第14話 休日

文字数 5,765文字

朝九時のシレーネのレストラン。
朝食のエスコートの終わりが迫る時間に、珍しくロレンツォの姿があった。
当然、ニコーラも一緒。遅めの朝食である。
ロレンツォの前にあるのは、ブルー・マウンテンのカラコルで煎れたブラック・コーヒーだけ。
向かいのニコーラのプレートには、ローズマリーの効いたサルシッチャとスクランブル・エッグ。カリカリにトーストしたフォルコンブロートと、メイプル・シロップの入ったボトル。
コーヒーはロレンツォと同じだが、多めに入れたクリームのせいで、色はアイボリーに近い。
ニコーラのかけたシロップがフォルコンブロートからプレートに垂れるのを見ると、ロレンツォは、渋い表情でコーヒーを口に運んだ。
口を開いたのは、丁度、テーブルの横を通ったジャスミン。
「フォルコンブロートって、見た目、物凄く美味しそうよね。」
今まで静かだったロレンツォとニコーラは、小さく笑った。店の人間の言う言葉ではない。
ジャスミンは、笑顔で言葉を続けた。
「今日は遅いのね。」
答えたのは、笑顔の残るニコーラ。
「休暇。」
ジャスミンは首を傾げた。
「休暇?そう言えば、気になったのよ。警官って、いつ休むの?」
決まりはあるが、二人とも守ったことはない。口を開いたのはロレンツォ。
「例規集でも渡そうか。」
忙しいジャスミンは、肩をすくめて、テーブルを離れた。
可愛い背中を見送ると、ロレンツォはコーヒーを口に運んだ。
ジャスミンは、他の客に話しかけている。愛想のよさは奇跡的なレベル。
微笑んだロレンツォは、食べるのに忙しいニコーラに話しかけた。
「どうする。村にでも行くのか。」
ニコーラは、フォークを持つ手を止めた。
「そうだな。村の住人とスキン・シップでもとるかな。」
ロレンツォは、黙っていられない質である。
「リアだろう。」
ニコーラは小さく笑った。特に考えていなかったが、間違っていない。
「君は?」
ロレンツォは、コーヒーの香りを楽しんでから答えた。
「僕か?僕はホテルでゆっくり休むよ。」
ニコーラの視線に気付くと、ロレンツォは言葉を続けた。
「全身から血が出たら分かる。」
頷いたニコーラは、笑いを抑えながら、何度か俯いた。

ロレンツォをホテルに残すと、ニコーラはSUVに乗り、一人で村に向かった。
暗い森の先に現れる、陽光に照らされた村。
いつ来ても、別世界に来た様な錯覚に陥る。
ニコーラは、愛すべき奇妙な村を、車中から見渡した。
例によって、違和感がある。
今日のそれは、畑仕事をする大人が一人もいないという事。
収穫しても食べられないのだから、正しい選択である。

