第15話 暴力

文字数 9,123文字

陽が沈んで、暗闇に包まれた森の中。
居並ぶテントの一つに憩う三人は、イーサンとケイデンの親子にカーソン。
ケイデンは、マットレスに寝転がり、今まさに眠りに就こうとしていた。
イーサンの優しい視線に気付くと、ケイデンは薄目を開けて微笑んだ。
何も言わず、二人の大人に背を向けたケイデンが、寝息をたてるまで二十秒。
いつもと変わらない愛くるしさに、静寂を守りたい兄弟は笑いを耐えた。
間もなく、ケイデンを覆う毛布のずれを直したイーサンは、そのまま我が子の寝顔に見入った。
息子が可愛いだけではない。カーソンと二人だけになると、嫌な話が始まるからである。
静寂が気になる程続くと、待ちきれなくなったカーソンが、イーサンの背中に話しかけた。
「例の話だけど、やっぱり一緒にやれないかな。」
イーサンは沈黙を守った。振り向く訳でもない。
ケイデンの寝息だけが聞こえる静かな時間を終わらせたのは、やはりカーソン。
「ミスター・シャオが言ってたんだ。絶対に安全だって。誰でも盗めるって。」
“盗める。”
カーソンの何気ない言葉が、イーサンを動かした。
満面に笑みのカーソンとは違って、振向いたイーサンの顔は泣きだしそう。
情けなくて、悔しくて、堪らない顔。声は小さい。
「誰でも盗めるのに、シャオがその金を盗まないのはなんでだ。盗んだ後が怖いに決まってる。分かるだろう。」
口を開けたまま話を聞いていたカーソンは、イーサンの話が終わると、すぐに言葉を返した。
「ミスター・シャオは、十分、金を持ってるから、必要ないんだ。あの人は、全部、知ってる。何にでも詳しいんだ。僕が馬鹿な失敗をした時も庇ってくれたし、それでも金に困って相談したら、仕事も紹介してくれた。本当にいい人なんだ。」
イーサンは、村に帰って来た日のカーソンを思い出した。
ボロボロのカーソン。ずっと、シャオといたのに、ああなったのなら、シャオがいい奴の筈がない。それでも、カーソンがシャオを信じているのは、きっと、もっと酷い人間を見たから。シャオが普通に思える程たくさん。
吐き気に襲われたイーサンが言葉を失くすと、カーソンは自分勝手な理屈を並べ始めた。
「こんな村に居たって、先は知れてる。僕達の世代はいいけど、ケイデン達はどうだよ。無理さ。子供が少ないから。でも、金さえ手に入ったら、この村を出て、ケイデンを学校に入れて、外の社会に仲間入りさせられる。僕達の生活だって変わる。」
イーサンは、カーソンを睨んだ。
半分は聞き飽きた話だが、今日は嫌な響きが加わった。強盗の話を、我が子の将来と結び付けられたのである。
「ケイデンのせいにするな。俺の子は、俺のやり方で育てる。ケイデンは、この村で、皆といるのがいいんだ。それに、万が一、俺達が村を出るにしたって、強盗なんかしない。真面目に働く。当たり前だろう。」
カーソンは、顔を横に大きく振ると、ゆっくりと爪のない指を見せた。
「見てくれよ。外の世界は、金がない奴には厳しいんだ。ダビデも言ってた。僕達は、外で暮らしていくための教育なんて受けてないから、何をやっても駄目だって。僕達が外に出たら、普通とは違う努力をしないといけないんだ。」
イーサンは、爪のない指の向こうのカーソンを見た。
イーサンは、この話をする時のカーソンの顔が嫌い。片方の瞳が、少しだけ動くからである。
イーサンは、当たり前のことを口にした。カーソンが納得するとも思わないが、自分自身のために、正しい言葉が必要なのである。
「いいか。金を奪ったら、シャオはお前がやったと思う。後は一生脅されるんだ。そうしたら、全ての歯車が狂う。もしも、脅されずに、シャオがお前を仲間したら、それは、あいつが強盗と付き合う様な奴ってことだ。仲良くなったら、付き合う奴、付き合う奴が、どんどん悪い奴になる。常識が変わる。そのうち、人を殺すのも普通になる。分かるか。人は、何にだって慣れる。止まれないんだ。だから、絶対に越えちゃいけない壁がある。今、お前はその壁を越えようとしてるんだ。」
