第4話 面会

文字数 5,729文字

陽光に東の空が照り始めた頃。
ロレンツォは、ベッド・メイキングをしたばかりの様な、一切乱れのないサドル・レザーのベッドの上で、仰向けのまま、静かに目を開いた。
ロレンツォの朝に目覚ましは要らない。
彼は、睡眠時無呼吸症候群のため、毎日、窒息して目覚めるのである。
病は、三年前に首に銃弾を受けた後に発症した。治る兆候は一切なく、何なら酷くなっていく。
酸欠がもたらす頭痛は、脳が蝕まれている証。確かな悩みである。
手術をすればいいのだろうが、この国の重要犯罪は尽きることを知らない。
ロレンツォの見てきた景色は、地獄のそれに近い。
脳が破壊され、全てを忘れてしまえるのであれば、それはそれで楽になる。
ロレンツォは、心のどこかで、そう思っていたのである。
一度目覚めてしまえば、わざわざ、もう一度寝て、首を絞められる気にはなれない。
ロレンツォは、シルクの寝間着のまま、朝のルーティンに入った。
ベッドからウールのアキスミンスター・カーペットの上に降りると、寝具に付いた体毛を全て拾い、備え付けの厚手のティッシュに包む。滑らかな触感が心地いい。
夜のうちに、ウォールナットのサイド・テーブルに置いていた香水を手に取ると、掛け布団を折り、シーツに振りかける。
その瞬間、彼の体臭を微かに漂わせていたベッドは、エレガントな空間に変わる。
トップ・ノートにグリーン・マンダリン。
ミドル・ノートにサフラン。
ラスト・ノートにシダー、べチバー、アンバー、ムスク。
決して、かけ過ぎはしない。
だから、どうと言うことはない。彼は、自分の油断した部分を人に知られるのが嫌なのである。
ハウス・キーパー。おそらくは、ジャスミンが部屋に入らなければ、全くの無駄な作業だが、彼女が絶対に入らないという保証はない。
誰も信じられない。それがロレンツォである。

朝食をとらないロレンツォは、SUVで時間を潰し、ニコーラを待った。
因みにニコーラは朝食をとる。
程なくしてレモンの木の間に現れたニコーラの顔には、満面の笑み。何度も振り返り、誰かと話している。
ジャスミンである。
今日も笑顔のジャスミンは、足を進めるニコーラに向かって、大きく体を揺らし、手を振っている。
恐ろしいほど、愛想がいい。
ロレンツォが顔を反らしている間に、ニコーラは助手席に滑り込んできた。
車が軽く揺れる。窓の外を見たまま、口を開いたのはロレンツォ。
「あの娘は何であんなに愛想がいいんだ。」
ロレンツォの問いかけに、シート・ベルトを締めながら、ニコーラは首を傾げた。
「そうかい?気付かなかった。」
ニコーラは、自分の幸せの分からない男である。
ロレンツォは、軽く笑うと、アクセルを踏んだ。

捜査の初日。二人は、街の保安官オリバーとマシューの事務所を訪ねた。
保護されたダビデ・ガルシアという男の話を聞くためである。
事務所は、ミント・グリーンの下見板張りに、ホワイトの押し縁をあしらった外壁が印象的な二階建て。おもちゃ箱の様である。
観光地の景観に溶け込む配慮だろうが、ギャングに怯える街となった今では、その愛らしさは保安官の無力の象徴。
滑稽。その言葉が正しい。
二人は、駐車場に車を止めると、念のため、住所を確認してから、階段を上がり、事務所の扉を通り抜けた。
執務室は広くはない。事務用品が溢れ返る程度。
早い時間のせいか、人影は三つだけ。
保安官が二人。オリバーとマシューである。
その前で椅子に腰かける無精ひげの男は、かなりの確率でダビデ。
手前の事務机に積み上がるドーナツの空き箱は、ドラマの影響かもしれない。
物音に振り返ったオリバーの視線がロレンツォ達の姿を捕らえると、マシューもそれに続いた。
残るダビデは、椅子に前のめりに腰掛けたまま。
彼の反応は鈍く、今までうるさかった保安官二人が、自分に関心をなくしたのに気付くと、ゆっくりと彼らの視線の先を追った。
ダビデの視線は、ロレンツォとニコーラの視線と交互に合った。
被害者の筈の彼の目は、決して優しい目ではない。
明るい声を出したのは、二人に歩み寄ったオリバー。
「連邦捜査官の?」
ロレンツォとニコーラは、順にIDを見せた。口を開いたのはロレンツォ。
「僕はロレンツォ・デイビーズ。彼はニコーラ・バルドゥッチ。宜しく。」
マシューも近寄ると、四人は短く握手を交わした。
自己紹介を終えたオリバーは、会話に間を空けない。
「こっちにはいつ?」
答えるのはロレンツォ。
「昨日だ。」
「宿はどこに?」
「シレーネだ。」
「どう?」
「僕は好きだ。君も泊まってみたらいい。街のためには、決して無駄じゃない。」
「考えておくよ。」
止まる理由のないオリバーは、愛想笑いを浮かべると、視線の先をダビデに移した。
「あれか?」
ロレンツォの問いかけに、オリバーは小さく頷いた。
「ああ。二階の会議室に上がろう。」