ニコーラが休暇をとっている事が、村の住人に分かる筈はない。
車を降りた彼を見ると、どこからともなく声が上がり、間もなくダビデが歩み寄って来た。表情は硬く、足取りは早い。いつも通りの彼である。
間もなく相対すると、ダビデが先に口を開いた。
「ロレンツォは?」
「今日は一人だ。」
「何の用だ?」
「休暇だ。遊びに来たんだ。」
調子の狂ったダビデが口を閉じると、ニコーラは微笑んだ。
「駄目かな。捜査中の村に遊びに来たら。」
少しだけ考えたダビデは、親指でテントの方をさした。
ひとまず、追い払われなかったのは確かである。
ダビデとニコーラは、肩を並べて歩いた。
何人かがニコーラに挨拶をし、ニコーラも笑顔で返す。いつもと違い、爽やかな朝。
何が変わった筈もないので、すべては、ニコーラの気持ちの問題だったということ。
休日の気分が盛り上がってきたニコーラは、笑顔のまま、歩き続けた。
やがて、プリマス・ロックの前で、柵の中に女性の影を見つけると、ニコーラは足を止めた。
リアを見つけたのである。
「ヘイ、リア!」
ニコーラが大きな声を出すと、汚物を片付けていたリアは顔を上げた。
「ハイ。」
ダビデは眉を潜めると、五秒で口を開いた。釘を差すのである。
「村の女に手を出すな。村の死活問題だ。」
笑顔のニコーラの見つめる先は、リアから動かない。
「あの娘は、元々、外の人間だ。話すのがダメなら、軟禁状態と一緒だ。何なら、立件してみる。」
ダビデが口を閉じると、二人の間に微妙な空気が流れた。
「どうする。選んでくれ。」
ニコーラが言葉を重ねると、ダビデは、何も言わずにその場を去った。
実を言えば、リアが村の仲間と結婚する見込みはほぼない。それは彼らの共通認識。
ダビデが村の若者達に彼女を紹介した時、ダビデに惹かれてついて来たリアが激高したからである。
何も知らないニコーラは、ダビデが遠ざかるのを待つと、リアに近寄った。
「調子は、もう良さそうだね。」
リアに近付くにつれて、ニコーラの爽やかな笑顔は異臭で歪んだ。汚物のせいである。
可笑しくなったリアは、心の底からの笑顔を見せた。
「ええ。ありがとう。今日は何?」
ニコーラは、笑顔をつくり直した。
「皆、すぐに用を聞く。この村には、何か用がないと来ちゃ駄目なのかな。」
リアは、周囲を見渡すと、質問を重ねた。
「構わないけど、何?あなたもこの村に住みたいの?誘拐されたり、皆で吐いたり。あんまり、いい所を見せた記憶はないわ。」
ニコーラが顔を横に振ると、リアは、両手を広げて、貴重な来客に歓迎のメッセージを伝えた。
「まあ、好きにして行って。ようこそ、私達の村へ。」
作業に戻ろうとしたリアは、目の端に残った影が動かないのに気付いた。
振り返ったリアを迎えたのは、ニコーラの笑顔。
「何?私?」

間もなく、リアは作業に区切りをつけると、プリマス・ロックの柵を後にした。
連邦捜査官に呼ばれて、断る人間は少ない。
ニコーラが臭う柵から本能で遠ざかると、リアも続いた。
口を開いたのは、その距離が長いと感じたリア。
「どこに行くの?」
笑顔のニコーラは、周囲を見渡しながら、足を進めた。
「この村のデート・スポット。」
リアの答えは早い。
「ないわ。」
リアは、ニコーラの横に並ぶと、顔を覗き込んだ。喋るのはニコーラ。
「まあ、そう言わずに。」
リアは、ニコーラに付き合う様に周囲を見渡すと、彼女の確かな答えを教えた。
「ないわ。」
二人は笑った。
行先の見えない二人が足を踏み入れたのは、ライト・グリーンが美しい畑。
ニコーラは、汚れていく革靴から目を離すと、口を開いた。
「何で、この村に?」
リアは眉を潜めた。
「この前の聴取で答えたままよ。忘れた?」
ニコーラは何度か頷いた。後で記録を見直したので覚えている。
「友人の紹介?」
「そう。」
「随分思い切ったもんだ。僕には出来ない。」
「そう?」
「電気もないし、娯楽がない。食べ物だって。それに外の世界にも出れない。」
「悪い所ばかり見ないで。」
「いい所もちゃんと見てる。差し引いて残ったのが、今言ったことだ。」
「じゃあ、見方が違うの。全部、自分でするのは楽しいし、食べ物も自分でつくるから安心。外の人間も来ないから、嫌な目にも遭わないわ。」
リアは、エリヤと同じ様で違う。
彼女の人生には、思い切るだけの理由があったということ。口を開いたのはニコーラ。
「ダビデが言ってた。君は結婚するために、この村に来たって。」
リアが頷くと、ニコーラは微笑んだ。
「どうして?君なら、幾らでもいい相手がいただろう。」
笑顔のリアが顔を背けると、ニコーラは彼女の視線の先を追った。
目に入ったのはエリヤとクロエ。村の恋愛の見本である。
「あの二人は、どうして結婚することになったのかな。」
リアの答えは早い。
「大恋愛だったのよ。」
二人は微笑んだ。リアの笑顔には、照れが混じっている。
きっと、彼女はこういう話をするタイプではない。
ニコーラは、幸せを振りまくエリヤとクロエを目指して歩き出した。

