第6話 本命

文字数 8,762文字

朝七時。ベッドのヘッド・ボードのアラームと、サイド・テーブルのスマートフォンのアラームが同時に鳴り響く中、掛け布団を被ったニコーラは、手探りで二つのアラームを止めた。
確かな動きはそれだけ。
遮光カーテンの隙間から細い光が差し込む部屋で、寝息の音だけの静かな時間が過ぎてゆく。
五分後。スマートフォンのスヌーズ機能が騒ぎ出すと、ニコーラはゆっくりと上体を起こし、布団をのけて、アラームを止めた。取敢えず、欠伸は大きい。
このホテルに泊まったのは二晩だが、しばらく止めていた酒に手を出したせいか、連日の熟睡である。
一過性記憶障害を患った後に始めた禁酒は長かった。すべては、いつか戻るかもしれない記憶のためである。
ワイアットが初日に出したブルジョアーズのせいで、誓いはどこかへ消え去ったが、後悔は少ない。
失った記憶には、当時の管理官と同僚から受けたリンチが確実に含まれている。
本当に気になるのは、記憶のない間に自分への態度が変わったパートナーとの関係だけだが、その瞬間のブルジョアーズとは比べ物にならない。
すべては終わったことなのである。

ベッドを出たニコーラは、熱いシャワーを浴びて、頭と体を目覚めさせると、バス・ローブを羽織った。
冷蔵庫に歩き、ジンジャー・エールを喉に流し込む。彼のルーティンである。
外出した肌には多くの異物が付着している。加えて、寝ている間の自分の動きには責任が持てない。知らない間に犬の糞に口づけしないためには、シャワーは絶対に寝る前。ロレンツォの忠告である。
しかし、何かをしながら寝崩れる快楽と、シャワーの後に外気に当たる爽快感には、換え難い。
常に正しいロレンツォの言葉だが、これだけは止められないのである。

ニコーラは、パンジー・カラーのジャケットを羽織ると、レストランに急いだ。
ロレンツォは食べないので、一人である。
「おはよう。」
「おはよう。」
フロントのジャスミンに挨拶をすると、笑顔で挨拶が返ってくる。いい朝である。
ニコーラは、いつもと同じ様に空いている窓際に座った。
ジャスミンが目の前で絞るオレンジ・ジュースを飲みながら、新聞に目を通す。
間もなく運ばれてきたのは、ヒッコリーでスモークしたサイド・ベーコンとスクランブル・エッグの盛られたプレート、それに焼きたてのカイザーゼンメルを盛った籠。
自家製ベーコンの深い香りは、ニコーラの食を嫌でも進めた。
やがて、全てを腹に納めた頃、ジャスミンがコーヒーを運んできた。
ブルー・マウンテンのカラコルのコーヒー。
すべては値段だけのもの。シレーネは、生き残るために必死なのである。
幸せな朝食を終えたニコーラは、席を立つと、接客中のジャスミンに声を掛けた。
「美味しかった。」
素直な感想である。
ジャスミンは、笑顔で胸を張った。

駐車場に急ぐと、SUVの中には、もうロレンツォが待っていた。一人で外を見ているだけの、いつもの彼である。
ストライドを大きくした途端、後ろから声を掛けてきたのはジャスミン。
「いってらっしゃい。」
満面の笑みを浮かべるジャスミンは、体を揺らしながら、大きく手を振っている。船でも出そうな盛大な見送りに、ニコーラは笑顔で手を振り返した。
笑顔の残るニコーラがSUVに乗り込むと、ロレンツォが口を開いた。挨拶はない。
「本当に、あの娘は何であんなに愛想がいいんだ。」
ニコーラは首を傾げた。
「そんな気もするね。」
二日も続くと、さすがのニコーラも気付く様である。ロレンツォは小さく笑い、車を出した。