会議室は二十平方メートル程度。外装と違って、贅も愛嬌もない。
安さ以外に取り柄のないベビー・ブルーのタイル・カーペットと、織物風のパール・ホワイトの壁紙。
何もない狭い部屋。それが、この部屋の確かな印象である。
先に椅子に座ったのはニコーラ。予想外のリクライニングに、ニコーラは座る角度を変え、足を組んだ。保安官二人がダビデを連れてきたのは、ニコーラの隣りにロレンツォが座ってから。
オリバーは、ロレンツォの正面にダビデを座らせると、マシューと一緒に部屋の隅に逃げた。

ロレンツォとニコーラの間のルールであるが、基本的に話すのはロレンツォである。
理由は、ニコーラに記憶障害を発症した過去があるから。
汚職を摘発した時に受けた手酷いリンチがきっかけである。
ロレンツォが見る限り、ニコーラは十分優秀だが、業務上の尋問や議論を避けている。それはある種のプロ意識。
ロレンツォは、相対するダビデを、まずは眺めた。
精悍な顔つき、鋭い眼差しと広い肩幅。
感じるのは、野生の肉食動物が、他の肉食動物に遭遇した時の様な警戒心。
互いが傷つかない様に、一歩も近付かせないための威圧感。
平たく言えば、プライド。
この男は、誘拐の不安に怯えている様には、どうしても見えない。
それが、ロレンツォの中のダビデに対する第一印象である。

ニコーラがレコーダーを取出すと、察したダビデが頷き、録音ボタンが押された。
口を開いたのは、机の上に両手を投げ出したロレンツォ。
「保安官が何度もした質問だ。何処の誰といつから連絡がとれないって?」
ロレンツォは、一般人相手には欠かさない敬語を、敢えて使わなかった。直観を信じたのである。
ダビデは、ロレンツォを真似て両手を机に置くと、たくましい声を聞かせた。
「保安官に何度も答えた。被害者は村の全員だ。いつからかは分からない。」
言葉尻に、ロレンツォが言葉を重ねた。
「しかも、記憶がないって?」
「そうだ。」
ダビデの答えも早い。もう保安官が十分温めた後である。
疑っている事は雰囲気で伝わった筈であるが、ダビデの表情は変わらない。
記憶を失った経験のあるニコーラは、よくある嘘に出会い、小さく笑った。
喋るのはロレンツォ。
「誘拐以前の問題として、村のことから聞かせてくれないか。」
ダビデは、ニヤつくニコーラを一瞥してから、答えを口にした。
「あそこには、五十年ぐらい前に、俺の親父が仲間と一緒に住み始めたんだ。」
ロレンツォは、早速口を挟んだ。
「誰の土地だと?」
「誰のものでも。」
ダビデは即答して見せたが、明らかな嘘である。ロレンツォは、あの地が誰の物か知っている。口を開いたのはロレンツォ。
「ありえない。」
嘘が出れば、終わり。思ったより早い決着である。ロレンツォは言葉を続けた。
「あの土地は、イクサック・エプシュタインのものだ。納税もされ続けてる。」
ダビデは、ロレンツォの言葉を真似た。
「ありえない。」
ロレンツォは、手の組み方を変えた。喋るのはダビデ。
「エプシュタインを見た奴がいるか?ずっと税金を払ってるのも、弁護士じゃないか?」
ダビデの言葉は終わらない。
「エプシュタインなんていない。あの土地には、元々、研究所が建ってたんだ。俺の親父達が働いてた。そこが潰れて更地になったのは記録にある筈だ。皆が一度散り散りになった。でも、すぐに上手くやれない奴が出てきて、皆で一緒に住み始めた。皆が出会ったあの土地で。誰もおかしいとは思わなかった。」
ロレンツォは、ジャスミンの言葉を思い出した。
「アーミッシュみたいに?」
「そう、アーミッシュみたいにだ。」
即答したダビデの目は怒っている。
口を開いたのはロレンツォ。男の言葉で疑うべきは、よくある例の詐欺である。
「あそこに五十年住んでるって言うなら、占有権でも主張するのか。」
ダビデの顎は、少しだけ上がった。
「そんなことは考えてない。あそこは、俺達が普通に住んでた場所で、誰のものでもない。それが分かってくれればいいんだ。」
ロレンツォは、ダビデの言葉がどう聞こえたかを教えた。
「それは、これからもあそこに住むということだろう。」
ダビデは小さく頷いた。
「ああ。」
「じゃあ、同じことだ。」
ロレンツォが姿勢を変えると、ダビデは、眉を潜めた。
「犯罪じゃないだろう。」
勿論、住んでいたのが事実なら、犯罪ではない。
ロレンツォは頷いたが、目から疑いの光は消えない。すべては彼の勘。
そして、ダビデは、それに気付かない男ではない。
「おい、言いたいことがあれば言えよ。それとも、誰かの土地をぶんどった奴らは、誘拐されても助けないとか。そういう事か。」
首を傾げたロレンツォは、ダビデの立場を教えた。
「それとこれとは、話が別の様で別じゃない。覚えておいてくれ。君達。君かな。とにかく怪しい。それは事実だ。」
ダビデは、部屋にいる四人の顔をゆっくりと眺めた。皆の目は冷たい。
その視線が自分に戻ってくると、ロレンツォは改めて口を開いた。
「じゃあ、その怪しい奴らの住む村があるとして。誰がいなくなった?一人ずつ教えてくれ。」
ダビデは、小さく苛立ったが、一度、目を反らすと淡々と話し始めた。諦めたのである。
「まず、アシェリとサマンサ。村の一番の古株で、俺の親父の元同僚だ。それから…。」
ダビデは、言われた通りに皆の名前を挙げようとしたが、そもそもロレンツォは、そんな話を聞く気はない。
目的は、ダビデの言葉に潜む矛盾。
ロレンツォは、名前の挙がったばかりのアシェリについて、細かい事を聞き始めた。
「アシェリの髪の色は?」
全てに対し、ダビデの答えは早い。
「グレー。」
「瞳の色は?」
「コバルト・グリーン。」
「髭は?」
「口髭がある。」
「色は?」
「髪と同じ。」
「髪は巻き毛?」
「ストレートだ。」
「利き腕は?」
「左利き。」
「髪の色は?」
「…。」
ダビデの口から洩れたのは、ロレンツォへの回答ではなく忠告。
「もう一度同じことをしたら、俺にも覚悟があるぜ。」
ロレンツォは、溜息をつくと、一度首を傾げた。直観だが、遊びはやめた方がいいかもしれない。
「村の皆の写真はあるか。」
「ない。」
これも即答。隣りで聞いていたニコーラが小さく笑うと、ロレンツォは声量を上げた。
「記憶のない男が、役所に何の記録もない村から、写真一枚ない仲間全員がいなくなったと言ってる。これ以上、話を聞いたとしてだ。君じゃない。僕が正気だと思えるか。」
ニコーラはとうとう声を出して笑い、保安官二人も失笑を漏らした。
ダビデはやはり動じない。
「じゃあ、俺の精神鑑定でもすればいい。健康そのものだ。誓える。頭のクリアな男が、〇〇〇〇の汚名を恐れずに、保安官に助けを求めてるんだ。全部、仲間のためだ。あんたは、どう接するべきだと思う。少なくとも、今の扱いは間違いだ。」
ロレンツォが感じたのは不快感。彼の勘が違うと分かる事実は、何も出て来ていない。
ロレンツォは、少しだけ考えた。
「僕は君がどう見えるか教えただけだ。気を悪くしたなら、僕は黙ろう。」
それは撤退。
気に入らないロレンツォは、ダビデとの会話を放棄したのである。
ロレンツォが軽く手を挙げると、ニコーラが後を引受けた。
「じゃあ、いなくなった村の全員のことを、このレコーダーに向かって話して。」
ニコーラが、レコーダーを分かり易く近づけると、ダビデは聞かれた通りに答え始めた。
彼の話はこうである。

