第3話 冒険

文字数 6,851文字

郊外の片側三車線の当たり前の道路沿いにある、ネオンに照らされた酒場。
辺り一面はプレーリーで、客の車が適当に止まっている。
昼間は壁のひび割れ以外気にならないその平屋は、夜になるとチャイニーズ・レッドやライラックのネオン・カラーに縁どられ、暗闇にはっきりと浮かび上がる。
若者達がココア・ブラウンのエントランスに吸い込まれていくのは、自然の摂理である。

今、その店に向かい、アスファルトの上を歩いているのは男。
年は二十代前半。クリームの綿シャツにカーキのパンツ。足元はブーツ。
ドレス・コードがあれば、間違いなく入店できないだろうが、ストレートのブロンド、細身の彼のマスクは甘い。異性の気を惹かずにいないのは、本人が一番分かっている。
そんな男である。

男は、扉の前で立ち止まると、耳を澄ました。
EDMの低音が壁を振るわせ、店内のゆらぎを外まで伝える。
男は目を瞑って微笑むと、扉のグリップ・バーをしっかりと握り、宝箱の蓋を開ける様に開いた。
EDMと客の話し声が、両耳に一斉に飛び込んでくる。
昼間には安物にしか見えない擬石の壁や大理石風のタイル。
配管を誤魔化すだけのワイヤー・メッシュの天井。ライラックのソファに観葉植物。
全てが、抑えた照明とネオンの滝で怪しい魅力を放っている。
冷たい空調に押された煙草の煙、安酒と香水の香りも、魔法を手伝っているかもしれない。
酔う客、話す客、笑う客、静かな客。
全ての客が、客でありながら、店をつくっている。
男は、喜びをかみしめる様に顔を横に振ると、奥のカウンターに向かった。
オーキッドのネオンに縁どられたカウンターで待っていたのは、アジア系のバーマン。
男は、バーマンの正面に座ると、笑顔で口を開いた。
「僕はカーソンだ。」
初見の男の客に名乗られる覚えのないバーマンは、仕事の手を休めると、カーソンを見据えた。彼の人を見る目は肥えている。
「偶然だ。俺もカーソンだ。注文は?」
そんな筈はないが、客のカーソンは、笑顔のまま、今日の一品目を注文した。
「ミント・ジュレップ。」
バーマンは、鼻で笑うと視線の先のメニューを指差した。
「エア・ボールだ。ミント・ジュレップをメニューに入れた記憶はないぜ。」
カーソンは動きを止めた。
“エア・ボール”の意味が分からなかったのである。
カーソンは、バーマンの言葉を分析すると、言葉を選んだ。
「じゃあ、エア・ボールにしてくれ。一杯だ。」
文法的には、おそらく彼の出した結論は間違えていない。
バーマンは、一瞬呆れたが、とにかく手を動かした。響きの似たハイ・ボールをつくるのである。
「五ドルだ。」
グラスを滑らせたバーマンは金を待ったが、カーソンは動かない。バーマンが口を開いたのは三秒後。
「タブにするか?」
動きを止めたカーソンは、バーマンの疲れた視線に気付くと、しかし静かに頷いた。
口を開いたのはバーマン。
「楽しんでくれ。」
バーマンは、ペンを短く走らせると、仕事に戻った。

一人残されたカーソンは、煌めくグラスに見入った。
彼が大きな瞳で観察したのは、揺れるロック・アイスに弾ける泡。
やがて、カーソンがグラスについた結露を指でなぞり、鼻に近づけると、バーマンは小さく笑った。
こいつは〇〇〇〇。多分、今日は面倒な夜になる。
バーマンは、離れた席にあったメニューをカーソンの前に置くと、分かり易く忠告した。
「ヘイ、ルーピーだ。うちではチョコは禁止だからな。」
カーソンは動きを止めた。
“ルーピー”が分からなかったのである。
それだけではない。チョコを食べてはいけない理由も謎である。
カーソンは、ハイ・ボールを一気に飲み干すと、バーマンを見据えた。
「同じのだ。エア・ボールを頼む。」
バーマンは、一瞬だけ厳しい目を見せたが、何も言わずにハイ・ボールを置き、その場を離れた。カーソンから逃げたのである。
バーマンの背を見送ったカーソンは、タブを気にすることなく、ハイ・ボールを手にすると、EDMに揺れるフロアに歩き出した。