その日の二人は、昨日と同じ様に、オリバーとマシューの待つ保安官事務所を訪ねた。
ダビデとリア。同じ証言をする者が二人になったことで、事件性が強まったことは確か。
何はともあれ、事件があれば、怪しむべきは丘の東の街Eのギャング。
余所者の二人には、保安官のエスコートが必要なのである。
ロレンツォとニコーラが事務所に入ると、デスク・ワークをしていたマシューが顔を上げた。
脇にはドーナツの箱。昨日と同じである。
三人は、軽めの挨拶をして、オリバーがトイレから戻るのを待った。
間もなく皆が揃って、一言目を口にしたのはロレンツォ。
「ダビデとリアは?」
まだ、ハンカチを手にするオリバーが即答した。
「キャンプに返した。拘束する理由はないからね。」
手際がいい様にも聞こえるが、それではあの土地を彼らのものと認めたのと同じである。
ロレンツォは、自分の考えとは違うことだけは教えた。
「言っておく。また、後で考えればいいけど、多分、甘い。」
オリバーとマシューが取敢えず頷いたのは、深入りする気がないから。
言われるままの彼らを小さく笑ったロレンツォは、本題に入った。
「知りたいのはギャングの情報だ。君達から見た彼らを説明してほしい。」
やはりどちらでもいいオリバーは、すぐに要望に応えた。
「仕切ってるのはグザヴィエ。二十歳そこそこだ。あの集団は、元々は奴の兄弟のブノワが中心だったんだ。グザヴィエが混ざり始めた頃は可哀そうで、よく覚えてる。それが、ブノワが姿を見せなくなったら、リーダーだ。冗談かと思ったよ。子供だったからね。」
オリバーは、マシューと顔を見合わせて頷いた。彼の講義は終わらない。
「でも、間違えてた。グザヴィエは、あいつらにとって、理想のボスだったんだ。まず、何も躊躇わない。そういうものだと思ってるからね。ギャング同志の抗争なら、人も殺してるみたいだが、証拠は出ない。皆が庇ってる。あいつらがグザヴィエを好きなのは、普段は無茶をしないからだ。グザヴィエにとって犯罪は家業だ。どんな犯罪者といても、家族として迎えられるのがあの男だ。」
犯罪者への賛辞にロレンツォとニコーラの顔が渋くなっても、オリバーの話は続く。
「一番の問題は、グザヴィエの女だ。アイヴァー。イカれたサイコだ。他に前から目をつけてるのは、ブノワの親友だったマテオと、少し前に混ざったルークかな。いつも一緒に居るのは、三十人ぐらいだ。」
口を開いたのはロレンツォ。
「主食は何?」
オリバーは眉を上げた。
「脅迫、傷害、詐欺、窃盗、違法薬物、売春だな。殺しもやってる筈だが、証拠は出ない。」
マシューは、無意味な忠告をした。
「あいつらの所に行ったって、話になりませんよ。」
ロレンツォの答えは早い。
「別に友達になりに行くわけじゃない。世界にはいろんな言葉がある。選べばいい。」
微笑んだニコーラは、ロレンツォに向けて、小さな拍手をした。

