第18話 着火

文字数 8,813文字

その日、連なる丘の間から姿を現したのは、リアだった。
石灰の混ざる慣れない凹凸道を抜け、舗装された平坦な道路に出たリアは、また、ひたすら歩いた。
乾燥したひんやりとした空気と降り注ぐ陽光。絶好の散歩日和である。
彼女の後ろをブラックのセダンが徐行し始め、しかし静かに止まったのはその時。
降り立ったのは、ダーク・スーツの一人の男。
ニコーラがキースと呼び、ロレンツォが必ず訂正する男である。
キースを降ろしたセダンはゆっくりと走り出し、リアを追い越した先で曲がると、真っ直ぐに遠ざかって行った。
キースは、リアと十分な距離をとって、歩き続けた。
歩幅の差は、たばこの始末で調整できる程度。
他には誰もいない。
リアが振り返れば終わってしまう、遊びの様な尾行。
しばらく続いた二人だけの行進は、間もなくキースの後ろに、新たな仲間を迎えた。
今日のリアの散歩を提案したニコーラである。
カーソンが死んだ今となっては、アイザックを尾けたミックとキースぐらいしか、手は残っていないのである。
リアは、聞き取りで自分の言葉を無視したニコーラの勝手を責めたが、最後には折れた。
すべては村のためである。
そして、謎の行進は続く。
煙草の煙を残しながら歩くキースの先を行くリアは、颯爽と足を進めた。
目の前に広がるのは、どこまでも続く道路とプレーリー。目的地があるとすれば遥か彼方。
こういう歩き方の女は、普通はこんな距離を歩かない。
ニコーラは、滑稽に映るリアを小さく笑った。

体が温まってくる。
昨夜の酒の臭いを嫌ったニコーラは、ネクタイを緩めて、首筋に風を送った。
ニコーラが後ろから来た一台の車に追い越されたのはその時。
ブラックのセダン。
セダンがキースの横に止まると、キースはドアを素早く開け、乗り込んだ。
ナンバーはさっき消えたばかりのセダンと同じ。運転するのはミック。
セダンは、徐行で目立つのを嫌い、時間を潰していただけ。
一周まわったセダンは、ニコーラに気付くと、行進を終える事にしたのである。
ゆっくりと走り出したセダンは、リアを追い越すと、そのまま直進した。
ニコーラは焦らない。
実際、セダンは、予めそう決められていたかの様に、間もなく動きを止めた。
それは、前方からオリバーの乗るパトカーが姿を現したから。
セダンが切り返そうとしたのはミックのガッツ。
ニコーラは小さく笑った。
それは、彼の後ろにロレンツォの乗るSUVが待っているから。
尾行の基本である。

ロレンツォとニコーラは、保安官事務所の取り調べ室で、ミックを前にして座った。
容疑者を二人並べる訳もなく、キースは別室で待機である。
会議室と違い、机は固定式。
一部のマジック・ミラーを残して張り巡らされているのは、古びた吸音板。
どこに行っても変わらない光景である。
ミックは、今日もキースとお揃いのダーク・スーツだが、サングラスをとった彼に、ロックなオーラはない。
ニコーラは、微笑みながら、レコーダーのスイッチを入れた。
「名前は?」
ロレンツォの質問に、男は粘っこい声で答えた。
「ジョン・コックス。」
ニコーラは小さく呟いた。
「ジョンか。惜しいな。」
ロレンツォは、愛想笑いで受け流すと、本題を切り出した。
「仕事は?」
「会社員。モラレスだ。」
「不動産屋の?」
机の上に手をのせ、体を開いたジョンは、ゆっくりと頷いた。
モラレスと言えば、この国の不動産業の雄。知らない者はいない。
顎を引いたロレンツォは、ジョンの顔を覗き込んだ。
「君達は、村の人間を尾行してるな。僕達の事も一回尾けた。何故だ。」
ジョンは、首の角度を変えた。
