第1話 事件

文字数 3,367文字

A国C州の外れに、セコイア・デンドロンの混ざる、鬱蒼と茂る森で覆われた大きな丘がある。
とにかく広大なその地は私有地で、もう五十年近く、余所者を近付けていない。
丘の北側には、遥か遠くにまだ雪の残る山が見え、その麓には湖畔が広がっている。
湖畔から続く細道は、春先の花が僅かに混ざるライト・グリーンの草原の中を大きくゆったりとうねり、森まで連なる。
途中に、水底の砂のアイボリーを見せる透き通った小川も流れているが、古い石の橋が一本架かり、かろうじて通行の便が保たれている。
丘の南側は、いつの頃からか放っておかれた葡萄の群が点在する斜面が続いた後、石灰岩のアッシュ・グレーが目立つ砂肌に変わり、急な崖で途切れる。
当然、その先に何もないわけはない。
遥か下方に、狭い砂浜にビロードの様なホワイトの波を寄せる海が広がる。
浅瀬のエメラルド・グリーンが、水深と共に不意にコバルト・ブルーに変わるコントラストは美しい。
牧歌的な北側と地中海的な南側の風景が、地層とともにぶつかり隆起してできた場所。
それが、その丘である。

周囲には、当然、街もある。
西側には、似た様な高さの丘が幾つも連なるが、並んだ丘の頂きの更にその先には、鐘のある煉瓦造りの塔屋が見える。
観光客目当てで無理にエイジングした築十一年のその建物はホテル。
客の入りは、建設投資を回収できる期待をかすかに残す程度。綱渡り経営である。
生活に不安を感じているのは、丘に隠れる商店街も同じ。決して、ホテルだけの落ち度ではない。
丘から車で十分程走ると着くその街Wは、かつて別荘の建設が相次いだ。
理由は、圧倒的な地価の安さと景観の良さである。
雑誌に紹介され、洒落た店が出来る時間もあった。
ミドル・クラスを狙ったホテルも建設されたが、やがて流行が去るべくして去ると、おもちゃ箱の様な街には、時間と金の無い中年ばかりが残った。皆、余所者である。
別荘が建設される前、その地が荒れ地だったわけではない。地元の人間が、住むには住んでいた。
最初は、物好きを揶揄った彼らは、流行の力を見せつけられると、先を競う様にデベロッパーに土地を売った。新天地でのワン・ランク上の生活を選んだのである。
ただ、皆が自分のテリトリーと認識する土地は、法律が定める土地と必ずしも同じではない。
契約書と言う名の紙切れのせいで、自分の居場所がなかったことを知る者が少なからず出たのは、偶然ではない。
頼りにしてきた親族に置き去りにされた彼らは、取敢えず身を置く場所を探し、丘を超え、森の東側に移ると、バラックをつくって住み着いた。
内職したお守りを買い、ついて回ると日銭をくれた知合いはもういない。
まさにその日の夕食に困る彼らが、土地をゼロから耕す筈もない。
魚を釣る者もいたが、人間は魚だけでは生きられない。
間もなく、彼らのうちの何人かが、初めの一歩を踏み出した。
別荘地で気の緩んだ金持ちを狙い、簡単に法を破って見せた彼らは、砂でも掬う様に金を手に入れたのである。
最初は数人だった彼らは、Wの拡大とともに成長し、いつしか森の東側はギャングの街Eと呼ばれる様になった。
西側の流行が去ったのは、彼らのせいである。
近場の客が去っても、今さら生業を変えられる彼らではない。
彼らが日の暮れる度に新しい土地を求めると、その名は忽ち知れ渡り、この一帯の見え方は完全に変わった。

丘は、そんな景色に四方を囲まれ、誰に触られることもなく、ひっそりと時を刻んできた。
ただ、この辺りに住む者も知らなかったことがある。
丘の森の中には、開けた平地がある。それも、森の半分ぐらい。
広大な空き地。そこには、東の一角に四十七張りのテントが張られている。
くすんだ生地と繕った跡、ロープのほつれを見る限り、どのテントも使われて久しい。
それぞれのテントを区切るのは、あたかも大通りの様な十字状のスペース。
テントは、四つのブロックに分かれて、整然と並ぶ。まるで、町の様である。
テントの前には、丸太作りの机と椅子。それに、石を並べた焚火のスペース。
目につくだけで、井戸が掘られているのは三か所。
東の端に杭が丸く打ち込まれているのは、きっと集会場。
椅子代わりの丸太が転がっているのだから、その筈である。
テントが張られているのは、平地のごく一部に過ぎない。
南には畑、北には牧場が広がっている。
畑にはターニップやポテト、コモン・ビーンズ。牧場には、ニワトリにブタにヤギ。
自給自足は、夢物語ではない。