丘の東の街Eは、元々、貧困層がつくったバラックの集まりだった。
今でも、街の大半はそのままである。
昼間から道に座り込む、ボロをまとった中年女は悲しいが、裸足でボールを追いかける子供達は愛らしい。彼らは次の世代。時は流れているのである。
ロレンツォ達のSUVとオリバー達のパトカーは、舐める様に徐行しながら、間もなく一軒の建物の前に辿り着いた。
他とは明らかに雰囲気が違う。
周囲に植栽もないが、少なくとも金の匂いがする。
数段上がったテラスでは、四人の若者が、テーブルを囲んで、カード・ゲームの真っ最中。
グザヴィエ達のたまり場である。
パトカーを見つけた時点で止まっていたカード・ゲームは、オリバー達が車を降りるとあっけなく終わった。立ち上がる彼らの目は細い。
オリバーとマシューは顔を背け、ロレンツォ達を先に歩かせたが、それこそ若者達の狙い通り。彼らは、新顔にルールを教えたいのである。
四人のうち二人は、ロレンツォとニコーラに向かって真っ直ぐ歩き、そのまま胸を当てて押した。先頭を切って、ロレンツォにぶつかったのは、写真で見たルーク。
二人が後ずさりしても、胸で押す。どこまでも押すつもりである。
面倒になったロレンツォは、ルークの体当たりをかわすと、肘を掴んで足を掛け、地面に押し付けた。
口を開いたのはロレンツォ。
「公務執行妨害だ。」
始まってしまえば、後はやるだけである。ニコーラは、自分に向かってくる男の膝裏を蹴ると、肩を押し、男を倒した。残る二人も走り出したが、流石にオリバーとマシューが見捨てることはない。二人は、若者達の体を掴み、とにかくなだめた。
オリバーとマシューが驚いたのは、ロレンツォが手錠までかけたこと。
ニコーラも続くと、しかし、オリバーとマシューも諦めて付き合った。とにかく連邦捜査官に従ってみるのである。
服に着いた砂埃を払い、ジャケットの裾の位置を正したロレンツォは、片手で手錠を持つとルークを立たせた。
ロレンツォが向かったのは建物。ルークは盾である。
ニコーラは、オリバーとマシューに残りの男達を任せると、ロレンツォの後を追った。