シレーネのレストラン。
ロレンツォは、一人で、テーブルに残り、庭を眺めていた。
眠りたくないロレンツォには、それが一番の休養なのである。
客の姿はなく、期待のジャスミンも、チェック・アウトに備えてフロントに消えた。
広いレストランに一人だけ。
不意に自由を感じたロレンツォは、スタッフ・オンリーの扉を開き、厨房に入った。
そこにいたのは、料理を仕込むワイアット。
「ヘイ、ワイアット。コーヒーを御馳走様。」
ワイアットは、小刻みに足を動かして驚いた。
目をむく彼に微笑むと、ロレンツォは言葉を続けた。
「今日の夜のメニューは何?」
寸胴鍋から見えるのは魚介に野菜。
ロレンツォが手を伸ばすと、ワイアットは静かに手で遮った。
本当に食べる筈はないので、ロレンツォは小さく笑った。喋るのはロレンツォ。
「これは?」
「フォンだよ。」
ワイアットの短い答えに頷きながら厨房の中を見回したロレンツォは、生ハムの原木を見つけた。
「これは?」
「ハモン・イベリコ。ベジョータ・ランクだ。絶対に美味いよ。」
ロレンツォは、ワイアットが調理に戻るのを待つと、傍にあったナイフを手に取った。
静かに生ハムを削ってみる。
「ヘイ、ヘイ、ヘイ、ヘイ!」
騒ぐワイアットを横目に、ロレンツォはナイフで生ハムを口に運んだ。
舌にまとわりつき、とろけていく生ハム。
肉の旨味とまろやかだが強い塩味。生ハムは、決して裏切らない。
ワイアットの目に絶望の色を見つけると、ロレンツォはもう一度ハムを削った。
ナイフを差し出した先はワイアット。
しかし、真面目な彼は、唇をかみしめると目を瞑った。
「やめとくよ。」
小さく笑ったロレンツォは、ハムを口に運ぶと、もう一度、厨房の中を見た。
見つけたのはワイン・セラー。気付かないワイアットではない。
「栓は抜けない。見るだけだ。」
ロレンツォは笑顔でワイアットを見つめた。
「じゃあ、美味い水をもらえないか。ハムがね。分かるだろ。」
気持ちの分かるワイアットは、慣れた手付きで、グラスにロック・アイスを入れると、炭酸水を注ぎ、柑橘類を幾つかスライスして、グラスに沈めた。
水でよかったロレンツォは、三口でグラスを空けた。
「本当に美味い。」
「そう思うよ。」
ロレンツォは、ワイアットの即答で今日の悪戯の重さを知った。
「つけといてほしい。金は払うよ。」
鼻で笑ったワイアットが顔を横に振ると、ロレンツォは言葉を続けた。
「どこかに、ランチの美味い店があるかな。」
「ここだよ。」
「ここだな。」
ロレンツォの素朴な疑問はジョークに変わった。
調べても、本当に目ぼしい店がないから聞いたのである。
すべてがどこか安っぽいくせに、値段だけは高い。
可能性を信じる若者なら、一度は出ていく。そんな街である。
おそらく、ワイアットは可能性を諦めて戻った若者の一人。
人に歴史あり。暇なロレンツォの質問は終わらない。
「君は幾つだ。」
「三十七。」
童顔のワイアットは、ロレンツォより年上。ロレンツォは、頷きながら視線を散らした。
「結婚は?」
「してないよ。」
それは予想通りである。喋るのはロレンツォ。
「勿体ない。こんなに料理が上手いのに。」
「そんなことで相手が見つかるなら、誰も苦労しないよ。」
ワイアットは、揺れる頬で悲嘆にくれた。ロレンツォは微笑んだ。
「誰かいい娘はいないのか。」
「いれば、教えてほしいもんさ。この街は年寄りばっかりで。それも、年の事はお互い様だから、愚痴も言えない。」
大きく頷いたロレンツォの頭に浮かんだのは彼女。
「ジャスミンは?」
ワイアットがニヤつくと、ロレンツォは目を細めて質問を続けた。
「彼女は、ここに来て、どのぐらい?」
ワイアットは、ロレンツォの顔を二度見した。
「言ってなかったかい?二か月ぐらいさ。」
ロレンツォは、顎を上げた。
「それにしちゃあ、何でも出来る。愛想もいいし。」
ワイアットは、心の底から嬉しそうな顔をした。
「客が少ないから、オーナーは何でも屋が一人欲しいんだよ。だから、残る奴と残らない奴が、はっきり分かれて。あの娘は、本人さえ嫌じゃなきゃあ、残る方さ。」
ロレンツォは、ジャスミンの特徴を重ねて口にした。
「この辺りのことにも詳しい。」
ロレンツォが暇を潰しているだけだと知らないワイアットは、間違った言葉を選んだ。
「あの娘はおしゃべりなだけさ。人から聞いた話も、自分が見た事みたいに話してるだけで。だから、嘘も混じってると思うけど、それは他人のせいさ。彼女は、いい事しか考えてない。あんたの役に立ちたいって気持ちが強くて、喋り過ぎちゃうんだ。あの娘は、本当にそういう娘だよ。僕が保証する。」
ジャスミンを庇う必要はまったくないが、取敢えずワイアットはいい奴である。
ロレンツォは言葉を続けた。
「君は、あの娘を知ってるのか。」
「知ってるって?店では話すよ。」
「普段は?休みの日はどうしてる。」
「そりゃあ知らないよ。まだ、遊びに行ったこともない。」
「本当の彼女を知れば、幻滅するかもしれない。」
ワイアットは首を傾げた。
「やめなよ。俺も怒るよ。」
ロレンツォは、笑顔で言葉を続けた。
「君は、ジャスミンに好きな男がいないか、気にならないのか。」
ワイアットは、自分が揶揄われている事に気付くと、不意に小さく笑った。
二人で小さく笑ったロレンツォは、静かにワイン・セラーに手を伸ばした。