イーサンの話が終わると、カーソンの番。動揺した彼のイントネーションは怪しい。
「やだな。僕はそんな人間じゃないよ。知ってるだろ。僕が人から金を盗るのは今回だけだ。盗るっていう言い方も変なんだ。パンを独り占めにしてる奴らから、返してもらうだけだ。そこさえ乗り切ったら、後はその金を元手に金を儲けて、結婚をして、子供を育てて、孫の将来を気にしながら、暮らすんだ。百歳まで生きて、皆に見守られながら、フワフワのベッドで、たくさんの子供や孫と、お見舞いの花に囲まれて死んで、皆に泣かれる。必死で幸せを掴もうとした人生。そのスタートが、もう目の前にあるんだ。」
強盗ありきの出鱈目な空想。カーソンの頭の中は、完全に壊れている。
イーサンが知る限り、カーソンには、もう、この村の中に居場所はない。
愛すべき弟が残された人生をやり直すためには、外の世界に出る必要がある。
ダビデが言う通り、彼だけでは通用しない。イーサンがいてもそう。
金がいるのである。
イーサンは、カーソンとケイデンの間で胸を傷めた。

何処かの街のよく晴れた午後。
金属パネルの古びた壁が高くそびえる、窓のない倉庫。
車も人影もないのは休みの日だから。
エントランスのシャッターは全開で、塗料の剥げたラックに並ぶまばらな積み荷まで、強い日差しが届いている。
開けたスペースには、大きく間を開けて置かれた長机が二つ。
一方に並ぶのは、グザヴィエとアイヴァー、ルークにマテオ。
もう一方には、四人のヒスパニックの男。
刺青で顔を飾る彼らは、スクワドのトップである。
誰がどう見ても似合わない事務机は、相手との距離を保つために、なくてはならないもの。
並べさせたのは、グザヴィエである。
不器用な会話が、彼らの頭の中のカオスを教える中、スクワドから顔を背けたままのグザヴィエは、彼にとっての本題を口にした。
「ドミニクに隠れる様に言ったのはお前らか。」
答えたのは、顔にトラの刺青のある男。
「次に見たら、殺すと言っただけだ。」
頭の中がきれいにつながったグザヴィエは、目を瞑った。
「ドミニクを見て、殺そうと思う奴はよっぽどだ。」
トラの男の答えは早い。
「俺の街で薬を売る奴はよっぽどだ。」
グザヴィエは、顔の向きを変えずに、ただ目を開いた。
「あいつが自分で売ってたのか。」
当然、売ったのはグザヴィエ達である。トラの男は、低い声を聞かせた。
「あの〇〇〇〇がつくってるのは絶対だ。涙の型は、ガキの頃から同じだ。皆、知ってる。」
グザヴィエは、遥か遠くの倉庫を眺めた。
「どこかの誰かが、昔、手に入れた薬を売っただけかもしれない。そう思わなかったか。」
トラの男の表情は、誰にも分からない。
「それにしちゃあ、量が多い。」
グザヴィエは言葉を被せた。
「多い?量なんて、人によって基準は違う。お前の顔の刺青と同じだ。好みは人による。」
トラの男は、自分を冷めた目で見つめるアイヴァーに気付いた。
自然と目が合うと、アイヴァーは表情を変えずに口を開いた。
「〇〇〇〇気味が悪いから見るな。」
アイヴァーは、自分達を危い目に遭わせたスクワドが、絶対に許せないということ。
小さく笑ったグザヴィエは、アイヴァーの前に手を挙げ、口元を隠した。
アイヴァーは、グザヴィエの手を下げると、言葉を続けた。
「誰が売ったか、確認する必要があったわ。あいつが、誰のために薬をつくってるか。」
グザヴィエは、腕の位置を変え、アイヴァーの口元を隠しながら、説明を加えた。
目は、遥か遠くを見たままである。