ロレンツォは、勢いよく、たまり場の扉を開けた。ノックはなしである。
煙草の煙が、ゆっくりと外気に溶け出す。
中に居たのは三人。つけっ放しのテレビに映るのはゲームの画面だが、コントローラーを握る者はいない。
ソファに腰掛けた若い男が握っていたのは銃。スターム・ルガーLC9。
分解して、手入れをしているわけではない。ただ、磨いている。
この時点で、銃を手にしているのは、その男一人。圧倒的に優位なのは彼である。
衣服は、全身がブラック。
ダーク・ブラウンの肌に、撫でつけた長めのブルネット。
それは、写真で見たままの格好。グザヴィエである。
口を開いたのはロレンツォ。
「客が来たぞ。」
顔を上げたグザヴィエは、ロレンツォの方を見ると、また、LC9に目を戻した。但し、喋るのはグザヴィエ。
「ドアぐらい閉めろよ。」
もっともである。
盾を歩かせたロレンツォは、部屋の中央へと足を進め、ニコーラも後に続いた。
二人が部屋に入ると、押さえる者を失った扉が、ゆっくりと音を立てて閉まった。
扉の影から現れたのは大柄な女。
ホワイト・ブロンドの短髪。スノー・ホワイトの小さい生地で身を包むアイヴァーである。
ロレンツォは、アイヴァーの気配を感じると、ルークの向きを変えた。
ニコーラも一緒に動くと、ロレンツォが口を開いた。
「グザヴィエはどの子?」
手を挙げたのはアイヴァー。ロレンツォは小さく笑った。
「無駄だったな。じゃあ、保安官に聞こうか。」
グザヴィエは、LC9を床に向かって構えると口を開いた。
「俺だ。」
ロレンツォは言葉を被せた。
「だろうな。写真では見たことがある。その調子で、素直にいこう。」
僅かに苛立ったのか、グザヴィエはロレンツォに目を向けた。但し、少しだけ。
グザヴィエは、銃を磨きながら口を開いた。
「まず、聞けよ、ファイブ・オー。俺は悪い事なんて、何もしてない。仲間もそう。生まれてからずっとだ。根っからの善人だから、こうして普通に生活できる。ただ、お前は違う。善良な俺の仲間に、お前はいきなり手錠をかけて、チャイムも鳴らさずに家に踏み込んできた。俺達は、悪い事なんて、絶対にしないと決めてるのに。」
グザヴィエは、改めて、床に向かって銃を構えた。
「俺達は人間だから、死ぬまで、ただ泣いて暮らすわけじゃない。ブタに噛まれたら、殴り倒して売りに出す。入った金で、俺達は飯を食う。ブタは言葉が通じないからな。俺達みたいなのが生きてくために、絶対に必要なんだ。悪いとも思わない。生きるためだ。分かるだろう。」
頭の悪い会話が嫌いなロレンツォは、IDを手早く見せた。
「忘れてた。連邦捜査局だ。誰も何もない所で騒ぎはしない。今、君の家の周りは、大火事だ。危ないから、教えに来てやったんだ。協力しろ。それ以外、道はない。」
その瞬間、部屋でロレンツォに一番苛立ったのは、多分、アイヴァー。
大柄な彼女は、不意に歩き出すと、ロレンツォとニコーラの間を無理に縫って、居場所を変えた。向かった先は、グザヴィエの隣り。
されるがままのロレンツォ達を見て、グザヴィエが小さく笑うと、ロレンツォは話を続けた。
「グザヴィエ。僕は時間を戻すことが出来る。ほんの数分前。君の仲間達に手錠がかかる前だ。」
返ってきたのは、何かが割れる音。ソファに腰掛けていた別の男が、グラスを割ったのである。首を傾げたその顔は、写真で見たマテオのまま。口を開いたのはロレンツォ。
「マテオか。」
「ルークだ。」
マテオが即答すると、ルークが口を開いた。
「ルークは俺だ。」
知っているロレンツォは、マテオを見据えた。
「どっちでもいい。破片が散るから止せ。理由は何にしろ、一滴でも僕の血が流れたら、本当に逮捕する。」
「それは、俺も賛成だ。部屋が汚れるから止せ。」
声を合わせたのは、こめかみに血管を浮かべたグザヴィエ。明らかに年上のマテオが言い返さないのは、グザヴィエが彼を掌握しているから。
ロレンツォは、グザヴィエに視線の先を戻した。
「グザヴィエ。バッド・ニュースだ。隣りの丘の森の住人一七二人が行方不明になって、連邦捜査官が来た。」
グザヴィエ達は、一斉に下品な笑い声をあげた。
口を開いたのは、まだ微かに笑いの残るグザヴィエ。
「さあ、あんな所に人が住んでたかな。」
ロレンツォは、グザヴィエの笑顔を見ながら、話を進めた。
「グッド・ニュースだ。さっきも言った通り。僕は時間を戻せる。捜査に協力すれば、魔法を見せてやる。」
御機嫌だったグザヴィエは、天を仰ぐと、ゆっくりと首を垂れ、目を瞑った。
ロレンツォの放った権力の臭いが耐えきれない。感情が抑まるのを待ったのである。
間もなく、グザヴィエは静かに目を開き、思い出した様にLC9を磨き始めた。
低い声を聞かせたのはグザヴィエ。
「ファイブ・オー。だから、お前らはファイブ・オーなんだ。何を言っても変わらない。俺達は何も知らないし、何もしてない。お前の悪い頭が何に夢中か知らないが、俺達はお前らの関心があるもの全部に関係ない。誰も捕まる覚えなんかないんだ。それなのに、どの無実の仲間と縁を切って、地獄に落とせって言うんだ。」
ロレンツォは怯まない。
「覚えておけ。罪には罰だ。犯罪は病気だ。皆で罰を与えて、治してやればいい。それが本人のためだ。僕の言う事を聞け。君に与えられた選択肢は一つだけ。街の中を案内するんだ。案内するだけで、君の仲間は解放される。連邦捜査官に襲い掛かった、悪い事は絶対にしない君の仲間を自由にしてやる。」
グザヴィエは、LC9を磨く手を止め、理不尽な目にあった日のルーティンに入った。
「捜査令状は?」
ロレンツォは微笑んだ。
「観光地で会った地元の親切な人に、街を案内してもらうんだ。令状なんかいらない。」
グザヴィエがロレンツォを睨むと、ロレンツォはルークの腕を締め上げた。
譲る気はないのである。
少しだけ考えたグザヴィエは、小さく頷いてから口を開いた。
「好きにしろ。ドブ川にいくらでも浸かってけよ。ルークを連れてっていい。ただ、マナーは守れよ。お前らは意地汚い。何でも持って行く。人の物を散らかす。勝手に壊す。幾ら親切な街の人間にも、我慢の限界がある。」
グラスを割ったマテオが小さく笑うと、グザヴィエは、また、LC9を磨き始めた。彼の言葉は終わらない。
「忘れるな。お前らは、無実の俺達を侮辱した。健やかな俺達の一日をぶち壊した。俺達とお前達は、神のもとに平等な筈なのに。お前たちは、バッジを見せびらかして、何でも好きにする。分かるだろう。ありえない。いつか、お前はしっぺ返しに合う。バランスをとらなきゃいけない。絶対だ。」
無駄に喋るのは、リーダーの性。
ロレンツォが話の終わりを待つと、グザヴィエは静かに顔を上げた。
「この辺りの月の出ない夜の意味から、優しく教えてやってもいい。」
グザヴィエは、仲間の手前、凄んでみせたのかもしれない。
アイヴァーは、グザヴィエの座るソファの肘掛に腰かけると、ロレンツォを見つめた。
冷たい視線である。
アイヴァーの前科を知るロレンツォは、取敢えず、微笑みを返した。