カーソンは、何度ぶつかられても、ハイ・ボールをこぼさず、店の中を徘徊した。
体幹が違うのである。
客層は基本的に若い。この店に初めてきたカーソンにも、距離感で男女の組合せが大体分かる。やがて、カーソンは、特定の相手がいる様には見えない女の一団を見つけた。
照明と同じ、ネオン・カラーの小さな布切れをまとった彼女達は、店を彩る装飾。
ポーチの中身は分からない。
カーソンは、ハイ・ボールで口をゆすぎ、深呼吸をすると、彼女達を目指した。

カーソンの格好は、店に溶け込める代物ではない。
何人かの視線を集めると、カーソンは空いている手を軽く挙げた。
「誰か、僕と付き合いたい人はいないかな。」
大声で選手宣誓である。
女達は一瞬言葉を失ったが、すぐにカーソンへの正直な感想を口にし始めた。
彼女達の口撃が少しだけ鈍ったのは、カーソンの顔立ちが綺麗だから。
店内を見渡したカーソンは、他の客の視線を感じると微笑みを浮かべ、もう一度同じ言葉を口にした。
「誰か、僕と付き合いたい人はいないかな。」
女達が狂った様に笑い始めると、一人のブルネットが応えた。ドレスの色はバーミリオン。
「そのこぼれないハイ・ボールには、何か仕掛けがあるの?」
隣りのシアンのドレスを着た女が、口を大きく開け、下品に笑った。
女が伝えたかったのは、カーソンをずっと見ていたと言う事。
しかし、カーソンは、ハイ・ボールを一瞥すると間違った答えを選んだ。
「いや、これはエア・ボールだよ。飲むかい。」
カーソンが飲みかけのグラスを差し出すと、一団はまた笑い始めたが、今度は確かな悪態が混ざった。
飲みかけはありえない。何なら、彼女達は金だけでいいのである。
不穏な空気を感じたバーミリオンの女は、香水の匂いと共にカーソンに近寄ると、肘を掴んで、歩き出した。
カーソンは、ハイ・ボールがこぼれない様に急いでグラスを空けると、流れに身を任せた。

二人だけになれたのは、店の隅のドラセナ・コンパクタの影。口を開いたのはカーソン。
「ハイ、僕はカーソンだ。宜しく。」
呆れて頭を揺らした女が口にしたのは忠告。理由は、目の前で人が死ぬのが嫌だから。
自己紹介はなしである。
「どの国から来たのか知らないけど、目立たないのが利口よ。」
笑顔のカーソンは、ふざけて顔を歪めた。
「国?僕はれっきとしたA国人さ。」
それなら、田舎の〇〇〇〇である。
「バッドアス。じゃあ、うちに帰れるわね。すぐに家に帰って、今まで通りの生活を続けなさい。分かった?」
カーソンは、今度は本気で顔を歪めた。
「悪いケツ?一体、何を…。」
「〇〇〇〇!言うわけないでしょ!」
女は、下品な勘違いを下品な言葉で否定した。
苛立つ女の視界に入ったのは、カウンターにいたバーマン。
カーソンを見つけた彼は、二人を目指して真っすぐ歩いて来たのである。
巻込まれるつもりのない女は、カーソンと距離をとりながら口を開いた。
「怒られたら、許してもらえるまで謝る。それだけよ。」
意味の分からないカーソンは、女の後を追おうとしたが、バーマンが彼の腕を掴む方が早かった。
「ヘイ、キューティー。酒とは違うぞ。金を払わずにチッピーと遊んだら、日によっちゃ死ぬぜ。」
バーマンもカーソンを心配したのである。
やはり意味の分からないカーソンは、バーマンの顔を見つめた。彼の目は笑っていない。
似た様な経験があるのか、バーマンは、カーソンを一方的に追い出しはしない。
「言い訳はいいから、お前の頭の中のスープみたいな脳みそに何が浮かんでるのか、全部言えよ。選ばなくていい。全部だ。」
バーマンの言葉に微かな優しさを見つけたカーソンは、言われた通りにすべてを口にした。当然、女の警告も忘れていない。
「まず、酒を飲む。それで、金を払わずに怒られる。金の分だけ働かされて、僕が役に立つって、分かってもらって。そこで、働くことになる。作戦はこれで全部だ。あと、悪かった。心から謝るよ。」
渋い顔をしたバーマンは、黙って聞き終えると、周囲を見渡した。
バーミリオンとシアンの女は、遠くから二人を見ている。無茶は出来ないと思った方がいい。
バーマンは、カーソンの耳元で囁いた。
「事務所に来い。」
カーソンは、目を輝かせて頷いた。

