第16話 前兆

文字数 6,464文字

それぞれの休日を終えたロレンツォとニコーラは、シレーネで早めの夕食をとっていた。
いつも通りの窓際の席は夕陽に照らされ、ジャスミンもまだフロント。
どこかしら気分の違う二人に、ワイアットが差し出したのは、ブルー・オマールのポッシェである。
弾力のある白身から滲みだすフォン。
香りまで味わったロレンツォは、レ・ノワゼッティエールを満たしたグラスに手を伸ばした。
ワイアットの言葉に嘘はなく、口から鼻に届くのは、熟した桃と蜂蜜の香り。
目を瞑って、感動に浸るロレンツォを見ると、ニコーラは、フォークを揺らして小さく笑った。現実に連れ戻す必要があるかもしれない。
「そうは言っても、カーソンだ。整理しないと。」
目を開いたロレンツォは、もう一度、レモン・イエローの液体で喉を潤した。
「誘拐の振りの理由は分かった。カーソンがいなくなった事か、それに誰が関係してるかを、誤魔化そうとしたんだ。」
ニコーラは、オマールを噛みながら、質問を続けた。
「ヨウ素は?」
「それは、前にダビデに言った通りだ。タイミングが良すぎるから、誰かに盛られた線は薄い。保安官達の警護を解くためにやったんだろう。」
「中毒症状を狙った。」
「そうなる。」
ニコーラは、オマールを呑み込むと、次の疑問を口にした。
「科学を否定する村に、ヨウ素があったのは?」
「放射性物質があることを、前から知ってたんだろう。ただ、その放射性物質がヨウ素の効くものかどうかは別だ。あくまで、備えとして、持ってたんじゃないか。」
「それじゃあ、後から出て来た住人は、どこに隠れてたと思う?グザヴィエの街は狭い。」
「地球は広い。そこから攻めるのは賢くない。」
「確かに。」
ニコーラは、グラスを口に運ぶと静かに庭を眺めた。
今日の経験だけで思いついたシナリオが、どうしても口にしたくなったのである。
「元々、あそこに住んでなかったら、どうだろう。」
今更である。ロレンツォは小さく顎を上げた。
「今日、何かあったのか。」
ニコーラは、小さく頷いた。
「村でリア達と話したけど。怪しい。」
ニコーラは、オマールにフォークを刺したが、ロレンツォの長目の沈黙に気付くと言葉を続けた。
「彼女達の話には、村の景色が一切ない。もちろん、ざっくりとは合ってる。木とか畑とか。機械的に合ってるかどうかと言ったら合ってる。でも、それがどこか聞いたら、話が止まる。気になって確認しだしたら、ボロボロだ。そこにいたとは思えないんだ。」
喋るのは、眉を潜めたロレンツォ。
「最初は、誰も近付かないのをいいことに、土地をのっとろうとしてると思った。でも、今は違う。彼らは、ヨウ素のいる様な場所に、派手な嘘をついてまで、住み着こうとしてることになる。その上、ダビデは最初に保安官に通報してる。」
「まず、保安官に話したのは、ここに長く住んでた記録をつくりたかったんだと思う。オリバー達の調書で、彼らはあそこに五十年間住んでることになった。」
「わざわざ誘拐事件にする理由は。」
「僕達、よそ者が判断する。」
「そこまでして、あの土地を奪おうとする理由は?僕なら一秒も居たくない。」
「それは、あれだよ。あの土地を奪いたかったんじゃなくて、あそこしか、なかったんなら?誰もが嫌がる土地だから、手に入ると思った。将来の転売を夢見てさ。そのぐらいしか考えられない。」
最後のつめの甘さにロレンツォが小さく笑うと、ニコーラもつられた。
百人以上の人間が大騒ぎして手に入るのは、汚染された土地。
余りに気の毒な犯罪。
ロレンツォがグラスを上げると、ニコーラも動きを合わせた。
二人が口に運ぶのはレ・ノワゼッティエール。

その時、小さな人影が、二人の目の端を通り過ぎ、ニコーラの後ろで止まった。
いつもなら、ジャスミンであるが、今は違う。
ロレンツォが見つけたのは、好きになれないアイザック。村を出ない筈の男である。
視線が合うと、アイザックは口角を上げた。
「よお、元気か?」
ロレンツォの答えは早い。