ロレンツォとニコーラは、SUVにルークを乗せると、街を回った。
オリバーとマシューは、手錠をかけた三人と一緒に、たまり場の前で待機である。
グザヴィエの街Eは、車なら五分もかからずに一周できる。
めぼしいバラックを見つけると、車から降りて、ルークに扉を開けさせる。
分かる事は同じである。ルークが愛されている事と、どの家も貧しい事。
何度、扉を開けても、その繰り返しだった。
呟いたのは、後部座席でルークと並んでいたニコーラ。暇な作業に、魔が差したのである。
「もしも、この町の仕業なら、売り飛ばしたか、皆殺しか、街の皆が共犯か。」
ルークの視線を感じると、ニコーラは小さく笑った。
「関わってたらだよ。もしもの話さ。気を悪くしたなら、済まない。」
誰に対しても、ニコーラは優しい。
ロレンツォは、微笑みながら車を走らせた。

聞き込みも終わり、グザヴィエのたまり場に戻ると、ニコーラは、車からルークを連れ出し、手錠を外した。成果はゼロである。
ジョークで済ませたいニコーラは、鳥を逃がす様に大きな身振りでルークを放した。
気付いたオリバーは、すぐに車中の三人を解放した。遅れて、絡まれるのが嫌だからである。
運転席に座ったままのロレンツォは、窓を開けると、ルークの背中に話しかけた。
「捜査に協力してくれてありがとう。グザヴィエによろしく。」
ルークは、振り返ると土に唾を吐き、残りの三人もそれに続いた。

ロレンツォとニコーラは、オリバー達と一緒に、もう一度、森に向かった。
グザヴィエ達の訪問は、最も怪しいギャングへの表敬訪問の様なものである。
おそらく、感じ取るべきは、ニコーラの呟きのまま。
仮に彼らが犯罪に絡んでいれば、村の住人を売り飛ばしたか、皆殺しにしたか、街の皆が共犯か。
昨日の捜査は、村の存在を確認するためのものだったが、今となってはそれは違う。
要点は、彼らが犯罪に巻き込まれる可能性があるかどうか。
視点を変えて、調べ直さなければいけないのである。