スタッフ・オンリーの扉を抜けた二人は、かつてはフロアを飾った、傷んだソファの並ぶ部屋に入った。
煙草の煙がたちこめるその部屋の中には、アジア系の男がもう一人。
五十過ぎに見えるが、日焼けした肌は銅の様で、シャツの胸のはだけ方が普通ではない。
口を開いたのはバーマン。
「すいません、ボス。」
男の名はシャオ。彼の視線を受けると、バーマンは取敢えず謝った。
シャオは、カーソンに視線の先を移すと、顎でソファを差した。空いているソファは、山の様にある。
笑顔のカーソンが楽し気に腰を下ろすと、バーマンは悲しい目で口を開いた。
「無銭飲食です。ここで働きたいって言ってます。」
シャオに見つめられると、カーソンは笑顔で応えた。
微動だにしないシャオの声は穏やか。
「カーソン、質問だ。お前はタダで酒を飲んだ後に働くんだろ。俺達の中には、その仕事をする人間はいないのか。」
カーソンは、首を傾げたが、爽やかに答えた。
「そこまでは考えてないさ。でも、僕は役に立つよ。今までも皆がそう言ってくれた。」
やはり動かないシャオは、次の質問を口にした。
「この店は一杯一杯だ。必要な仕事を最低限の人数で回してる。その仕事以外に金を回す余裕はないんだ。分かるか?」
想像していた展開との違いに戸惑ったカーソンは、しかし何度も頷いた。分からないと言うよりは、ましな筈。カーソンは、この店で働かなければならないのである。
シャオが動かすのは口だけ。
「それならだ。お前にその貴重な仕事をやると、何が起きる?考えてみろよ。カーソン。」
カーソンが小さく息を吸い、喋る素振りを見せると、シャオは言葉を急いだ。
「そうだ。今まで働いてた奴は仕事がなくなるんだ。仕事がない奴には金を払えないよな。」
カーソンは、暗い響きに眉を下げた。空気を変えたいカーソンは黙っていられない。
「何もそんな冷たいことを言わなくてもいいじゃないか。皆で力を合わせて、どうやったら皆が食うに困らないか、考えればいいんだ。そうだろう?」
今まで、まったく動かなかったシャオは、とうとう姿勢を変えた。疲れたのである。
くたびれたソファに沈むシャオを見ると、バーマンが後を引き受けた。
「考えろよ。なんで、その皆にお前が入るんだ。それと、どうして、俺達は、泥棒が普通に生活できる様に頭を使わなきゃいけないんだ。」
カーソンは、小さく瞬きをした。少しだけ傷付いたのである。
「働いて返すつもりだったんだ。泥棒はひどいよ。」
バーマンは無視したが、シャオは決して甘い男ではない。
「俺が今してほしい仕事を言おうか?」
カーソンの目は輝いたが、バーマンは顔を歪めた。理由は、そんな筈がないから。
喋るのはシャオ。
「あのチッピーの集団。あいつらを追い出してくれ。チョコもアイスも取り上げて、ポポに突き出すんだ。」
カーソンには、やはり意味が分からない。そもそも、彼らは何故こうも甘いものに厳しいのか、さっぱりなのである。
「なんで?一人話したけど、優しかったよ。仲良くなればいいのに。」
シャオは、ソファにいよいよ深くもたれると、言葉を変えた。
「駄目な薬が好きな売春婦だ。〇〇〇〇だ。」
言葉をなくしたカーソンがバーマンの視線を受ける時間は長くなった。
付き合う気のないシャオは、縛りを増やしていく。
「やり方は好きにしろ。ただ、店で騒がせるな。それと、俺に言われたとも言うな。これは絶対だ。もしも言ったら、この店には、永遠に出入り禁止だ。」
厳しい言葉に沈黙を守ったカーソンは、やがて、シャオの目を見るとゆっくりと頷いた。
ハイ・ボール二杯には過ぎた依頼だが、契約成立である。
シャオの言葉の意味の分かるバーマンは、想像だけで顔を歪めた。

バーマンは、カーソンを連れて、ホールに戻った。
初めての仕事に気合いの入るカーソンは、バーマンに熱い視線を送ったが、バーマンは顔を背けた。気の毒で、目が合わせられないのである。
カーソンは、バーマンと別れると、バーミリオンの女を目指して歩き出した。
気が気でないバーマンが見守る中、踊る様に近付いたカーソンは、本当に彼女に声をかけた。
何を言っているのか聞こえないが、周りの女達が一斉に笑ったのは、カーソンのせいで間違いない。
間もなく、バーミリオンの女は、カーソンを連れて店を出た。一人ではない。後を追う女の数は、十人を超える。
不穏な空気に店員を探した何人かの客は、ネオンの滝に照らされるバーマンを見つけると目で訴えたが、バーマンは無視した。シャオの判断は、決して間違っていないのである。

