は小声な上、強く吹く風に掻き消されよく聞き取れなかったが身内を良く言われるのは悪い気がしなかった。
「ああ、国王は民が安心して生活出来る様にと尽くしてくれているからな」
「……でも、ひとつ言わせてもらうと平和過ぎるのよ。あんな内乱があってからまだ十一年しか経っていないのに…。平和呆けもいい所よ?」
以前も軽くだがスズランに指摘されたことがあった。しかも今回は的確かつ痛い所を突かれた。だが、ラインアーサもこのまま黙っている訳にはいかない。
「っ…しかし、民の平和を願いそれを叶える。それが王族の役目だろ!? 国王陛下は間違ってなんかいない!」
エリィの厳しい意見につい熱くなり声を荒げるラインアーサ。対しエリィは冷静に言葉を返してくる。
「そうね、間違ってなんかいないわ。でも、だからこの国は魔術が発展していない」
エリィは席を立つと街の夜景が一番美しく見える場所へと移動した。ラインアーサもそれを追い隣に立ち並ぶ。エリィは柵から少し身を乗り出し話を続けた。
「……内乱後のルゥアンダ帝国の内情は本当に最悪よ。この国みたいに一人で気軽に外なんか出歩けない、現在も国民は常に身の傍に危険を感じながら息を潜めて生活してる。国を正す統治者が不在なんだもの。民の心が荒んでゆくのも当たり前だわ……その癖、貴族達は国民を放ったらかしのまま派閥争いばかり…」
外からは知り得ないルゥアンダ帝国内の現状を聞かされ、ラインアーサは驚きを隠せないでいた。だがそれ以上に、エリィの悲壮感が漂う横顔を見て心苦しくなる。
「エリィ…」
「それに、鎖国なんて言ってるけどそんなの形だけよ。実際は
「空間移動…!?」
確かにその様な手段が存在する事位は聞いた事がある。必要最低限ではあるが様々な高等術を身につけてきたラインアーサでさえ、シュサイラスア国内にその術を扱える者がいるとは一度も耳にした事が無かった。それ故、使い方も知り得ない。
「……エリィはそれを使えるのか?」
「当然よ。ルゥアンダ帝国はこの十年の間、様々な魔術の発展だけに力を入れてきたわ。身を守る魔術はもちろん、他人を傷つける魔術…。それに今はもっと恐ろしい魔術にまで手を出しているわ…! 空間移動の魔術なんて最早お手の物よ。ね? 平和主義のこの国の民に魔術なんて必要ないでしょう?」
此方を見ながら自虐的に笑うエリィに、ラインアーサは意を決した。
「なあ、エリィ…! 一度ルゥアンダ帝国に帰るにしても、何かあったらいつでも言ってくれ。俺でよければ力になりたい」
「っなに……言ってるのよ。貴方には貴方のやるべき事があるんじゃあないの? だって貴方は…」
「困ってる時はお互い様だろ? 特に、人捜しをしているなら協力は惜しまないよ」
「はあぁ…。あたしったらなんで貴方にこんな話しちゃったのかしら。これ帝国の極秘情報なのよ? 解ってるとは思うけど絶対に他言しないで頂戴」
「ああ、勿論。分かってるよ」
逃げる様にラインアーサから目を逸らすエリィ。最早この話の流れからして、恐らくエリィはラインアーサの正体に気付いているだろう。だが他言しないと約束した以上、ライオネルを頼ることは避けた方が良い。ならば個人的にエリィの人捜しに協力し、ルゥアンダ帝国の今後について相談に乗る事位なら出来る筈だ。
「はあ。何もかも放り出して、この国の住民になれたらどんなに幸せかしら…。この数日間、本当に毎日が楽しかったわ。でも、それももう終わりなの」
エリィが楓樹の都の夜景を眺めながら独り言の様に呟く。濃紺の髪が風に攫われる姿は、より儚さに拍車をかける。
「どうして? もう少しだけでもこの国に滞在する事は出来ないのか? 人捜しだって俺も手伝うし、何だって相談に乗る!」
「ライア。貴方って結構残酷だわ…! あたし、貴方の事結構本気だったのよ?」
───エリィの煌めく二つの星がラインアーサを捉えた。なんとも言えないその表情に応えたい気持はあるのだが……。
「エリィ、俺は……」
「言わないでよ…! 他国の、それも何の身分も持たない女にこんな事言われても困るわよね。それに…。帝国からだってとっくに呼び戻しがかかってるの。だから今夜にでもこの国を出るわ」
「今夜って…。そんなに急なのか? だったらもっと早く相談に乗っていればよかったな」
「貴方、本当に何処までお人好しなの? そんなだといつか痛い目に合うわよ? ……でもよかった。最後の日に貴方に会えて」
エリィが困った様な表情で微笑むので、ラインアーサはそれを晴らす様に笑顔を見せた。
「永遠の別れじゃあないんだ。いつかまた必ず会えるよ。あ、俺が空間移動の術を習得してエリィに会いに行こうか?」
「な、何の冗談よ!! そんな簡単に覚えられる様な魔術じゃあないのよ? あたしだって長年沢山の知識と経験を積んで、やっと使いこなせる様になったんだから…!」
エリィはまたラインアーサから目を逸らし、くるりと背を向けてしまった。
空間移動の術に関しては本腰を入れて調べる必要があると感じていた。王宮に戻ったらまずジュストベルを尋ねよう。あらゆる術に明るい彼ならば、何か知っている筈だ。
気が付けば結構な時間、この
「エリィ…。そろそろ戻らないか? 遅いし宿まで送るよ」
「先に帰って頂戴……」
エリィが背を向けたまま呟く。
「先に、って…。そういう訳にはいかない。ちゃんと宿の前まで送るって」
「本当にいいのよ、荷物なんてほとんど無いし。あたし、この景色とこの風をもう少しだけ味わってたいの…」
「……」
ラインアーサは何も言えずに、ただエリィの背を見つめていた。
「……一つだけ秘訣を教えてあげる。空間移動は、気配を感じる事が出来れば上手くいくの。その場所の気配や人の気配でもいいから、感じ取って強く念じるのが大事なの」
「そうか! じゃあもし俺が空間移動の術を習得したらエリィの気配を探ってみるよ。ありがとう、エリィ!」
移動術の要点を教えてくれた事に嬉しくなり、思わずエリィの正面に回り込みその手を取った。
「ちょっと!? っ…もう! 貴方ってそれ、わざとやってるの? 人の気も知らないで…!! けど、貴方のその笑顔…。ルゥアンダ帝国には昇らない太陽みたいだわ。……さあ、あたしはこのまま帝国に帰るからもう行って! さよなら。ライア」
「じゃあ。俺はさよならじゃあなくてまたな、って言っておくよ」
「馬鹿……」
ラインアーサはもう一度エリィに笑顔を見せると、