「ただの調査だ。」
ジョンの視線の先はニコーラ。
目を合わせた彼は、大きな咳払いをすると、レコーダーを指差した。
止めてほしいに決まっているが、ニコーラは確認する男である。
「何?」
「保安官に聞かせたくない。」
それらしい理由にニコーラが希望を叶えると、ジョンは饒舌になった。
「どうせ分かるから言うが、この一帯の開発計画がある。郡がこの辺りを整理しようとしてる。スマート・シティの実験だ。」
身を乗り出してジョンは、ロレンツォに近付くと、小声で話を続けた。
「ただ、本当の目的はそれじゃない。Eの奴らを追い出そうとしてる。あいつらのせいで、Wも終わってるしな。この辺り一帯のテコ入れだ。」
ロレンツォは静かに頷き、話を先へと促した。
「うちも最初はEの奴らが出ていけば、全部済むと思ってたんだ。でも、問題はそれだけじゃなかった。」
ロレンツォは首を傾げた。
「ダビデ達?」
渋い顔を浮かべたジョンは、片手を小さく挙げた。
「ああ。インベーダーだ。うちの会社にも、何の情報もなかった。」
ダビデとニコーラは小さく笑った。皆が辿る道の様である。
ジョンの話は終わらない。
「だが、本当の問題はあいつらじゃなくて、あいつらがいる森の放射能汚染だ。」
ジョンは何でも知っている。
「昔、この街の保安官から聞いたことがある。あの森は怪しいから近付くなって。Wが別荘地になり始めた時も噂がたったが、アッパー・クラスが力技でもみ消したらしいぜ。金で口止めしたり、遠くに飛ばしたりな。」
相槌を打ったのは、ワイアットの話を思い出したロレンツォ。
「本当にやるんだな。」
ジョンは、自分で頷きながら、言葉を加えた。
「知ってるよな。あの森には、昔、研究所が立ってたんだ。実験で、やたらと放射性物質を触ってたけど、潰れた時になくなったのが幾つかある。回収しないまま、建物を壊したんだ。」
ロレンツォは馬鹿ではない。
「放射性物質を扱うのに、そんなガサツなことがあるのか。管理用の倉庫で、資格を持った人間が管理してるだろう。行政も黙ってない。」
ジョンは、鼻で笑った。
「行政が黙ったとは言わない。ただ、あそこが潰れた時は大騒ぎだったんだ。誰かが、悪戯で隠した。やったのは、あんたの言うその資格を持った人間の筈だ。」
静かに耳を傾けていたニコーラは、ぼんやりとアイザックの顔を思い浮かべた。
あの男の親ならやりかねない。
そして、アシェリ。少なくとも、彼は放射性物質がある事を知っていた筈。
彼は、住むべきではない土地と知りながら、長年、そこに住んでいたことになる。
「カリホルニウム。」
ジョンは、不意に聞きなれない言葉を口に出した。
ロレンツォが眉間に皺を寄せると、ジョンはテーブルにのせていた掌を少しだけ挙げた。
「カリホルニウムもあったらしい。」
聞き返したのはロレンツォ。
「カリホルニウムとは?」
ニコーラは、スマートフォンを手に取ったが、ジョンの答えの方が早い。
「実験用の放射性物質だ。人類最高級品らしい。」
ロレンツォは質問を重ねた。
「いくら?」
「グラム一億ドル。」
ジョンの壮大な答えに、ロレンツォとニコーラは声を出さずに笑い出した。
言葉を続けたのはジョン。
「多分、そいつが回収されてない。」
ジョンは、ロレンツォとニコーラの笑顔をしばらく眺めてから口を開いた。
「研究所の経営が傾いた理由はそれだ。無理して、買った。ただ、国のプロジェクトに応募して落選した。一瞬の閃きですべてが水の泡。同族のワンマン経営の末路だ。」
感想を口にしたのはロレンツォ。
「僕達は別の事件を追ってたから、そこまでは知らない。グッド・ジョブだ。」
ジョンは小さく頷いた。
「仕事だからな。」