「生憎、気分がすぐれない。何か用か。」
気にしないアイザックは、ニコーラの隣りに、大きな音を立てて座った。
「何か用かって?お前の相棒を心配して来てやったんだ。仲間が血だらけになって、住人がゲロを吐きまくった村に、休みの日に来る奴がどんな生活をしてるのか、見に来てやったんだ。」
小さく笑ったニコーラは、レ・ノワゼッティエールをもう一口飲んだ。アイザックには、その価値は分からない。
一方のロレンツォは、アイザックが息を吐く空間で、体の中にものを入れるのが耐えられない。それが彼である。
眉間に皺を浮かべたロレンツォは、グラスから手を離すと、アイザックを追い出しにかかった。
「村から出ていいのか。ダビデに怒られるんじゃないか。」
アイザックの表情は、無駄に豊かである。
「怒られる?なんで?俺とダビデは同格さ。分かるだろ。皆、話したら、すぐに分かるんだ。俺の頭のいいのは、隠せないからな。」
ロレンツォは、首を傾げた。
「ダビデと年の近い人間は、外に自由に出られるのか。」
もしも、アイザックがダビデと同格と扱われるなら、年齢のせい。
ロレンツォが選んだ軽めの嫌味は、アイザックには届かない。
「俺は選ばれた人間だ。特別さ。外に出るのは、必要だから出るんだ。大事なことなんだ。」
ロレンツォの質問は終わらない。
「その選ばれた君が、村を出るぐらいの大事なことは何だ。こんな時期に、ニコーラが心配なだけで、村を留守にしていいのか。」
アイザックは、ロレンツォを見ながらニヤつくと、ニコーラに身を寄せ、背中を何度も叩いた。
あまりの馴れ馴れしさに、ニコーラが身を遠ざけると、アイザックはニコーラの肩を強く掴んだ。
「新しい仲間を迎えに来たんだ。きっとそうなる。なあ?」
ニコーラが眉を潜めて笑うと、アイザックは目を見開いた。
「何がおかしいんだ。まだ、ジョークは言ってない。」
「済まない。」
ニコーラが口にしたのが謝罪だけと分かると、アイザックは顔を歪めた。
「人に謝らなきゃいけない様なことはしないんだ。頭のいい人間は。絶対にそうなんだ。」
自分を見るロレンツォの目が死んでいることに気付かないアイザックは、ニコーラににじり寄ると、言葉を続けた。
「リアに気があるんだろう。構わない。そうさ、構わない。俺は話が分かるからな。ダビデとは違う。盛ってるブタを引き離す様な馬鹿じゃない。牙がある。でもな、殆どの人間は、結婚すると、一生一緒にいる。分かるよな?俺の深い考えが。」
アイザックの口が滑り出したのは確か。
ニコーラが綺麗に笑顔を消すと、ロレンツォが口を開いた。躾が必要である。
「ニコーラとリアを盛ったブタと言ったんなら、すぐ謝るのが利口だ。さもないと、君の顔の皮を剥いで、ブタの顔の皮を縫い付ける。」
アイザックは言葉を失った。喋るのはロレンツォ。
「聞こえなかったかな。謝らないと、君の手足の指を全部切り落として、口に詰めて、接着剤で蓋をする。口があるのが悪い。証拠も一つも残さない。それとも、僕の聞き違いだったのかな。」
口を大きく開けたアイザックは、ニコーラの肩にかけていた手をゆっくりと離した。
アイザックは、頷きながら言葉を探した。
「そこは聞き違いでいい。大した話じゃないし、俺も忘れた。そう、聞き違いだ。でも、大事なんだ。村の中と外の人間が付き合うのは、大変なことなんだ。」
ニコーラにとっては、暑苦しい響きである。
「三十過ぎの男と女が、休みの日に少し話し込んだら結婚?正気か?」
アイザックは顔を横に振った。
「やっぱりだ。お前は、村の人間がおかしいと思ってるんだ。絶対にそうさ。頭のいい俺が、少し先の未来を教えたなんて、絶対に思わないんだ。」
口を挟んだのはロレンツォ。
「聞くまでもない。もしも、二人が付き合えば、ニコーラはリアを連れ出す。あんな危険な場所に住む理由はない。」
アイザックは、卑屈な笑いを浮かべた。
