第10話 説得

文字数 6,356文字

欠けた煉瓦の重なる壁と蒸気の洩れる配管。そんな建物が、一棟や二棟ではない。どこまでも連なっている。
少ない街灯に照らされる、ネズミの餌に困らないアスファルト舗装は、当たり前に穴だらけ。
その路地は、今の都市計画から明らかに取り残されていた。
大粒の雨が降る夜、その路地に足を踏み入れたのはダビデ。
髪は今よりも長く、髭も濃い。
彼の傍らのアジア系の男は、シャツの胸元を限界まで開き、レインボー・カラーの肌をのぞかせている。デザインは、多分、エスニック。
二人が立止まったのは、トタンがかけられた壁の前。
男が顎を上げると、ダビデは傘を閉じ、トタンをずらした。
現れたのは穴。扉を失くした玄関である。
穴の先は暗闇。
ダビデは、吸い込まれる様に、壁の中に姿を消した。

ダビデが感じ取った確かな事実は、すえた匂いだけ。
ダビデは、急ぐことなく、静かに目が慣れるのを待った。
トタンを叩く雨と共に時が過ぎていくと、暗闇にぼんやりと人影が浮かんだ。
座っている様な小さな影。
口を開いたのはダビデである。
「カーソンか。」
小さい声が聞こえたのは、少しの静寂の後。
「ダビデ?」
声でカーソンと知ったダビデは足を進めたが、何かを蹴った。部屋の中は散らかっている。
ダビデの動きを知ったカーソンは、静かに囁いた。
「来ないでほしい。」
カーソンには、近付かれたくない理由がある。ダビデは、まずはその場に留まった。
口を開いたのはカーソン。
「ありがとう。」
雨音だけが続くと、暗闇のカーソンは言葉を続けた。
「知ってるかい、ダビデ。ケンタウルス座Aから出る、電子シンクロトロンの途中で出るX線放射を、テラ電子ボルトのエネルギーで解像できるって。」
ダビデは眉間に皺を寄せたが、カーソンの言葉は終わらない。
「じゃあ、これは?最近のR国は、スターリン主義が巻き返してるんだ。強権のカルトを皆の頭に刷り込んで、自分達が歴史的に特別だって思わせるんだ。世界中のR国系住民が一つになったら、膨張主義と国内のガバナンスの強化が正当化出来るんだ。」
意味の分からないダビデは言葉に困ったが、話しかけられた以上、何かを話してもいい筈。
ダビデは、予め決めていた言葉を口にした。
「皆、心配したんだ。まさか、お前が村を出るなんて思わないから、何も教えてこなかった。俺達は、外じゃ、普通に生きられないんだ。よく分かったろう。」
聞こえるのは雨音だけ。
カーソンは、衣擦れの音をたてると、静かに口を開いた。
「じゃあ、これは?ルードウィヒ・ファン・ベートーベンの母親のマリア・マグダレーナ・ケフェリヒは、ムーア人の子孫だった可能性が高いって話は、彼女が婚外子の家系だった可能性が高いってだけだって。ベートーベンは、ブラックじゃなかったんだって。」
悪い予感に襲われたダビデは、目にうっすらと涙を滲ませた。
喋るのは、決して諦められないダビデ。
「今、何をしてるんだ。ちゃんと食べてるのか。」
暗闇からか細い笑い声が漏れる。カーソンの声は、やはり小さい。
「小麦粉とドライ・イーストに砂糖。塩、胡椒。クローブにシナモンにアニス・パウダー。少しのブランデー。そこに、ドライ・フルーツをたくさん入れるんだ。」
ダビデは少しだけ考えた。
「ベラベッカか。」
「ああ。サマンサが教えてくれたベラベッカ。何を入れよう。トルコ・イチジク、アーモンド、アプリコット、ピスタチオ。チェリー。クルミにオレンジ・ピール。ブルーベリーにクランベリー。マンゴーにパパイヤ。」
「入れ過ぎじゃないか。」
「どこを食べるかで喧嘩になるね。」
「俺はしない。」
ダビデはゆっくりと距離を詰め、カーソンは靴が地面を擦る音でそれに気付いた。
「ダビデ。本当に来ないでくれ。放っておいてくれ。」
ダビデは足を止めたが、気持ちが抑えきれなくなった。
「放っておくって。こんな所にずっといるのか?本当に、今、何をしてるんだ。」
ダビデは答えを待った。口に出来る様な事をしているとは思えない。
話せば、長くなるのかもしれない。
ダビデには分からない、気持ちの整理が必要な何かがあるのかもしれない。
しかし、カーソンが口にした言葉は違った。
「国立科学財団じゃ、…。」
カーソンは、今までと似た様な話を探しているだけ。
「カーソン!」
ダビデは大きな声を出すと、カーソンの元に一気に歩み寄った。
ダビデの腕は、空を切り、間もなく座るカーソンの肩を掴んだ。
カーソンは、ダビデの手を振りほどこうとしたが、ダビデは許さない。
ダビデは、虚しい抵抗を止めさせるために、カーソンの手を握り締めた。