ストイックな働き者。優秀である。
すぐにロレンツォの頭に浮かんだ疑問は、あの土地の不思議の一つ。
物知りのジョンなら、何かを知っているかもしれない。
「エプシュタインには?」
「何?」
ジョンが目を大きく見開くと、ロレンツォは説明を加えた。
「エプシュタインには会ってないのか。イクサックの方。僕達もまだ会えてない。」
動きを止めたジョンは、ロレンツォから視線を反らし、また戻した。
何かを言おうとして躊躇い、そして少し笑って止まる。
やがて、数十秒前の顔を取り戻したジョンは、ロレンツォの目を覗き込んだ。
「本当か?連邦捜査官の情報網はそんなもんか。」
軽い侮辱にロレンツォが眉間に皺を浮かべると、ジョンは小さく震え始めた。
怯えたのではない。改めて、笑いが込み上げたのである。
口元を大きな両手で隠し、静かに笑ったジョンは、右手を大きく前に出し、ロレンツォを指差した。
「俺が言っていい事だけ言うぞ。今の土地の所有者のイクサック・エプシュタインは、研究所が潰れた後に産まれた。屋敷も同じ敷地にあった。給仕の話によると、あまり家の外には出なかったらしい。ただ、それも子供の頃の話だ。奴の父親が死んだ時に、皆、引越したからな。屋敷は、その後、壊されて、あの平地が出来た。それ以上は誰も知らない。そう話した奴が、何人かいる。」
自分の言葉の残酷さに気付いたジョンは、手を戻すと、真剣な表情で言葉を終えた。
口を開いたのはロレンツォ。
「体でも悪かったのか。」
ジョンは、鼻で笑うとヒントだけを伝えた。
「いいか悪いかの基準は人によるな。あと、こうも聞いた。あの家は、太陽の欠片をなくしたせいで、天罰を受けたってな。」
エプシュタインのことは、これ以上、聞いてはいけない。おそらく、あの土地を謎の土地にしていたのは、放射能汚染だけではない。
ロレンツォは、小さく頷くと話を変えた。
「話を戻すと、じゃあ、君達は放射能汚染の事を調べ回ってたのか。尾行の意味は?」
宙を見ていたジョンは、質問された事に気付くと、ロレンツォを二度見した。
彼の頭の中に広がっていた空想の中身は分からない。
「あんたらが来たら、余計なことまで言い触らしそうだったから、忠告したつもりだった。悪かった。ただ、車で後を尾けたからって、捕まえるか?事故も起きなかった。」
ロレンツォは言葉を被せた。
「村の住人は?」
ジョンは、答えを急いだ。
「それは、あいつらを調べてたんだ。都市開発の一番の爆弾を抑えられたから、奴らの出方によっちゃあ、話がでかくなる。村の外で誰とつるんでるかで、あいつらの正体が分かると思った。」
口を挟んだのはニコーラ。
「いつから、あそこを張ってたんだ?」
ジョンは、ニコーラの方に目を向けた。
「保安官があんたらを呼んだ時に、情報が流れてすぐだ。それまでは、とにかくEを見てた。」
ニコーラは小さく頷くと、質問を重ねた。
「じゃあ、住人が大量に帰ってきた時。あの時は、何か見なかったかな。彼らがどこにいたのかも気になるんだ。」
ジョンの答えは早い。
「いや、見なかった。森は保安官が囲んでたから、ノー・マークだった。EもWも問題山積で、車で周ってたし。仮にあそこにいても、車道以外を使われたら分からない。」
ニコーラとジョンの会話は続く。
傍観者になったロレンツォの頭に、少し前のジョンの言葉が浮かび上がった。
グラム一億ドル。
量にもよるが、聞いたことのない単位。
夢の様な話である。
人類の宝が、所有者の行方も分からない、誰も近寄らない土地に眠っているかもしれない。
少なくとも、アシェリはそれを知っていた筈。