曲がりくねる舗装のない道を走り続け、鬱蒼と茂る森に入る。大きい不陸にしばらく揺られると視界が広がり、光に満ちた空間が飛び込んでくる。そこまでは、昨日と同じ。
違ったのはそこから。
SUVが森を抜けた時、ロレンツォとニコーラは、小さく声を上げた。
ダビデとリアだけの筈の村に、大勢の人が生活していたのである。
アルパインに餌をやる者、デュロックの柵を掃除する者、プリマス・ロックを追う者。
畑仕事をする者、水を汲む者、薪を割る者。
談笑する者、鬼ごっこをする者、何かを飲む者。
流れる汗や大きな笑い声は、この時間が今始まったものではない証し。
ロレンツォは、車を止めると、ハンドルにもたれ、村人達を眺めた。ある意味、途方に暮れたのである。
ニコーラは、静かにスマートフォンを取出した。
ツー・コールで出たのは管理官、喋るのはニコーラ。
「管理官。応援が必要です。」

陽が沈んだシレーネのレストランには、今日も昨晩と同じぐらいの客がいた。
ロレンツォ達が座るのは窓際のテーブル。勿論、ジャスミンも一緒である。
三人の前のプレートは、今日のメイン・ディッシュ。
ロレンツォは、葡萄の枝の炭火で焦げ目をつけた、ジューシーなチュレトンをナイフで切り分け、口に運んだ。
炭の香りが心地いい。温かい肉汁に溶けた塩も香り高い。
燻したのか、何かと和えたのか。
弾けたばかりの黒胡椒も刺激的。噛み応えは、肉食動物としての欲求を満たすのに十分。
目じりを下げたロレンツォは、コドーニュのアルス・コレクタ456を注いだグラスに手を伸ばした。
微笑んだのは、他の二人も同じ。ワイアットに感謝するばかりである。
最初に口を開いたのは、ニコーラ。
「村の住人の半分が戻ってきて、全員が記憶喪失って聞くと、どう思う?」
聞かれたジャスミンは、質問を質問で返した。
「残りの人は?」
ジャスミンは、まだ戻らない住人の身の安全の方が気になったのである。
ニコーラが顔を横に振ると、ジャスミンは言葉を続けた。
「集団ヒステリーとか?分からないけど、記憶喪失になるなんて、聞いたことないわ。」
口を挟んだのは、グラスを置いたロレンツォ。
「それだ。集団ヒステリー自体が分からない。その線は考えない方がいい。普通に考えれば分かる。何があっても忘れたと答える様に、言い聞かされてるんだ。」
ジャスミンが眉を潜めると、ロレンツォは小さく笑った。
「残りの住人の命と引き換えにすれば、取引が成立しない事はない。タイミング的には、やっぱり、グザヴィエ達が怪しい。丁度、僕達が訪ねたところだった。」
456で喉を潤したニコーラが、言葉を被せた。
「じゃあ、ミックとキースの仕業じゃないのか。僕はてっきり…。」
ロレンツォの渋い顔を見ると、ニコーラは笑って口を閉じた。喋るのはジャスミン。
「本当に一七〇人も誘拐したの?ちょっと無理かも。」
ジャスミンの顔に不安の色を見つけると、ロレンツォは言葉を急いだ。
「まだ分からない。そもそも、あの村の住人を誘拐する理由がある様には見えない。それに、村を仕切ってるダビデとリアが最初に帰ってきたのが、どうも腑に落ちない。ダビデは、保安官に通報までしてる。」
ニコーラも、ジャスミンに向かって微笑んだ。
「きっと、ここで起きてるのは、村人全員の誘拐なんて派手な事件とは違う何かだ。多分、妙な事。誰にも知られずに暮らしる様な、妙な集団にしか関係ない事さ。君達には関係ない。保証する。」
口を開いたのは、二人の気持ちだけ受け取ったジャスミン。
「ダビデの写真はある?」
ロレンツォは、スマートフォンを取出すと、写真を開き、ジャスミンの元に滑らせた。
ジャスミンは、難しい顔で写真を眺めた。
捜査に協力したいが何も出ない。彼女の事だから、その程度の筈。
肉を噛むので忙しいロレンツォを見ると、ニコーラが口を開いた。
「無精ひげがチャーミングだ。」
黙っていたジャスミンが、難しい顔のまま頷くと、ロレンツォとニコーラは小さく笑った。
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