「仮にドミニクが薬を売っていたとしてだ。お前らが多いと思うぐらいの薬をつくってた奴が隠れるんだ。物凄く困る奴が出たんじゃないか。一人や二人じゃない。大勢だ。」
トラの男の隣りに座っていたのはドクロの刺青の男。暴力で磨かれた肉体は、自信に満ちている。
「薬はやめろ。卑怯者のやることだ。」
マテオが吹き出すと、グザヴィエは揺れるマテオを振返った。
「よせよ。あのハンサムの言う通りだ。薬は卑怯だ。」
グザヴィエは、静かに笑顔を消すマテオを眺めた。
口を開いたのは、ドクロの男。
「そいつを連れ出せ。話す気が失せる。」
広い倉庫に響いたのは、机を倒す音。ひっくり返したのはグザヴィエ。
「お前が話さなきゃいい。△△△△みたいな話を聞かなくて済む。」
口を開いたのはトラの男。
「△△△△はどっちだ。」
グザヴィエは、この日、挨拶をして以来、初めて、スクワドの四人の顔を見た。
「その面だけで、移民から用心棒代をかすめてる。俺に言わせたら、卑怯なのはお前らだ。真面目にやれた奴らを見つけて、仲間面して、たかってる。お前らがいなきゃ、皆、安心なんだ。〇〇〇〇商売だ。どんな街も、誰か一人のせいで急に壊れるわけじゃない。何もかも、ずっと前から続いてる。買う方も売る方も、親の代からずっとだ。客は病気だから、薬がいる。そこに薬を…。」
その時、不意に口元が緩んだグザヴィエは、目を瞑って俯くと、口の中で頬の肉を噛んだ。
目の前で始まった異変をスクワドの四人が静かに見守る中、グザヴィエの様子を見たアイヴァーは、小さく肩を揺らし始めた。
グザヴィエとアイヴァーは、笑っているのである。
マテオとルーカスは、いつも通り、訳の分からない二人を眺めた。
声を出さずに暫く笑ったグザヴィエは、顔を上げ、しかし遥か遠くを見ると口を開いた。
「悪い。でも、お前らのその顔…。」
グザヴィエとアイヴァーが笑ったのは、四人の刺青だらけの顔。
挨拶をした時にツボにはまったグザヴィエは、トラブルを避けるために、ずっと視線を逸らしていたのである。
交渉の相手を見ない。
永遠に続いていた失礼の理由が、スクワドの収入の源と分かった瞬間、響いたのは銃声。
火を噴いたのは、ドクロの男が取出したスミス&ウェッソンM500。見せるための銃。
薬を嫌うスクワドは、すべてを簡単な暴力で解決する。
交渉事もそう。M500は、おそらく“黙れ”と言った。
しかし、敢えて外したブラフの鉛が砕いた床の破片は、マテオの足の皮を破った。
突然、襲った熱に小さく呻くマテオを見ると、アイヴァーは顔を歪めた。
それは、彼女の我慢の限界。
ドクロの男は、流れる血を見ながら、M500を握り直した。喋るのは彼。
「人と話す時には、相手に対する敬意が…。」
男は、言い終わらないうちに、眉間に銃弾を受け、その場に崩れ落ちた。
その日、二発目の弾丸を放ったのは、アイヴァーのグロック26Gen4。
説教をされる覚えは絶対にない、彼女の銃である。
「離れろ!」
「逃げろ!逃げろ!」
それぞれの仲間をリードしたのは、グザヴィエとトラの男。
走る先はラックの後ろ。勿論、逆方向である。
ただ一人、違う動きを見せたのはアイヴァー。
アイヴァーは、倒れたドクロの男の手からM500を奪ってから、ラックを目指した。

ラックの積み荷はまばら。決して、身を隠す場所にはならない。
グザヴィエは、大きな荷物を探すと、頭の位置を選んだ。叫んだのは彼。
「撃つのはよせ!これ以上、死人を出すな!」
言い終わったグザヴィエは、スターム・ルガーLC9を構えて引き金を引いた。
「〇〇〇〇!」
「〇〇〇〇!」
スクワドが返したのは、スラングと銃弾。
グザヴィエは、乾いた軽い銃声の中に、しかし、今まで聞いたことのない轟音を聞いた。
確かにM500を超えてくる奇跡。