殺人を庇い合っているとばかり思っていた住人達が、放射能に汚染された森に拘る理由を、ロレンツォは見つけてしまったのである。

丁度その頃、森の村は、迷惑な訪問者を迎えていた。
グザヴィエ達である。
メタリック・パープルのバンは、重低音の効いた音楽で、村の空気を揺らした。
グザヴィエ達は、すぐに人前に身を晒したりはしない。皆の不安を煽るために、勿体ぶるのである。
一方、最初は遠くから眺めていた住人達は、その数が増えると、足を進め、ついにはバンを取り囲んだ。
バンの中で口を開いたのは、居並ぶ顔の中にケイデンを探していたグザヴィエ。
人を扱うのが仕事の彼は、人の品定めも嫌いではない。
「こいつは八十点だ。肩の張りがいい。」
アイヴァーは、グザヴィエが指差した先の男を見た。
「三点よ。絶対、喧嘩もした事ないわ。」
小さく笑ったグザヴィエの目に留まったのは、丁度、歩いてきたダビデ。
精悍な顔つきに、たくましい体格。アシェリとアイザックを連れ、皆に声を掛けられるその様は、見るからにリーダー。人から聞いていたダビデである。
グザヴィエは、ダビデを見たまま、アイヴァーに尋ねた。
「あいつは何点だ。」
アイヴァーは微笑んだが、何も答えなかった。
グザヴィエの前で、グザヴィエ以外の男を認めるわけにはいかないのである。
アイヴァーは、バンの前でダビデが足を止めると、大きくドアを開いた。
一際、大きくなった騒音に、住人達の何人かは手で耳を塞いだ。
口を開いたのはグザヴィエ。
「乗れよ。」
ダビデは、車の中を覗き込んだ。
内装はパープル。ネオン・カラーの電飾が、重低音に合わせて、目まぐるしく色を変える。
対座シートにゆったりと腰掛けたグザヴィエとアイヴァーは微笑んでいるが、絶対に普通ではない。
ダビデは、小さな躊躇いを見せたが、何も言わずに、車に乗り込んだ。彼以外、この状況を解決できる人間はいないのである。
アシェリも続こうとしたが、それは無理。
身を乗り出したアイヴァーが、彼の進路を塞いだのである。
住人を冷めた目で眺めたアイヴァーがドアを閉めると、ダビデの姿は車中に消えた。

ネオンの眩しい車の中。
ダビデは、自分の子供でもおかしくない年頃のグザヴィエと向かい合った。
隣りのアイヴァーも若い。
大音量の中、ダビデの鋭い視線を感じながら、グザヴィエが口を開いた。
「お前の所の喋らないガキ。あいつな。」
ダビデは、グザヴィエを睨んだ。
子供の事を口に出すのは卑怯。誰もが持つ自然な感情である。
それに気付かない筈のないグザヴィエは、小さく笑うと別の話題を口にした。
今日のイベントの理由である。
「俺の勘だがな。あいつは人殺しを見てるぞ。何なら、あいつがやった。分からないけどな。」
あっさりと。
躊躇いもなく。
それが当たり前だから、今のグザヴィエがいるのである。
しかし、ダビデは表情を変えなかった。
その表情の意味する事は、おそらく一つだけ。
グザヴィエの口元は、大きく歪んだ。笑いが耐えきれなかったのである。
「知ってたか。だろうな。」
グザヴィエが窓の外を見たのは、ケイデンが気になったから。
無駄を知ったグザヴィエは、真剣な表情を取り戻すと、ダビデと視線を合わせた。
声は低い。
「一回しか言わない。いいか。放っとくのはよせ。守るか、追い出すかだ。一人で腐らせるな。」
ダビデは喋らない。グザヴィエは、不意に不安になった。
「まさか、お前も喋れないのか。」
「いや。」
ダビデが即答すると、苛立ったグザヴィエは早口で捲し立てた。