十分後。店の空気が白け始めた頃、女達は店に戻ってきた。カーソンの姿はない。
色とりどりのドレスが店内を舞うと、店は艶やかな雰囲気を取戻した。
この店は、彼女達が振りまく怪しさで回っているのである。
バーマンが静かに酒をつくり、シャオが色ボケの客をからかっている間にも、時間はゆっくりと流れて行く。
店を訪れる客は、それなりに尽きない。
やがて、客が幾度か入れ替わると、騒ぎを知る者は消え、閉店の時間になった。
潰れた馴染みの客を追い出し、バイトの女達を帰し、戸締りをする。
シャオとバーマンは、すべてのルーティンを終えると、神棚に祈った。
一日の終わりである。
先に裏口に歩いたのはバーマン。扉に手をかけた彼は、しかし、思わぬ抵抗を感じた。
開かない。何かが引っ掛かっているのである。
怒りそうなシャオは、まだ来ない。
バーマンは、扉に肩をあてがうと、力一杯開き切った。
外で聞こえたのは物音だけではない。
呻き声も一緒。
カーソンである。
間もなく、臭いに顔を歪めたバーマンは、扉で押しのけたカーソンの様子を覗き見た。
異臭の源は、血の臭いだけではなさそうである。
扉の隙間から差す灯りで、頬の涙が光るカーソンは、腹を押さえている。顔に傷はない。
血が出ているのは両手の指先すべて。彼女達のやりそうな事である。
少し前から背後に立っていたシャオは、バーマンの横をすり抜けると、カーソンの前にしゃがみ込んだ。カーソンを見る時の彼の顔には、表情がまったくない。
「カーソン。あいつらはお前に約束したか?二度と、この店には来ないって言ったか?教えてくれよ。お前と外に出た後、あいつら、すぐに戻って来たから、訳が分からない。」
涙を流していたカーソンは、悔しそうに顔を横に振った。
すべてがシャオの思い通りである。口を開いたのは、慣れているシャオ。
「それじゃあ、カーソン。金は払えない。お前は仕事をしてないんだから。分かるな。」
揺れたカーソンは、すすり泣くと、小さく頷いた。
バーマンが周囲を気にする足元で、シャオは駄目を押した。
「じゃあ、これも分かるよな。俺が金を払わないってことは、お前は金を払わずに酒を飲んだってことだ。犯罪だ。俺は警察を呼ばなきゃ駄目なんだ。」
苦痛と屈辱に耐えていたカーソンは、目を見開いた。不安の色を浮かべるその目の先にいるのはシャオ。今の状況をつくり出した彼である。
「そうだ、カーソン。犯罪を見たら、警察を呼ばなきゃいけない。レシートでばれるから、俺も隠せないんだ。」
実際はどうにでもなるが、カーソンには分からない。
可哀そうな彼がゆっくりと顔を横に振り、不意にむせび泣くと、バーマンは遠くの暗闇を見た。
シャオは、表情を変えずに語り続ける。
「カーソン。俺は優しいので有名だ。お前を警察に突き出す気はない。五分待ってやるから、出来る限り遠くに逃げろ。後は俺に任せろ。」
泣いていたカーソンは、それでも自分の置かれている状況を理解した。
逃げなければ、人生が変わってしまうのである。
カーソンは、壁に手をつくと、自分の体を確かめる様に立上った。血だらけの指は、痛いので浮かす。それでも壁が汚れると、カーソンは顔を極端に傾けた。
「ごめんなさい、ボス。ごめんなさい。ごめんなさい。」
泣き続けるカーソンを見ると、シャオは初めて笑った。苦笑である。
間もなく、カーソンは、タイム・リミットが刻一刻と近付いていることを思い出した。
謝っている暇はない。
彼がやるべき事は一つ。とにかく遠くまで歩く。それだけである。
顎を限界まで下げたカーソンは、足を引きずりながら歩き始めた。
数時間前に店を訪れた時とは全くの別人。人間は、心で生きる生き物なのである。
時折、小刻みに動くのは、どこかが痛むから。
シャオとバーマンは、カーソンが大きく揺れる度に慌てたが、杞憂だった。
ガッツだけはあるカーソンは、二人の力を借りることなく、そのまま、冷たい暗闇の中に消えていったのである。
暫く、何も見えない闇を見つめた二人は、店を振返った。血だらけの壁は、放っておけない。
どこかにある臭いの元もである。
シャオとバーマンは、ため息をつきながら、店の中に戻った。
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