「まあな。俺もそんな気がする。でも、別に、場所はどっちでもいいんだ。関係ない。俺の中での村は、人の集まりのことさ。俺達の輪を壊すのか、こいつがその輪に入るのか。考えたら分かるだろ。頭のいい人間は、輪に入るんだ。」
ロレンツォの答えは早い。
「こっちの輪を壊して?」
アイザックは、ロレンツォの瞳を覗き込んだ。
怒鳴る理由を探している目である。
実を言えば、今日、彼がここに来たのは、ダビデに釘を差す様に言われたから。リアと話すのはダビデ。二人の仲に水が差せれば、それでいいのである。
一人で納得したアイザックは、何度か頷いた。
「好きにするさ。でも、気を付けた方がいいぜ。ここに来るとき、俺は誰かに尾けられたみたいだった。世の中には、怖い奴がいっぱいいる。俺は知ってる。」
ロレンツォは、ニコーラと顔を見合わせると口を開いた。
「グザヴィエか。」
アイザックは、ロレンツォの顔を三度見してから、一人で笑った。
「お前、本当に連邦捜査官か?あれだろ?手を挙げろ!連邦捜査官だ!手を挙げろ!連邦捜査官だ!あの格好つけてる奴だろ?」
ロレンツォのこめかみに血管が浮き上がると、ニコーラはアイザックの肩を強く掴んだ。
「えーーーー。」
アイザックが小さく謎の声を漏らすと、ロレンツォの口元がほころんだ。
危機は去ったのである。
ニコーラが手を放すと、アイザックに元気が戻った。
「警察は何してもいいのか?〇〇〇〇!△△△△!頭のいい俺に手を出すなんて。話せばいいのに、手を出すなんて…。」
ロレンツォの気持ちは、一瞬で五秒前に戻った。
「分かったから黙れ!」
ニコーラの善戦虚しく、ロレンツォが怒鳴り声を上げると、他の客の視線が三人のテーブルに集まった。周囲の見えるロレンツォは、気を取り直すと、静かに言葉を続けた。
「誰がお前を尾けた。言え。」
ロレンツォは、自らの気持ちを伝えるために目を大きく見開いた。
感情の昂りを伝えるためのロレンツォの密かな特技である。
分かり易く小さくなったアイザックは、黙って、門の方を指差した。
アイザックの指は短い。
ロレンツォとニコーラの目が辿った先には、いつか見た男がいた。
ブラック・スーツの男。今日は一人である。
壁にもたれて、こちらを見ている。男は、三人の顔が自分に向けられたことに気付くと、何事もなかったかの様に、その場を離れた。
「キースだ。」
ニコーラは呟いた。姿の見えない相棒のミックは、どこに居るのか。
理解できないアイザックに、ロレンツォが声をかけた。
「彼の中でのニックネームだ。気にするな。」
どんなに怒っていても忘れない。ロレンツォの拘りである。

陽が沈んで、暗闇に包まれた村のテント。
その中の一つ、ダビデのテントに集まったのはアシェリとカーソン。
ダビデの髪は今よりも長く、髭は濃い。
三人の前には、薄汚れた手縫いのリュック・サックが一つ。開いた口からは、銃と札束が顔を覗かせていた。
口を開いたのはダビデ。
「イーサンは。」
カーソンは、頭を揺らしながら、力なく答えた。
「分からないよ。逃げるのに、必死だったから。でも銃で何回も撃たれてた。首を撃たれて…。」
アシェリの溜息は深い。
ダビデが動じなかったのは、カーソンを村の外で見つけた時から、こんな日がくる予感があったから。
カーソンの常識の軸は、村のそれとは完全にずれている。彼と交わると、皆が壊れていく。
カーソンを否定するのは簡単だが、ダビデはそんな事に時間を使う気はない。
「それで、幾らあるんだ。」
「八万ドルだよ。大金さ。」
止せばいいのに、カーソンが口元に笑みをたたえると、ダビデは奥歯をかみしめた。
「イーサンの命に見合う金だと思うか。」
「何言ってるんだよ、ダビデ。人の命は、お金には換えられないさ。そんな事言ってどうするんだよ。」
カーソンは、馬鹿げた常識を口にされる様なことを自分がしたと気付いていない。
ダビデは、大きく息を吸ったが、何かを思い直すと、そのまま息を吐いた。
おそらくは同じ気持ちのアシェリが、代わりに口を開いた。
「カーソン。そうじゃないだろう。その程度の金のために、イーサンが死ぬ必要はなかったと言ってるんだ。」