「お前の村なんか知らない。ただな、隣りには俺の街がある。皆が嫌う犯罪者の街だ。でもな。あいつは近寄ってきた。俺が普通に見えたとは思えない。分かるか?お前の村の火事が、俺の街に移りそうなんだ。連邦捜査官はそう言った。俺は荒っぽい馬鹿は好きだけどな。根暗の人殺しは大嫌いだ。あの年だ。ほっといたら、これから化け物にもなる。ガキはどうなるか、本当に分からないんだ。好きで産まれたわけでもないし、どうしても仲間になりたきゃ面倒を見てもいいが、程度による。分かるよな。とにかく、面倒なんだ。早く決めろ。とっとと済ませろ。」
ダビデは、静かにグザヴィエを睨むだけ。
呆れたグザヴィエは、ダビデにゆっくりと顔を近付けた。
「警察に言わないのはな。いいか。お前が俺達と同じ臭いがするからだ。臭くて、臭くて、鼻がぶん殴られた後みたいに曲がりそうだ。いいか。俺達は見てるぞ。」
グザヴィエは、とうとうダビデと額をつけた。
睨み合う二人の距離は数センチ。
しかし、ダビデは動かない。
気に入らないグザヴィエは、そのまま首に力を込めて、ダビデを押した。
すべてはグザヴィエの気まぐれ。
それでも、やはりダビデの頭の位置は動かなかった。鍛え方が違うのである。
グザヴィエの目的は、その瞬間に変わった。
ケイデンの話はどっちでもいい。とにかく、ダビデの頭の位置を動かすのである。
グザヴィエが力を込めると、ダビデの首に筋が浮かんだ。
おそらく彼らが競っているだろう頭の位置は、微動だにしない。
アイヴァーは、大きな獣の様なダビデを、うっとりと見つめた。

重低音を響かせるバンを見守る住人達は、静かに不安を募らせていた。
いくら覗き込んでも、ブラックの窓の向こうは見えない。
目立って、呼吸を荒くしたのはリア。
グザヴィエの事は知らないが、彼女はギャングに対してトラウマがある。
誰にも言わない、彼女だけの秘密である。
その場に立っていることも儘ならない程の漠然とした不安。
自分の気持ちを抑えられなくなったリアは、突き動かされる様に、自分のテントに向かって走り出した。
大した距離ではない。
テントに着くと、リアはキャノピーの端を持ち上げた。
すぐに見えたのは小さな板。更にその下には浅く掘った穴。
リアは、穴から小さな袋を取出した。
半透明の袋の中には、手動の発電機と携帯電話が入っていた。

シレーネのレストラン。客はロレンツォ一人。ニコーラはいない。
ロレンツォは、いつもの窓際の席にジャスミンとワイアットを呼び、夕食をとっていた。
塩漬けのラム肉を切り分け、トリュフとピクルスをのせる。
ハーブ・ソースの上をなぞって、口に運べば、香りに飾られた肉の旨味が広がっていく。
ロレンツォは、今日一番の笑顔を見せた。
「ニコーラは?」
ポンテ・カネの満ちたグラスに手を添えたジャスミンの問いかけに、ロレンツォは顔を横に振った。
「デートだ。」
「嘘。」
思わず呟いたジャスミンは、一応確認をした。
「相手は?」
恋するワイアットが笑顔で水を飲むと、ロレンツォはポンテ・カネを口に運んだ。
これはこれでいい夜だと、ロレンツォは思った。

丘の間の石灰の混ざる道。
ニコーラとリアは、立ち話をしていた。
周囲には街灯がある筈もなく、話し始めた頃は周囲を朱に染めていた夕陽も沈んでしまった。
街に帰るには、リアの携帯電話の光だけが頼り。
あとは月光。
いざとなれば、大きく光るあの月を目安に歩くのかもしれない。
この地に来てから、ニコーラは月を見続けてきた。
今日の月は、ほぼ完全な円だが、新聞によれば、満月は明日。
雲の多い今日は、星の光もまばらである。
カーソンが死んでいたこと。
自分達が疑われていること。
村が放射線で汚染されていて、将来が危ぶまれること。
知らない男に尾行されたこと。
本当か嘘か知らないが、村の皆が誘拐されたこと。
加えて、ギャングが村に押しかけて来たこと。