一つ、今の景色で特異な点を挙げるとすれば、たった一人の男が、テント・エリアの中央を歩いていること。より正確には、その男以外、誰もいないということ。
年は四十代半ば。ブルネットの巻き毛を短く刈り、顎には無精ひげ。
顔はよく日焼けしているが端正な顔つき。目元も凛々しいので、不潔感はない。
身長は百八十センチには足りないぐらい。
がっしりとした体、特に背中の張りは、男が鍛え上げられた肉体の持ち主である事を教える。
クリームの綿シャツにカーキのパンツ。全てが着古されているが汚れはなく、磨き上げられたブーツの色は深い。
男は、テントの中を一張りずつ覗き込んでいたが、やがて天を仰いで目を瞑った。
時間をかけて、大きな深呼吸。
男は、ゆっくり目を開くと、西に向かって歩き出した。

男の向かう先も森だが、足元の草が刈られたそこは、確かに道。
セダンが並んで通れる程に、地面が顔を出しているのである。
男は、南の地質が勝つ石灰の混ざる道を、砂埃を上げながら歩いた。
まだ肌寒い時期だが、足元の悪い坂道を歩き続けると、頬を汗が伝う。
ひたすら足を前に進める。ただそれだけで、一時間もすると、丘で見慣れた光景は消えていた。
辺りは平地になり、道も舗装される。別世界である。
男は、そこから更に四十分歩き、昼前にWに着いた。店が姿を現し、車が増えたのだから、その筈。
寂れたとは言っても、観光の街Wは、昼時ともなれば、通りを多くの人が行き交う。
男は、丁度、視界に入ったコケージャンの中年女に声をかけた。
「ちょっと教えてほしい。警察はどこかな?」
石畳の上で足を止めた女は、近付いて来る男を笑顔で迎えたが、質問を聞くと、表情を曇らせた。
考える素振りを見せた彼女が口を開いたのは五秒後。
「保安官事務所なら、ここから五分ぐらいだけど、ランチの時間はいないわ。行きつけのI国料理屋があるのよ。急いでるなら、そっちに行ってみたら?」
周囲を見渡した男は、小さく頷いた。
「そこでいい。教えてくれないか。」

女の説明は、的確だった。
開いている店も少ない。I国旗を下げているのだから、間違えようがない。
男は、ベルを鳴らして、店の扉を開けた。
近付いたウェイトレスと目も合わさないのは、用がないから。捜しているのは保安官である。
男は、分かり易くキャンペーン・ハットをテーブルに置く二人組を見つけた。
ブロンドで口ひげを蓄えた中肉中背のオリバーと、キャロット・トップで細身、眼鏡をかけたマシュー。
街の保安官である。因みに、オリバーの方がマシューより七歳年長である。
二人は、観光客向けのメニューしかないその店で、いつもの様にパスタを食べていた。

男は、眉に力を入れると、ゆっくりと足を進めた。
何とはなしに待ち構えていた保安官達の視線を集めると、男はテーブルの横で立止まり、静かに口を開いた。
「ちょっと、すまない。」
オリバーは、ペペロンチーノに添えてあったシュリンプを頬張りながら、手で話を続ける様に合図した。
口を開いたのは、パスタを先に胃袋に流し込んだマシュー。
「どうぞ。何かあったかい?」
男は、真剣な眼差しをマシューに向け、言葉を続けた。
「いや、確証がないんだが、誘拐事件かもしれない。」
重大事件である。
オリバーとマシューは、顔を見合わせた。
オリバーは、軽く咳払いをすると、メモとペンを取出した。
「被害者はどこの誰?いつから連絡がとれない?」
誘拐事件を扱うのは初めてだが、ここまでなら家出の捜査と変わらない。
男は首を傾げると、一瞬ためらってから口を開いた。
「被害者はおそらく村の皆、全員。いつからかは分からない。俺も記憶がない。」
動きを止めたオリバーとマシューは、眉間に深い皺をゆっくりと刻んだ。
言葉はない。
男は、テーブルの横に立ったまま、変わらぬ真剣な眼差しで保安官を見つめた。
ワンクリックで応援できます。
(ログインが必要です)

登場人物紹介

登場人物はありません

ビューワー設定

文字サイズ
  • 特大
背景色
  • 生成り
  • 水色
フォント
  • 明朝
  • ゴシック
組み方向
  • 横組み
  • 縦組み