ダビデの両親とアシェリ夫婦は、生活に困窮した六組の家族を連れ、研究者としての生活を捨て、あの森の中で自給自足の生活を始めた。これまでの生業だった、科学の一切を否定したのである。
第一世代は、既にアシェリ夫婦以外この世にない。
彼らがつくった村を、今、仕切っているのは、ダビデ、村をつくった八家族の子供であるアイザック、第三世代で若いが、もうすぐクロエという村の娘と結婚するエリヤ、村の外から迎えたリアという三十過ぎの女の四人である。
出ていく者も少なくないので、村の火を絶やさないために、森の外から身寄りのない者を連れ帰ることは、ごく稀にある。現にリアがそうである。
親族が連れ戻しに来る様なこともなく、村の生活は至って平和。
盗みや喧嘩が起きたこともない。
エプシュタインですら、あの地を訪ねてきたことがないので、おそらく、存在すら誰にも知られていない筈である。
戸籍を辿れるのはアシェリ夫婦だけ。
皆が姿を消した以上、ダビデが今語った内容を証明する術はない。
因みに、いなくなったのは、ダビデを除く百七十二人。

ダビデはそこで口を閉じ、ニコーラの方を見て軽く頷いた。
黙って最後まで聞いたロレンツォは、研究者と記憶喪失というキーワードが、管理官に自分達を選ばせたのだと思った。
それなりの沈黙が生まれると、ニコーラは、レコーダーを手に取り、録音を終えた。
聞き取りは終わりである。
ロレンツォが音を立てて席を立ち、部屋を出ると、ニコーラとオリバーも続いた。
閉まりかけの扉の隙間から、マシューがダビデに近寄るのが見える。
ロレンツォは、連邦捜査官のジャッジを待つオリバーに向かって、思ったままを伝えた。
「現地を見ないと何も言えないな。」
オリバーは、首を傾げた。
「今から?」
ロレンツォは、小さく頷くと歩き出し、ニコーラも続いた。二人の背に、声をかけたのはオリバー。
「少しだけ待て。案内するよ。」
ロレンツォは、気のいい保安官に小さく微笑んだ。
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