ダビデは気付いた。
カーソンの指先の何本かには、爪がない。
頭の中が空っぽになったダビデは、不意に我に返ると、大粒の涙をこぼした。
生まれた時から面倒を見てきた可愛いカーソンは、少し見ない間に、傷ついてしまった。
抑えようとしたダビデの泣き声は、初めは短かったが、徐々に長くなった。
暗闇の中に響くのは、ダビデの嗚咽だけ。
何かが変わったのは、カーソンも同じ。
カーソンは、子供の頃から尊敬してきた男に泣かれると、全てが急に下らなくなってきたのである。
絶対に敵わないと思っていた男は、爪がないぐらいで泣いている。そんな事は序の口なのに。
カーソンは、本当に酷い目に合ったのである。
信じられないぐらい酷かった。痛かったし、屈辱的だったし、恥ずかしかった。
ただ、それも毎日の積み重ね。一日一日は、過ぎてしまえば済んだことだった。
久しぶりに会ったダビデは、カーソンと話をすれば、それを一度に知る。
きっと、ダビデは壊れてしまう。
カーソンは、ダビデから顔を背け、暗闇をぼんやりと見つめた。

やがて、ダビデの嗚咽は雨音の中に消えた。
カーソンの手を離したダビデは、シャツの袖で涙を拭うと、口を開いた。
「悪いな。カーソン。明かりをつけるぞ。」
「ここに明かりなんてないよ。」
カーソンは安心しきっていたが、ダビデは持っていたマッチで火を点けた。
暗闇の中に、硫黄の香りとともに、ぼんやりと浮かんだのはカーソンの姿。
女物の服を着ていたカーソンは、少しだけおどけた笑みを浮かべた。
ダビデは溜息をついたが、何も聞かない道を選んだ。
「帰ろう、カーソン。皆が待ってる。」
ダビデを見つめたカーソンは、ゆっくりと顔を横に振った。
ダビデは、カーソンの目を覗き込むと、村の仲間の名前を口にし始めた。
「イーサン、ケイデン、アシェリ、サマンサ。」
マッチの火は長くはもたない。暗くなると、ダビデはまた火を点けた。
暗闇に浮かぶのは、ダビデとカーソンの顔。
「アイザック、リア、エリヤ、クロエ、ダン、イザベラ、…。」
ダビデが名前を挙げ続ける中、カーソンは鼻をすすり始め、マッチの火は消えた。
カーソンが鼻をすすり続けるのは、泣いているから。
やがて、全員の名前を言い終わると、ダビデは、もう一度同じ言葉を口にした。
「帰ろう。お前の家族が待ってる。」
ダビデは、カーソンの返事を待ったが、静寂が十秒も続くと、耐えられなくなった。
「教えてくれ。何が不満なんだ。こんな生活の方がいいなんて、酷過ぎるじゃないか。今の村のリーダーは俺だ。誰も否定しない。俺なら、村を変えられる。どうしたいんだ。教えてくれ。」
暗闇の中の静寂。ダビデが次の言葉を探すと、カーソンが小さい声を聞かせた。
「ごめん、ダビデ。それは違うんだ。全然、違う話なんだ。」
「何がだ。」
カーソンは、静かに語り始めた。
「村の生活を思い出してほしい。百人かそこらで。毎日毎日、食べ物を育てて、採って、食べて。育てて、採って、食べて。育てて、採って、食べて。ポーカーよりも手が少ない。ずっと同じ事を繰り返して年をとって、結婚する相手さえいない場所で死んでしまうんだ。人間なのに。」
ダビデには、それだけで十分だったが、カーソンの言葉は続いた。
「村を一歩出たら、物凄い数の人間がいるんだ。何十億人も。女の人も何十億人もいる。一人一人が違う生活を送っていて、誰一人として、一緒じゃない。どんなに辛くたって、今まで見たこともない時間は、それは発見の連続なんだよ。恐ろしいし、怖いけど、明日は違う一日になるなら、それが楽しみで眠りにつける。毎日、何も変わらないなんて、死ぬのを待つだけなんて、それは無理さ。十歳までの生活だよ。僕は、たった一度だけの人生に、どんな可能性があるのか知りたいんだ。」