不安に駆られたギャングの指が、嵐の様に銃声を響かせると、ルークが不意に腹を押さえてしゃがみ込んだ。
被弾したのである。
荷物の影を選べない彼は格好の的。
ドクロの男の代償を求めるスクワドは、一斉にルークを狙った。
銃弾の雨が、まもなくルークの肩から血の華を散らすと、アイヴァーは顔を歪めた。
小声で指示を出したのは、汗が頬を伝うグザヴィエ。多分、冷や汗である。
「撃つのは止めだ。」
アイヴァーとマテオは、グザヴィエには絶対に逆らわない。
スクワドが何発か発砲すると、間もなく残響の先に静寂が戻ってきた。
数十秒後、怒鳴ったのはトラの男。
「降参か!」
グザヴィエは、アイヴァーと視線を合わせてから、声を上げた。
「ああ!」
トラの男は、興奮した目を残したまま、微笑んだ。
「じゃあ、銃を捨てて出てこい!」
グザヴィエは、マテオとルークを見ると天を仰ぎ、声を張った。
「分かった!」
トラの男は、投稿するグザヴィエを確認するために顔を出した。
迎えたのは、アイヴァーのグロック26Gen4。
「〇〇〇〇!!」
男が叫びながら身を隠すと、グザヴィエとマテオは声を出して笑った。

ギャングの銃撃戦は、永遠には続かない。
弾切れが待っているのである。
先に撃つのを止めたのはスクワド。
グザヴィエは、マテオと視線を合わせると、顔を横に振った。
弾が切れてもいい頃だが、ついさっき、自分が使った手である。
膠着した空気を破ったのはアイヴァー。
すべては、彼女の勘とこの世への愛着のなさの成せる業。
アイヴァーは、ラックから体を出すと、スクワドに向かって歩き始めた。
「もうすぐ、そっちに行くわ。助けてほしかったら、出て来なさい。気持ちを態度で見せるの。」
アイヴァーは、ドクロの男の死体の前で足を止めると、銃を構えることなく、ただ立ち尽くした。
沈黙。
銃声も罵声もなし。
グザヴィエとマテオが見守る中、静かに過ぎ去ったのは二十秒。
アイヴァーは、不意にグロック26Gen4を構えた。
銃口の先は、ドクロの男の顔。
アイヴァーは、グロックを連射した。
飛び散る血に、グザヴィエとマテオは顔をそむけた。
間もなく、弾が切れると、アイヴァーは、銃をM500に持ち替えた。
至近距離でM500を撃てば、男の顔は砕け散る。
映画でしか見ない光景を前に、スクワドの三人は、とうとうラックの陰から姿を現した。
両手を挙げる彼らは、誰がどう見ても投降している。
一人が泣いているのは、ドクロの男の兄弟か何か。怯えている様には見えないが、とにかく感情が抑えられていない。
アイヴァーがM500を向けると、察した男達は、弾が切れた鉄の塊を放った。
銃の中には、プファイファー・ツェリスカが混ざっていた。
ゾウも殺せる銃だが、連射は出来ない。実用性のない、やはり脅すための銃である。
ラックの影で待ったグザヴィエとマテオは、顔を見合わせると微笑んだ。
アイヴァーの勝利である。

グザヴィエとマテオは、ラックの陰から出ると、アイヴァーに向かって歩き出した。
勿論、グザヴィエは笑顔。足の痛むマテオも、気持ちは同じである。
暴力のかたちが変わっても、喧嘩は喧嘩。勝利は心地いいのである。
しかし、アイヴァーは、三人を眺めると、銃を持つ手を挙げた。
彼女の中では、まだ終わっていない。
狙った先は、トラの男の頭。
グザヴィエは、直感だけで声を上げた。
「ヘイ、ヘイ、ヘイ!」
轟音と共にトラの刺青が崩れ落ちる。
グザヴィエの口から具体的な言葉が出なかったのは、何が起きるのか分からなかったから。
残りのスクワドは二人。
丸腰のスクワドの一人は、何かを決めた様に、アイヴァーに向かって走り出した。
彼が狙ったのは、次の弾を装填するまでの間。
しかし、アイヴァーは一人ではない。