リアの不安は、どれだけ聞いても尽きることがなく、今日の空ほどに先が見えない。
暗闇に目の慣れたニコーラは、うっすらと分かるリアの顔を見つめ、ひたすら彼女の話を聞いた。
いつか見飽きるに決まっているリアの顔も、今のニコーラには宝物である。
ただ、間もなく、ニコーラとリアの関係は壊れる。壊すのはニコーラ。
存在しない筈の携帯電話。
村の住人達の奇跡の生還は、それなくして、ありえない。
リアは嘘をついていた。それは絶対である。
その前提で彼女の話を聞くと、すべてが違って聞こえてくる。
誘拐も嘘。
金欲しさに放射線で汚染された土地に居座り、不動産屋を悩ませた。
カーソンが死んだ理由も怪しい。
グザヴィエが来たのは、他にも何かを企んでいるからかもしれない。
すべてが、それらしく聞こえてしまう。
しかし、目の前のリアは、清らかな瞳で、無実を訴え続けている。
助けを求めてくる。
正直な話、助けてほしいのはニコーラの方。
人間は、こんなにも堂々と嘘が言えるものなのか。
一瞬でも好意をもった相手から、山の様な嘘をつかれる。
助けてほしい。
この嘘を止めるために、すぐにでもリアを捕まえたい。
その瞬間、ニコーラが見つめていたリアの顔を大きな影が覆った。
強い風を感じる。
雲が風で動き、月を隠したのである。
唯一の明かりを失うと、二人の視界は完全な暗闇になった。
月明りは、確かに夜の世界を照らしていたのである。
生まれた闇は、都会の路地裏の比ではない。奥行きを感じさせない完全なブラック。
無。
ニコーラは、グザヴィエの言葉を思い出した。
「この辺りの月の出ない夜の意味から、優しく教えてやってもいい。」
暗闇の中、足元の砂を踏みしめる音が聞こえた。
リアが動いている。その筈である。

遠く離れた町L。店先に改造車両が並ぶ薄汚れたバー。
体格のいいフル・フェイスの髭面の店主の選曲はデス・メタル。
至る所に飾られるのはドクロの旗。すべてはこの店にたまる客のため。
顔面に刺青をしたヒスパニック。スクワドのためである。
トップを失った彼らは暇な毎日を過ごしていたが、その晩は何かが変わりそうな気配があった。
彼らの輪の中心に、ドミニクがいたからである。
松葉杖をつき、顔に傷の残るドミニクは、店主にデス・メタルを止めさせると、熱弁を振るい始めた。
「皆の中には、物凄い試練と苦難を乗り越えて、ここに来た人がいるってことは、俺にだって分かる。刑務所の狭い独房から出て来たばかりの人達や、自由を欲しがったせいで、迫害の嵐に見舞われ、警察の暴力という強風によろめき、辿り着いた人達もいる。」
訳の分からない皆が聞き流すと、気を良くしたドミニクは声高らかに言った。
「僕には夢がある。」
「〇〇〇〇!!」
「〇〇〇〇!!」
スクワドの面々が口々に罵ったので、ドミニクは黙った。確かに、キング牧師の一節はおかしい。調子に乗った。
店の中を見渡したドミニクは、静かに後悔した。
正気の人間は、こんな奴らの集まりに顔を出さない。
しかし、彼はもう来てしまっているのである。
とにかく気を取直したドミニクは、プランBを選んだ。
「君達のボスを殺した奴を、僕は知ってる。」
揺れていたバーは、不意に静まり返った。目に見える殺気。
紛れていたスクワド以外の客は、不穏な空気を感じ取ると、逃げる様に店を後にした。
残っていると、何に巻き込まれるか分からない。命に関わる何かである。
顔に刺青がないのは、ドミニクと逃げ場のない店員。
それと、カウンターに座るアイザックだけになった。
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