村の誰もが、一度は口にした気持ちである。
「そうさ。人生は、可能性だらけだ。俺も分かってる。でも、今のお前の生活を見ろ。こんな一日は、長い人生の中に、一日だってあっちゃいけないんだ。親父達に教わったことを思い出せ。こんな生活を目指せなんて、一回でも言われたか。」
カーソンの答えは早い。
「甘いよ。思うのは勝手だけど、人生は厳しいんだ。」
「簡単に言うな!」
怒鳴ったせいで、ダビデの言葉は熱を帯びた。気持ちが止まらないのである。
「人生が厳しいなんて、誰でも分かってる。人間は弱い。それも全員が知ってる。だから、仲間をつくるんだ。皆と仲良くしましょうって、子供の頃に教わったら、それは子供の言うことになるのか。違うだろう。人間は馬鹿でどん欲で、スキがあったら、少しでも多くのパンを自分の物にしようとするんだ。皿にパンのない奴が出ても関係ない。だから、死なないために、仲間をつくれと言うんだ。一番大事だから、子供の頃に教えるんだ。お前が、たった一人で村の外に出て、毎日のパンがもらえるわけがない。知ってる筈だ。お前は、村にいるのが嫌になって、わざとパンがもらえない生活に飛び込んで、心の中で、俺達のせいにしてるんだ。外の世界でまともに生活できない俺達の生活がどれだけちっぽけか、どんなつまらないルールに縛られて一生を送ってるか。外から眺めてる気になって、心の中で笑ってるんだ。」
おそらく、それはダビデの本音。カーソンは、大きな声を上げた。
「違う!違う!」
カーソンは、顔を横に振ったが、暗闇では伝わらない。
ダビデは、言葉を重ねた。
「お前のやってることは、そういう事だ。俺達はそう思ったんだから、そうなんだ。」
悔しい時の涙は、おそらくこういう声がする。カーソンが流したのは、そんな涙。
「ひどいよ。そんな事言うなんて。信じられないよ。ひどいよ、ダビデ。」
ダビデ自身も後悔したが、今更である。
このままでは、カーソンは駄目になってしまう。絶対に、連れて帰らなければならないのである。喋るのはダビデ。
「外に出たいのは分かる。でも、そんな時も、一人じゃ無理だ。どうやれば上手くいくか、皆でよく考えて、力を合わせるんだ。俺達が皆でやれば、何とかなる。今までだって、あの小さい村で生き延びてこれたじゃないか。皆なら、何だって出来るんだ。」
沈黙が待てないダビデは、言葉を続けた。
「だから、教えてくれ!何があれば、村に戻るんだ!」
雨がトタンを打ち続ける。
ダビデの気持ちが静まり始めた頃になって、カーソンは、ようやく口を開いた。
「僕を変に思わないでほしいけど、多分、異性だ。若い異性だ。僕には女、クロエには男だ。」
ダビデの答えは早い。解答を持っている問題である。
「それは、今までも皆で十分に話し合ったろ。だから、リアにも来てもらったんだ。告白すればいいじゃないか。そろそろ、他の娘も探しに行こうと思ってる。」
それは、カーソンの一番嫌いな答え。
「だから、それが嫌なんだよ。リアが自分に気があったのは分かったろ。君を気に入って村に来たんだ。皆に悪いから、お先にどうぞって、それは何なんだよ。無茶苦茶だ。」
「じゃあ、俺がリアと結婚したらいいって言うのか。」
カーソンの心に、どっと疲れが押し寄せた。カーソンが逃げたのは、目の前のこの無神経からで間違いない。
「今更、出来るわけないじゃないか。リアはきっと一生一人さ。」
ダビデは、また一つ、カーソンの嫌いな答えを口にした。
「彼女が望まないなら、それは彼女の自由だ。人間には自由が認められてる。」
そこには、決して自由はない。
悲しくなったカーソンは、ダビデの心に響く言葉を探した。
「あの村はとにかく人数が少なすぎるんだよ。兄妹みたいに育てられて、大きくなったら親に言われて結婚する。それだけなら、まだいいさ。数がいないから、同じ年代で何人かがあぶれて、時々、村の外から連れてこられた女を口説けって、けしかけられる。イヌやブタみたいに。」