笑顔を消したマテオは、乾いた音を響かせ、スクワドの胸と腹に一つずつ穴を増やした。
男が後ろにのけ反って倒れたのは物理の法則。
残ったスクワドは、泣いていた男一人である。
アイヴァーは、男と目を合わせた。
刺青の入った彼が、スクワドを抜けることはありえない。
三秒、見つめ合ったアイヴァーは、男の頭をM500で撃ち抜いた。
皆殺しである。
アイヴァーは、三人に近寄ると順に脇腹を蹴り、マテオが撃った男が呻き声を上げると、やはり頭を撃った。
一度、死の恐怖を与えた相手は確実に仕留める。それがアイヴァーのやり方なのである。
途方に暮れるグザヴィエの前に伸びたのはマテオの手。
二人は、古びた倉庫の中で、短めのハンド・シェイクをした。

バンに乗り込んだ四人は、病院を目指して、車を走らせた。怪我をしたマテオに替わり、ハンドルを握るのはアイヴァー。
ルークの呻き声は止まらない。
「済まない、グザヴィエ…。」
「何がだ。」
「迷惑をかけてる…。」
「別に。お互い様だ。」
「許してくれ…。」
「何だっていい。」
「いや、車が汚れてる…。」
グザヴィエは、ルークの横たわるシートを見た。
確かに血だらけである。
グザヴィエは、取敢えず頷いた。許すと言う気にはなれなかったのである。
信号に何度か止められる間に、ルークの唇は薄いブルーに変わった。
掠れる声が囁きに変わると、グザヴィエはルークから視線を逸らした。
彼の知る、駄目なパターンに見えたのである。
「グザヴィエ。」
窓の外を見ていた彼を呼んだのは、隣りで見守っていたマテオ。ルークの唇の動きを読んだのである。
「悪いな。何だ。何が言いたい。」
グザヴィエの視線を受けると、ルークは力を振り絞って、声を出した。
「二人だけにしてくれないか。」
本当に、最期の時の様である。グザヴィエはアイヴァーに声をかけた。
「止めてくれ。」
バック・ミラーを見たアイヴァーは、バンを歩道に寄せると、静かに車を止めた。
ルークに、衝撃を与えないためである。
口を開いたのはグザヴィエ。
「皆、出てくれ。」
マテオが足を引き摺りながら車を出ると、アイヴァーもドアに手をかけた。
事件が起きたのは、その時。
ルークが、震える手をゆっくりと挙げたのである。
「ちょっと、待ってくれ。」
声を出したのはグザヴィエ。マテオとアイヴァーが動きを止めると、グザヴィエはルークに確認した。
「アイヴァーか。」
ルークは、目を閉じると、静かに頷いた。口元には微かな微笑み。
彼が言った“二人”はルークとアイヴァー。
理解できないグザヴィエの視線を受けると、アイヴァーは顔を横に振った。
彼女にも心当たりがないのである。
死ぬ前に、何かを伝えたいということ。
優しい気持ちになったグザヴィエは、真っ白なルークに向かって微笑んだ。
「妙な事をしたら殺す。」
当然、今のルークには無理である。グザヴィエは、ルークの反応を見ずにバンを降りた。

二人だけのバン。
後部座席に移ったアイヴァーは、静かなルークを見つめると、口を開いた。
「ルーク。フォースを使うのよ。」
不意を突かれたルークは、力なく笑った直後に突っ張った。どこかの神経のせいである。
「無理だ。死ぬ程痛い。」
ルークの小さな声にアイヴァーは微笑んだが、顔を横に振った。喋るのはアイヴァー。
「祈ったらいい?」
ルークは、何も言わずに、アイヴァーを見つめ続けた。
十秒か、二十秒か。
アイヴァーはルークの視線を受け入れていたが、不意に眉を潜めた。
「こっちを見たまま死ぬのはやめてよ。」
アイヴァーが心の底から嫌がっているのが分かるルークは、力なく笑った。体が震えている。
ルークは、掠れる声を聞かせた。
「じゃあ、あっちを向いてていい。聞いてくれ。」
アイヴァーは、言われた通りに顔を背けたが、すぐにルークの手を握った。