森の村の十一時。
リアのテントの前のテーブルを囲んだのは、ニコーラとリア、エリヤとクロエの四人。
リアとクロエの会話は、永遠に終わらない。エリヤは、いい笑い屋である。
笑顔で三人を見守るニコーラは、ゆっくりとベラベッカを食べ進めた。
腹は減っていない。
口を挟んで話を遮る気になれない、聞き漏らせない何かを感じたのである。
三人の話に、村の外の話が出てこない不幸。それは、最初から分かっていた。
だが、それだけではない。
村の中の話も、何かが欠けている。
いつ誰がどうしたかは詳しい。しかし、この狭い村のどこの出来事かが怪しい。
ニコーラがそれに気付いたのは、リアに最初にした質問のせい。
この村のデート・スポットはどこか。
少しだけ意地悪な筈の質問が、三人を幾度となく混乱に陥れるのである。
皆の話はかみ合っているが、結果、すべてが曖昧。
実態がある様で見えない。
やがて、不安に負けたニコーラは、エリヤのぼやけた話に口を挟んだ。
それは、明らかに連邦捜査官の口調。
「エリヤ、いいかい。もう一度、説明してくれないか。君がクロエにプロポーズしたのは、正確には村のどこだったのか。二人は立ってたか、座ってたか。それとも何かにもたれかかってたか。その時、彼女の後ろに何が見えたか。一緒にいた人、それを証言できる人がいるか。」
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