ダビデは、当然、答えを持っている。
「じゃあ、外の世界はどうなんだ。全員が結婚してるわけじゃない。普通に考えろ。結婚しやすい奴からするんだから、後には結婚しにくい奴が残って、最後には結婚できなくなる。当たり前だ。じゃあ、残っても結婚するには、どうするかだ。結婚したいと思われない奴ばっかりなんだから、少なくとも片方は結婚する強い気持ちが要る。最初は愛が始まる予感なんてないんだ。見た目が良けりゃいいとか、金があればいいとか、優しけりゃいいとか。絶対に結婚できる暗示を自分にかける。そうでもなきゃ、子供ぐらいの年の相手と結婚する。仲間に知れ渡ってる悪い噂や、知性のなさを隠すんだ。相手の親は、娘の将来を思い描けない。生まれ変わるつもりが、仲間内のあぶれ者じゃ反則だ。でも、それが答えなんだ。結婚は綺麗事ばかりじゃない。あの村は人数が少ないから、それが見えすぎてるだけだ。」
それは、カーソンも知っている答え。ダビデは、昔、カーソンに同じ話をしたことさえ忘れている。口を開いたのはカーソン。
「それはずるい話さ。例えば、身の回りで結婚できない人間が半分いるとして、二人に一人と百万人に五十万人じゃ全然違う。二人に一人じゃ、選べない。」
正しい答えである。ダビデは、アプローチを変えた。
「じゃあ、大人になったら、街に出られたとする。でも、出たとして、どうだ。皆が急にもてるのか。力を合わせたら、今のお前みたいにならないことは保証できる。ただ、結婚までは分からない。結局、全員が村を出るだけじゃないのか。」
カーソンは、鼻で笑った。彼にしてみれば、それは余りに簡単なことである。
「金があればいいんだよ。人を買うわけじゃない。ただ、豊かだってことが伝わる程度でいい。この国には、生活の安定が何より有難い人間が、たくさんいる。金がないからって、心まで貧しい訳じゃない。そんな人の中にも、素敵な人はいる。全部、解決さ。」
村を出たカーソンが学んだのは金の力。上っ面だけの言葉は、彼には通じない。
ダビデは、自分のすべてをつくり上げた父親の言葉を辿った。
「俺達が捨てたのは、その金だろう。自分で食べもしないのにブタを殺して、道に並べて微笑む様な生活は、俺には出来ない。」
カーソンは、静かに目を閉じた。
ブタ。ブタ。ブタ。ブタ。
ブタは可愛い。そして、吊るすのは辛い。皮も剥ぎたくないし、内臓も出したくない。
何度やっても、慣れなかった。ソーセージを考えた理由が分かる。腸さえ、捨てられない。
ニワトリの首も折りたくない。羽をむしるのも、嫌で嫌で仕方がない。
すべてが許される理由は空腹だけ。食事の前の御祈りがなければ、あんな事は決して続けられない。
カーソンは、大嫌いだった村の一日を思い出すと、口を強く結んだ。
喋るのはダビデ。
「俺達にあるのは、心だけだ。仲間を絶対に見捨てない心。それが分かってくれる人だけを迎えよう。誰を連れて来るか選ぶ権利を、大人になった皆に与えよう。連れて来る人数も増やす。それでどうだ。」
ダビデの出した最後の切り札にも、カーソンは反応しない。
声だけでは足りない。目を見せる必要がある。
ダビデはマッチを擦った。火薬の燃える音と硫黄の香り。
「分かったか。村に戻れ。」
小さな炎が、ダビデの真剣な瞳を照らし出すと、カーソンは薄暗い部屋の中に視線を散らした。
ワンクリックで応援できます。
(ログインが必要です)

登場人物紹介

登場人物はありません

ビューワー設定

文字サイズ
  • 特大
背景色
  • 生成り
  • 水色
フォント
  • 明朝
  • ゴシック
組み方向
  • 横組み
  • 縦組み