死にゆくルークを、放っておけなかったのである。
二人の手は、止まらないルークの血のせいで滑った。
目を閉じたルークは、声を振り絞った。
「俺のアイヴァー。」
「ヘイ、〇〇〇〇!」
許せないアイヴァーが手を振りほどくと、揺られたルークの息は急に荒くなった。
それは非常事態。死は間近である。
アイヴァーは、目を閉じたままのルークの手を、適当に握り直した。
やはり放ってはおけない。それだけである。
ルークの呼吸は、徐々に整った。人間は、そうは言っても、なかなか死なない。
ルークは、静かに口を開いた。
「西の街でずっと座ってる女の子がいた。夜も朝も。いつ見ても、家の前にいて。白いワンピースに裸足だった。いつも同じ服だ。俺が見る時間だけしか知らないけど、その娘はずっとそこにいた。」
アイヴァーは、振り返るとルークの顔を見た。
彼女だけに分かるキーワードが混ざっていたのである。ルークの言葉は終わらない。
「雨が降る時も見た。家の中に入れてもらえないのかと思った。そのうち、家には〇〇〇〇ジジィと〇〇〇〇ババァがいるって聞いて。可哀そうで。それから何年も見た。飯はどう食ってるのかと思ったけど、俺も似た様なもんだったから、何も聞けなかった。俺はずっとその娘を見てたんだ。その娘はずっと生きてた。」
小さく呻いたルークが瞼を開くと、二人の視線は交わった。
「ある日、東から別のジジィが来て、その娘を連れてった。さらわれたと思った。それで、俺も東に移った。その娘がいなくなって、俺は何でその娘を何年も見たのか、やっと分かったんだ。」
アイヴァーは、ルークが何を言おうとしているのか分かった。
彼女には、ルークを思い出す度に泣くつもりはない。言わせてはならない。
「〇〇〇〇ルーク!それ以上、喋ったら殺すわよ!」
微かに笑ったルークが閉じたのは、アイヴァーを見ていた目と、アイヴァーに話しかけていた唇。
ルークは思った。
最期に聞かされた言葉までアイヴァーらしい。
しかし、余りに情けない。みっともない。
どうせ死ぬのだから、思わせ振りな事ぐらい、言ってくれてもいい筈。
痛くて痛くて、死にそうなのに辛い。
ルークの頬を涙が伝った。
ルークが見つめ続けたのはアイヴァー。
彼女を東の街に連れ去ったのは、グザヴィエでも、彼の兄のブノワでもない。
また別の誰か。誰も口に出さない彼女の過去である。
確かなのは、ルークがアイヴァーを、今か昔か知らないが、思い続けた時間があるということ。東の街のギャングにも、人の心があるということ。

「〇〇〇〇ルーク…。それ以上、喋ったら殺すわよ…。」
アイヴァーの言葉が、車の外に微かに聞こえると、神妙な顔で待っていたグザヴィエとマテオは不意に吹き出した。
グザヴィエは窓に張り付いたが、中は見えない。
やがてドアが開いて現れたアイヴァーの顔は、涙で濡れていた。
ルークが死んだことは、聞くまでもない。
それよりも、グザヴィエとマテオが驚いたのは、アイヴァーが泣いたこと。
彼らが知る限り、初めて。下手に慰めて、痛い目に遭うのは御免である。
鼻をすすったアイヴァーは、グザヴィエを見つめた。口を開いたのはグザヴィエ。
「何だよ。最期に告白でもされたか。」
グザヴィエが優しく微笑むと、アイヴァーは涙をこぼして天を仰いだ。
急に昂ったマテオは目を逸らした。
すべてが見えているのはグザヴィエだけ。
「四人も殺した後で泣くなよ。生きてる間は、いつだって死ぬ前さ。いつもと同じでいい。あいつは好きなことを言った。お前も自由にしたらいい。何も気にしなくていいんだ。」
グザヴィエが見つけた言葉が響かなかったのか、アイヴァーは、変な声を出して泣いた。
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