カーソンは、ダビデとアシェリの顔を、何度も交互に見た。
「それ?それはもう十分泣いたんだ。当り前さ。イーサンが死んでいいわけないじゃないか。兄弟だよ。でも、それと金は、全く別の話さ。金は村の未来なんだ。イーサンは可哀そうだけど、どんなに頑張ったって、僕達の命には限りがある。死なない人はいない。でも、皆の未来は違う。子供さえ産まれ続けたら、未来はずっと続くんだ。誰かが死ぬ時期が変わっても、守ることに意味があるものだよ。この金があれば、きっと、いい子が一杯育つ。足りなかったら、もう一回やってもいい。僕が命懸けで、村のために頑張る。」
出鱈目な強盗劇は、カーソンの中では、既に美談になっている。
ダビデの知るカーソンは村の男として確かに優秀だったが、過去の話である。
悔しさで泣き出しそうなダビデと顔を見合わせると、アシェリは静かに口を開いた。
「昔、研究所が潰れた時、新しい仕事が見つからなかった男が何人かいた。君のお爺さんのノーランもその一人だった。それが、会わなくなって、何か月も経ってから、電話も手紙もなしに、急に私の家を訪ねてきて、仕事をくれと言った。急にね。仕事なんて、不意に湧き出てくるもんじゃない。成果をはっきりとイメージして、それに見合う投資をするかどうかの判断があって、資金繰りをして、それからだ。無茶な頼みだったんだ。でも、断れなかった。研究所の潰れ方と私達の扱いはあまりに酷かったから、私には、他人事とは思えなかった。」
カーソンは、笑顔で口を挟んだ。
「ダビデの父さんが、親からもらった土地を売って、昔の仲間に声をかけて、皆で住み始めたんだよね。普通に就職してた人も、ダビデの父さんに説得されて、仲間になったって。知ってるさ。何回も聞いたから。何回も、何回もさ。でもさ…。」
アシェリは、口を閉じてしまった。
皆の住む村をつくった仲間の絆の話。
大切な大切な話。
何回話しても、心に響き、何かを悔い改めてくれると思っていた話は、カーソンには聞き飽きた昔話なのである。
アシェリは傷付いたが、カーソンには分からない。
何故なら、カーソンは使命感に駆られているから。
外の世界を見た彼が考える限り、村の長老もリーダーも明らかに間違っているのである。
「この村にはその話しかないんだ。お爺ちゃんが恩を受けたから、ずっと言う事を聞いて、親が恩を受けたから、ずっと言う事を聞いて、それで僕に子供が出来たら、先祖が恩を受けたから、その子もやっぱり言う事を聞いて。ずっとそれが続くなんて、何か変だよ。続いていい筈がない。実際、続いてないんだ。村はもう壊れてる。イーサンと結婚したセレニティーだって、イーサンが追い出してしまった。僕から奪っといて。」
ダビデは、カーソンの無駄口を遮った。
「セレニティーがイーサンを選んだのは、お前がクロエとも付き合ってたからだ。好きになった理由なんか全部忘れられるぐらい、人生は長い。」
誰もが認める美しいカーソンが、村の娘達の心を迷わせた時間があったのは確かである。
常に村の将来を意識するカーソンが、皆の目を恋愛に向けるために努力していたのも確か。
そして、ダビデが見る限り、彼をそう導いたのはクロエ。
カーソンは、しかし、ダビデの言葉にゆっくりと怒り始めた。
「付き合うって、何なんだよ。この狭い村の中だけで、一緒に仕事をしたり、ご飯を食べたり。手をつなぐだけで、噂がたって、全く話さなくなったりして。ありえないんだ。納得できないんだ。」
口を開いたのはアシェリ。
「それは縁がなかったと思うんだ。」
カーソンの興奮は収まらない。
ダビデは、テントの外の物音に気付いた。大きくなっていくカーソンの声のせいで、人が集まり始めたのである。
その中には、たった一人になった親族を探すケイデンの姿もあった。
不安に包まれる小さな彼が、暗闇の中、いつから三人の話を聞いていたのかは分からない。
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